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江戸時代の医師修業

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  海原 亮 、 出版  吉川弘文館
 私が江戸時代へのタイム・スリップしたくないと思う理由の一つは、医学の発達です。
 もちろん、漢方薬その他の昔の人の生活の知恵を頭から否定するつもりはありません。でも、身体のかゆみを止める皮膚科の塗り薬や、目のかゆみを止める目薬などは、断然、今のほうがいいように思うのです。
 江戸時代も、たくさんの医師がいました。もちろん国家試験なんてないわけですから、誰でも医師になれたかのようにも思えます。しかし、どうやら、そうではなさそうです。
江戸時代は、病気や医療について、国家レベルで検討されることは、ほとんどなかった。
 徳川吉宗の享保期は例外的だった。漢訳洋書の輸入緩和、小石川養成所の設置、採薬調査・薬園整備・朝鮮人参の国産化計画など・・・。
幕府(公儀)は、医師の給与の指標を定めただけで、医師身分とは何かを明確に定義することはなかった。
 「誰でも医師になれた」というのは単純すぎる言い方で、史実とは異なる。百姓や町人であっても、長男でなく継ぐべき家をもたないとき、医の道に転するという選択肢があった。
 尾張藩だけは、医師門弟の登録と開業の許認可制を採用していた。
医師として収入を得ようとすると、同じテリトリーで活動するほかの医師の承認を得る必要があった。
 医師は、専門性の高い知識、技術を得るため、いずれかの学統に所属し、互いに競いあって、学問の習得につとめていた。
 江戸時代には、かなりの僻地(へきち)にまで医師が活動していた。
 当時の医師たちは、師弟関係を軸として同業集団(学統)を自発的に形成していた。
 江戸時代に医学の発展は、藩医身分の医師が主導した。
江戸時代には杉田玄白以前にも死体解剖がやられて、その実見図がいくつもあるとのことです。
(2014年11月刊。1800円+税)

満蒙

カテゴリー:日本史

著者  麻田 雅文 、 出版  講談社選書メチエ
 ロシアのウィッテは、実力者(首相や大蔵大臣を歴任する)として中国や朝鮮に港と鉄道支線を獲得することに執念を燃やした。シベリア鉄道をヨーロッパをアジアを結び一大運送会社にするためである。
 大連の建設は、ロシア人のサハロフ市長が指揮した。当初はアメリカ風にするつもりだったが、地形が合わないことに気がつき、パリを参考にして中心の広場から放射状に通りがのびる案が採用された。
 中国の義和団戦争の一因は、中国人とロシアの支配する中東鉄道の土地をめぐる争いだった。
 ウィッテは、1903年8月に大蔵大臣を解任されてしまった。
 日本の参謀本部は、シベリア鉄道が完成し、ロシアの兵站能力が格段に上がるのを恐れ、先手を打つことを決意する。1904年2月のことである。
 日露戦争において、日本側は日露両軍は、それぞれ30万人の戦闘員を動員すると目算した。しかし、それは甘かった。戦中の20ヶ月間に、ロシアは130万人の将兵を鉄道で中国東北へ運び入れた。それに対して停戦時の日本軍は69万4千人だった。このとき、ロシア軍は、沿海州(中国東北部)に100万近い精鋭部隊を展開していた。
 1909年10月26日、中東鉄道のハルビン駅で伊藤博文が暗殺された。
 満鉄は標準軌だったが、中東鉄道は広軌なので、列車を乗り換える必要があった。伊藤博文は、このとき身辺警護を断った。身に迫る危険を感じていなかったし、ロシア側に配慮もしていた。
 暗殺犯の安重根は、1910年3月26日、旅順の監獄で絞首刑に処せられた。処刑は伊藤博文の月命日だった。
 シベリア出兵からの完全撤退を考えていた原敬首相は、1921年11月に東京駅で刺殺された。シベリア出兵は、ボリシェヴィキ政権、ソ連による全国統一を数年送らせて、現地の人々の恨みを買っただけで終わった。
 1939年5月からの4ヶ月間、日本の関東軍と満州国軍とが国境のほかに何もないところで戦争した。
戦中の中国東北部である満州の変遷をたどりつくことのできる本でした。
(2014年10月刊。850円+税)

