法律相談センター検索 弁護士検索

ペンギン

カテゴリー:生物

著者  藤原 幸一 、 出版  講談社
 私は、ペンギンも大好きです。
 ええっ、ペンギンって鳥だったの、しかも大空を飛んでいたの・・・、と思ってしまいました。
 海の中をすいすいと気持ちよさそうに泳ぎ、陸の上で子育てするペンギンを、いつのまにか人間と同じ哺乳類だと勘違いしていたのでした。
 1億年前、ペンギンの祖先は大空を飛ぶ鳥だった。そして7000万年前に、ペンギンの祖先は空を飛ぶのをやめてしまった。空中より水中により長くいて、大好物の魚をとれるように進化したのだ。
 地球にすむペンギン19種のうち、南極を繁殖地とするペンギンは5種類だけ。赤道直下や、人間と共生して街に住む種もいる。森の中にすむペンギンもいる。ただし、北半球には人間が連れてきたもの以外には、いない。
夏はペンギンにとって衣替えの季節。羽毛が抜けかわる。その換羽のあいだは海に入れないので、ペンギンは絶食状態となって、体重も半減してしまう。ええーっ、そうなんですか。犬のようにはいかないのですね。
 ペンギンのオスとメスを見分けるのは、至難の業だ。混ざっていたら、判別不可能。つがいがそろって並んで初めて、オスとメスを判別できる。メスがオスよりひとまわり小さい。
 メスは主としてオキアミを食べ、オスは魚を多く食べる。
 メスは繁殖地から200キロ以上、オスは160キロもの旅をする。
 集団で一糸乱れぬ行動をするペンギンは、捕食者であるアザラシに襲われにくい。
アデリーペンギンにとって巣作りの材料となる小石は、マネー(貨幣)のような価値をもっている。
 小石のほしいメスは、独身オスに売春まがいの行為をして小石を手に入れる。連れあいのオスは、メスが小石を手に入れて帰ってくると大歓迎する。
 見ていて楽しくなるペンギンの写真がどっさりの写真集です。写真を撮る苦労は大変なものがあったことだと思います。ありがとうございました。
(2013年12月刊。2800円+税)

もう一度、天気待ち

カテゴリー:社会

著者  野上 照代 、 出版  草思社
 あの黒澤明監督の下で働いていた著者による大スターたちの生態は興味深いものがあります。
 クロサワがミフネの演技にわずかにしても不満を抱いたのは、おそらく『赤ひげ』が初めてだろう。
 三船敏郎の主演する映像では、なんといっても『七人の侍』ですよね。かなり前ですが、福岡の映画館でリバイバル上陸があったのを見ました。やはり大きなスクリーンで見ると迫力が違います。家庭のテレビ画面とは迫力が違います。仲代達代と三船敏郎が出演する『椿三十郎』にも度肝を抜かれました。血しぶきのすさまじさに圧倒され、声も出ません。
 三船も仲代も、セリフを手書きで書いて、丸暗記していたようです。やっぱり、すごい努力のたまものなのですね・・・。
 しかし、三船と仲代はロケ先で口論し、その後は競演していない。
 三船敏郎の酒乱は有名だった。日頃は、とても気をつかうので、お酒を飲むと、その反動で、爆発したのだった。
 『七人の侍』で撮影現場になったのは、東宝撮影所の前の田圃。今は、団地になっている。雨の合戦にしたのは、西部劇には雨がない。よし、雨で勝負だと黒澤監督が考えたから。撮影したのは2月。田圃には氷が張り、消防車8台を借りて、ホース40本。足もとは、膝まで埋まる泥んこで、馬が暴れるから身動きもできない。三船敏郎は裸同然で寒さに震えて、歯をガチガチいわせていた。
 『七人の侍』には、老人ホームの素人にも登場してもらっているとのこと。映画のお婆さんたちがそうです。
戦後まもなく、ヒロポンが禁止されていなかったころ、撮影現場では、ヒロポンが堂々と注射されていたという話には驚かされます。ヒロポンは、今の覚せい剤みたいなものでしょう。もちろん、今では厳禁です。
ガチンコは、画と音をあわせるための唯一の手がかりだ。画面と録音された音をあわせると、セリフと物音が同時に再現される。
 三船敏郎のように周囲に気を配ってばかりいる人には映画監督はできない。優れた映画監督というのは、たいてい我がままで、他人が何を言おうと気にしない。自分が撮りたい対象をつくるためには、他人の迷惑なんかかえりみないという人なのだ。
 さすが、世界的巨匠であるクロサワ監督の身近にいた人による鋭い観察だけある本でした。
(2014年2月刊。1900円+税)

