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母の背中

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 真木 和泉 、 出版 自費出版
宮崎出身の著者による短編小説を1冊にまとめた本。宮崎の大淀川近くに住んで小学校に通っていたころの思い出を描いているものが多い。
私と同じ団塊世代の著者は、7人姉弟の末っ子として、親からほったらかされ、ほとんど野生児のように育った。何のしつけも受けていないというけれど、祖母をふくめて10人家族なので、上の姉兄たちから、それなりにしつけを受けていたはずです。
貧しい家庭ではあったが、姉兄たちは、それぞれ個性的で、母親をふくめて人間的な、泥臭いぶつかりあいの絶えない日々だったようです。
そして、著者は小学校について、「なんとすてきな場所だったことだろう」と手放しで絶賛しています。
何も知らない野生児の自分に文字を教えてくれた。あの感動は今も忘れることができない。街を歩くと、今まで単なる模様に過ぎなかった看板の文字が読めるようになっていた。字についても面白いことは何もなかったが、学校はキラキラと輝いていた。そこで、どんどん利口になっていった。いつのまにか、お使いに行って釣銭の計算もできるようになった。
小学校で、人間として解放されていった。1クラス55人もいた小学校での日々によって、自分の人生に刻印されたのを一つひとつ自覚していったように思う。
小学校で、著者は今でいうイジメにもあったようです。たしかに身体が大きいほうが強かったと思いますが、1クラスに50人もいると、かえって陰湿なイジメになかったようにも思うのですが、どうなんでしょうか。私自身はイジメにあったことはなく、イジメる側にまわったことも、本人としては、ないと思っています。中学校には、いわゆる「不良」がたくさんいるというので、小学6年生のころ、中学校へ進学したらどうなるのかなと、漠然とした不安を抱いていました。
実際には、小学校は4クラス、中学校は13クラスもあって、生徒がうじゃうじゃいましたので、「不良」グループの標的になることもなく、仲良しグループとともに平穏な3年間を過ごすことができました。
大学時代の友人のすすめで、本にまとまったとのこと。やはり、こうやって一冊の本にまとまると読みやすいし、いいですよね。著者の今後ますますの健筆を期待します。
(2021年9月刊。)

蜜量倍増、ミツバチの飼い方

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 干場 英弘 、 出版 農文協
養蜂でだいじなことは、ハチの密度をいかに高めてやるか、ということ。一つの蜂群に、女王蜂、働き蜂、オス蜂、卵、幼虫そして蛹(さなぎ)がバランスよく存在し、世代交代されていくことが欠かせない。そのためには、巣箱の中に育児する場所(育児圏)と、蜜を貯める場所(貯蜜圏)とをすっきり分けて、育児圏では巣枠の隅から隅まで蜂児でいっぱいの状態(額面蜂児)の巣枠をつくり、貯蜜圏では蜜だけを貯めこむ巣枠をつくる。
そこで、採蜜群は2段にして、下段を育児圏、上段を貯蜜圏とし、その間に隔王板を入れ、女王蜂が上段の貯蜜圏に行かないようにする。すなわち、養蜂の基礎は、育児圏と貯蜜圏を明確に区別し、それぞれふさわしい間隔に巣枠を整えることであり、それによって最大限の採蜜量が期待でき、質の向上も図ることができる。著者の指導するモンゴルの養蜂家では、年間のハチミツ収穫量が8キロだったのが、糖度80%以上のハチミツを20キロとれるようになった。
ミツバチは1万~数万匹の蜂群単位で生活し、一つの群れには1匹の女王蜂と1万~数万匹の働き蜂、1割のオス蜂から構成されている。女王蜂は3年ほどの寿命だが、養蜂家は女王蜂を毎年更新している。オス蜂は交尾以外には役立たずで、仕事は一切しない。
蜂群内では、女王蜂が中心で、働き蜂が仕えているように思われがちだが、実際には、「上下の関係」や全体を統率する存在はいない。それぞれ個々で行動している。それでも、集団としては秩序が維持され、蜂群が全体として維持されている。
ミツバチを飼育するときには、ハチ1匹の命を大切にする意識をもつ必要がある。燻煙
機を適切につかって、蜂群を丁寧に扱う。ハチに余計なストレスを与えないように心がける。
昆虫は変温動物だが、ミツバチはほとんど恒温動物といってもよいほど。蜂球の内部は30度で、外側は15度ほど。
ミツバチの最大の加害者はミツバチヘギイタダニ。被害全体の6割を占めている。
オオスズメバチなどの天敵もいる。農薬(とくにネオニコチノイド系)による被害も大きい。
ほとんど役に立たないオス蜂児は、高タンパク質、高栄養で、肉食性昆虫の代用食に適している。
ナツメの花からとれたハチミツは、世界でもっとも高価なハチミツとして有名。うへー、知りませんでした。わが家の庭にもナツメの木があります。鋭い棘(とげ)があるので、手入れが大変です。
ミツバチはハチミツを生産するだけでなく、花粉媒介による貢献のほうが5倍も役に立っている。イチゴも、ベリーも、サクランボやタマネギまでもミツバチにお世話になっている。
たくさんの写真とともにミツバチの飼い方が、具体的に説明されていて、写真もたっぷりの楽しいミツバチ飼育法のテキストです。でも、私にはちょっと無理そうでした、残念…。
(2021年3月刊。税込1980円)

