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遊廓のストライキ

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  山家 悠平   出版 共和国
 
戦前、女性を縛りつけていた遊廓でストライキが頻発していただなんて、驚きます。
第一の波(ピーク)は、1926年5月から10月までの半年間。このとき、広島、大阪、下関、品川などで娼妓たちの集団逃走と自由廃業要求が続いた。第二のピークは、1931年2月から2年間も続いた。全国9ケ所の遊廓でストライキが起こったが、うち半数が九州だった。佐賀武雄、小倉旭町、門司馬場、佐世保勝富、大牟田新地町。
1930年(昭和5年)、遊廓が全国に542、娼妓が5万2千人、芸妓8万人が働いていた。当時、日本には公娼制度があった。公娼制度とは、政府公認の管理売春制度である。
女性たちは、所轄の警察署に娼妓として登録し、鑑札を受けることで売春営業が許可された。鑑札料として、「賦金」と呼ばれる特別の税金を月々納める義務を負っていた。
遊廓の女性は、奉公契約をむすんだ奉公人であり、多額の前渡金に拘束されていた。奉公契約の形はとっていても、鞍替え(実質的な転売)の権利は抱主にあり、実際には人身売買だった。
娼妓たちは、貸座敷免許地内に居住しなくてはならず、警察署の許可がなければ、免許地の外に出ることも出来なかった。
女性たちには強制的な性病検査を義務づけられた。この目的は女性の保健・治療ではなく、兵士の保護にあった。
女性が前借金を返すためには、1日平均して3人の客をとる、年間1000人近い客をとらなければいけない。これが6年のあいだ続く。多いときには一晩で10人以上の客を相手にすることも珍しくはなかった。
6年で遊廓のなかの女性はだいたい入れ替わっていた。
娼妓の9割が10代後半から20代の女性で、30代後半になると遊廓を離れていた。
戦前、全国各地にあった遊廓の実情を調べた本です。大正期の労働運動の高揚期にあわせて遊廓でもストライキなどがあっていたとはまったく知らず、呆然としてしまいました。
(2015年5月刊)

