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近代朝鮮と日本

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  趙 景達 、 出版  岩波新書
両班(ヤンバン)とは、本来、東班=文官と西班=武官の総称であり、文部官僚を意味する言葉であった。両班とは官僚を意味したが、いつしかその意味が拡散し、長きにわたって官僚を輩出していない家門のものであっても、在地社会では両班と認知されることがあった。
 両班とは、一貫して、法制的な手続を通じて認定された階層ではなく、社会慣習的に形成された階層であり、両班がそうでないかの基準は非常に相対的で主観的なものであり続けた。両班には、大きく京班(在京両班)と郷班(在地両班)があったが、在地両班の場合には、ある地方では両班と認められても、他の地方に行けば両班と認定されないこともあった。
 地方官志願者は多数存在し、それを勝ち抜くには賄賂が必要であり、地方官は君子然としてばかりいてはなれるものではなかった。また、胥吏(しょり)は役務であったために俸給がなく、給与の自己調達=行政手数料のようなものとして、勢い民衆収奪するしかなかった。民衆の側も、納得できる範囲であれば、権力の側の収奪を必ずしも不正とは考えなかった。救難事には、守令は確かに賑恤(しんじゅつ)を行おうとした。胥吏も、凶作時には収奪をゆるめて徴税に手心を加えた。
 民衆は、儒教的民本主義に訴えて、賑恤を正当な権利として要求した。治者と民衆との間には、奇妙な共生関係=秩序が成り立っていた。
 朝鮮社会にあって、氏族と農民は村々で共生した。民衆の両班観は、愛憎相反ばするアンビバレントなものであった。やがて、両班に士族とは何かが問われはじめていった。士とは朝鮮の固有語ゾンビに対応する漢語であり、本来、身分を超越して学徳を備えた人格者を指称する語である。
 朱子学にもとづく仁政イデオロギーは、朝鮮でも日本でも確かに機能したが、朝鮮では統治の原理そのものであった。日本では統治の手段であった。原理をもった社会というのは、そうたやすく自らを変えることができない。
 民衆をもっとも不安にさせたのは、何よりも飢餓の恐怖だった。民衆はもはや真人の出現を待つ余裕をなくしていた。
 東学は、人間平等の論理をはらんでいた。
 近代日本の膨張主義のうえで重要な人物は吉田松陰である。松陰は、将来ロシアに奪われるであろう富の代償として、朝鮮を手はじめとする大陸への侵攻を構想した。松陰にあっては、朝鮮は日本の下位に位置づけられ、古来、日本に朝貢すべき国として認識されていた。兵威をもって朝鮮を屈服させるべきだとけしかけたのは、松陰の弟子・木戸孝允だった。木戸孝允は、朝鮮が天皇に朝貢してこないときには、侵略すべしと岩倉具視に提言していた。明治維新は、その初めから侵略思想を内包していた。
 大院君の改革は士族の反感を呼び起こしたが、民衆の大院君に対する人気は絶大だった。しかし、景福宮再建工事は、大院君失脚の大きな一因となった。
 1987年5月の辛未(しんぴ)洋擾では、朝鮮軍はアメリカ艦隊に敗北はしたが、大変な激戦だった。これはアメリカの公使や指揮官にとって意外なことだった。崇文の国だと自負する朝鮮が、武威の国だと自負する日本以上に頑強に抵抗したのであった。
高宗の妃である閔氏は戚族と組んで、大院君の失脚を企んだ。そして、ついに失脚させることに成功した。1873年12月のこと。
 1876年2月、黒田清隆全権大使は、軍艦6隻を率いて江華島に現れ、兵員4000名と号した。ペリーの故知に倣うような威圧外交である。朝鮮側は、日本の威圧外交に憤慨はしたが、御前会議では開国やむなしが大勢を占めた。そして、江華島条約が結ばれ、日本の治外法権が認められ、朝鮮の関税自立権も否定された。しかし、治外法権は、倭館外交対馬藩に認めていたこともあって、不平等条約という認識は朝鮮側にはなかった。
 1882年7月、壬午軍乱によって大院君は政権に帰り咲いた。しかし、翌月、中国軍が大院君を拉致して、大院君の反乱は終息した。
 1884年12月、甲申政変が起きた。開化派は信頼していた日本にも裏切られた。
日清戦争直後の1895年10月、日本軍は、朝鮮王宮に侵入し、閔妃を殺害して死体を焼き払った。閔妃虐殺事件である。一国の公使が赴任国の王妃をほぼ公然と虐殺するというのは、世界史に類例をみない驚天動地の事件である。しかも、事件の背後には大本営が控えていた。首相の伊藤博文も同意していた。
 日清戦争後、日本人は朝鮮各地に入り込んで高利貸しを行い、朝鮮人の名義で土地を入手しはじめた。日本は朝鮮半島を丸ごと軍事占領しようとした。これが日露戦争につながった。
 韓国併合に先立って、朝鮮は実質的に日本の植民地になっていた。
日本と朝鮮との密接なかかわりを改めて知り、考えさせられました。
(2012年11月刊。840円+税)

