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アウシュヴィッツを志願した男

カテゴリー:ヨーロッパ

                              (霧山昴)
著者  小林 公二 、 出版  講談社
 アウシュヴィッツ収容所に自らすすんで入り、そこを脱走したポーランド軍大尉がいたなんて、信じられません。そんなこと、まったく知りませんでした。
 そして、収容所内で抵抗組織をつくりあげ、脱走に成功してからもナチス・ドイツ軍と戦ったのです。ところが、戦争後、ポーランドがソ連の支配下にあるなかで、今度はポーランド政府から反逆罪で死刑を宣告され、銃殺されて歴史から抹殺されたのでした。幸い、今は名誉を回復しているのですが、その子どもたちは苦難の戦後を歩かされたのです。いやはや、本当に歴史の現実は苛酷です。
 アウシュヴィッツ収容所に1940年9月21日、自ら志願して潜入し、あげく948日後の1943年4月27日、脱走に成功したポーランド軍大尉がいた。ヴィトルト・ピレツキという生粋のポーランド人である。3年近くもアウシュヴッツ収容所で生活していたピレツキは、その収容所内の様子を生々しく語っている。
 収容所には、家族からの送金も認められていて、それは月30マルクだった。あとでは40マルク。収容所内には売店があり、タバコ、サッカリン、マスタード、ピクルスなども買うことができた。家族からの小包は衣料品ははじめから認められていたが、食料小包も1942年のクリスマス以後は解禁されていた。そうだったんですね・・・。
 はじめ、アウシュヴィッツ収容所はポーランド軍捕虜の収容所だった。そこで、収容所内の実態を探るために、誰かが潜り込む必要があるということになり、マッチ棒を使って、くじ引きで人選が決まった。それを引き当てたのがピレツキだった。
 ナチスは、知識人を毛嫌いした。だから、収容者が教師だとか弁護士だと名乗ったら、死へ直行させられた。カンボジアでも、そうでしたね・・・。
 手先の器用なピレツキは、木工職人と自称した。1940年9月当時は、ユダヤ人はアウシュヴィッツに送り込まれていなかった。
 収容者をふくめて収容所を実際的に管理していたのは、実は収容者自身だった、常時10万人以上の収容者を管理・行政部門をふくめて8000人のSS(ナチス・ドイツ)でコントロールするのは不可能だった。もちろん、管理体制のピラミッドの上部にSSが君臨していた。
 ピレツキがアウシュヴィッツ収容所に潜入した目的は四つ。
第一に、収容所内に地下組織をつくること。
 第二に、収容所内の情報をワルシャワにある抵抗勢力(ZWZ)司令部に届けること。
 第三に、収容所内の不足物資を外から調達すること。
 第四に、ロンドンのポーランド亡命政府を通じてイギリス政府を動かし、アウシュヴィッツを解放すること。
 強制収容所で生き残ろうと思えば、いい人間なら友人になること。どんな親切も受けとり、そして、それを次の機会に返すこと。利己主義では、命をつなぐことができない。利己主義にこり固まった収容者は、間違いなく死んだ。相互の友情の絆ができれば、互いに助けあい、生きる確立は格段に高まる。
収容所の家族から送られてくる小包は、1人週5キロまで1個と決められていた。大きいものは没収され、250キログラムまでだと、個数制限がなかった。食料に関しては月1個だった。昼夜交代24時間体制で「小包班」の収容者が分別作業にあたった。死亡した収容者あての小包は生きている仲間へと名札をつけ換えられて渡された。
 ピレツキの地下組織は脱走を禁じていた。脱走者が出たら、10人が連帯責任で殺されたから。コルベ神父の死も、脱走者の身代わりだった。
 収容所の所長であるヘスは家庭では子煩悩だった。殺して奪った子どもの着ていた上等な服を我が家に持って帰り、子どもたちを喜ばせた。
 こうなると、人間の残酷な心理の奥深さに、ぞぞっとしてきますよね・・・。
 アウシュヴィッツ収容所から802人が脱走し、300人が成功した。なかには、所長ヘスの車を奪って、SSの制服を着用した四人組が成功したというのもある。1942年6月29日のこと。
 ピレツキの場合には1943年4月に脱走に成功した。小包部門から、パン工房に移ってからの脱走だった。
 ピレツキはナチス・ドイツ軍に対するワルシャワ蜂起に参加します。敗北した蜂起ですが、生き延びることができました。そして、ナチス、ドイツが敗北したあと、ソ連軍の占領下のポーランドで、今度は国家叛逆罪で逮捕され、拷問にかけられ、裁判で死刑を宣告されるのです。死刑の執行は、1948年5月25日夜9時30分。
 ピレツキの名誉が回復されたのは、1990年10月1日のこと。なんと40年以上もたっていました。まだ、ピレツキの奥さんが存命していたのが救いです。二人の子どもは、今も生きているとのことです。
 知らないことって、本当に多いですよね。それにしても、ポーランドって、大変な歴史を背負っているのですね・・・。
(2015年5月刊。1700円+税)

