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ちひろダイアリー

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 竹迫 祐子 ・ ちひろ美術館 、 出版 河出書房新社
東京のちひろ美術館には一度だけ行ったことがあります。コロナ禍がなければ、昨年は長野のちひろ美術館に出かけるはずでした。
コロナ禍がまだ完全終息しているとは言えないのに、政府はGoToトラベルに残る1兆円の予算を支出して再開するとのこと。まるで優先順位が間違っています。それより前に、PCR検査の充実、保健所の復活、そして「自宅療養」と称する入院拒絶の解消のほうが、よほど優先順位として政府は取り組むべきものです。
それはともかくとして、55歳で病死してしまった、いわさきちひろの生涯を豊富な写真とちひろの描いた絵で紹介している、心あたたまる本です。
何度と見ても、どんなに繰り返し見ても眺めても、ちひろの絵って、不思議なほど心が癒されますよね…。
子どもは、全部が未来だし…。
ちひろの実際の人生は、少しもふわふわ甘い人生ではなかった。あの溶けだしそうなパステルカラーの水彩画の世界は、ちひろのこの世にないものへの祈りであり、こうあってほしいものへの希望だった(上野千鶴子)。
ちひろは、幼いころから絵を見るのも書くのも大好きな女の子だった。
どこに行っても物おじしない子どもだった。
小学校入学記念のときのハカマを着たちひろの写真があります。いかにも知的で、精神(意思)力の強そうな子どもです。圧倒されます。
2人の妹のいる長女だったのですね。ハイカラな洋服を着た三姉妹の写真がありますが、きっとしっかり者のお姉ちゃんだったことでしょう。
戦前に結婚し、それに失敗して、ちひろは戦後、もう結婚なんて絶対しない。絵と結婚したと宣言…。ところが、ついに、年下の男性を愛するようになったのです。
30年来、私は、こんなに人を愛したことはないもの…。人は変わるものなんですよね。
ちひろは31歳、8歳も年下の松本善明23歳と結婚しました。まだ弁護士になる前だったでしょう。
神田のブリキ屋さんの2階の部屋は、千円の大金で花をいっぱい買って、結婚式。ぶどう酒1本とワイングラス2つだけ。二人だけの結婚式。
この情景を上條恒彦が歌っています。いい歌です。
そして、一人息子(猛)が生まれ、3人家族となりました。
ちひろの描いた絵のなかには、いつも自分の子(猛)を入れていた。うむむ、すごいですね。母の愛は、ここまで貫くのですね…。
ちひろの夫・松本善明は弁護士で、私が上京した1967年に衆議院議員になりました。中選挙区制でしたので、共産党の国会議員として連続当選を重ねました。その夫をちひろは支えました…。
いやあ、何度みても、いつ見てもちひろの絵っていいですよね。子どもたちのかわいらしいしぐさのひとつにハッとさせられます。
大人というものは、どんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思う。うむむ、そ、そうなんでしょうか…。考え直させられます。
こんな才能あふれていた女性が55歳で亡くなるなんて、本当に残念でした。一刻も早く安曇野のちひろ美術館に行ってみたいです…。
(2021年7月刊。税込2145円)

