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カウントダウン・メルトダウン(下)

カテゴリー:社会

著者  船橋 洋一 、 出版  文芸春秋
3.11のとき、アメリカ政府と軍がどのように対応したのかが紹介されています。今のところ表面的には何となくおさまったかのような印象ですが、内実はそんなことはありません。日本のマスコミが政府と一緒になって相変わらず原発は安全という幻想を振りまいているだけです。現実は、日本崩壊寸前の事態だったのです。その意味でアメリカは正しく原発事故を恐れたのでした。
 それにしても、日本人のジャーナリストである著者が首都にアメリカ軍基地が今なおあることに疑問を抱かず、アメリカ軍を手放しで礼賛する神経には、とてもついていけません。どうしてなんでしょうか・・・。
 アメリカのルース大使は枝野官房長官に対して官邸内にアメリカ政府の専門家を常駐させるよう要求した。
 いやはや、とんでもないことですよね。日本政府はアメリカ政府からこんなとんでもない要求を突きつけられるほど目下の扱いを受けているというわけです。ひどいものです。
このとき、アメリカ政府は、東日本が崩壊するかもしれないとみていた。そして、東電が福島第一原発事故対応を断念しようとしているのではないかとの情報がアメリカ政府に入っていた。それを聞いて菅首相(当時)が激怒したのと同じ情報がアメリカにもすぐ伝わっていたわけです。
 アレン米統合参謀本部議長(海軍大将)は、駐米大使に詰問した。
 日本政府は、なぜ、このような重大な危機なのに、事故の対処をとう東電にゆだねているのか?
 アメリカ海軍の大将は、東京在住のアメリカ国民9万人全員を退避させる必要があると主張した。アメリカ海軍原子炉機関の人々は潜水艦の基準で安全規制を考える。潜水艦の内部では、少しでも放射性物質に汚染されたら、一巻の終わりである。
 日本から退避しようと準備しはじめたのはアメリカ軍、とくに海軍だった。日本にとどまるべきだと主張したのは、外交官などだった。
アメリカ空軍は110キロ圏内で活動する人員に安定ヨウ素剤を配布する方針を決めた。
 そして、3月16日午後1時15分、アメリカ政府は福島第一原発から80キロの退避区域を指示し、アメリカ政府職員と家族に対して自主的国外退避を勧告した。この80キロ圏内には、福島、郡山、いわきの三大都市だけでなく、仙台市南部まで含まれ、圏内の人口は200万人をこえる。
 3月14日、横須賀のアメリカ海軍基地はパニックが起きていた。20日には基地内で安定ヨウ素剤の配布をはじめた。高級将校の夫人と家族は次々にチャーター機でアメリカに向かった。家族全員で民間機の切符を買って飛び出してもいった。その切符代1万ドルは、あとで払い戻してもらえるのだ。
 アメリカの原子力空母ロナルド・レーガンは、放射線センサーが鳴ったとたん離脱し、その後、二度と三陸沖には近づかなかった。
 福島第一原発事故によって放射能に汚染されたとき、空母内の原子炉の放射能もれによる汚染なのか、それとも外界からのものなのか、識別できなくなる恐れがある。
 放射能に汚染された空母は外国から寄港を拒否される恐れがある。そうなれば作戦に支障をきたす。このようにアメリカの原子力空母は逃げ出したわけですが、それでも、著者はアメリカ軍の援助があったことを忘れるなと強調しています。こうなると、日本人というよりアメリカ軍人の視点からみているジャーナリストとしか私には思えません。
 アメリカ海軍、横須賀基地がパニック状態に陥っていることを知って、東京のアメリカ大使館の家族はさらにパニック状態に陥った。それは当然ですよね。
原発そのものを狙ったテロを想定した訓練は、政府も電力会社もやりたがらない。北朝鮮のテロを声高に叫ぶ人は、いつも、では、そのターゲットが原発だったらどうするかという仮定は絶対に立てようとしません。おかしな話です。
 アメリカという同盟国がいかにありがたい存在であったかを日本国民は改めて知った。空母ロナルド・レーガンを直ちに派遣し「トモダチ作戦」を展開した。戦後最大の危機のとき、アメリカという同盟国が日本とともに戦った。
 信じられませんね。ロナルド・レーガンがいち早く日本から逃げ去ったという事実を書きながら、こんなことを臆面もなく書きしるす人なのに「日本を代表するジャーナリスト」を自称しています。そもそも、原子力発電所が危険なものであることを承知のうえで日本に押しつけたのはアメリカ政府であり、財界だったわけです。そして、その結果としての原発事故が起きたとき、いち早く逃げ出したのもアメリカ軍でした。それでいて、アメリカが日本とともに戦っただなんて、よくも恥ずかしげもなく書けるものですね。
 この本は、3.11のときのアメリカ政府と軍の対応の内幕を知る点については他書にはない取材があることを認めつつ、アメリカ軍を手放しで礼賛する姿勢に根本的な疑問を覚えました。
(2013年3月刊。1600円+税)