朝鮮通信使の道

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 嶋村 初吉 、 出版 東方出版
江戸時代は鎖国していたということになっているけれど、実際には海外に向かって4つの口をもち、朝鮮と琉球とは通信の関係を保持していた。4つの口とは、琉球、出島(長崎)、対馬、松前(北海道)。江戸には、朝鮮通信使、琉球使節、出島の阿蘭陀(オランダ)カピタンが参府し、徳川将軍に海外の情報をもたらした。
江戸時代の朝鮮通信使は、薩長12(1607)年を皮切りに、文代8(1811)年まで12回、来日した。そのうち3回目までは回答兼刷還使(さっかんし)といって、秀吉軍によって日本に拉致・連行された朝鮮人を連れ戻すことを主目的とした。
通信使一行は漢城(ソウル)の王宮で国王から励ましの言葉をいただき、江戸城での図書交換のため8ヶ月から1年2ヶ月をかけて往復した。
通信使一行は、三使(正使、副使、従事官)を筆頭に300人から500人、国内一流の人材が抜擢された。迎える幕府側は年間予算100万両をこえる巨額を投入した。
朝鮮通信使が来日すると、宿泊先には求画求援の人波が押し寄せた。朝鮮の先進文化を学ぼうとしたのだ。また、庶民のあいだでは、「朝鮮人の家を得ておけば願い事が必ずかなう」という噂がたち、人々が宝を求めるように集まった。
通信使は、異文化に接触できる江戸時代最大の外交イベントで、使節が行く沿道には、人垣ができた。異国の風俗、音楽、舞踊を縁日を楽しむように民衆は鑑賞した。その影響は、牛窓(岡山県瀬戸内市)の唐子踊り、三重県の分部町や東玉垣町の唐人踊りなど、現在も継承されている。
そして、朝鮮通信使は、日本の技術の優秀さを認め、評価した。
著者は、この朝鮮通信使のたどった道を実際に歩いたのです。
ソウルが外国軍によって占領されたのは史上2回ある。豊臣秀吉の朝鮮侵略と中国・清軍の侵攻の2回。
朝鮮で開化思想をもっともはやく受け入れたのは中人階級だった。医術・天文・通訳のような技術職の人々である。両班でも商人でもない。官職についても一定以上の昇進はできず、四・六品以上には昇れなかった。
両班(やんばん)とは、高麗、朝鮮王朝時代、官僚を出すことができた最上級身分の支配階級。両班の本来の意味は、朝廷で儀式があるとき、そこに参席しうる現職の官僚を総称するものだった。両班は婚姻関係を通じて結合するとともに、学問を通じて結びつきを深めた。
釜山には「草梁倭館」があり、対馬藩士が交代で400人から500人も詰めていた。その面積は10万坪で、これは長崎・出島の25倍もの広さ。江戸の中期には、雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう)、後期には、小田幾五郎が倭館につとめた。
秀吉の朝鮮侵略のとき、朝鮮軍のほうに投じた日本人の武将がいました。降倭と呼ばれています。そのなかでは「加藤清正の鉄砲隊長」だった沙世可(さやか)が有名ですが、その14代目の子孫がいるというのには驚きました。全在徳さんです。慶尚道の大邱(てぐ)に住んでいます。
朝鮮通信使が日朝交流の点で果たした役割はとても大きかったと改めて思いました。
(2021年11月刊。税込1980円)
 水曜日の午前中、雪がチラホラ降ってきましたが、すぐにやみました。
 いま庭は紅梅が満開です。今年はなぜか隣の白梅が咲いてくれません。
 庭のあちこちに白い水仙が咲いています。ところどころ、正月に植え替えた黄水仙が可憐な花を咲かせています。私はキリっと自己主張する黄色の黄水仙がお気に入りなのです。