加藤清正の生涯

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  熊本日日新聞社編 、 出版  熊本日日新聞社
 加藤清正の発給した文書をもとに、加藤清正の実像に迫った本です。意外な人間像に接し、驚きました。
 加藤清正って、最前線の戦場で戦う勇将とばかり思っていました。しかし、実は後方で最前線を支援する智将として秀吉に重用されていたようです。わずか49歳で病死した清正ですが、晩年は茶の湯や連歌をたしなむ文化人でもありました。
加藤清正が10代までの少年期は、秀吉と同じ名古屋市中村区(尾張国愛知郡中村)で過ごしたことは間違いない。しかし、それ以上は不明で、謎に包まれている。
加藤清正は秀吉の下の武将として名をあげていくが、軍事力より物資調達能力や事務処理能力を期待されていたのではないか。加藤主計頭(かずのえかみ)となり、財務担当者となった。清正は、戦よりも、そろばん勘定に長けていた。
大陸進出をもくろむ秀吉にとって九州は重要な軍事拠点だった。佐々成政が肥後国一揆を招いたとして、その失敗から切腹させられ、その後任として清正は4千石から19万5千石の大名へ一気に大出世した。
秀吉の朝鮮出兵で、加藤清正も朝鮮半島に渡った。そして、加藤清正は朝鮮北部まで進出し、そこで、逃げていた朝鮮王子2人を捕縛した。
しかし、1万人いた清正の軍勢は、逃亡が相次ぎ、漢城(ソウル)に撤退した時点では5500人にまで減っていた。
 清正の虎狩りは有名だが、実のところ、朝鮮に在陣していた多くの武将が虎狩りをしていた。それは、秀吉の養生のため、虎の頭、肉と腸を塩漬けにして送るように指示されていたから。当時、虎は不老長寿の薬として重用されていた。要するに、朝鮮での虎狩りは、秀吉の滋養強壮の薬を調達するためのものだった。ところが、虎の捕獲は危険で、人命をなくすことがあったため、秀吉の命令で中止された。
 要するに、清正が勇敢だったから一人、虎狩りをしていたというのではなかったのです。
関ヶ原の戦いの後、清正は家康に忠義を尽くすようになった。そして、キリスト教の禁圧令が出る前から、家臣団についてはキリスト教の信者であることを認めず、改宗に応じないものは家族ともども見せしめのために処刑した。ただし、一般庶民の信仰は認めていた。
 この本には、加藤清正が夢でみた情景をつづった自筆の書状が紹介されています。これは本当に珍しいものですね。その内容は、秀吉が登場してくるものです。そして、清正は僧に祈祷を依頼しているのです。今でも、ありそうな話です。大恩のある秀吉を、その死後に裏切ったという、うしろめたい気分のあらわれではなかったでしょうか・・・。
 今も、清正公(せいしょうこ)と呼んで加藤清正を愛敬する人の多い熊本県民の愛するシンボル的存在を新聞連載で紹介し、一冊の本になっています。たくさんの写真もあって、とても読みやすいブックレットでした。
(2013年12月刊。2000円+税)