豊臣大坂城

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  笠谷 和比古・黒田 慶一 、 出版  新潮選書
 大坂城と豊臣秀吉・秀頼について、最新の学説が展開されている面白い本です。
 城内の対面所は、表御殿のなかで最大かつ最高級の殿舎だった。なぜなら、対面は近世封建制度上、大名たちの地位と格式を現出させる、もっとも重要な儀式であったから。
 豊臣大坂城は、増大な惣構え掘を有していた。これに対して徳川大坂城は外郭の防御施設をもたない裸城同然の城である。基本的に、外郭の防御施設をまったくもたないところに、徳川大坂城の最大の特徴がある。
 朝鮮の役の当時、秀吉軍の火縄銃の精確さに恐れをなした朝鮮正規軍は逃散した。しかし、火砲については、明(中国)・朝鮮側に一日の長があった。朝鮮の火砲は基本的に大型だった。ただし、これは主として艦載砲だった。
 関ヶ原の戦いなどで用いられた大砲は、朝鮮の役のときの歯獲品だろう。
 日本軍の大砲は「石火矢」の名前の通り、大石を砲弾として、火薬の爆発で飛ばす「射石砲」だった。
 関ヶ原合戦の果実をもっとも享受したのは、実は徳川ではなく、家康に同盟して東軍として戦った豊臣系武将だった。石田三成(19万石)、宇喜多秀家(57万石)、小西行長(20万石)、長宗我部盛親(22万石)ら88の大名が改易され、その領地416万石が没収された。領地削減された大名分をあわせると、632万石にのぼる。これは全国の総石高1800万石の3分の1をこえる。そして、この没収高の80%、520万石が豊臣系大名に加増された。
 徳川と家康は日本全土の3分の1の領地しか有しておらず、豊臣系大名が3分の1を占めるなど、3分の2は外様大名であるので、その支配は容易ではなかった。関ヶ原合戦は、むしろ豊臣政権の内部分裂を本質としていた。
 関ヶ原合戦の勝利への貢献度にしたがって、恩賞として領地が配分されたのであって、これは家康の深謀遠慮でも何でもない。そして、全国規模での領地再分配に際して領地宛行の判物・朱印状の類は一切発給されていない。
 これって、明らかにおかしい、いわば異常事態ですよね・・・。
 関ヶ原合戦における家康方東軍の勝利は、豊臣体制の解体をもたらしたのではなく、合戦後における家康の立場は、依然として豊臣公儀体制の下における大老としての地位を抜け出るものではなかった。すなわち、家康は、幼君秀頼の補佐者、政務代行者にとどまっていた。
 西国は、そのほとんどが豊臣系国持大名の領地によって占められている。
 西国支配は、もっぱら豊臣系譜の大名によって構成される特別領域として扱われた。
 この地域の支配に関する第一義的責任は大坂城にある秀頼と豊臣家に委ねられ、家康と徳川幕府は、それを通じて間接的にこの領地に対する支配を及ぼそうと構想していた。
秀頼は、秀吉の嫡子であること、それによって秀頼が成人した暁には、武士領主の上に君臨して政権を主宰するべき存在であると考えられていた。
 当時の人々は、秀頼がいずれ関白に任官するであろうということを、当然のこととして受けとめていた。秀吉が構築した豊臣公儀体制は関ヶ原合戦のあとも、解消されることなく持続していた。したがって、秀頼が一大名に転落したという理解は誤りなのである。秀頼は、いずれ成人したら公儀の主催者の地位につくであろうことも、人々の通念として遍在していた。
 家康にとって、関ヶ原合戦の勝利は自前の徳川軍事力によってではなく、家康に同盟した豊臣系武将たちの軍事力に依存してのことだった。それもあって、関ヶ原合戦も、「太閣様御置目の如く」と表現されたように、秀吉の構築した豊臣公儀体制は持続していた。
 家康は、この豊臣公儀体制を解体したり、乗っとたりはせず、そこから離脱した。
 家康は、その体制から抜け出して征夷大将軍に任官することによって、自らを頂点とする独自の政治体制、すなわち徳川公儀体制を構築したのだった。
 こうして豊臣系譜の諸大名は、豊臣秀頼に対する忠誠を維持したままで、かつ徳川家康の指揮・命令に服することになった。
 朝廷から年賀慶賀の勅使は慶長8年以後も毎年、大阪の秀頼の下に派遣されていた。
 豊臣の家臣は、徳川家を慕って臣従しているわけではない。家康がいなくなったあと、秀忠につき従わなければならないという義理はどこにもないのである。
 慶長14年を境として、家康はこの併存体制から抜け出そうとした。「国家安康」の字は、意図的なものであった。それを口実として家康は動き出した。
 大変面白く、知的刺激にみちみちた本でした。
(2015年4月刊。1400円+税)