ブックセラーズ・ダイアリー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ショーン・バイセル 、 出版 白水社
スコットランド最大の古書店の1年が語られている本です。私が町に出て入る店と言えば喫茶店のほかは本屋くらいのものです。「百均」とかデパートを目的もなくブラブラと歩いてみてまわるなんてことは、絶対にしません。私にとって、そんなことは貴重な人生の時間のムダでしかありません。そんな時間があったら、一冊でも多くの本を読みたいです。
この本は、本を買いに行ったはずが、なんと本屋を買ってしまったという、いかにも変わり者の店主が、古書店にやってくる変わり者の多い客との対応が率直かつ淡々と紹介されます。
切手収集家というのは風変りで寡黙な魚のような人種で、あらゆる年代がいるが、性別は男だけ。へーん、そうなんですか、女性は切手収集に魅力を感じないのですか…。
初版本マニアは鼻もちならない。しかし、初版本マニアは、残念ながら絶滅危惧種になりつつある。
つい先頃まで、本を再版するには、スキャンするか文字を入力しなおす必要があったので、採算を考えると、数百とか数千のオーダーが欠かせなかった。ところが、今や、PODプリンターをつかうと、絶版の本であっても1冊を比較的低コストで印刷できる技術が開発された。そうすると、かつての希少書の価格は暴落してしまった。
一般的には、小説を買うのは今でも大半が女性で、男性はまずノンフィクションしか買わない。
ハウツーものとかビジネス書も、買うのは男性のほうが多いのではないでしょうか。
本屋というものは、お金を使わずに長い時間、粘っていられる数少ない場所のひとつだ。頭のおかしな人間が多く町をうろついているが、磁力に引(惹)かれるように本屋に集まってくる。
なるほど、ですね。なので、最近の本屋にはイスとテーブルまで置いているのですね…。客の回転はすごく悪くなって、採算性は低下する一方になるでしょうね。
古本屋で働くようになって驚いたことは、本物の読書家なんて、ほとんど存在しないということ。本物の読書家はほとんどいないが、自分からそう思い込んでいる連中はごまんといる。
本の万引き。本を盗むのは、時計を盗むのより論理上の罪がいくらか軽いと思う。うむむ、そうなんでしょうか…。
本屋というのは、多くの人にとって、過酷な寒さとか現代社会の急激なデジタル化とかいったものから逃げ込める、平和で静かな休憩所みたいな役割を果たしているのではないか。
ある人にとって良い本が、他の人にとっては駄作ということも多い。
男が小説を読まないとうのは当たらないが、男が嫌う系統のフィクションがあるのは事実だろう。平凡、善悪がはっきりしたものは女性のためだけにあり、男が読む(好む)のは、一目おける高尚な小説か、探偵小説のどちらかだ。
私自身は、ノンフィクションは好んで読みます。日本と世界の動きをみて、私の日頃の疑問を解消し、今後を私なりに予測したいのです。
古書店と巨大資本アマゾンとのたたかいもレポートされていて、こちらにも興味と関心がありました…。
(2021年8月刊。税込3300円)

沖縄戦の子どもたち

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 川満 彰 、 出版 吉川弘文館
沖縄では、師範学校・中学校・高等女学校・専門学校の全21校に通っていた10代の少年少女たちが学徒隊として招集され、戦場に立たされた。その人数は教員も含めて2016人。うち戦死者は1017人で、半数以上。学徒隊とは別に、北部(やんばる)では青年学校に通っていた少年1000人が遊撃隊(護郷隊)として招集され、160人の隊員が犠牲になった。
沖縄に第32軍が創設されたのは1944年3月。この年に兵役法が次々に改正され、徴兵検査が20歳から19歳に繰り下がった。志願でしか招集できない17歳と18歳にも兵籍を与え、徴兵検査を義務づけた。
沖縄の第32軍は、南西諸島を守り抜く戦争ではなく、捨て石部隊となって、日本本土決戦に向けて時間を稼ぐための戦争だった。沖縄の9校の鉄血勤皇隊、通信隊、そして6校の女子看護隊は、第32軍の持久戦の作戦計画にもとづいて配属された。動員されたのは1493人。そのうち犠牲となったのは学徒隊792人、教員24人、計816人。戦死率は47%、半数近くが犠牲となった。
6月18日に解散命令が出されたことで、鉄血勤皇隊や女子看護隊は戦場をさまようことになり、犠牲者はさらに急増した。
軍による解散命令って、やっぱり無責任ですよね。投降してよいとか、自分たちの身の安全を図れる具体的指示が必要だったのではないでしょうか。
6月18日に、米軍の地上部隊を指揮していた米第10軍司令官のバックナー中将が日本軍の攻撃で戦死した。
日本軍の牛島満司令官は、最後まで、「捨て石」となる持久戦を意識していた。
宮古島では、3万人もの第28師団の兵士が入ってきたので食糧不足となり、住民もふくめて飢餓状態に陥った。宮古島の戦没者2569人のうちの90%近くが栄養失調とマラリアで亡くなっている。
沖縄での少年兵たちは、遊撃戦どころではなく、常に米軍との戦場で正面から対峙させられ、米軍の標的となっていた。
うひゃあ、こ、これはひどい、ひどすぎる…。
そして、日本の少年兵のなかにはスパイ容疑で日本兵から射殺された人もいるというのです。むごい話です。
九州に疎開した沖縄の子どもたちは、ヤーサン(お腹が空いた)、ヒーサン(寒い)、シカラーサン(寂しい)状況に置かれた。
沖縄の日本平は中国戦線帰りの兵士がいて、自らが中国で犯した残虐行為を「武勇伝」として語っていたことから、アメリカ軍に捕まったら、男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺されると、自分たちが中国でしたことを米軍もすると言って恐怖心をあおった。
そして、戦後まで生きのびた子どもたちのうちの戦争孤児が多く生まれた。しかし、それが何人いたか、当局はつかみきれていない。3千人から4千人はいただろうというだけ。
そんな悲しい実情を掘り起こした大変な労作です。戦争にならないようにするのは、私たち大人の責任です。どんなすごい最新兵器を開発したり、所持していてもダメなのです。
(2021年6月刊。税込1870円)

