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オウム真理教事件・完全解説

カテゴリー:社会

著者  竹岡 俊樹 、 出版  勉誠出版
 オウム真理教が横浜の坂本弁護士一家を殺害したのは、1989年11月4日のこと。そのころ、オウム真理教の信者は5千人足らず。
 私は、坂本弁護士一家の遺体が発見される前、まだオウム真理教が殺害犯だと判明していないときに、殺害現場のアパートを見に行ったことがあります。つましい、どこにでもあるような2階建ての木造アパートでした。どうやら、たまたま出入り口のカギがかかっていなかったようなのです(本当でしょうか・・・)。
 オウム真理教の発展を邪魔する存在だという麻原の指示によって、一家三人とも殺害されてしまったのでした。こんなものが宗教の名に価するはずがありません。にもかかわらず、この殺人教団が今も名を変えて日本に存続していることに、鳥肌が立つと同時に、世の中が信じられません。この本は、そんなオウム真理教に深く立ち入って分析しています。今から15年前の本ですが、大変勉強になりました。
 著者の結論を先に紹介します。
 オウム真理教事件は、戦後の日本社会がたどりついた負の極点、最大の汚点であった。
 オウム真理教は、我々が非論理的、非科学的として葬ってきたことをかき集めて再構築している。
恐ろしいのは言語化できない肉体、感性的な事象である。それが論理によって組みあわされ、意味づけられてしまえば、当人がその是非を判断することなど不可能になってしまう。信者たちは、修行によって得られる甘美な肉体感覚によって麻原の虚偽の深みへとはまり、いつの間にかサリンを撒くようになる。オウム真理教という特異なシステムの中に入ったら、誰だってサリンを撒く可能性が十分にあるのだ。
 ひえーっ、これって、とても恐ろしいことですよね。また、これが本当だからこそ、オウム真理教事件が単なる過去のことではなく、現代日本に今なお尾を引いているのでしょうね。だからこそ、15年前に刊行されたこの本を読む意義は、今も大いにあるというわけです。
 オウム真理教が発足したのは、1987年。このときの信者数はわずか6人。そして8年後の1995年には1万人の信者を擁した。信じられないほどの急成長です。
 1995年、オウム真理教の出家修行者は女性が6割近い661人、男性が41%の459人だった。信者の最終学歴は、大学院2%、大学卒38%、短大7%、専門学校17%、高卒
25%、中卒2%だった。
 吉本隆明は、オウム真理教を高く評価していた。なんということでしょうか・・・・。
 信者には、オウムの教えが心の奥底まで浸透し、潜在意識の中にまで入り込んでいる。本人が、ほとんど無意識の状態の中で、教えを叩きこまれている。
 オウム真理教は、1990年にボツリヌス菌の培養、波野村(熊本県)でホスゲンの生成プラントを建設した。そして、1992年には炭疽菌の培養をはじめ、1994年にサリンの生成に成功した。LSDも同年、その生成に成功した。
麻原は、本人が「絶対者」となって人々の上に君臨したいという強い欲求をもっていた。また、麻原の神格化は、麻原自身と側近たちがともに推進した。麻原の神格化の表れが巨大な椅子である。
麻原に気に入られようとする打算的な人間が少なくなかった。子羊のように従順で、純朴な人たちが多かった。幹部たちは麻原にゴマをすった。みんな、地位や権力に執着していた。
 教団は、麻原を信者とが一対一で結ばれている、奇妙な集団だった。信者同士の横のつながりというのはほとんどなかった。信者同士の横のつながりを麻原がひどく嫌っていた。
 ステージとホーリーネームは、麻原による教団支配のための格好の道具であった。
 みんな、教祖である麻原に気に入られたい、かわいがられたい、認められたい、その一心で、競いあっていた。そのためには、手段を選ばない風潮ができあがっていた。本当に恐ろしい、特殊な世界ですよね。
 教団は、麻原を絶対的な頂点とした権力組織へと変わっていた。麻原自身は家族とも切れていなかった。麻原一家の住む部屋は、すごくデラックスで、食事も信者とは別の者だった。
 麻原が否定したのは、憎しみの対象である現実社会そのものだけで、自分自身ではなかった。麻原は、自らにエゴやプライドを温存し、巨大化し、それを正当化した。
宗教を道具として利用し、信者たちを兵器へと仕立てあげていった麻原は宗教者ではない。この日本社会を滅ぼしにやって来た悪魔であるとしか言いようがない。
 本当に怖い「えせ宗教」です。そんな「エセ宗教」が名前を変えて今も生き続けていることに改めて恐ろしさを感じます。
(2009年11月刊。900円+税)
 明けましておめでとうございます。
年末年始は、娘たちが帰ってきてくれて、にぎやかに楽しいお正月を過ごすことができました。そして、例年どおり、庭仕事に精を出しました。
 いま、ロウバイの花が真っ盛りです。黄色い丸い粒々の花です。黄色というか、ハチミツの固まりのような花で、甘い香りが漂います。
 暮れにチューリップを植え終わりましたので、地上部分の枯れた球根類を掘り起こして植え替えします。すると、チキチキというよりタキタキという音がします。頭を上げると、すぐ目の前にジョウギビタキがいます。
 「何してんの?」と言わんばかりに、わざわざ近寄ってきて、私の作業を眺めるのです。
 ぷっくらしたお腹で、黒を黄色に、少しだけ白い部分があります。尻尾をチョンチョント振って挨拶してくれます。人を恐れず愛敬たっぷりのジョウビタキとともに庭仕事を続けます。
夕方、薄暗くなったら早々に風呂に入って身体を温めます。極楽、極楽という心地に浸ります。