独裁者は30日で生まれた

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 H・Aターナー・ジュニア   出版 白水社
 
  ヒトラーが首相になったのは、ヒンデンブルク大統領ほかとの対人関係のなかで生まれたものだということを明らかにした面白い本です。
  ヒトラーは、本人以外は誰も首相になれるとは思っていなかったのに、同じく落ち目だったパーペンと手を組んで、逆転して首相になったのでした。本当に悪運の強い男です。そして、それによって全世界にとんでもない災いをもたらすのでした。
  ヒトラーを嫌っていて、渋々、首相に任命したヒンデンブルク大統領について、次のように評しています。
  ヒンデンブルクには、強靭な独立不羈の精神が欠如しており、自分から滅多なことでは主導権を握らなかった。その全生涯を通じて、ヒンデンブルグは周囲の助言に大いに依存し、その特徴は年とともに一層顕著になった。無感動に見えるその外見とは裏腹に、ヒンデンブルクはストレスがかかると感情の爆発に負け、口ごもり、とめどもなく涙を流した。ヒンデンブルクは、軍事問題以外には知的関心をまったくもたず、政治をふくめて極度に単純化された見解以上のものをめったに持っていなかった。
  ヒトラーのナチスは、通常の意味での政党ではなかった。それは、ヒトラーが繰り返し主張したように、党員に党への全面的かつ無条件の献身を要求する運動だった。ヒトラーはビヤホール一揆が失敗して1年以上も刑務所生活を余儀なくされたが、その後は、武力で共和国を制圧するという希望を捨て、合法的に選挙によって権力を奪取しようとした。
  ドイツにおける大恐慌が数百万人の不安と絶望を引き起こしたとき、ヒトラーは見境のない扇動と計算し尽した嘘八百を並べ立てて、多くの支援者を獲得した。まるでアベですね。
  熟練の写真家に自分の実物以上の、ひたすら自らの大義に殉する人物として撮影してもらうことによって、深遠な思想を伝え、無私の精神によって、困窮した数百万のドイツ人のために尽力するというイメージを作りあげた。
  ヒトラーは、不安感と偏見を巧みに利用した長広舌の情熱的な演説によって、影響を受けやすい聴衆を大衆ヒステリーに近い状態に投げ込み、言葉の奔流で圧倒し、翻弄した。
  ヒンデンブルクは、ヒトラーを非公式には「伍長」と呼び、深い不信感を抱いていた。1931年11月の国会選挙は、ヒトラーとナチスにとって痛撃となった。多くの国民が、とどまることを知らないナチ突撃隊の暴力行為に仰天した。このとき投票所に向かったドイツ人のうちの3分の2以上がナチズムを拒否した。
ヒトラーの狙いは、議会主義にもとづく内閣の首相ではなく、大統領府内閣の首相となること。他党との連合に依存する必要がなく、大統領緊急令によって統治できるもの。
  ナチ突撃隊は40万人。ベルサイユ条約によって制限された小さなドイツ国防軍(10万人)を4対1の割合で上回った。
  1932年暮れ、ナチス党のナンバー2(シュライヒャー)がヒトラーに反対した。このとき、ヒトラーはパニック寸前の状態にあった。
  1933年1月、ヒトラーは43歳だった。ヒトラーは自墜落で、半ボヘミアン的な生活を送っていた。ヒトラーは不況に苦しめられていた多くのドイツ人が夢想すらできないような贅沢三昧の生活を過ごしていた。
  ヒトラーは権力の共有ができない、壮大な使命感に燃えた狂言者だった。
  1933年1月、ヒトラーは小さなリッペ州で大博打に出た。ヒトラーはドイツの苦しみの犯人は、ユダヤ人とマルクス主義者に支配される共産主義的な「体制」にあると非難した。そして、人種的に純血で誇り高い強力なナチ化されたドイツを建設すると公約した。
  ヒトラーは40万人いる突撃隊内部の不満の増大に直面した。党内の士気喪失と対決しなければならなかった。そして、ヒトラーとナチスは、リッペ州で4割の得票を得て、21議席のうち9議席を占めることに成功した。
  1933年1月、ナチ陣営は、まさしく危機に瀕していた。このころ当時のドイツ首相・シュライヒャーは、ヒトラーを飼い慣らせるという幻想を抱いていた。ナチ党が慎重かつ理性的に行動するという幻想だ。しかし、ヒトラーは、尋常な政治家ではない。そして、シュライヒャーはヒトラーが政治的に孤立していると考えていた。
  1933年1月22日、警官隊が共産党本部を襲撃した。ナチスは、法と秩序を維持する警察権力と協力して共産主義者に対抗する、社会的に信用できる党という評判を獲得した。これは、ドイツ左翼への痛撃となった。警察はナチスと暗黙の協定を結んだ。この協定によって、警察は、この数年、首都その他のドイツの都市の街頭で傷害致死事件を引き起こしてきた凶悪犯の保護者となった。