ジューコフ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ジェフリー・ロバーツ 、 出版  白水社
 ノモンハンの戦いでソ連軍の指導者として登場したジューコフ将軍の一生を明らかにした本です。日本の関東軍がみじめに敗退していったノモンハンの戦いで、ジューコフは情け容赦ない戦争指導者としてムチをふるったと思っていましたが、それなりの戦争理論家であったようです。
 ジューコフ将軍は、ノモンハンの戦いに勝利した後、対ナチス・ドイツ戦でスターリンに抜擢されて活躍し、ついにベルリン攻略戦の勝利者たる栄誉を勝ちとったのです。
 ところが、そのあまりの勝利のため、スターリンが疎ましく思って失脚させられてしまいます。
 そして、スターリンの死後に復活し、フルシチョフの失脚によって、再び脚光を浴びるのでした。いずれにしても、スターリン時代に生きのびた将軍として、ジューコフは有名です。
 スターリンが嫌ったのは、ジューコフの自立心と、信念を率直に語るところだった。この資質が戦争中にはスターリンを大いに救った。しかし、戦争が終わり、スターリンが助言を必要としなくなると、目障りな存在となった。ジューコフもスターリンも虚栄心が強かった。スターリンは、自分の副官が人気を集めるのがねたましかった。
 1953年3月にスターリンが死んだとき、独裁者の国葬でジューコフは、葬儀委員の筆頭格として遺体を付き添った。フルシチョフは、ジューコフを国防相に任命した。
 そしてフルシチョフは、自分を脅かす政治家として認識し、国防相から解任した。フルシチョフの失脚(1964年10月)のあと、ジューコフは再び脚光を浴びるようになった。
 ジューコフには規律ただしい学習の習慣があった。家にいるときのジューコフは、本の虫だった。死んだとき、別荘には2万冊の蔵書があった。ジェーコフの家庭生活の中心は読書だった。
 ジューコフは、1920年5月、晴れて共産党員になった。ジューコフは、忠実な共産主義者として、熱狂的とはいえないまでもスターリン個人を崇拝していた。ジューコフは26歳にして連隊長となり、西側の軍隊では中佐に相当地する地位についた。
 ジューコフは、自分にも部下にも厳しかった。それは、功名心につかれた男の生きざまでもあった。
 スターリンによる赤軍粛清の嵐が吹き荒れた1937年から38年にかけては、ジューコフも不安にさいなまれ、いつも逮捕にそなえてカバンを用意していた。
 1935年5月、ジューコフはモンゴルに派遣された。ノモンハン事件の渦中に、ソ連赤軍の戦闘態勢の調査だった。そして、ついには指揮をまかされた。
 ジューコフは、ソ連軍の総攻撃を準備しつつ、それを欺瞞し、隠蔽する工作に成功した。ノモンハンの戦いで勝利したジューコフはスターリンに呼び戻され、対ナチス・ドイツ戦に従事した。
 1940年1月、スターリンは、ジューコフを参謀総長に指名した。
 1941年夏のソ連赤軍は大敗北を重ね、スターリンは、ジューコフを参謀総長から解任した。
 1942年8月、スターリングラードの戦いで、ジューコフは最高総司令官代理に就任した。
 スターリンは、断固かつ非情で不動の信念をもつ男を求めていた。ジューコフは、スターリングラードを救う切り札だった。
 ジューコフの名誉を不朽としたのは、1945年4月のベルリン攻略戦だった。ベルリン攻略戦で、ソ連赤軍は30万人の人的損失を出した。うち死者は8万人にのぼる。
 1944年12月、ヒトラーのナチス・ドイツ軍はバルジの戦いに成功した。ドイツの敗北が目に見えていたのに、ドイツ軍が戦い続けたのは、ソ連軍の報復が怖かったからだ。戦い続けて時間をかせげば、ソ連赤軍より先に西側の連合国軍がベルリンに到達するのではないかと期待していた。
 戦争を通じてドイツ軍は600万人のソ連兵を捕虜にした。その半数は飢えや病気、虐待のために死んだ。報復するなとソ連兵に言うほうが無理だった。しかし、ドイツ女性のレイプに限って言えば、タガの外れた暴虐は報復の範囲をこえていた。ソ連兵にレイプされたドイツ女性は数万人から数百万人と推定されている。その中間くらいだろう。
このとき、ジューコフは、「人殺しの故郷に苦しみを与えよ。目の前のすべてに容赦のない報復をするのだ」と指示した。
 ジューコフ将軍とソ連赤軍について、実際を知ることができました。
(2013年12月刊。3600円+税)

「アラブ500年史」(上)