検証・官邸のイラク戦争

カテゴリー:社会

著者  柳澤 協二 、 出版  岩波書店
防衛庁に入ったキャリア官僚として日米防衛ガイドライン改定作業にあたり、防衛庁防衛研究所の所長を経て、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)としてイラクに派遣された自衛隊の状況を見守り、イラク戦争の終結まで関わった。そんなキャリアの著者がイラク戦争への日本の関わりを厳しく弾劾した注目すべき本です。やはり、心ある人はアメリカのイラク戦争に反対し、日本が深く関与したことを問題としているのですね。
 イラク戦争について、アメリカ人ジャーナリストは、「まったくムダな戦争をした」と述懐したが、本当にそのとおりだ。イラク戦争においてアメリカが追求したのは、適法な戦争ではなく、法そのものを変えようとする戦争であった。
 イラク戦争は、公式に表明された論理にしたがえば、「大量破壊兵器がテロリストの手に渡る危険から世界を救う」という目的のために、「イラクが保有する大量破壊兵器を武装解除する」ことを目標に、その手段として、「武装解除に応じない、フセイン政権を排除する」戦争であった。
 イラク戦争におけるアメリカ軍の死者は9.11の犠牲者をはるかに上回る4000人以上となった。そして、犠牲となったイラク人の死者は10万人にのぼる。
 2010年に始まった「中東の春」によってリビア、エジプトで長期独裁政権が倒された流れを見ると、戦争という手段がイラクで必要だったのか、疑問が湧いてくる。
 防衛研究所の内部でも、アメリカによるイラク戦争に反対する声はあった。それは、アメリカが強力な軍事力をもって攻撃して簡単に「勝利」をおさめたとしても、目標とされた国はかえって核兵器をもつ動機を強めて、世界を不安定化する心配があるという理由からだった。
 アメリカによるイラクの戦後統治は、決して「周到に準備」されたものではなかった。
 日米防衛の新ガイドラインによって、PKOと「非戦闘地域」における対米支援の両面の枠組みによって、自衛隊は理論的には世界中のどこでも、一定の条件の下に、戦闘以下の任務を行うことができるようになった。
 ブッシュ大統領の言うように「大量破壊兵器、国連決議違反、独裁、そのすべてに該当していた」としても、イラク戦争を正当化することはできない。まことにそのとおりだと私も思います。
 自衛隊の支援活動が成功したと言えるのは、自衛隊が一発の弾も撃たずに、一人の犠牲者も出さずに任務を終えたこと。
 これって、自衛隊はまだ「戦争する軍隊」ではないということですよね。つまり、憲法9条の縛りが生きているという成果なんです。いいことです。
当時の政府・与党には、イラクで自衛隊の犠牲者が出たら、内閣はもたないという雰囲気があった。
 イラクにおける自衛隊は、日本が国家として達成しなければならない目標や防衛研究所で検討していたような「国益」のためではなく、「アメリカとのお付き合い」のために派遣されていたことになる。これでは、自衛隊員が犠牲になるわけにはいかない。
 日本がイラク戦争を支持しても「よほどのプラス」はなかった。日本の国際的立場は低下の一途をたどっている。それは、イラク戦争を支持した理由が日米同盟の維持であり、そのこと自体で政策目的を達成したため、「次の手立て」がなかったからだ。
 アメリカによるイラク侵略戦争は大義名分なきものでした。それを支持し、今も反省していない日本政府は愚かとしか言いようがありません。
(2013年3月刊。2400円+税)