戦艦大和講義

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

                                (霧山昴)
著者  一ノ瀬 俊也 、 出版  人文書院
 戦艦大和は、世界一の威力ある主砲を積んで、1941年に就役し、1945年4月、沖縄へ来襲したアメリカに渡航して沈没された。このとき、乗組員2700人が艦とともに死亡した。
 日本人は、「大和」の物語を通じて、「あの戦争」の記憶を自分の都合にあうようにつくり直してきた。
 「宇宙戦艦ヤマト」は、日本人が地球を救う話だ。1970年代につくられたのは、高度成長を終えた日本人の優越感と劣等感が背景にある。完膚なきまでに負けた戦争を、空想の世界でやり直すことによって、心の傷の回復を試みたのだ。
 私も、幼かった息子と一緒に、この「宇宙戦艦ヤマト」に夢中になったことがあります(もちろん、息子ほどではありませんでしたが・・・)。
なぜ、「大和」は沖縄へ出撃したのか?
 沖縄にたどり着く前に、米空母機に撃沈される可能性が高いことは、その前にレイテ沖開戦で沈められた「武蔵」で実証ずみだった。だから、「大和」への出撃命令は、軍事的合理性を欠いていた。
 海軍にとって、「大和」などの戦力を沖縄で使い切ることによって、「海軍には、もう戦力がないのだから、戦争は止めるべきだ」という発言権が得られることになるという考えがあったのではないか・・・。これって、恐ろしい官僚的発想です。人命軽視そのものです。
 「大和」は、4月7日、九州沖で米機動部隊の放った攻撃機300機から攻撃され、撃沈されてしまった。3056人が死に、276人が生還した。
 「大和」は、最後まで日本国民に名前を公表されることがなかった。
 「大和」の艦長も乗組員も、一億国民が後に続いて死ぬと思ったからこそ、先に死地へ向かったのだ。そのとき、内地の日本人の命や安逸な生活を守ることは念頭になかった。すなわち、死の平等性が特攻の推進力となっていた。これを現代日本人は、すっかり忘れ去っている。
 その余の日本人は、特攻せず、敵国アメリカに降伏して生きのびた。広島・長崎に落とされた原子爆弾が、それまでの「1億総特攻」という強がりを止め、生きのびるための格好の口実となった。
 「大和」の生存者には、生き残ってしまったことへの罪悪感をかかえながら、戦後を生きていった。
 「大和」とは、日本にとって、そして日本人にとって何だったのか、戦後それはどう変容したのか、面白い視点で考え直してみた画期的な本です。
(2014年10月刊。860円+税)

タコの才能

カテゴリー:生物

                               (霧山昴)
著者  キャサリン・ハーモン・カレッジ 、 出版  太田出版
 オクト・パスは受験生必勝グッズです。
 タコは8本の足に3つの心臓をもち、変幻自在に皮膚の色を変えることができる。血液は青く、賢い生物。
 タコは、一生のほとんどをひとりぼっちで過ごす。タコは繁殖のときのほかは、仲間と付き合おうとはしない。タコは単独行動で、引っ込み思案のうえ、夜行性である。
 タコは、タラやイカとちがって群れない。巣穴にひとりで暮らし、ひたすら人目を忍んで自分の居場所を確保する。タコには、縄張り意識はあまりない。
 タコのスミには、チロシナーゼという成分が含まれている。敵の目をひりひりさせ、嗅覚や味覚を混乱させて追っ手をまくためのもの。
 タコはアメリカの食卓では、めったに見かけないにしても、世界じゅうでは何百万人もの人々が口にしている。アジアや地中海では、何千年もの前からタコは定番料理になっている。
 タコは、ほぼ全身が筋肉と言ってよい。だから、タコを捕まえたら、石で30~40買いたたくべきだとも言われる。タコは冷凍すると、食感が良くなる。冷凍されると、いちだんと身がやわらかくなる。
タコを解剖すると、青い血が出る。タコの血は、酸素を含んでいるときには青く、酸素が欠乏してくると、だんだん色味が薄れて透き通ってくる。
 タコは、横歩きするカニや逃げようのない二枚目が好物だ。
 太平洋のタコは、1時間のうちに177回も色や模様を変えることができる。
 タコには、3億個の神経細胞がある。人間は1000億個だ。
 タコは、おもちゃと遊ぶのを好む。
 タコって、賢いのですね。バカには決して出来ません。それにしてもタコ焼きって久しく食べていませんが、おいしいですよね。タコの見直しを迫られる本です。
(2014年3月刊。2300円+税)