カテゴリー:アラブ

著者  ユージン・ローガン 、 出版  白水社
 アラブの近代史を上・下2巻にまとめた本です。宗教の違いとは、こんなにも大変なことなのか、ついため息を尽きたくなるほどの重苦しさを覚えました。
イギリスによる1917年のイラク・バグダットの解放は、1798年のナポレオンのエジプト解放と何ら変わりがなかった。イギリスは、1916年に軍事同盟国であるフランスとの間で、すでにアラブ世界の分割に同意していた。
 2003年に、アメリカのブッシュ大統領が独裁的なサダム・フセインの支配からイラク国民を解放するために侵略戦争の準備をしていたころ、アラブ人は占領というオオカミが解放という羊の毛皮をまとっているという相変わらずの事実をみんな知っていた。一国の国民の知性を見くびって侵攻するほど、恥ずべきことはない。
 「マムルーク」とは、アラビア語で「所有された者」つまり「奴隷」を意味する。しかし、マムルークは、エリート軍人階級を形成していた。彼らはユーラシア平原やカフカス地方のキリスト教領土からカイロに連行され、そこでイスラム教徒に改宗させられ、武術の訓練を受けた。一人前のマムルークになると、やがて奴隷の身分から解放され、支配階級エリートの仲間入りをする。
マムルークは、白兵戦における究極の戦士だった。1249年にはフランス王ルイ9世の十字軍を敗北させ、1260年にはモンゴル軍をアラブ領土から追い払い、1291年には最後の十字軍をイスラム領土から放遂した。このように、中世最強の軍隊を次々に打倒した。
オスマン人はいろいろなテンでマムルーク人に似ていた。どちらの帝国でも、エリートはキリスト教奴隷の出身者だった。
 マムルークと同じく、オスマン人も奴隷のなかから新兵を補充するという独自の制度を活用した。それは、イエニチェリ(新兵)と呼ばれる最強の歩兵軍団を構成した。
 オスマン帝国の軍国の軍隊や政府内でエリート階級入りするのは、だいたいイエニチェリ出身だった。
 18世紀に入って、オスマン人の世界で、「国民兵」という概念が登場した。それまでの兵士は、奴隷出身の軍人階級と思われていた。労働者や農民から徴用された兵隊(国民兵)という概念は耳新しいものだった。イエニチェリの兵士たちは妻をめとり、息子も「イエニチェリ」に入れるようになった。
 1807年、イエニチェリは反乱を起こし、セリム3世を退位させ、「新式」軍を解隊した。
 マムルークとして、ハイルッディーンは奴隷から政治勢力の最高峰にまで出世した最後の人物だった。
 1875年、オスマン帝国の中央政府は破産宣告寸前だった。この20年間に、オスマン帝国は16ヶ国とのあいだで、総額10億ドルもの借款契約をした。借款が増えるたびに、オスマン帝国の経済は、ヨーロッパのよる経済支配に強く牛耳られるようになっていた。借款が成功しても、自国の経済に充てるための投資にあてることができたのは、わずか1割ほどの2億2550万ドルほどでしかなかった。
 ヨーロッパの帝国主義がアラブ世界の触手を伸ばしはじめたのは、1875年以降のこと。フランス軍のアルジェリア征服が始まった。1847年までに、11万人のヨーロッパ人がアルジェリアに入植した。1870年、25万人のフランス人の入植者をもつアルジェリアは正式にフランス領に併合された。
 イラクで「1920年の革命」として知られる1920年の蜂起は、現代イラク国家のナショナリストの神話の中で、1776年のアメリカ革命に匹敵する特別な地位を占めている。欧米人の大半は1920年の蜂起をまったく知らないが、イラクの小学生たちは、何世代にもわたって、ファルージャ、ルクーバー、ナジャフの町で、外国軍と帝国主義に抗議して立ちあがったナショナリストの英雄たちことを学びながら成長している。
 パレスチナのユダヤ人コミュニティは1882年から1903年にかけて、2万4000人から5万人へと倍増した。さらに1914年までに、ユダヤ人の総人口は8万5000人に達した。
 ユダヤ人の入植と土地購入は委任統治のはじめから、パレスチナに緊張状態を高めた。
 1922年から29年にかけて、7万人ものシオニスト移民がパレスチナにやって来た。そして、ユダヤ民族財団はパレスチナ北部の土地24万エーカーを購入した、移民の急増と土地購入の拡大が1929年にパレスチナでの暴動を次々に起こす原因となった。
 ドイツでナチスが政権をとったあと、移民流入のピークは1935年で、6万2000人が入国した。
 1938年から39年のあいだに、100人以上のアラブ人が死刑を宣告され、30人以上が実際に処刑された。これは、パレスチナ・アラブ人のイギリス支配への抵抗運動だった。
皮肉なことに1930年代、アルジェリアの完全な独立を要求したのは、フランス本国で外国人労働者として働く活動家たちだった。フランスにいる10万人をこえるアルジェリア人労働者たちのなかで政治活動をしていた一握りの人々が、共産党を通じてナショナリズムに肩入れした。
 パレスチナにユダヤ人の民族領土をつくるというシオニストの夢を実現させたイギリス政府に、ユダヤ人入植者が戦争を仕掛けるなんて信じられないだろう。しかし、第二次世界大戦がすすむなかで、イギリスはパレスチナのユダヤ人コミュニティから、ますます攻撃にさらされるようになった。
 複雑怪奇という言葉がぴったりくるアラブ世界の動きとその意義が、生々しく、そして総体として語られています。大変勉強になりました。
(2014年1月刊。3300円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.