江戸時代の医師修業

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  海原 亮 、 出版  吉川弘文館
 私が江戸時代へのタイム・スリップしたくないと思う理由の一つは、医学の発達です。
 もちろん、漢方薬その他の昔の人の生活の知恵を頭から否定するつもりはありません。でも、身体のかゆみを止める皮膚科の塗り薬や、目のかゆみを止める目薬などは、断然、今のほうがいいように思うのです。
 江戸時代も、たくさんの医師がいました。もちろん国家試験なんてないわけですから、誰でも医師になれたかのようにも思えます。しかし、どうやら、そうではなさそうです。
江戸時代は、病気や医療について、国家レベルで検討されることは、ほとんどなかった。
 徳川吉宗の享保期は例外的だった。漢訳洋書の輸入緩和、小石川養成所の設置、採薬調査・薬園整備・朝鮮人参の国産化計画など・・・。
幕府(公儀)は、医師の給与の指標を定めただけで、医師身分とは何かを明確に定義することはなかった。
 「誰でも医師になれた」というのは単純すぎる言い方で、史実とは異なる。百姓や町人であっても、長男でなく継ぐべき家をもたないとき、医の道に転するという選択肢があった。
 尾張藩だけは、医師門弟の登録と開業の許認可制を採用していた。
医師として収入を得ようとすると、同じテリトリーで活動するほかの医師の承認を得る必要があった。
 医師は、専門性の高い知識、技術を得るため、いずれかの学統に所属し、互いに競いあって、学問の習得につとめていた。
 江戸時代には、かなりの僻地(へきち)にまで医師が活動していた。
 当時の医師たちは、師弟関係を軸として同業集団(学統)を自発的に形成していた。
 江戸時代に医学の発展は、藩医身分の医師が主導した。
江戸時代には杉田玄白以前にも死体解剖がやられて、その実見図がいくつもあるとのことです。
(2014年11月刊。1800円+税)

満蒙

カテゴリー:日本史

著者  麻田 雅文 、 出版  講談社選書メチエ
 ロシアのウィッテは、実力者(首相や大蔵大臣を歴任する)として中国や朝鮮に港と鉄道支線を獲得することに執念を燃やした。シベリア鉄道をヨーロッパをアジアを結び一大運送会社にするためである。
 大連の建設は、ロシア人のサハロフ市長が指揮した。当初はアメリカ風にするつもりだったが、地形が合わないことに気がつき、パリを参考にして中心の広場から放射状に通りがのびる案が採用された。
 中国の義和団戦争の一因は、中国人とロシアの支配する中東鉄道の土地をめぐる争いだった。
 ウィッテは、1903年8月に大蔵大臣を解任されてしまった。
 日本の参謀本部は、シベリア鉄道が完成し、ロシアの兵站能力が格段に上がるのを恐れ、先手を打つことを決意する。1904年2月のことである。
 日露戦争において、日本側は日露両軍は、それぞれ30万人の戦闘員を動員すると目算した。しかし、それは甘かった。戦中の20ヶ月間に、ロシアは130万人の将兵を鉄道で中国東北へ運び入れた。それに対して停戦時の日本軍は69万4千人だった。このとき、ロシア軍は、沿海州(中国東北部)に100万近い精鋭部隊を展開していた。
 1909年10月26日、中東鉄道のハルビン駅で伊藤博文が暗殺された。
 満鉄は標準軌だったが、中東鉄道は広軌なので、列車を乗り換える必要があった。伊藤博文は、このとき身辺警護を断った。身に迫る危険を感じていなかったし、ロシア側に配慮もしていた。
 暗殺犯の安重根は、1910年3月26日、旅順の監獄で絞首刑に処せられた。処刑は伊藤博文の月命日だった。
 シベリア出兵からの完全撤退を考えていた原敬首相は、1921年11月に東京駅で刺殺された。シベリア出兵は、ボリシェヴィキ政権、ソ連による全国統一を数年送らせて、現地の人々の恨みを買っただけで終わった。
 1939年5月からの4ヶ月間、日本の関東軍と満州国軍とが国境のほかに何もないところで戦争した。
戦中の中国東北部である満州の変遷をたどりつくことのできる本でした。
(2014年10月刊。850円+税)