風花帖

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  葉室 麟 、 出版  朝日新聞出版社
 もちろんこれは、小説なのですが、どうやら史実をもとにしているようです。
 北九州の小笠原藩に、家中を真二つに分けた抗争事件が起きたようです。文化11年(1815年)のことです。
 小倉城にとどまった一派を白(城)組、黒崎宿に籠もった一派を黒(黒崎)組と呼んだ。白黒騒動である。白黒騒動は、いったん白組が敗れたものの、3年後に白組が復権して、黒組に対して厳しい処罰が加えられた。
派閥抗争は、こうやって、いつの時代も後々まで尾を引くのですね。
 根本は、藩主・小笠原忠固が幕府の老中を目ざして運動し、そのための費用を藩財政に無理に負担させようとすることから来る反発が家中に起きたことにあります。要するに、藩主が上へ立身出世を試みたとき、それに追従する人と反発する人とが相対立するのです。
 それを剣術の達人とその想い人(びと)との淡い恋愛感情を軸として、情緒たっぷりに描いていきます。家老などが360人も引き連れて城下を離れて藩外へ脱出するなどということは、当時にあっては衝撃的な出来事でしょう。幕府に知られたら、藩主の処罰は避けられないと思われます。下手すると、藩の取りつぶしにつながる事態です。
 双方とも武士の面子をかけた争いです。
 江戸末期の小笠原藩の騒動がよく描けた時代小説だと思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)

香りの力、心のアロマテラピー

カテゴリー:人間

著者  熊井 明子 、 出版  春秋社
 私は、あまり鼻が良いほうではありません。夏の夜に庭の夜香木の花から漂ってくる強い芳香も、よほどでないと分かりません。でも、ふっと、昔、子どものころにかいだ麦わらの匂ひを感じたとき、一瞬にして子ども時代に戻ってしまうのです。匂ひには、特別の力があることを実感します。
 人生は「好きなもの」が多いほど楽しい。香りも例外ではない。ハッピーな気持ちをもたらす「好きな香り」を年ごとに増やしていきたい。それは、よい思い出を増やしていくことと比例する。うれしいとき、天にも昇る心地になったときには、意識して、その瞬間の香りを記憶しよう。
 みかん類の香りは、きわめてヘルシーで、好ましい。心を明るく高揚させる効果がある。
 『源氏物語』には、生まれつき体が芳しい香りを発する薫君(かおるのきみ。光源氏の息子)が登場する。彼に対抗して、なんとかして女性を惹きつけるセクシーな香りをつけたいと願い、努力する匂宮(におうのみや)という貴公子も・・・。
 当時の貴族の生活に、香りは欠かせないものだった。庭には、四季折々の花の香り。部屋には空薫物(そらだきもの)の香り。衣服には、薫衣香(くのえこう)を焚きしめ、えび香を添える。さらに、生霊を退ける芥子の薫物や仏前の名香(みょうごう)も。
 香料として、沈香(ちんごう)、蘇合香(そごうごう)、白壇(ひゃくだん)、丁香、甲香(見香)麝香(じゃこう)など。その多くがセクシーな香りで、匂宮が身にまとった薫衣香も、こうした薫りをアレンジしたものと思われる。
匂いを大切にした生活を送るということは、さらに人間の内面を大切にした、豊かな生活だと、この本を読みながら思ったことでした。再び、匂ひ立つ美女との出会いを夢見て・・・。
(2014年10月刊。1800円+税)

