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獄中メモは問う

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  佐竹 直子 、 出版  道新選書
 作文教育が罪にされた時代。作文や紙芝居が罪になるなんて、どうしてですか。治安維持法とは、何を処罰する法だったのですか・・・。本当にひどい話がありました。
 治安維持法が制定されたのは、第一次世界大戦後の1925年8月(大正14年)のこと。
 1935年8月、北海道内の教員有志16人が札幌に集まり、北海道綴方(つづりかた)教育連盟を設立した。メンバーは60人あまりにまで広がった。酪農、農作、漁業、炭鉱・・・。子どもたちの綴方(作文)に、しっかりマチの特性が表れていた。
 1940年、綴方教育に特高警察の手が伸びた、2月に山形県の教員2人が逮捕されたのが最初だった。11月に北海道綴方教育連盟事件が発生した。
 綴方事件で逮捕された道内の教員は1941年4月までの累計で56人。そのうち12人が起訴され、死亡した1人を除く11人の有罪判決が確定した。綴方教育の実践で逮捕された教員は全国で137人。このうち北海道が75人と、半数をこしている。
 逮捕された教員に押された共産主義者という「赤い烙印」は、残された家族も苦しめた。通りを歩けば、後ろ指をさされ、友人に道であって目礼しても無視される。
 起訴された12人の教員の多くは、拘束中に依願退職した。慕っていた「先生」を突然失った教え子たちの動揺も大きかった。
 この本は、逮捕・勾留された教員のメモや日記が最近になって発見され、それを解読して紹介しています。逮捕された教員たちは、警察・勾留所にいたとき、メモをひそかにやりとりしていたのです。それには、理不尽にも逮捕された教員たちに同情する警察官や職員の助勢があったようです。
 旭川刑務所では、廊下の掃除を担当していた模範囚が食事の出し入れのために小窓から、こっそり独房間のメモの受け渡しをしてくれていた。
 戦後になって、逮捕されていた教員の一人は、次のように当時を振り返った。
 「治安維持法は悪法であったが、しかしそれは当時の国法である。実際に違反したのであれば、処罰を受けてもあきらめようがある。だが、明らかに冤罪を承知のうえで、多数の教師を共産主義に仕立てた彼ら(警察・検察官)こそ、まさに法を愚弄するものと言ってよい」
 子どもの作文で、犬殺しに殺された犬をかわいそうに思っているところを書いているのは、弱者への同情心を養うため。それが、やがて階級闘争心になる。
こんな論法で処罰されたというので、たまりませんね。風吹けば桶屋がもうかるどころの騒ぎじゃありません。こじつけがひどすぎます。
 また、紙芝居を実演して児童を左翼的に導くべく努めた、というのもあります。
高田富与弁護士(当時50歳)、浜辺信義裁判長の素晴らしい活動が紹介されています。
 高田弁護士は、市議も兼ねていて、3期目。他の仕事を断ってまで綴方事件の弁護に集中したため家族の生活費にまで事欠いていた。浜辺裁判長は、不当な弾圧の実態をあばこうとした。浜辺裁判長は、公判中に被告人を呼び出して面談した。
 高田弁護人が申請した50人のうち、浜辺裁判長は12人を採用した。治安維持法事件で弁護側の求める証人が認められたこと自体が異例だった。しかも12人が採用されたことは・・・。
 高田弁護士の最終弁論は200頁に及んだ。浜辺裁判長は、公判のあと11人の被告人を一人ずつひそかに呼び出して面談した。
 「無罪判決では必ず検事が上告する。・・・実刑を受けないのだから、早く世の中で働いたらどうか?」
そして、判決は、求刑3~5年のところ、懲役1年から2年だった。そして、執行猶予もついていた。
貴重なナマの記録を掘り起こして、この本のように誰でも読めるようにしてくれた著者たちの努力に対して心より感謝します。それにしても、戦前の悪夢をよみがえらせようとする特定秘密保護法は早く廃止しないといけません。安倍政権はひどすぎます。
(2014年12月刊。1296円+税)
春になりました。庭のあちこちに黄水仙が咲いています。チューリップもぐんぐん伸びて、花を咲かすのも間近となりました。
 日曜日は、午前中に雨も止んでくれましたので、午後遅くから球根の植え替えに取りかかりました。すると、まもなく、いつものジョウビタキがやってきて、すぐ近くの枝にとまって、じっと私の作業を見守っています。私も畑仕事を中断して、じっとジョウビタキを見つめます。愛するもの同士の見つめあいは、至福のひとときです。そのあと、私が掘り起こしたあとに地虫がいるようで、今日もついばんでいきました。といっても、私には、ミミズ以外の地虫は発見することができません。
 枝にとまっているジョウビタキを、じっと観察していると、何やら小さなさえずり音が聞こえてきます。いつもの叩く音とは違います。軽快な鳴き声です。
 夕方6時半まで外は明るく、植え替えに精を出し、終わって湯舟につかります。気分爽快な春の一日でした。