1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーをドイツ首相に任命した。いかなる客観的な基準から見ても、偽誓行為であったが、ナチ党指導者・ヒトラーは、長年にわたって粉砕すると誓ってきた共和国の憲法と法律を守り、維持すると宣誓した。これはまるで、アベ首相が明らかに憲法に違反する安全法制法を憲法に違反しないと国会で答弁したのと同じことです。つまり、ヒトラーもアベも二人とも国民をだます点で共通しています。
  民主主義の不倶戴天の敵が首相になったにもかかわらず、共和国の擁護者たちは、ナチ党指導者(ヒトラー)が首相になったことに抵抗したり、示威行動を行ったりしなかった。
  ナチスが暴力に訴えることは前から予想していたが、政治的暴力がこの社会の常態となっていたので、彼らは油断した。多くの政治評論家たちは、内閣においてナチス3人に対して保守派の大臣が数のうえで勝っていることに安堵した。甘かったのです。
  一般のドイツ人がヒトラーの首相任命に対して示した当初の反応は、現実に生起したことのとてつもない重大性を考えてみれば、驚くほどに無関心だった。このころ、次から次への首相交代は珍しいことではなかったので、一般の多くのドイツ人は興味を失っていた。映画館で流されるニュース映画でも、新内閣の発足は6つの出来事の最後だった。
  首相に任命されるほんの1ヶ月前、ヒトラーは終わったと思われていた。ヒトラーの党は最後の選挙で大きな後退を余儀なくされ、3人に2人がヒトラーの党を拒否した。
  そして、経済回復の兆しが、不況以来、ヒトラーが巧みに利用してきた問題を奪おうとした。ところが、それから30日後、ヒトラーを繰り返し非難してきたヒンデンブルク大統領が、正式にヒトラーを首相に任命したのである。ヒトラーは、万事休したと思われた、まさにそのときに自分が救済されたこと自ら驚いた。
  1933年1月30日は、ヒトラーによる権力の掌握だったという見解は見せかけにすぎない。実際には、ヒトラーは権力を掌握したのではなかった。それは当時のドイツ運命を左右した人間によってヒトラーに手渡されたのだ。
  ヒトラーは2月1日、議会を解散した。2月末の国会議事堂放火事件のあと、内閣の権限を大幅に拡大した。それでも、3月の選挙でナチスは過半数はとれなかった。44%の得票率だった。
3月23日、ヒトラーは共産党の国会議員を追放し、脅迫と虚偽によって全権委任法に必要な3分の2の議席を国会に確保した。
  このようにヒトラーは1933年1月、選挙で選ばれて首相になったのではない。ヒンデンブルク大統領が首相その他の大臣の任命権を有していた。
  1933年3月の全権委任法によって、ドイツ・ワイマール共和国憲法は失効した。
  この全権委任法は、市民の基本権を停止するものであり、社会民主党や共産党の国会議員を強制的に排除して、暴力的に成立したものである。
  いいかげんな答弁を繰り返し、自席から品のない汚ない野次を飛ばすアベ首相の姿をテレビで見るたびに、情けないやら、腹だたしいやら、本当に身もだえしてしまいます。
  それにしても、マスコミのひどさはなんとかなりませんか。アベ様のNHKであってよいはずがありません。日本国憲法の持つ力を今こそ生かしたいと思います。
(2015年5月刊。2700円+税)
 シルバーウィークは、ずっと仕事をしていました。人が動くときには、じっとしているのが私の若いころからの習性です。
 たまった書面をやりあげ、排戦中の小説を書き足し、庭の手入れをしてチューリップを植え付けました。
 そして、最終日の23日は北九州まで出かけました。安保法制法を廃止させようという市民集会に参加したのです。
 北九州市役所前の勝山公園には大勢の市民が参加していました。年配の参加者がほとんどでしたが、前の舞台で活躍していたのは若者たちです。私も、若者から元気をもらいました。
 団塊世代の私たちだって、20歳前後は、毎日のように集会やデモ行進をしていましたが、あのころはリーダーに率いられた大衆の一人でしかありませんでした。今日の若者は、みな自分の言葉で語っているところが素晴らしいと思います。
 私は大学生のころ、何百人とか何千人という大勢の前で発言したことはありませんし、考えたこともありません。アジテーターは、いつも決まっていました。そして、私の知る限り、そのアジテーターは、今、ほとんど沈黙してしまっています。残念なことです。
 やはり、みんなで、少しずつでも、自分の言葉で語るのが大切なんだと思います。
 それにしてもアベ政権の強引な安保法制の成立は許せません。憲法違反の法律は、誰がなんと言っても無効です。その無効を国会でも早く表明させたいものです。

