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改憲と国防

カテゴリー:社会

著者  柳澤協二・半田滋ほか、 出版  旬報社
日本の防衛政策について語るときに必ず登場するアメリカ人として、アーミテージがいます。この本では、次のように指摘されています。
 マーミテージ元アメリカ国務副長官はもう過去の人物だ。そうかもしれませんが、それにしては日本の大手マスコミは依然としてもてはやしていますよね・・・。
 2006年12月の自衛隊法改正によって、海外活動が国防に準じる本来任務に格上げされた。
海外派遣の司令部である「中央即応集団」が2007年3月に誕生した。国際活動教育隊はその支配下にある。
自衛隊の海外活動は国際緊急援助隊を含めると28回、のべ4万人の隊員を派遣した。
 現在、自衛隊の海外活動は、アフリカ大陸の二つの活動のみ。南スーダンに陸上自衛隊、ジブチに拠点を設けて海上自衛隊はソマリア沖の海賊対処に取り組んでいる。
 日米同盟をベースにした自衛隊の任務の拡大は先が見えなくなっている。何のために自衛隊を出すのか、非常に混迷した状況にある。
 アメリカの海兵隊が沖縄に駐留することの利点は、思いやり予算による安上がりの経費にある。海兵隊は機動性にすぐれた即応部隊であり、いざとなればアメリカ本国から世界のどこへでも展開する体制になっている。
 海兵隊は、沖縄にいて日本を守るための存在ではなく、アメリカのアジア戦略にもとづく活動を沖縄から展開している。
 日本がアメリカにいつまでも頼っていていいのか、疑問を深めることができる本です。
(2013年7月刊。1400円+税)

憲法がしゃべった

カテゴリー:司法

著者  木山 泰嗣 、 出版  すばる舎リンケージ
いやあ、これはよく出来たケンポーの本です。たくさんの本を書いている著者は、憲法についても、こんなファンタスティックな、おとぎ話のような本を書いていたのでした。すごいですね、すっかり感服しました。
安倍首相が、なにかというと憲法改正を唱んでいますし、自民党は古くさくなった憲法を変えようと叫んでいます。でも、憲法って何のためにあるのか、どんな役割をもっているのか、いま叫んでいる人たちは知っているのでしょうか・・・。
 この本は、憲法って何のためにあるのか、そんな役割をするものなのかを、本当に分かりやすく、問答式で解明してくれます。ヘタウマな絵(一見すると下手くそのように見えるけれど、本当は味わいのある上手な絵)が添えられていて、とても柔らかい雰囲気に包まれて展開していきます。
 憲法がしゃべった、世界一やさしい憲法の授業は、第1章、けんぽうって、なんだろう?から始まります。登場するキャラクターはライ男(お)とシマ男(お)、この二人が対話して進行していきます。そして、主人公はメガネをかけたけんぽうくんです。シマ男は、いつもライ男に食べられないか、おびえています。
 憲法というのは、国の基本的なルールなんだ。憲法は、日本の国民をしばるものではなくて、国民が自由になれるように、国の活動をしばっているんだ。
 鎖で拘束されるのは、国であって国民ではない。
 国の活動が、憲法のくさりで、グルグルに巻かれているっていうことなんだ。
居住・移転の自由が、どうして経済活動なのか?
 たとえば、そうだな、アイスクリームの話をしよう・・・。
 こんなふうに、とても具体的に、分かりやすく話が展開していきますので、飽きることがありません。楽しみながら憲法の本質がつかめるように工夫がこらされています。
 国民の三大義務。勤労の義務、教育の義務、納税の義務。
 勤労の義務といっても強制労働のことではない。教育の義務というのは、親が子どもに教育を受けさせる義務のこと。納税の義務は社会権と関係がある。国からいろいろしてもらうには、法律で決めた税金は納めてもらうということ。
 こんなに分かりやすい憲法の本も珍しいと思いました。
(2013年3月刊。1300円+税)