1941年。パリの尋ね人

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  パトリック・モディアノ 、 出版  作品社
 ノーベル文学賞を受賞したフランス人による本です。
 著者の父親はギリシャ系のユダヤ人ですが、ドイツ占領下のパリで、偽名をつかって闇ブローカーで生きていた謎多き人物でした。
 そして、この父親は息子(著者)や家族を迷惑視し、結局、捨ててしまったのです。母親は女優でしたが、旅に出ることも多く、子どもを放ったらかしにしようとしたのです。
 結局、著者と弟の二人は両親にかまってもらえず、友人宅に預けられたり、早々に寄宿学校に入れられてしまうのでした。このような不幸な親子関係の下で成長した著者は、孤独感、生のはかなさの意識の濃い作品を生み出していったのです。
 モディアノは、ドイツ軍占領下のユダヤ人弾圧という悲劇の責任の多くがフランス人側にあることを自覚し、これを小説の形で暴き出した。
 フランス人におけるゲシュタポ(ナチスの組織)といっても、ゲシュタポの組織で働いている怪しげなフランスが描かれた。4万人のフランス人がゲシュタポの下で働いていた。
戦後のフランスでは、復興のために必要だった国民の団結意識育成のため、フランス人はド・ゴールを先頭にしてレジスタンスで一致していたのだという神話が、神話と意識されながらも長く暗黙裡に受け入れられてきた。
フランス社会は、1970年代以降から、占領下におけるヴィシー政府の対独協力政策の解明に乗り出しており、ユダヤ人の絶滅収容所送りにフランス当局が積極的に参与した事実が明らかにされた。このことは、現在ではフランスの学校教育の現場でもはっきり教えられている。
 これって、日本の政府・文科省とはまるで違いますね。真実に向きあうことを自虐史観と決めつけ、真実に目を閉ざす教育を日本の学校当局は子どもたちに押しつけようとしています。とんでもないことです。
1941年12月31日付け「パリ・ソワール」という新聞に、15歳の少女、ドラ・ブリュデールを「尋ね人」として探しているという小さな案内広告が掲載された。ユダヤ人の少女である。
 著者は、このユダヤ人少女の行方を探しまわったのです。このドラ・ブリュデールは、ドランシー収容所に入れられ、1942月9月18日、アウシュヴィッツ向けの列車に乗せられた。父親と一緒だった。この1000人は9月20日、アウシュヴィッツ収容所に到着した。859人は直ちにガス室に送られた。1945年時点の生存者は21人だった。
 ドラの住んでいたパリの風景は、実は、今もほとんど当時のままです。これが、日本とはまったく違うところです。昔の景観を大切に残すのがフランス風です。日本では、ごく一部を除いて、みんな近代的に変えてしまいます。昔の景観を保存しようというのは、ごくごく一部でしかありません。
 このようにして、アウシュヴィッツに消えていった600万人の人々には、それぞれの人生があったことを想起することが出来るのは、本の力です。大切な本だと思いました。
「自虐史観」攻撃なんかに惑わされず、歴史としっかり向きあう勇気、そして、間違った歴史を克服する力を身につけたいものだと痛感します。
(2014年12月刊。1800円+税)
 アメリカ映画「アメリカン・スナイパー」をみてきました。イラクにおいてアメリカ軍が侵略軍でしかなかったことがよく分かる映画だと思いました。小さい子どもたちもアメリカ軍を敵とみなしているのです。
 イラクの人々を160人も殺した狙撃兵(スナイパー)は自らの心を深く傷つけてもいたのです。そして、同じように、この戦争の大義がどこにあるのか、多くのアメリカ兵が現地で疑問を持っていた様子がうかがえました。なにしろ、実際にやっていることは民衆を敵として兵器を向けた戦闘活動なのですから、疑問を感じるのも当然です。
 ベトナム侵略戦争のときも、最盛時50万人のアメリカ軍はベトナム民衆を敵としてたたかい、結局、惨敗してしまったのでした。
 やはり、武力だけで民衆を制圧、支配することはできないのです。
 前にみたデンマーク映画「アルマジロ」を思い出しました。出撃基地内に縮こまっている点がそっくりです。