藤原清衝

カテゴリー:未分類

著者  入間田 宣夫 、 出版  集英社
 平泉の中尊寺には行ったことがあります。黄金色に輝く金堂の見事さには息を呑むばかりでした。奥州に花咲かせた平泉藤原氏三代の初代・藤原清衡(きよひら)の果たした偉業をしっかり認識させられた本です。
 大治元年(1126年)春3月24日、中尊寺鎮護国家大伽藍(がらん)の造営を祝う盛大な儀礼・落慶供養(らっけいくよう)の法要が開催された。ときに清衡は71歳。
 大伽藍の中心には、三間四面の檜皮葺(ひわだぶき)の本堂(金堂)には、丈六(じょうろく)皆金色(かいこんじき)釈迦三尊像が安置され、その左右には50体の脇士侍者(わきしじしゃ)がそれぞれ立ち並んでいる。このモデルは、御堂関白・藤原道長の創建した京都の法成寺(ほうじょうじ)であった。
 中尊寺の仏像群は京都から招かれた著名な仏師の手になるものであり、建物も京都方面から招かれた最高水準の大工によって建立された。
 二階瓦葺の経蔵(きょうぞう)には、金銀泥の一切経、5400巻が収納されている。
 経巻は金泥の文字が1行、次に銀泥の文字が1行、そしてまた金泥の文字が1行というように金文字と銀文字とを交互に用いている。さらに、経巻の料紙には、紺色を、経巻の軸には玉を用いた。法華経10巻も1000部セットが用意された。
 二階の鐘楼には、20釣の洪鐘が懸けられ、その鐘の音は千界のかなた、宇宙の果てまで及ぶかのように、大きく鳴り響く。そして、この日は、実に1500人もの僧衆を招いての大法要であった。
 千僧供養(せんぞうくよう)は、天皇・上皇あるいは摂政・関白などが主催し、朝廷や法勝寺・延暦寺・興福寺ほかの諸大寺でしかおこなえないものであった。遠く離れたみちのくにおいて、しかも一介の地方豪族にすぎない。清衡の主催で本来なら出来るはずのない興業だった。
大伽藍の造営に寄せる願文は、当時きっての大学者(文章博士(もんじょうはかせ)、大学頭(だいがくのかみ))、右京丈夫(だいぶ)藤原敦光朝臣(あそん)の起草であった。
 そして、この大伽藍には、「御願寺」という金看板がかけられた。「禅定法皇」(白河上皇)の発願(ほつがん)によって建立された国家的な寺院としての金看板である。
 清衡の願いは、前九年合戦そしてあと三年合戦によって戦い死んだ敵味方の人々を等しく救済し、極楽浄土に導くことであった。藤原清衡は、自らを「東夷の遠酋(とういのおんしゅう)」と呼んだ。東辺の蝦夷集団を束ねるべき、遠い昔から酋長の家柄に属するもとのということである。
 また、「俘囚の上頭(ふしゅうのじょうとう)」とも自称した。朝廷に服属する蝦夷集団の棟梁ということである。同時に清衡は、「弟子(ていし)」という一人称も付している。弟子とは仏弟子のこと。天皇や道長が自らの名前の上につけた言葉である。
 藤原清衡の前半生は凄まじいものがあった。幼少にして、父親(経清)が斬首された。母親は敵将の息子に再嫁させられた。義理の兄に反旗を翻し、父親違いの弟によって、妻子・眷族(けんぞく)を殺害された、自らの命も狙われた。さらには、その弟を攻め滅ぼし、そのうち取られた首と対面した。そして、清衡は自ら予告したとおり、金色堂内において、本尊阿弥陀仏の御前に坐して合掌し、念仏を唱えながら眠るがごとく目を閉じた。清衡73歳。大治3年(1128年)秋7月16日のことだった。
 奥州三代の初代・清衡が、これほどの人だったということを初めて知りました。平泉の中尊寺・金色堂の最良のガイドブックです。
(2014年9月刊。1750円+税)

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