チャーチル

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ポール・ジョンソン 、 出版  日経BP社
チャーチルの伝記です。実は、あまり期待せずに読みはじめたのでした。ところが、意外に面白くて、つい一気に読み終えました。
 チャーチルが人生で何度も失敗したことも、率直に語られています。そして、チャーチルが両親に愛されずに育ったこと、それをカバーしてくれる女性(乳母)がいたことは驚きでした。父親はチャーチルをこの子は頭が悪いと決めつけ、母親は社交界に忙しかったのです。
チャーチルの顕著な特徴は、精神的で、冒険好きで、野心的で、複雑な知性をもち、情に厚く、勇気があり、打たれ強く、人生のあらゆる側面に強い情熱をもつといった点は、どちらかといえば母親から受け継いでいる。
 母親は社交界一の華でありたいという強い欲求を実現した。母親は、この地位を10年以上にわたって維持した。
 イギリスの政治家のなかで、英語をチャーチルほど愛した人はいない。またキャリアを築くため、キャリアが傷ついたときに名誉を回復するために英語の言葉の力をここまで一貫して利用した人もいない。チャーチルは生涯にわたって原稿料が主な収入源になった。
 言葉をお金に変える点で、決定的な役割を果たしたのは母親だった。
 若きチャーチルは戦争を探した。特別許可を得て、記者として、あるいは兵士として戦場に赴く。新聞記事を書き、本を執筆する、これがチャーチルの行動パターンになった。チャーチルは26歳で国会議員に当選した(1900年)。急速に名誉と地位を獲得したが、他方で数多くの批判者や敵もつくった。軽率で傲慢で生意気で反抗的で自慢げな跳ね返りものだと言われた。
 チャーチルは下院議員になった。出世が目的であったことは間違いない。チャーチルは、当時もその後も、矛盾の塊だった。
 戦場にいたチャーチルは、捕虜収容所に入れられ、脱走した体験をもっていたので、機会あるごとに戦争の恐ろしさを同僚の下院議員に警告した。
 チャーチルは下院の選挙で6つもの肩書きを変えた。保守党、自由党、連立派、立憲派、挙国一致派、国民保守党。
 チャーチルは、演説原稿を用意し、すべて暗記し、練習し、間合いを計算して、何ごとも偶然には任せないようにした。原稿なしに話していて、突然、次の言葉が出てこなくなるという大失態を演じたからである。これって、よくあるんですよね。いきなり頭のなかが真っ白になってしまうのです・・・・。
海軍の高級将官はチャーチルをとんでもない政治家だと嫌った。しかし、士官や下士官、水兵たちはチャーチルを英雄として歓迎し、給与・待遇を改善したあとは、とくに信奉した。
 チャーチルは生涯にわたってフランスびいきだった。しかし、ドイツ軍の演習を視察すると、フランスよりドイツ軍の方が比べものにならないほど良いことを理解した。
 チャーチルは、ユダヤ社会と密接な関係を築いた。一貫して、ユダヤ人寄りだった。イスラエルの建国にチャーチルは貢献した。
 チャーチルはシャンパンを好んだ。そして、いつも葉巻を手にしていた。吸っていたわけではない。喫煙までの所作が好きだったのだ。
 チャーチルは演説の前に酸素を2缶用意して吸入し、気分を高めた。
 1925年、チャーチルは財務相になったとき、予算演説をするときは、公邸から下院まで歩いた。山高帽をかぶり、襟が毛皮の大きなコートを着て、蝶ネクタイをつけ、家族をしたがえ、笑みを浮かべ、手を振って、自信と成功を発散させる。
 チャーチルは日本がイギリスに敵対することはないと信じ込んでいた。チャーチルのこの間違いはイギリスに悲劇をもたらした。
 日本がイギリスと戦う理由はない。日本との戦争の可能性は、理性的なイギリス政府が考慮しなければならないことではない。
 これは、チャーチルの残念ながら間違った言葉です。日本人として複雑な気持ちです。
 1929年のアメリカ・ウォール街の大暴落によって、チャーチルも元手の大金を失っただけでなく、巨額の借金を負うことになった。そこで、チャーチルは、執筆料を2倍に増やし、新しい契約を交渉し、演説旅行した。
 インドのガンジーについて、重要な人物であることを見抜けず、チャーチルはガンジーを「半裸の乞食僧」にすぎないと切り捨ててしまった。
 そして、1932年12月、チャーチルは交通事故で重傷を負った。
 交通事故によって精神的、肉体的な激しい苦痛を味わった。だが、どれも耐えられないものではない。自分を哀れむ時間はないし、力もない。後悔したり、恐れたりする余地はない。自然は慈悲深く、人間にしろ獣にしろ、その子どもたちにそれぞれの力を超えるような試練を与えることはない。危険な人生を歩み、起こることを受け入れるべきだ。何も恐れることはない。すべてはうまくいくのだ。
 1935年。チャーチルは、午前中を執筆と自宅(別宅)の煉瓦積みですごした。1日に200個の煉瓦を積み、2000語の文章を書いた。チャーチルはヒトラーの『我が闘争』を読み、そこに書かれていることはヒトラーの明確な意図だとみた。
 1930年代のイギリスは、平和主義が大流行していた。武装解除に多くの国民が賛同していた。だからチェンバレン首相は、ヒトラーにころりとだまされたのでした。
 チャーチルは独裁者ではなかった。その命令は一つの例外もなく、文書で行い、明快に指示した。口頭の命令も、すぐに文書で確認した。これに対して、ヒトラーはすべて口頭で命令した。
チャーチルは第二次大戦が始まったとき65歳。終わったとき70歳。1日16時間はたらいた。チャーチルには、優先順位を正しくつかむ特異な能力があった。
 チャーチルの生涯で、絵を描く以上の楽しみはなかった。チャーチルの絵は素人離れしているとのことです。ぜひみてみたいものだと思いました。
 チャーチルは人に対する憎しみをもたなかった。そのため、生涯を通して、大きな喜びを手にすることができた。
 私も、人を憎まないようにすることを心がけています。大切な教訓がたくさん盛り込まれている興味深い本でした。
(2013年4月刊。1800円+税)