鳥たちの驚異的な感覚世界

カテゴリー:生物

著者  ティム・バークヘッド 、 出版  河出書房新社
わが家にはスズメが棲みついていますが、前に比べてかなり減ったような気がします。外食のとき、ランチのパンは持ち帰ってスズメのエサにしているのですが・・・。
春はなんといってもウグイスです。声がさわやかなので、聞きほれてしまいます。カササギは、すぐ近くの電柱に、3コも巣をつくっています。高い所にある巣が強風で吹き飛ばされないように、うまく小枝を組み合わせているのに、いつもながら驚嘆するばかりです。
 ウミガラスは人間によく似ている。なにより、この鳥は、非常に人間的だ。コロニーで隣りあう者同士が友情を結び、ときに子育てを手伝う。たまに浮気をすることがあるにせよ、ウミガラスは単婚で、つがいのオスとメスが一緒に子どもを育て、20年間も連れ添うことがある。うむむ、これはすごいことです。
 鳥の雄のさえずり習得と、さえずり方をコントロールする脳の部位は、繁殖期が終わると縮み、翌春に再び大きくなる。
 コウモリは、眼をふさがれても空を飛んでいける。ところが、両耳をロウでふさいでしまうと障害物にことごとくぶつかってしまう。
 キンカチョウは飼い主の娘の足音を識別することができる。
鳥には磁気感覚があるため、地球磁場からコンパス方位を読みとることができる。そして、鳥は磁気図をもっているので、自分の位置を認識することができる。このように、鳥は地球磁場を利用している。鳥は、全身にある個々の細胞内部での化学反応に介して磁場を感知している。
 オオツチスドリは、遊ぶのもねぐらにつくのも砂遊びするのも仲間と一緒にやる。休憩するときも、横枝に一列に並んで羽繕いしあう。
 シロカツオドリのメスが、ある日、小さなひなの世話をつかいオスにまかせて姿を消した。オスはひなの世話をずっと続けた。5週間たって、メスが戻ってきた。再会できたオスとメスは、熱烈な挨拶を延々17分間も続けた。このように鳥は感情をもっている。
 アメリカチョウゲンボウは、18メートル離れていても、体長2ミリの虫を見逃さない。
 カモは捕食者を警戒して、片眼を明けたまま眠ることができる。
鳥って、すごい能力をもっているのですね。先日、ユーチューブで踊っているオウム(キバタン)を見ましたが、セキセイインコもテーブルの上で踊れるのですね。そして、上手にしゃべれるのを知って、今さらながら驚きました。日曜夜の『ダーウインが来た』は私が唯一みる(ビデオで)テレビ番組です。毎回、驚きの映像です。
(2013年3月刊。2200円+税)