『サウンド・オブ・ミュージック』の秘密

カテゴリー:ヨーロッパ

                               (霧山昴)
著者  瀬川 裕司 、 出版  平凡社新書
 映画『サウンド・オブ・ミュージック』をもう一度ぜひみてみたいと思わせる本です。
 この映画の出だしは素晴らしいですよね。森のあいだに平らな草原が開けている風景。そして木々に囲まれた平地に、小さな人影が見える。そして、ジュリー・アンドリュースが登場し、両手をあげて歌いはじめる。
 この本によると、ヘリコプターからカメラをまわして映像をとったそうですが、十数回もとり直しがあり、そのたびにプロペラの強風を受けてジェリーは、地面に倒れていたとのこと。
 たしかに、それだけの圧倒的な迫力がある冒頭シーンです。
 このとき、ジュリーは、白樺のなかで歌をうたう。ところが、この白樺は、映画のために一時的に植えられたものだった。歌詞にあわせるために・・・。
 小川が見え、ジュリーが小川に沿った走る場面がある。この小川も、映画制作スタッフが牧草地を掘り、シートを敷いて水を入れたもの。水の表面のさざ波も、人工的なもの。
 いやはや、映画人は細かいところまで苦労しているのですね・・・。
映画では少女のように見えるジュリーは、実年齢は28歳。モデルになった女性は21歳だった。
 ジュリーがギターをかかえて、丘の上にある広い草原で子どもたちと一緒に歌うシーンがある。実際の場所は、急斜面のなかの、そこだけが平らな場所になっているところに、カメラを低い位置にすえてとっている。まさしく映画の魔術だ。
 オーストラリア人は、映画『サウンド・オブ・ミュージック』を嫌っているそうです。というのは、映画のなかでうたわれる「エーデルワイス」という曲が、本当のオーストラリア愛唱歌ではないから。
 ジュリーは、実母が夫以外の男性との不倫によって生んだ娘だった。母が離婚した相手の義父からジュリーは性的虐待を受けていた。このことは本人が告白している。
 それでも、ジュリーの、圧倒的な歌唱力、演技力、そしてなにより愛らしさに、心底から惹かれてしまいます。
 トラップ一家は、実際には、鉄道でイタリアに行き、ロンドンからアメリカに行った。つまり、山ごえなどしていない。それでも、トラップ・ファミリーとしてアメリカでコンサート活動をしたのは事実でした。
 この映画の魅力を解説し、ロケ地に実際に行ってみるなど、映画の登場人物の紹介など、ワクワクさせられます。この本を読んで映画をみると、面白さが倍増します。
(2014年12月刊。780円+税)

腸が寿命を決める

カテゴリー:人間

                               (霧山昴)
著者  澤田 幸男・神矢 丈児 、 出版  集英社新書
 人間が生きていくうえで必要な栄養素と水分を体内に取り込む(吸収する)ことができるのは、腸だけ(胃はビタミンB1、鉄、カルシウムは吸収する)。
 人間が病気になるのを防ぐ、からだの「免疫システム」の80%は、腸が担っている。
 口の中でのそしゃくが不十分だと、口から取り入れた食べ物は半分ほどしか消化されずに体外へ排出されてしまうことになる。そしゃくはきちんとしないと、食べ物にふくまれた栄養素の消化・分解の下準備ができない。
 胃に入った食べ物は、胃壁から分泌される強力な胃酸で殺菌される。
 十二指腸がないと、人間は生きていくことができない。
 大腸は、栄養素を吸収することはできるが、消化できない。
 大腸には、消化のための酸素を出す機能はない。大腸内には、無数の外来細菌がすみついている。人間ひとりにつき、100種類を超え、合計数は100兆個以上になる。
 善玉菌(乳酸菌類)は、人間の身体には存在しない消化酵素をもっている。
 酵素は、小腸で消化できなかった残りの栄養素、とくに食物繊維やオリゴ糖などの糖質類を分解し、大切なエネルギーを作り出してくれる。
 健康な人の場合、便の80%は水分である。食べ物の残りカスは、3分の1ほどで、残る3分の2は、さまざまな現象によってはがれ落ちた腸内細菌だった。
 腸は、もっともっと大切にされるべきだという点は、私もまったく同感です。
(2015年4月刊。740円+税)

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