つながりの進化生物学

カテゴリー:生物

著者  岡ノ谷 一夫 、 出版  朝日出版社
ユーチューブで、ギバタンというオウムが音楽にあわせて足と頭でリズムをとって踊る様子を見ました。まさに圧巻でした。なんかの間違いではないのかと目を疑いました。音楽にあわせて本当に踊っているのです。これって、CGかしらんと疑ってしまいましたが、あくまで実写フィルムです。ぜひ、見てください。オウム、スノーボールと入力して検索すれば見ることができます。
人間が環境を認知するときに使われる五感の割合は、視覚83%、聴覚11%、嗅覚3.5%、触覚1.5%、味覚1%。聴覚は危険の検出のために生まれた感覚である。人間の安心感には超音波の存在が大事。人間の赤ちゃんは触覚を中心に世界を認識している。
 ジュウシマツのオスは、メスに一生けん命に歌いかけてアピールし、ご機嫌をうかがう。ジュウシマツは、ペットとして飼われているうちに、より効果的にメスにアピールするため歌えるように進化していった。
大人のジュウシマツは、みんなに聞こえるように踊りながら歌う。子どものジュウシマツは、あまり人に聞かれないように、小さな声で自信なさそうに歌う。息子のジュウシマツは、父親が歌いだすと、近くに寄ってきて、一生けん命に歌をきく。このように、ジュウシマツが歌うには、学習が必要である。
子どものジュウシマツは、お父さんの歌だけじゃなくて、まわりのオスのいろんな歌の一部を切りとって、それを組みあわせて新しい歌をつくり出している。
世界には6000の言語があるが、人間の使う言葉は基本的に1種類で、あとは全部が方言だと考えていい。
 人類が12万年前にアフリカから出たころ言葉は生まれた。文字が出来たのは、1万年前のこと。10万年前に言葉ができたとすると、1世代20年として5000世代。そして文字が出来たのが1万年前だとすると、まだ500世代しかたっていない。
言語は、発音という外にあらわれる部分だけでなく、心の中での概念の組み立てをつかさどる。この部分がないと、人間の言語のような構造は誕生しない。人間の言葉には文法がある。
スズメは、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」としゃべることができる。発声学習する鳥は、ハチドリ目、スズメ目、オウム目の3つに属する鳥たち。
ええっ、スズメが話せるなんて・・・。
歌をうたっていた人間の祖先は、だんだん言葉をもつようになっていった。
いろんな生き物と対比させながら人間を考えてみると、人間とはどんな存在なのかがよく分かってきます。
(2013年3月刊。1500円+税)

藤原道長の日常生活

カテゴリー:日本史(平安)