オキノタユウの島で

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者  長谷川 博 、 出版  偕成社
 アホウドリという名前は、人間がいかに無知で馬鹿な存在であるかを意味しています。
 実際の鳥は、賢く、優雅です。ですから、著者は、昔のようにオキノタユウと呼ぶことを提唱しています。これには私もまったく同感です。
 著者は私とまったく同じ年に生まれ、長く20年以上も無人島に渡って、一人で1ヵ月に及ぶ生活をしながらオキノタユウの繁殖を手助けし、観察を続けてきました。
 その苦労には、心より敬意をささげます。すごいです。
 オキノタユウは、長く一夫多妻で連れ添う。片方が亡くなると、しばらくして再婚はする。
 オキノタユウは、荒れくるう海をものともせず、悠然と飛翔する。きっと、荒れる海が好きなのだ。
 火山島の鳥島には、沢など淡水の流れはない。雨水をためて生活用水を確保する。雨水を飲料水にはしない。生息しているクマネズミのふんが貯水槽に入り込んでいるかもしれないから。
 着陸の不得手なオキノタユウは、けっして無理に着陸することなく、何回も慎重に進入を試みて、安全を確信したときに初めて着陸する。
 オキノタユウを近づいて観察するときには、なるべく低い姿勢をとり、すこしずつ、ゆっくりとコロニーの縁に近づく。そこにすわってじっとしていると、鳥たちは次第にこちらを気にしなくなる。
 オキノタユウのコロニーには病気を媒介するダニやツツガムシなどが生息している。そこで、コロニーの中を歩いたあとは、全身を石けんで洗い、着換えをするほうが安全だ。
 はじめのうち、島には、オキノタユウを招き寄せるため、デコイや音声装置を設置していた。しかし、2006年5月に撤去し、今はない。
今や成鳥と若鳥の数は200羽をこえ、ひなは80羽いる。長年の苦労がついに報われたのです。大きな心からの拍手を送りたいと思います。
(2015年5月刊。1800円+税)
シルバーウィーク、久しぶりに近くの小山にのぼりました。ところが、ちょっと前に直撃した台風のために至るところ倒木だらけで、いつものコースがのぼれず、危く道を間違えそうになりました。といっても間違えたからといって遭難するような状況ではありません。汗びっしょりになって頂上にたどり着きました。
秋の終わりを告げるツクツク法師の声を聞きながら、山頂でおにぎりを美味しくいただきます。山では梅干しおにぎりが最高です。360度のパノラマ光景で下界を見おろして英気を養います。黄金色のススキの穂が風に揺れています。山頂のコスモス畑は、まだ花がちらほらとしか咲いていません。山をおりる途中のミカン畑は、まだ青いミカンが鈴なりです。今年は台風直撃によって梨は8割も落果してしまったと聞いて心配です。
ふもとまでおりてくると、見渡す限り緑のじゅうたんです。いえ、黄色の稲穂が垂れはじめていますので、黄色の混じった緑色が広がっています。それを縁取っているのが紅い蔓珠沙華です。空をカラスの群れが飛びかい、アオサギが一羽、悠々と飛んで行きます。
いかにものどかな田園風景。心が和みます。

奴隷のしつけ方

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 マルクス・シドニウス・ファルクス   出版 太田出版
 
ローマには奴隷であふれている。イタリア半島の居住者の3,4人には1人は奴隷だ。ローマ帝国全体では8人に1人が奴隷。首都ローマの人口100万人のうち、少なくとも3分の1は奴隷。
奴隷とは、戦争捕虜か、女奴隷が産んだ子。このほか貧しい者が借金返済のために自らを売ることもあれば、人買いにさらわれてきて奴隷になる者もいる。
ローマという大帝国を支配してきた者の多くは、実は奴隷の子孫なのである。
奴隷は家族をもたず、結婚の権利と義務から切り離され、存在理由そのものを主人から押しつけられ、名前も主人から与えられる。
奴隷は自分の個人財産をもつことが一般的に許されていた。ただし、法律上はあくまで主人の所有者とされた。結婚も、法律上は認められなかったものの、一般的には主人が事実婚を認めていた。
主人の措置に耐えかねたとき、奴隷が神殿に逃げ込むことが許されるようになった。
奴隷による反乱はまれだった。そして、スパルタクスの反乱を例外として、たやすく鎮圧された。スパルタクスたちは、奴隷の大国を目ざしたのではない。できるかぎりの略奪をして、なんとか地方の故郷に帰ろうとしただけ。背景にあったのは、奴隷所有者たちの行きすぎた残 忍性だった。
奴隷の解放は、ただではない。奴隷価値の5%を税金として納めなければならなかった。つまり、多くの奴隷が解放されると、それだけ国の税収も増える仕組みになっていた。
解放奴隷のなかには、人並みはずれた頭脳の持ち主もいて、学術研究に多大の貢献をなした。解放奴隷とは、これ見よがしに富をひけらかすのが好きな連中だ。
ローマ帝国は大量奴隷の存在を抜きにしてありえなかったようです。
(2015年6月刊。1800円+税)

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