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北の大地に自由法曹団の旗を掲げて

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 北海道合同法律事務所 、 出版 北海道合同法律事務所
1970(昭和45)年9月、廣谷・三津橋法律事務所が発足。その後1972(昭和47)年に北海道合同法律事務所と改称し、今では弁護士18人、事務局15人を擁する北海道でも有数の法律事務所です。このほか、ここの出身の弁護士も18人います。
発足したころ、札幌地裁では自衛隊をめぐる長沼訴訟が進行中で、福島重雄裁判官が札幌高裁長官から注意処分を受けて辞任を表明したが、そのことについて札幌弁護士会は総会を夜中まで開いて、裁判干渉をした平賀健太・札幌地裁所長について訴追請求をすると同時に、福島判事については辞職を撤回せよと決議し、弁護士会の役員が福島判事宅に乗り込んで説得し、福島判事の辞職を撤回させた。長沼訴訟では、自衛隊は憲法違反だという画期的判決(1973年9月7日)が出た。弁護士会が臨時総会を開き、夜中まで審議して決議したなんて、今ではとても信じられない熱気を感じますね。
1970年ころは、乾式コピー機がなく、カーボン紙をはさんで手書きする、せいぜい和文タイプする、コピーは青焼きという時代。この青焼きは湿式で、回転ローラーに原稿がはさまってしまったり、大変苦労したこともありました。
当時の工藤祐三事務局長は、「緩やかに日々が流れていて、今のようにテンポが速くなく、追いまくられずに、ゆったりとできた」と語っています。とはいっても、その仕事ぶりは、どんなものかというと…。事務所の近くの中華料理店(「北京楼」)でジンギスカンをコーリャン酒も飲みながら食べ、そのあと向かいの銭湯に入り、酔いをさまして仕事に戻るというもの。今瞭美弁護士は、「午後3時ころになると裏手にあった中華料理店から料理をとって小宴会をした」と書いている。
村松弘康弁護士は、もっとマナマナしく1980年前後の状況を明らかにしてます。
「当時は、土日なく働くのは普通だった。土曜日は、顧問先で法律相談を受けて、夕方は事務所で仕事した。ある日、夜遅く帰宅すると、大事にしていた本が玄関にバラバラになって散乱していた。家にひとり放置されていた家人の無言の抗議だった。ゆっくり仕事ができるのは日曜日くらい。日曜日は事務所のビルが閉まるため、土曜日の夜に2階の窓のカギを外し、ハシゴを準備して帰宅し、日曜日、管理人のいないころにハシゴをかけて2階の窓から『出社』していた。管理人に発見され、注意され、謝罪した。そのうち、管理人からは、『ケガするなよ』と注意されるだけになった」
管理人から「ビルの門限を守らない、夜中の出入りは困る。一度や二度ならともかく、常態化している」というクレームが何度も来ていたことを工藤事務局長も書いています。
田中貴文弁護士(40期)は、「24時間、戦えますか」という時代風潮のとおり、地下鉄の終電ギリギリまで事務所にいるのは当たり前で、時には仕事終わりが深夜に及ぶこともあった。たまに朝早く事務所に出ると、机の下のカーペットの床に石田明義弁護士(33期)が転がっていることが二度や三度ではなかったと回顧しています。2008年に入った山田佳以弁護士(新61期)も、深夜0時すぎまで仕事するのがフツーの生活で、第一子の出産予定日も仕事をしていたとのこと。
では、いったい、なんで、こんなに忙しかったのか…。
北海道合同には新人が3人一緒に入所したことが2度もあり、そのときに「経営危機」に陥ったようです。1回目は、1974(昭和49)年のことで、このとき私の同期(26期)でもある今重一・今瞭美、そして猪狩久一弁護士の3人が入り、「事務所にあった現金がまたたく間に底をついたが、新人3人は何とも動じなかった」というのです。同期ですから当然、私もよく知っていますが、まさしく当時も今も豪傑の3人です。そして、もう1回は40期の3人(笹森学、佐藤博文、田中貴文弁護士)が入所した1988(昭和63)年のこと。本人たちは、「給料以上に働いた」と言っていますが、新人が稼げるようになるまでは事務所としては大変だったろうと思います。
いったいぜんたい、何で、そんなに忙しかったのか、それも、この本を読むとよく分かります。目次をみると、扱った主要な事件として、薬害スモン訴訟、北炭夕張新鉱ガス突出災害事故訴訟、石炭じん肺訴訟、国鉄分割・民営化・全動労をめぐる訴訟、統一協会・青春を返せ訴訟、B型肝炎訴訟、自衛官人権弁護団、建設アスベスト訴訟、新・人間裁判、陸上自衛隊南スーダンPKO派遣差止訴訟、などなどです。いやあ、これだけの世間の耳目を集める訴訟を本気で勝つために追行するには、たしかに休日返上、深夜まで書類作成等で必要だったことでしょう。でも、ワークバランスが強調されている今日、そんな過重労働を今やっていいのかというと、必ずしも無条件で肯定できないことですよね…。
クロム患者の代理人として活動していた村松弁護士は、原告団事務局長が入院したとき、定期的に病室に行って、次第に衰弱していく様子をビデオに撮ったこと、また、亡くなった直後の遺体解剖にも立ち会い、解剖中の主治医が村松弁護士の右手をつかんで腹の中に差し入れ、「まだ暖かいだろう」と声をかけられ、いのちの名残りの温かさを感じて涙がこみあげてきたとのこと。想像するだけでも胸が詰まります。
北海道合同で特筆すべきことは、何人もの弁護士が候補者となり、議員となったということです。そのトップバッターは、創設者の廣谷陸男弁護士で、北海道知事選挙に立候補しました。以下、順不同でいくと、高崎裕子弁護士が1期6年間、参議院議員(日本共産党)をつとめました。猪狩久一弁護士は道議会議員に立候補することになって札幌市西区に猪狩康代弁護士とともに法律事務所をつくりました。惜しくも当選できませんでした。そして、つい最近(2019年)、札幌市長選挙に立候補した渡辺達生弁護士(46期)です。短期間で得票率30%、26万票以上をとったのですから、たいしたものです。首長選挙に出たのは廣谷弁護士以来36年ぶりとのこと。渡辺弁護士は下戸なので、スイーツ好きで、FBにはいつもでっかいパフェが登場します。
内田信也弁護士(38期)は、NPO法人子どもシェルターレラピリカの理事長をライフワークとしています。「レラピリカ」って、どんな意味なんでしょうか…、それにしてもすごいことです。
こんな雰囲気の事務所にしたのは創設者の廣谷弁護士の個性が大きいようです。いつも笑顔を絶やさず、違いよりも共通点を見つけて行動する、真の自由人だった。自らが自由であるだけでなく、相手の人の自由も尊重した。
まさしく「個性豊かな弁護士の集まり」を実感させる貴重な50年史になっています。
(2022年1月刊。非売品)