著者  倉本 一宏 、 出版  講談社現代新書
藤原道長のつけていた「御堂関日記(みどうかんぱくき)」は長徳4年(999年)から、治安元年(1021年)まで、33歳の時から56歳までの23年間が現存している。
道長は藤原兼家の五男として康保3年(966年)に出生した。道長は、この日記を後世に伝えるべき先例としてではなく、自分自身のための備忘録として認識していた。しかし、現実には、摂関家最高の宝物として、大切に保存されていて、時の摂関さえも容易に見ることはできなかった。
 「御堂関白記」は世界最古の自筆日記である。だから、この日記を読むと、道長の人柄がよく分かる。道長は感激屋である。よく泣く。まことに素直な性格の道長は自分の皇位に対して素直に自賛したり、その場の雰囲気にあわせて冗談を言うことも多い。その反面、道長はたいそう怒りっぽい人でもあった。さらに、道長は非常に気弱な人でもあった。側近の行成に弱音を吐いたり、愚痴をこぼすのもしばしばだった。
 道長は健康なときでも、強気の政務運営は見られなかった。道長は、忘れっぽい人でもある。小心者の道長はよく言い訳を日記に記している。道長は、本気で端麗な字を書こうと思えば、書けた。
道長には、小心と大胆、繊細と磊落、親切と冷淡、寛容と残忍、協調と独断。このような二面性があった。
 平安貴族の政務や儀式は、質量ともに激烈なものであった。めったに休日もなく、儀式や政務は、連日、深夜まで続いていた。
 当時は、儀式を先例どおりに執りおこなうことが最大の政治の眼目とされていた。政務のうちでもっとも重要とされていた陣定(じんのさだめ)は審議機関ではなく、議決権や決定権をもっていなかった。
平安貴族の社会において、もっとも重要な政務は人事であった。道長の時代は、いまだ儀式の基準が確立されておらず、各人がそれぞれの父祖や自分の日記から事例を引勘(いんかん)して、それを「先例」として重視している状況であった。
 「憲法は、ただ一人(道長)に御心にあるのか」と、実資は『小右記』に書いた。このとき「憲法」は、今の日本国憲法とはまったく意味が異なりますね。守るべき先例という意味なのでしょうか・・・。
 平安貴族は、大量のお酒を呑む餐宴の後に徹夜で漢詩を作り、翌朝、それを披露した後に帰宅した。平安貴族の体力と意欲は信じられないほどである。
 当時の貴族は、儀式に際して必要な装束や装飾を互いに貸し借りしていた。
 栄養の偏り、大酒、運動不足、睡眠不足など、不健康な生活を送っていた平安貴族は、病気にかかることも多かった。当時は、新鮮な食材に恵まれないうえに、タンパク質の摂取が少なかった。仏教信仰に傾倒すると、魚肉をとらなかった。
道長がこの世を「我が世」と認識したのは、政権をとった時点でも外孫が生まれた時点でもなく、長女の生んだ外孫に三女が入内して立后した時点であった。これによって永久政権が視野に入ってきたからである。
 当時、一時期には妻は一人しかいなかった人が多い。道長ほどの権力者であっても、正式な妻は、源倫子と源明子しか確認されない。
結婚したのは、道長22歳、倫子24歳と、当時としては二人とも晩婚であった。
道長の日記を通じて、道長という人物と平安貴族の生態を知ることができました。
(2013年3月刊。800円+税)