毛沢東と中国(下)

カテゴリー:中国

著者  銭 理群 、 出版  青土社
いよいよ例の文化大革命の始まりです。
 毛沢東は劉少奇から指導権を奪うには、党官僚の系統が劉少奇によって既にコントロールされているから、非常手段をとらざるをえなかった。つまり、下から上へと直接的に大衆を動員することだった。
 毛沢東の文革発動の呼びかけにこたえたのは、青年学生、しかも未成年の学生だった。とりわけ、高級幹部の子弟だった。これは、人類史上において前代未聞のことだった。これは、まさしく毛沢東が考え抜いた結果でもある。毛沢東は若い学生に目をつけ、彼らの無知と情熱を利用しようとした。毛沢東は、労働者・農民には生産現場を守らせた。
 政治家である毛沢東は、子どもたちの無知と情熱を利用し、自分の政治目的を達成しようとした。高級幹部の子弟は政治上では優位だけれど、文化と知識の上では優位を得ておらず、教師にも重視されていなかった。
 このような政治上の優位と文化上の劣等感によって、高級幹部と労働者農民の子弟の心理はアンバランスだった。プライドと劣等感と嫉妬は、非高級幹部出身、とくに知識分子出身や旧階級出身の子弟に対する、いわゆる「階級増悪」に転化し、ここに造反への衝動が生み出されることになった。
文化大革命が始まった当初、劉少奇を長とする幹部と彼等の子弟の協力の下、毛沢東の設定していた革命対象とは完全に反対の方向に誘導され、新たなる反右派運動となってしまった。造反派であろうと、保守派であろうと、彼らは毛沢東を自らの後盾としており、毛沢東は自分を支持していると思っていた。それは、毛沢東の二重性そのものの反映でもあった。
 毛沢東は、ロマン的、空想的な人間ではあったが、結局のところ党と国家の指導者であり、実際に国家の事務を担っていた。
文化大革命は、スローガンとしては激烈だったが、事実上は「革命なき革命」だった。
 革命委員会は、改良主義の産物であり、実行されたのはプロレタリア専政と計画経済とイデオロギー統制の三つだった。
 文化大革命の中後期になると、多くの人々は意識的か無意識的かはともかく、文化大革命から退出し、文革初期の全民族参加の局面は既に収束していた。文化大革命は、ますます権力闘争の中にはまり込んでいった。つまり、一般大衆は劇場から降りてしまったのである。
 1968年夏、毛沢東は局面をコントロールできない危険に直面した。できるだけすぐに武闘を止めさせ、全国的内乱を収束させるため、毛沢東は武力弾圧に踏み切った。
 1966年の夏に、毛沢東は「ブルジョア反動路線」の罪名で劉と鄧のブルジョア司令部を打倒しながら、毛沢東自身が劉・鄧の大衆を鎮圧する路線を承継した。
 1968年夏、毛沢東は青年学生、紅衛兵のリーダーを排除した。紅衛兵を放り出した後、毛沢東が拠って立つ勢力は労働者階級となった。
 1968年、毛沢東が青年学生を農村に追いやり、大衆造反を基本的に収束させてから、中国の上層は権力闘争に突入する。林彪グループと江青グループとの矛盾、そして林彪グループと毛沢東との矛盾があらわになっていった。毛沢東と林彪の対立の結果、1971年9月、林彪は逃亡して死亡した。
 1971年11月、毛沢東は、ついに「私は聖人ではない」と認めた。これは自分の失敗を認めたことを意味している。
毛沢東は鄧小平に対して不満を抱きつつも、終始期待をかけ、保護し続けた。
鄧小平は権力を掌握したあと、自らの意志にもとづいて文化大革命を否定する一方で、毛沢東の歴史的な地位と指導的な地位はしっかり守った。
 「我々は、フルシチョフがスターリンにしたようなことを毛主席にするつもりはない」
毛沢東は、戒めを拒絶し、おべっかを好み、多くを疑い、動乱を好み、言葉は表面だけで、裏に鋭い牙をたたえている。
文化大革命とは、中国の人々にとって、とんだ災難だったわけですが、その有力な起源が毛沢東個人の強烈な中国支配幻想によるものだということを悟らせてくれる本です。
(2012年12月刊。3900円+税)