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 稲葉 一男 、 出版 光文社新書
細胞にも毛がある、と言われると不思議な気がします。ええっ、あんな小さな細胞に毛なんてあるわけないでしょ、つい、そう思ってしまいます。でも、あるんです。
その一つが精子。精子が活発に動きまわるために必要なのが、「細胞の毛」。鞭毛(べんもう)とか繊毛(せんもう)と呼ばれているそうです。
そして、ヒトの気管にある細胞の毛。空気中の細菌やウィルスが体の中に入ってきたとき、それを追い出そうとして、気管でさかんに動いている繊毛がそれ。
この細胞の毛を動かすには水分が必要。細胞の毛は十分な水の中にいるときこそ最大限に力を発揮するので、口の中が乾燥しないようにマスクをするなどして湿度を保つ必要がある。
ヒトの女性は一生のうちに卵子を500個つくる。男性の精子は20兆個。精子の毛は細胞膜が変形したもの。ヒトの精子の毛(鞭毛)は30から50マイクロメートル(ミクロン)。毛の太さは0.2から0.3マイクロメートル、つまり200ナノメートルから300ナノメートル。
この細胞の毛の中に、毛を動かすエンジン、つまりダイニンと呼ばれるタンパク質の分子モーターがずらりと並んで入っている。この大きさは10から20ナノメートル。こんな小さな分子がATP(アデノシン3リン酸)という物質を分解することで得られるエネルギーを用いて、鞭毛の中で力を発揮させている。
細胞の毛の中には、9本+(プラス)2本のパイプが通っている。ダイニンのついた9本のパイプは「タブレット微小管」で、筒状になっている。その内側にもう2本のパイプ「シングレット微小管」が通っている。この構造は「軸糸」と呼ばれ、微小管の本数から「9+2(きゅうプラスに)」と呼ばれている。
この鞭毛(繊毛)がすごいのは、まず自ら波打って動くこと、単細胞生物の繊毛とヒトの鞭毛の構造はほとんど同じであること、体の維持に大切なことによる。
鞭毛(繊毛)が遺伝的になくなってしまうと、精子では運動がおかしくなって受精できなくなる。また、気管では、バイ菌を外に出せなくなる。嗅覚、つまり匂いを感じるのは、鼻の奥、鼻腔の上部にある嗅上皮。
また、匂い物質は、嗅上皮の粘膜に溶けることにより、嗅細胞を経て匂いとして認識される。ヒトの周囲にはたくさんの臭い物質があるので、嗅細胞は、これらを高感度で識別できる。それが出来るのは、細胞の毛があるからこそ。
1分子のATPが分解されると、10のマイナス20乗ジュールあまりのエネルギーが放出される。
以上みてきたように、本書で扱っている毛は、細胞の毛であって、体表面にはえている毛ではありません。
なぜ猿やオランウータンなどは毛深いのに、ヒトだけ体表面がツルツルなのでしょうか。毛皮や服を着る前もツルツルだったら、冬の寒さには耐えられませんよね。ヒトは一度、水の中で生活していたので、体表面の毛をなくしたという仮説が提唱されました。私は面白いと思ったのですが、今は否定されているようです。まだまだ、この世は謎だらけですね。ぜひ、もっと深く知りたいです。
(2021年11月刊。税込1034円)
 コロナ禍がおさまりませんね。福岡県南部で、このところ急増しています。保健所をなくしてしまったツケを払わされています。PCR検査体制も不十分ですし、自宅療養という美名での放置はひどすぎます。アベノマスクも半分も残っていて(倉庫代6億円)、それを希望者に配布(その費用が10億円)するというのに、安倍元首相はお詫びの一言もありません。
 日曜日の午後、雨があがったので、庭に出て雑草を少し取りました。チューリップの芽が地上に出てきていますが、雑草に埋もれてかわいそうなのです。芽をとったらいけませんので、用心しながら雑草を抜いていきました。
 ずいぶんと陽が長くなり、夕方6時まで庭仕事ができるようになりました。春は、もうすぐそばです。