誰もやめない会社

カテゴリー:アメリカ

著者  片瀬京子・蓬田宏樹 、 出版  日経BP社
従業員を大切にする会社なら日本にはたくさんありますよね。今度はどこの会社を紹介してくれるのかなと思うと、なんとアメリカの会社でした。しかも、シリコンバレーにある会社なんです。驚きました。やはり、会社は従業員あって成り立つものですよね。法律事務所にしても、事務員の下支えがなければ成り立ちませんし、まわっていきません。
 アメリカのシリコンバレーで、どんな会社が従業員を大切にしているかと思うと、アナログの半導体部品を専門とする開発・設計会社です。そして、日本のメーカーもお得意先なのです。業績が良くて、報酬もまた良い会社です。ですから、従業員が辞めません。でも、それだけではありません。
 東京スカイツリーのLED照明の安定運用に欠かせない部品をこの会社が提供している。トヨタのプリウスにも同じく・・・・。ええーっ、そうなんですか・・・。
 会社の名前はリニアテクノロジー。従業員は4400人。操業は1981年。営業利益率は50%をこえる。そして、この利益率を20年も維持している。
 リニアテクノロジーは、創業以来、企業買収や合併をほとんどしていない。
一度販売した製品は基本的に製造を中止しない。今でも、30年前の創業当時に発売した製品をコツコツと売り続けている。うっそー、と思いました。
 一度入社した社員はほとんど辞めない。退職の95%以上は定年退職による。
 コンシューマ製品市場とは距離を置いている。価格競争が激しく、収益があがらないから。そんな低収益の市場で、貴重なエンジニアのリリースを消耗させるわけにはいかない。すごい見識ですね。見上げたものです。
 平均年収は15万ドルを上回る。1500万円ですよね。そして、年収の50%以上のボーナスを会社員に提供することもあった。さらに、ストック・オプションもある。
 すべてがデジタルになるわけではない。アナログは必ず生き残る。先見の明がありましたね。30年前のアナログIC市場は世界で20億ドルほどだった。今や、世界のアナログ市場は20倍の420億ドルにまで拡大している。
 営業マンは、製品価値を下げるような値引きをしてはならない。従業員が辞めないのは、仕事が楽しいからだ。そして、エンジニアも常に利益のことを考えている。エンジニアの仕事は回路を設計し、社会の会議のもとへ足を運び、顧客の要求を聞き、本当に求められているのは、どの製品なのかを探し出す。値引き合戦という悪循環にはまらないよう、高い顧客価値を提供する努力をしている。
 弁護士も安かろう、悪かろうではいけません。私も値引きはせずに一生懸命に仕事をすることで弁護士としての販路を拡大したいと考えて頑張っています。
(2012年11月刊。1650円+税)

満州国の実態

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  小林英夫・張志強 、 出版  小学館
「検閲された手紙が語る」というタイトルの本です。戦前の関東憲兵隊の『通信検閲月報』を掘り起こして満州国の実態を明らかにした貴重な労作です。
 戦後の1953年、旧関東軍憲兵司令部跡地(新京。現・長春)の敷地内で事務所拡張工事の際に偶然に地中から掘り出された。長く地中に埋められていたので、史料の大部分は癒着し、また腐食してボロボロになっていた。終戦時に焼却されず、掘られた穴に埋められた文書だった。
 関東憲兵隊は、この報告書『検閲月報』を関東軍司令官をはじめとして憲兵隊司令部などに送っていました。
ソ連との間のノモンハン事件についても、「実際には負けている」「実になさけない次第」「近代兵器の枠を集めたソ連と戦うには、肉弾や精神ではやはりダメ。草木のない平地を攻撃するなんて無謀」という声のあったことが紹介されている。この閲覧によって、手紙は送った相手方には届かなかった。
 戦時下の満州国の実情はとても王道楽土と言えるものではありませんでした。ともかく食べるものが少ないのです。野菜が食べられないため、女性は病気になってしまいました。
 「満州の配給制度は、内地よりずっと生活困難である。開拓団(移民団)は、実に可哀想なもの。移民などに来るものではない。あまり宣伝に乗せられないように」
 「匪賊と戦闘したが、ほとんど軍隊と変わらない。要するに、匪賊の方が強い」
 満州国の農産物は太平洋戦争をたたかう日本への重要輸出品であったから、満州の中国人の食糧配給を改善する政策は行われなかった。
 1940年代の満州国は、出稼ぎ地としての魅力を失っていた。
 この当時の在満朝鮮人社会には、共産主義思想に根ざした、解放願望が強く存在していた。
「当地の人生観は、弱肉強食と名付けたらいい」と手紙に書かれていた。
 検閲しても実は、あまり大きな成果はなかった。むしろ重要な情報は暗号や無線で流れていたので、通信部隊の活動が重要だった。牡丹江市内に無線傍受の場所を10ヶ所設け、24時間体制で監視していた。そして無線で情報を流すアジトをほとんど毎日、摘発していた。
満州国の実情をナマの声で知らせてくれる貴重な本だと思いました。
(2006年6月刊。3200円+税)

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