チベットの秘密

カテゴリー:中国

著者  ツェリン・オーセル、王力雄 、 出版  集広舎
中国の中のチベット独立運動が中国政府によって力で抑えこまれていることを告発している本です。
 もし、我々がチベット語の重要性を強調すれば、「狭隘な民族主義者」というレッテルを貼られる。人目に触れない中国政府の公文書では、チベット語のレベルが高ければ高いほど、宗教意識が強くて、思想が反動的で敵対的だとされている。
 チベット語を学ぶために、チベット語で授業を行う教育システムを整備することは、近代化に求められる人材を育成するために必要なだけでなく、チベット民族の最低限の人権でもあり、また民族的な平等を実現するための根本的な条件でもある。
 1959年以来、ダライ・ラマは世界の人々がもっとも尊敬する亡命者になっている。尊者ダライ・ラマへの信仰心はますます堅くなり、命を惜しまず自分の信仰を守ろうとする者が増えている。
 亡命を余儀なくされているダライ・ラマは雪国の文化の魂であり、弱小民族が大漢民族の強権に抵抗するための最高のシンボルである。敬虔な仏教徒であるチベット民族にとって40年ものあいだ、自分たちの神に謁見できないことは、チベット人の中核的な価値を剥奪したに等しい。ダライ・ラマを非難し、誹謗中傷することは、チベット人の心を刃物でえぐり出すに等しい。
 2008年3月のチベット事件のあと、チベット全域で自殺が急増した。仏教の信仰心の篤いチベット人が自殺にまで追い込まれるということは、生きることの苦しさが輪廻の幾層倍の苦しさよりも大きくて、耐えきれないからだ。
 チベットの統制支配が強まる一方なので、だからこそ抗議の焼身自殺が続いている。それは代えることのできない信仰の自由を守るためなのだ。
 チベット担当の官僚集団はチベット事件の原因を「ダライラマ集団」に押しつけ責任を回避した。文化大革命で大損した官僚集団は、独裁指導者が官僚集団を破砕するような状況を再現させまいと決心した。
 今日、中国共産党内部には既に牽制しあうメカニズムが形成されており、官僚集団もかなり多くの権力を有し、酷吏を用いる方式で党内を粛清することの再現など許されず、文化大革命のような大衆運動の再現も許されず、さらには党内を分裂させる可能性のある路線闘争も許されない。
 今や、中共党内のトップの権力闘争は、歴史上どの時期よりも弱く、権力の交代もある程度はプログラム化されている。その要員としては、深層において、「官僚集団の民主性」が作用している。
 官僚集団は、政治権力装置を熟知し、運営にたけており、ひとたび権力者のトップを牽制するメカニズムを構築すると、それを最大限に活用する。官僚たちは形を現さずに政権トップの浮沈、人事異動、政策方向を決定する。このような能力を手に入れたら、党内粛清や文革の発生を防止するだけでなく、それを延長して、自分たちの利益に不利になることすべてを未然に防止し、できるだけ多くの利益を得ようと謀る。したがって、いわゆる「党内民主」を中国民主化の歩みと見なすのは、まったくの誤りなのである。
 チベット独立運動の状況を知り、そして、中国の支配的官僚層の分析について学ぶことができました。
(2012年11月刊。2800円+税)

真田三代・風雲録

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  中村 彰彦 、 出版  実業之日本社
真田(さなだ)幸隆・昌幸・幸村という真田三代の武勇と知略で血湧き肉躍る武勇伝の数々です。700頁もの巨編ですので、東京往復2日間かけてじっくり読み尽くしました。
 『業政(なりまさ)走る』という小説を読んでいましたが、初代の真田幸隆は業政に助けられたのでした。戦国時代は「合従連衡」(がっしょうれんこう)の世の中です。武士は二君に仕えず、というのではありません。強い方についてもよいのです。なぜなら、基本的にそれぞれ独立した存在だったからです。明日に生き残るためには、昨日の友も敵とせざるをえません。
 真田幸隆は、結局、武田晴信(信玄)の配下に組み込まれます。そして、武田軍のなかで鬼謀をめぐらして頭角をあらわしていきます。その有力な敵は越後の上杉勢でした。
 川中島の合戦のころは、真田幸隆は武田軍の有力武将だったのです。
 昌幸は真田家の二代目。武田勝頼に仕えます。しかし、勝頼は自らに甘い近臣を重用し、有力な重臣を遠ざけてしまうのでした。それが長篠の戦いでの武田軍惨敗につながるのです。
真田昌幸は、武田家が滅亡したあと、徳川家康と豊臣秀吉の間で苦労させられます。そして、秀吉亡きあと、昌幸そして幸村は家康と相手に戦うことになるのです。しかし、昌幸の子は徳川方と秀頼方の二手に分かれて戦うのでした。
 この本によると、昌幸が、その子を二手に分けたというのではないとしています。私も、そう思います。成り行きで、そうなってしまったのだと思います。
 関ヶ原の合戦のとき、家康の長男・秀忠軍4万を信州・上田城にくぎづけにした真田軍は、なんと2500にすぎなかった。秀忠軍は上田城を攻略できずにぐずぐずしていて、ついに関ヶ原の決戦に間にあわなかった。怒った家康は、秀忠に会おうとしなかった。有名な話です。家康は、関ヶ原で必ず勝てるという自信はなかったはずだと指摘されています。初代の真田幸隆は鬼謀ただならぬ才人だった。二代目の真田昌幸について石田三成は「表裏地興(ひきょう。卑怯)の者」という厳しい評を下した。三代目の幸村は「日本一の兵」(つわもの)と評された。
 大阪夏の陣で真田勢は、家康本陣に斬り込んでいったのです。とても面白く読み通しました。ただ、石田三成が襲われて家康の館へ逃げ込んだというのは史実に反するように思います。間違いとして訂正してほしいところです。
(2012年12月刊。1900円+税)

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