義足ランナー、義肢装具士の奇跡の挑戦

カテゴリー:人間

著者  佐藤 次郎 、 出版  東京書籍
いい本でした。読んでいると、ほわっと心が温まってきます。
そうだ、人間って、誰だって可能性が残されているんだよね。なんとかあきらめずにがんばったら、道は開けてくるものなんだ・・・。
日頃、テレビを見ませんので、オリンピックもパラリンピックも見たことがありません。でも、この本を読んで、パラリンピックで義足ランナーが普通に走っているところを見てみたいものだと思いました。
 義足といっても、いろいろあって、この本ではスポーツ用の板バネ義足が中心となっています。心うたれる話の展開です。交通事故とか病気のために下肢を切断してしまった人が、歩くだけでなく、走れるようになったという話です。
日本人が義足をつけて走り始めたのは1992年初夏のこと。はじめの一歩って、すごく勇気のいったことでしょうね。
はじめに走った人は、やはり日本人女性でした。なんといっても、女性のほうが男より勇気がありますよね。
 鉄道弘済会に義足部門ができたのは、国鉄(今のJR)で鉄道作業員の事故が少なくなかったことによる。うひゃあ、そうだったんですか・・・。
 義足は、人それぞれ、歩き方の特徴や筋力までも把握しておかなければ、使いやすい義足にはならない。ソケットづくり、アライメント調整、いずれにも精密な職人技を求められる仕事なのである。
 臼井二美男は、その難しさ、精妙さにやる気をかき立てられた。
簡単には身につかない。しかし、意欲しだい、工夫しだいでいくでも熟達できる。いい義足をつくれば、それはそのまま患者の喜びに直結する。これほどやりがいのある仕事はめったにない。
義足の使用者は全国に6万人。義足は25万円から40万円する。大腿義足だと40万円から80万円する。そして、本人負担分は1割。
 義足の購入申請は年に6千件近くで、修理費用の申請は7千件ほど。しかし、スポーツ用義足は保険の対象外となり、40万円ほどの負担は大きい。
義足で走るのは怖い。浮いた義足がもう一度、地面につく。その瞬間が何より怖い。恐怖とのたたかいがある。地面についた瞬間、膝がカクっと折れるんじゃないか。それが怖い。
義足の人間が100メートル走るのは、普通の人が200メートルを全力で走るくらいの負担がかかる。
 足先からではなく、腰から動くような形で歩くこと。腰を乗せた歩きは、健足、義足の双方にバランスよく体重をかけていく動きづくりに効果があった。
 走るという単純な行為が、脚を失ったものにとって、どれほど大きな意味があるものか・・・。
 反発力の少ない、ふだん使ってる義足には、ある程度は体重を乗せられたが、板バネの義足はまた一からやり直しだ。板バネの義足には軽さとしなやかさがある。
 風が顔に当たって耳のあたりから抜けていく感じ。ヒューッという風を切る音。加速すると音が高くなっていく。あの感じ、気持ちがよかった。ああ、走っているんだなと思った。
 この義足ランナーの言葉に、はっとさせられました。
 いい本を読ませていただいて、ありがとうございました。そんなお礼を言いたくなりました。
(2013年2月刊。1600円+税)

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