ヒロシマを暴いた男

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 レスリー・M・M・ブルーム 、 出版 集英社
アメリカの雑誌「ニューヨーカー」は、1946年8月31日号の誌面全頁を広島に落とされた原爆被害の実相を伝える記事に充てた。書いたのはジョン・ハーシー記者。
この「ニューヨーカー」の特集によって、原爆に対する世界の考え方が一変した。それまで、アメリカ政府は、原子爆弾投下と直後に広島で起きたことの深刻さを隠し、長期にわたる致命的な放射線の影響を隠蔽していた。
アメリカの原爆製造のマンハッタン計画の指導者であるグローヴス中将はこう言ってのけた。
「とても痛快な死に方」
「死んだ日本人の人数はとても少ないだろう」
「被爆して死んだ日本人はほとんどおらず、広島は基本的に放射能に侵されてはいない」
「ニューヨーカー」の記事のあとに言ったのは、「原子爆弾の放射能の影響による死というのは、純然たるプロパガンダ(宣伝活動)だ」
「われわれの戦争を終わらせた方法が気に入らないのなら、誰が戦争を始めたのかを思い出せと言いたい」
日本軍による真珠湾攻撃のあと、アメリカ国内には、日本に対する憎悪と猜疑心(さいぎしん)が深く根づいていた。日本人は、人間以下の「黄色い危険物」とみられていた。野蛮で恐ろしいモノということ。
グローヴス中将は、原子爆弾を「情け深い兵器」だというイメージをアメリカ国民に植えつけようと必死だった。
日本占領軍のマッカーサー元帥は、原爆に対して「嫉妬」を感じていた。4年にわたる日本との戦争は自分が指揮してきたのに、自分の知らないところで開発され、自分に無断で原爆が落とされたことに良い気持ちではなかった。
これがハーシー記者が広島入りできた背景の一つになっている。
広島に入ったハーシーは、原爆による惨状に大いなる衝撃を受けた。これを、どうやってアメリカ国民に知らせるか…。
ハーシーは、視線の高さを、神から人間へと下ろした。読者に登場人物そのものになってもらって、いくらかでも原爆の痛みを感じさせること、これがハーシーの願いだった。
ハーシーは、たくさんの人を現地で取材し、ついに6人の主人公にしぼることにした。
ハーシーの記事の目的は、読者を登場人物の心の中に入らせ、その人物になりきらせ、ともに苦しませること。恐ろしくも興味を引かれるスリラーのように読まれることを目ざした。
だから、わざと静かな口調にすることを選んだ。文章から余計なものをはぎ落し、なるべく事実を客観的に述べるだけにする。たとえば、6人は誰も爆音を聞いていなかったので、「無音の閃光(せんこう)」というタイトルにした。
「ニューヨーカー」の編集部内では刊行されるまで、最高機密扱いとされ、ダミー号までつくられた。ただし、グローヴス中将の承認は取りつけた。これが不思議ですよね…、よくぞ承認されたものです。
この「ニューヨーカー」誌は爆発的な反響を呼び、またたくまに、全世界に広がりました。
ところが、ソ連は、この「ニューヨーカー」を大ウソだと決めつけ、また日本ではすぐに出版が認められなかったのです。原爆の恐ろしさが世間に広く知れわたることに強い抵抗がありました。
歴史的なスクープなのですが、実は、「丸見えの状態で隠されていたスクープ記事」だと評されています。これは、先日の「桜を見る会」の「しんぶん赤旗」のスクープ記事と同じですね…。
ともかく、「ニューヨーカー」誌は、1年前に広島の人々に起きたことが、次にどこで起きてもおかしくないという警告として大きな意義がありました。
この「ニューヨーカー」は11ヶ国語に訳され、イギリスのペンギン・ブックスは何週間かで25万部の初版を売り切り、100万部の増刷を用意した。原爆の恐ろしさは何度強調しても強調しすぎるということはありません。「核抑止力論」なんて、本当にインチキな考えです。
とても勉強になり、改めて原爆の恐ろしさを考えさせられました。
(2021年9月刊。税込1980円)