風花帖

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  葉室 麟 、 出版  朝日新聞出版社
 もちろんこれは、小説なのですが、どうやら史実をもとにしているようです。
 北九州の小笠原藩に、家中を真二つに分けた抗争事件が起きたようです。文化11年(1815年)のことです。
 小倉城にとどまった一派を白(城)組、黒崎宿に籠もった一派を黒(黒崎)組と呼んだ。白黒騒動である。白黒騒動は、いったん白組が敗れたものの、3年後に白組が復権して、黒組に対して厳しい処罰が加えられた。
派閥抗争は、こうやって、いつの時代も後々まで尾を引くのですね。
 根本は、藩主・小笠原忠固が幕府の老中を目ざして運動し、そのための費用を藩財政に無理に負担させようとすることから来る反発が家中に起きたことにあります。要するに、藩主が上へ立身出世を試みたとき、それに追従する人と反発する人とが相対立するのです。
 それを剣術の達人とその想い人(びと)との淡い恋愛感情を軸として、情緒たっぷりに描いていきます。家老などが360人も引き連れて城下を離れて藩外へ脱出するなどということは、当時にあっては衝撃的な出来事でしょう。幕府に知られたら、藩主の処罰は避けられないと思われます。下手すると、藩の取りつぶしにつながる事態です。
 双方とも武士の面子をかけた争いです。
 江戸末期の小笠原藩の騒動がよく描けた時代小説だと思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)

香りの力、心のアロマテラピー

カテゴリー:人間

著者  熊井 明子 、 出版  春秋社
 私は、あまり鼻が良いほうではありません。夏の夜に庭の夜香木の花から漂ってくる強い芳香も、よほどでないと分かりません。でも、ふっと、昔、子どものころにかいだ麦わらの匂ひを感じたとき、一瞬にして子ども時代に戻ってしまうのです。匂ひには、特別の力があることを実感します。
 人生は「好きなもの」が多いほど楽しい。香りも例外ではない。ハッピーな気持ちをもたらす「好きな香り」を年ごとに増やしていきたい。それは、よい思い出を増やしていくことと比例する。うれしいとき、天にも昇る心地になったときには、意識して、その瞬間の香りを記憶しよう。
 みかん類の香りは、きわめてヘルシーで、好ましい。心を明るく高揚させる効果がある。
 『源氏物語』には、生まれつき体が芳しい香りを発する薫君(かおるのきみ。光源氏の息子)が登場する。彼に対抗して、なんとかして女性を惹きつけるセクシーな香りをつけたいと願い、努力する匂宮(におうのみや)という貴公子も・・・。
 当時の貴族の生活に、香りは欠かせないものだった。庭には、四季折々の花の香り。部屋には空薫物(そらだきもの)の香り。衣服には、薫衣香(くのえこう)を焚きしめ、えび香を添える。さらに、生霊を退ける芥子の薫物や仏前の名香(みょうごう)も。
 香料として、沈香(ちんごう)、蘇合香(そごうごう)、白壇(ひゃくだん)、丁香、甲香(見香)麝香(じゃこう)など。その多くがセクシーな香りで、匂宮が身にまとった薫衣香も、こうした薫りをアレンジしたものと思われる。
匂いを大切にした生活を送るということは、さらに人間の内面を大切にした、豊かな生活だと、この本を読みながら思ったことでした。再び、匂ひ立つ美女との出会いを夢見て・・・。
(2014年10月刊。1800円+税)

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