明治の説得王・末松謙澄

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 山口 謡司 、 出版 インターナショナル新書
福岡県行橋市に生まれた(1855年)末松謙澄(けんちょう)という人物を初めて認識しました。西郷隆盛への山縣有朋からの降伏勧告状、大日本帝国憲法、下関条約の締結文(草案)を起案した人です。1920(大正9)年、スペイン風邪のため66歳で亡くなりました。
英・仏・独語に通じていた。格好にまったく気をつかわず、どんなことがあっても人に嫌な思いをさせることのない自然児のような謙澄は、人を惹きつけてやまなかった。
謙澄は若いころイギリスのケンブリッジ大学で学んだ。イギリスに8年いて、ケンブリッジ大学を卒業し、32歳で日本に戻った。
謙澄は24歳のとき、英国公使館付一等書記見習としてイギリスに留学した。
謙澄は28歳のとき、『源氏物語』の英訳本を出版した。これはすごいことですよね…。
謙澄は、乱を起こした大塩平八郎を、全国民の思いを代弁するヒーローとして、もっともふさわしい人物だと考えた。
謙澄は学者の道を選ばなかった。その最大の理由は、伊藤博文の娘と結婚したことにある。末松謙澄の妻は伊藤博文の次女(生子)。
謙澄は、説得術の天賦があった。そして、それを磨くことに余念がなかった。
謙澄は、衆議院議員になったあと、法制局長官、内閣恩給局長、逓信大臣、内務大臣、枢密院顧問官など政治の世界でも要職を歴任した。
いやあ、すごい政治家だったのですね、ちっとも知りませんでした。まあ、知らないことが山ほどあることを自覚することが私の思考力を鍛える原動力です。
(2021年6月刊。税込968円)