都鄙(とひ)大乱

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 髙橋 昌明 、 出版 岩波書店
この本は、平安時代末期の源平合戦のころの日本を対象としています。とても勉強になりました。知らないことが次々に出てきて、朝からずっと裁判のあいまに読みふけって、夕方までに完読しました。
本書は、治承4(1180)年5月の以仁王(もちひとおう)の乱から元暦2(1185)年3月の壇ノ浦合戦での平氏滅亡までの、足かけ6年にわたって続いた、鎌倉時代成立に至るまでの戦乱の時代を扱っている。
そのなかで、義経のひよどりごえの戦いも、軍紀物語の話だとされています。
治承・寿永の内乱と呼ばれるのは、この戦乱が単なる源平の戦いに解消されない、激動と創造の時代であったことによる。貴族化し、腰ぬけ武士になったために負け続ける平家(へいけ)と、質実剛健で死をも恐れ東国の武士という、紋切り型の対比は必ずしも正しいと言えないこと。このことが、この本を読むと、よく分かりました。
まずは、平清盛など平家が権力を独占的に握ったことが戦乱を招いて、ついには平家滅亡に至ったという分析・指摘に驚かされました。
クーデターで権力を独占した結果、支配層内部での平家の孤立は深刻なものになった。
また、知行国や荘園を大量に集積し、自らの政治的・経済的基盤としたことは、全国の公領・荘園が生みだし、当時、深刻化しつつあった、中央と地方間の社会的・政治的な対立を、支配層内部で平家がまったく孤立したまま、一手に引っかぶることを意味していた。つまり、本来なら王家や摂関家などに向けられるべき当然の怨(うら)みが、相手を変えて平家に向けられるという皮肉な結果になった。
だからこそ、以仁王が平家打倒を呼びかけたとき、反乱は燎原の火のごとく日本全国に広がった。この内乱は源氏と平家の争覇という次元にとどまらず、広く社会矛盾の激発という本質をもっていた。
平清盛には福原に遷都する強い意欲があったが、以仁王の乱の衝撃から、準備不十分のまま急いで遷都が実行に移された。これが結果として平家を自ら孤立に追い込み、反平家の気運をさらに高めた。
このころ、日本は、西日本を中心として大旱魃(かんばつ)に襲われていて、深刻さが増していた。平家は兵糧米の調達に苦しみ、大軍を動かすことができなかった。
源氏と平氏という氏(うじ)の違いは、この内乱での敵と味方を分ける原因とはなっていない。たとえば、頼朝のもとに結集した関東の家人たちのほとんどは桓武平氏の末流であって、坂東八平氏と、平姓を名乗っていた。
このころ、「駆(かけ)武者(むしゃ)」という言葉があった。平家と日常的な主従関係を結んでいる武士ではなく、国衙(こくが)の力によって駆り集められた地方の武者たち。かれらにとって、戦(いく)さは、稼ぎの機会でしかなかった。これは、平家の軍隊の特色ではなく、平安時代には普通に行われた兵力動員方式だった。
平家軍の侍大将は、大将軍のもとで、その兵を預かり、実戦の指揮をする武将たちをさす。平家軍が大軍化するとき、一門を構成する名家とその御家人集団を単位としながらの連合という形をとる(とらざるをえない)。しかも、全軍を統率する真の意味での最高司令官は存在しない。大将軍と呼ばれていても、他家に所属する御家人への直接指揮は原則として、ありえなかった。
源義経の有名な「ヒヨドリ越えの逆落し」は、実は多田行綱をリーダーとする摂津武士たちによるもの。義経は平家討滅には大功があった。しかし、三種の神器のうち宝剣を回収することができず、安徳天皇を死なせてしまった…。
義経の、あざやかな指揮の連続は、範頼に率いられて、半年ものあいだ、山陽道や九州で戦った人にとって義経は怨嗟(えんさ)の対象ともなった。そこで、義経の進退は、今や、鎌倉勢力と後白河院とのあいだの政治的な綱引きの焦点になった。
源平合戦について、歴史上の豊富な史料にもとづく、目を見張る解説のオンパレードでした。
(2021年9月刊。税込3080円)

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