窓から逃げた100歳老人

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ヨナス・ヨナソン 、 出版  西村書店
 スウェーデン発の奇想天外なストーリーです。
この100年間に世界で何が起きているのかをおさらいすることのできる痛快本でもあります。ありえない、こんなこと絶対にありえない、なんて思っていたらダメなんです。ふむふむ、なるほど、そう来たか。では、この次はどんな展開になるのだろうか・・・。
 その発想の奇抜さには、何度となく腰を抜かしそうになりました。400頁の本ですが、私にしては珍しく、3時間もかけて読みふけってしまいました。
 話は100歳の老人の脱走劇に始まるのですが、このストーリーは、老人の青年時代の回顧談というか、世界の超有名人と交わって活躍する話が盛り込まれているので、面白いのです。
 スペインのフランコ将軍、アメリカではロスアラモスの原爆製造会議に参加して、トルーマン副大統領と仲良しになる。中国に渡ると、毛沢東夫人の江青の生命を助ける。
 イランでは、秘密警察に捕まって処刑される寸前にまでなってしまう。しかし、結局、ウィンストン・チャーチル首相の危機を救って、本人も無事に脱出できる。
 次には、ソ連に渡って、ベリヤやスターリンと一緒に食事をする。しかし、ついには、強制収容所に送られてしまう。そこを何とか脱出して、金日成と金正日に面会する。まあ、よくも、こんなストーリーを考えついたものです。
 一応の史実を下敷きにしていますので、次の展開を知りたくなって、ついつい読みすすめてしまったのでした。
 映画はみていませんが、スェーデン初の喜劇作品として読むと、気持ちが軽くなります。
(2014年10月刊。1500円+税)

高卒でも大使になれた

カテゴリー:社会

著者  藤田 順三 、 出版  海竜社
 著者は、私たち団塊世代よりちょっとだけ下の世代になります。62歳でウガンダ大使になったのでした。それだけ聞いても何のことやら、という感じですが、その経歴を知って驚きます。なんと、著者は高卒、しかも都立商業高校の出身なのです。家柄がいいわけでもなく、人脈があって誰かに引き立てられたというのでもありません。そんな著者が外務省に入って、ついに大使にまでなったというのです。
この本を読んで、その人並み外れた努力には驚嘆するしかありません。
頑張っていれば、誰かがきっとみてくれている。頑張っていれば、自信もつく。頑張っていれば、運のほうが自然と近寄ってくる。
 人間の能力、個人差はあっても、その差は実にたいしたことない。いかに物事に熱中できるか、集中できるか、そこに違いが生まれてくる。
 あきらめないこと、これが人生には肝要。誰の人生にも、実は、人生を変えるその一瞬というのが一度だけでなく、何度も繰り返しある。問題は、その一瞬を取り逃さず、しっかりとつかみとり、上手に生かせるかどうか。そこに人生の分かれ道がある。
 著者は高卒として神戸銀行に入社しました。アポロ1号が月面に着陸し、大阪万博があり、三島由紀夫が割腹自殺したころのことです。
 著者は、NHKのラジオ講座を聞きはじめた。フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、中国語の5カ国語を同時に始めた。朝に録音して、帰宅後の夜に学習する。夜中の2時、3時まで・・・。すごーい、とても真似できません。
 英語は、シュリーマンにならって原書をまるごと暗記する方法をとった。『レ・ミゼラブル』対訳書150頁を丸暗記する。サイレント・トーキングという方法による。頭のなかに何人かのユニークな人物を登場させ、彼らに一定の課題を与え、自由討論させる。何ヶ月もかかった。通勤途上も、仕事中も、トイレの中でも、延々と・・・。さすがに150頁の小説を一冊丸暗記したことで、それまで感じたことのない大きな自信を獲得した。そりゃあ、そうでしょう。とてつもない勉強法です。すごい、すごい、すごすぎます。
 銀行は2年で退職、先は決まっていない。上司は、「よく決心した。偉い!」と言ってくれた。銀行を退職した翌日から、朝9時には机に向かい、まずは英語の学習として、『レ・ミゼラブル』の暗記の復習、それに訳読と英作文、昼からフランス語、ドイツ語の学習、そして晩にはロシア語、スペイン語というように、がむしゃらに語学の学習に没頭した。目標は一切なかった。7人家族の狭い部屋で、自分の部屋もないなかで・・・。
 教会に行き、牧師と話して英会話を無料で勉強した。また、日ソ学院に行き、夏期3ヵ月の集中講座を受けた。
 そして、就職活動をはじめるのですが、大変です。銀行を2年で辞めた高卒というのでは、思うようになりません。
 そのとき、渉外関係の法律事務所に英語ができるということで入れられたのです。月給4万5千円。銀行員時代よりもいい。ところが、働きぶりが認められ、半年もしないうちに手取り12万円となった。これまたすごいです。
そして、外務省の語学研修員試験が学歴不問ということを知り、受験するのです。昭和49年のことでした。私が弁護士になった年です。そして、ついに合格します。
 著者は、小学時代から、できが悪いほうだったと言います。兄や妹の使った教科書のお古を使わされたら、誰だってやる気がなくなりますよね。それです。
 外務省に入って、3ヵ月の研修を受ける。デンマーク語の学習書を1ヵ月でまるまる暗記した。これもまた、すごいことですよね・・・。
 外務省に入ってからも苦労の連続です。ここでは、その紹介は割愛しますが、本当に外務省というところも大変な職場のようです。
 一読に価する本です。私と同じ事務所の古賀浩三氏のすすめで読んでみました。古賀さん、ありがとうございました。
(2014年12月刊。1500円+税)