江戸の旅行の裏事情

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 安藤 優一郎 、 出版 朝日新書
コロナ禍のせいで、私はこの2年間、福岡県の外へ一歩も出ていません。本当は、国内どころかフランスにも旅行するはずだったのですが…。
日本人は昔から旅行が大好きでした。それは戦国時代の宣教師たちのレポートでも明らかです。江戸時代は治安が良く、道路網も旅館も整備されましたから、殿様の参勤交代だけでなく、庶民も連れだって旅行に出かけていました。それは伊勢であったり、温泉であったりしました。成田山詣でには講が組織されていました。
伊勢参宮には御師(おんし)が活躍した。御師は、祈祷に携わる神職ではあるものの、営業部員ないし、旅行代理店のような仕事もしていた。800家を数えた。
御師と講が団体の参詣宮を増加させ、ひいては江戸の旅行ブームを牽引した。
また、江戸後期には、身分の上下にかかわらず、湯治(とうじ)つまり温泉旅行がブームになっていた。湯治は7日を一廻りと数え、三廻りするのが一般的だった。東は熱海・箱根、西は有馬の人気が高かった。
女性も旅行に出かけていた。関所破りも珍しくはなかった。
江戸も旅行の対象となり、『江戸名所記』や『江戸買物独案内』が刊行されて喜ばれていた。
吉原は人口8千人のうち遊女は2千人。吉原には男女を問わず、昼も夜も全国からの観光客でにぎわい、観光客相手の飲食業が盛んだった。
そして、江戸では、全国の寺社が出開帳(でかいちょう)を企画した。
私は最近『弁護士のしごと』という冊子を刊行しましたが、そのなかで、江戸の庶民がいかに旅行を楽しんでいたか、また、男女を問わず旅日記を書いていたことを書きつづったのですが、これが予想した以上に驚きをもって受けとめられ、大好評でした。
江戸時代の250年間というのは庶民にとって決して暗黒の時代ではなかったのです。ほとんど戦争のない、平和な時代を庶民はそれなりに楽しく過ごしていたのだと私も今では考えています。
(2021年11月刊。税込891円)

もっとディープに!カラス学

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 杉田 昭栄 、 出版 緑書房
著者はカラス博士として著名です。カラス研究をはじめて25年になります。
カラスの脳は、機能性の高い大脳皮質に相当する部分が多くを占めていて、さらに高次の働きをする外套(がいとう)の連合部位が、他の鳥よりも発達している。
カラスのくちばしは、人間の指のように敏感、かつ器用だ。
カラスのくちばしは、武器というより巣づくりや羽繕(つくろ)い、子育てのときのエサ運びやような働きをする。また、くちばしは、体温にも関係している。くちばしには、多くの血管が分布している。
カラスの神経節細胞は360万個もある。これは、ニワトリの250万個、フクロウの200万個に比べても多い。
鳥の視覚が優れている理由として、網膜の血管がないことがあげられる。
カラスは、紫外線をふくめて4種の光波長で色覚の世界をつくっている。紫外線がなくなると、カラスは繊細な色彩の区別がつかなくなる。紫外線は鳥類の生活で、重要な役割を担っている。
カラスには怖い色とか嫌いな色はない。ごみ袋を黄色にすると、中の物が見えなくなるというだけ。カラスが物を識別するとき、色は非常に重要。
カラスは鳴き声による意思疎通が豊富な鳥。
ハシブトガラスの終脳の神経細胞数は2億3千万個。カモは6千万個、ニワトリが4千万個に比して、断然多い。
カラスはヒトの顔写真を認識できる。これは、どのような向きになっていても言える。
カラスは、少なくとも12ヶ月間は記憶を保つことができる。
その年に生まれたカラスの半数近くは、厳しい冬をこせずに死亡する。飼育したハシブトガラスは12歳まで生きた。
カラスは共喰いする。死んだカラスを食べてしまう。
カラスは水浴び、砂浴びを1年中好む。それは、身体についたダニなどの虫を払い落すため。カラスは清潔好きの鳥。
カラスの体と心の不思議にせまった本です。
(2021年6月刊。税込1980円)

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