アメリカの卑劣な戦争(上)

カテゴリー:アメリカ

著者  ジェレミー・スケイヒル 、 出版  柏書房
 アメリカは、いま無人機による攻撃、そして特殊作戦部隊を重用しているようです。いずれもアメリカ兵の損耗が少なくてすみ、議会の承認がいらない作戦です。
 しかし、果たして、それが現地でどれだけの効果を上げているのか。逆効果、反作用も想像以上に大きいのではないか・・・。
 アメリカ政府に雇われた者も、アメリカ政府のために働く者も、暗殺はもちろん、それを企てることも禁ずる。これは、カーターが発令した大統領令。しかし、実は、何が暗殺にあたるのかが定義されていなかった。
 国をもたない敵に対する国境なき世界戦争が、党派をこえて大々的に承認されたことに勢いづき、ブッシュ政権は世界が戦場であると宣言した。
 CIAは、初めのうちは秘密収容所をもっていなかったので、尋問するために容疑者をエジプト、モロッコ、ヨルダンなどに送り込んだ。外国の情報部に尋問を任せることで、アメリカ議会から調査される面倒もなく、好き勝手に尋問できる便宜がある。
 1979年のイラン革命のあと、首都テヘランのアメリカ大使人質事件のとき、53人のアメリカ人を救出する作戦が実施されたが、大失敗に終わった。その屈辱から、統合特殊作戦コマンドが生まれた。統合特殊作戦コマンドは、国家安全機構のなかで、もっとも厳重に守られている極秘の軍隊である。
 当初、デルタ・フォース、SEAL、第75レンジャー連隊など、さまざまな精鋭部隊から、その力を引き出そうとしていたから、当然、統合特殊作戦コマンド内には確執が広がっていた。各精鋭部隊が、みな、自分たちの部隊の優越性を信じていたからである。
 1993年夏、アフリカ、ソマリアのモガディッシュで、統合特殊作戦のコマンドのブラックホーク・ヘリコプター2機が撃墜され、ソマリア民兵とのあいだで激しい戦闘となり、18人のアメリカ兵が死んだ。
 2002年のイエメンにおける小型無人プレデターによる攻撃は、対テロ戦争発生の瞬間だった。
 アメリカ軍は、イラクの旧体制の指導者たちを選び出し、彼らがいなくなれば、イラクの暴動、戦闘は終わると考えていた。しかし、それは、とんでもない間違いだということは、まもなく分かった。
 統合特殊作戦コマンドは、敵ネットワークの行動パターンを解析し、反抗勢力およびそれと疑わしき人物の監視プログラムの開発をはじめた。顔認識システムや体温識別システムなど、最先端の生体認識技術や化学を利用し、遠距離から個人を識別した。
 さらに、生体反応性追跡用添加物を標的の人物の身体にこっそりつけてマーキングするという手法も開発した。付着した物が信号を発し、統合特殊作戦コマンドは、それを受信して離れた場所から標的を24時間、365日監視する。
 捕虜に「物」(タガント)を付けたうえで釈放し、その信号の発信源をたどれば、テロ組織もしくは反抗グループにたどり着くことも不可能ではない。
 イラクで激化する反抗活動のためにパキスタンに派遣する人材が不足した結果、ブッシュ政権はパキスタンの戦争を「下請け」に出すようになった。そこでブラックウォーター社の出番となった。ブラックウォーター社のかかえるコントライターたちの多くは、アメリカ軍特殊部隊の元隊員であり、とくに秘密作戦に従事する部門に属する者たちだった。
 2009年1月に大統領に就任した数週間のうちに、オバマ大統領はブッシュ時だの強硬なテロ対策の多くをそのまま継続するという明確なメッセージを送った。
 尋問の責任を追及していたオバマは、大統領になってからは、それを覆した。オバマは、対テロ対策については前任者の政策のほとんどを継承し、最終的には、ほぼすべての大統領令を改定することなく承認した。そして、オバマは毎週のようにパキスタンを空爆した。
 オバマは、秘密作戦プログラムを全面的に支持し、無人航空機による作戦活動がさらに増えていった。就任後まもなく、オバマ大統領はCIA長官にビンラディンを早く捕まえるように圧力をかけた。
 アメリカによる汚い作戦の一端を暴いた貴重な本です。
(2014年10月刊。2500円+税)

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