小説ムッソリーニ(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 アントニオ・スクラーティ 、 出版 河出書房新社
なぜか戦後日本ではムッソリーニは人気がない。悪玉としてヒトラーは一流の人物として評価されているのに、ムッソリーニは二流とみなされている。これは訳者があとがきに書いている文章ですが、そのとおりです。ムッソリーニについて日本人はよく知らない人が多いのではないでしょうか。ファシスト、黒シャツ党。そして、敗戦後、一時はナチス・ドイツから救出されたものの、結局は民衆のリンチにあって逆さま吊りで殺された。私もその程度の知識しかありません。
ところで、ファッショとは何か…。イタリア語では「東」とか「まとまり」を意味する。要するに、集団、団体の意味。議会外の戦闘的な運動によって政治に変革をもたらそうとする勢力を指す言葉だった。ファッショは「細い木」を意味すると書いた本があるが、それは間違いだと訳者は断言しています。
1922年10月ころ、イタリア共産党はファシストに打ち負かされ、社会主義者と袂(たもと)を分かち、内部は分裂をかかえていた。共産党の多数派は「統一戦線」に反対していた。民主主義とファシズムは同意語だった。このころ、イタリア共産党のもっとも明敏な知性を有するアントニオ・グラムシは最悪の健康だった。
1922年11月、ムッソリーニの率いる国民ファシスト党の議席は35だけなのに、イタリア議会は議会の信用を失墜させたムッソリーニ政権を圧倒的に信任した。賛成306、反対116、棄権7だった。
公衆の前に姿をさらしているときは、常に頑強な専制君主のポーズを崩さないムッソリーニも、ひとたび私的な場にとじこもれると、苦悩にもだえ、ささいなことに腹を立て、ぐずぐずと煮えきらない態度を示すことも珍しくなかった。
ムッソリーニは、正規の王国軍とは別の特定政党に従属する第二の軍隊の創設を目ざした。
ここではムッソリーニ首相への忠誠のみが紐帯(ちゅうたい)となる。ただ、これはかつての仲間たちから不評だった。
1924年5月の選挙で、ファシスト党の名簿の得票率は実に65%。有権者は、われ先にとファシスト党に票を投じた。社会主義者は123議席から46議席へ大きく減らした。わずか共産党のみが15議席から19議席は増やした。ところが、ファシスト党の内部で抗争が起きて、勝利を台なしにしつつあった。
ムッソリーニは不安だった。政敵ジャコモ・マッテオッティを抹殺するしかない。ファシスト党のトップグループたちが白昼、路上でマッテオッティを拉致し、車に乗せて連れ去った。目撃者となった少年の話は具体的かつ詳細だった。ファシスト党の財務部長は拉致犯たちに2万リラを渡していた。マッテオッティ失踪は直ちに大きなニュースとなった。
議会でムッソリーニは憤りと恐れで一杯の議員たちに迎えられた。自分たちも一歩間違えば王国の首都の中心で、白昼堂々、暴行され、誘拐されるかもしれないという心理が議員たちを襲った。そして、政治的な立場に関係なく、広く怒りが共有され、ファシスト党の内部をふくめ、いたるところから抗議の声が上がりはじめた。いたるところで、怒りが沸騰した。
突然、ムッソリーニのまわりに空白ができた。義勇軍は動員をかけてもろくに反応しなかった。町では市民がファシストのバッジをはずした。それでも6月26日、上院はムッソリーニ政権を信任した。賛成225,反対21,棄権6。政府は圧倒的に信任された。これでムッソリーニは、なんとか事態を乗りこえられる、党をふたたび掌握できると思い直した。
8月、マッテオッティの無惨な遺体が森で発見された。ファシズムに背を向ける人々が増えた。はじめに動いたのは、ファシズムを支えていた大企業家たちだった。自由主義者たちも距離をおくことにした。
そこで、ムッソリーニは、議会は政権が必要と判断した場合にのみ召集されることになった。ファシズム独裁が始まった。
ファシズム独裁というのは、ドイツでもイタリアでも、むき出しの暴力、凶暴な集団による暴行が横行するなかで誕生する(した)ということがよく分かる本でした。
(2021年8月刊。税込3135円)

女と男の大奥

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 福田 千鶴 、 出版 吉川弘文館
江戸城の奥深く、女性だけでなりたっている(と思っている)大奥の実相を明らかにした本です。実は、大奥にも二つあって、いずれもときに男性も出入りすることがあり、また、9歳まで(当初は7歳)の男の子なら出入りできたのでした。身内の子どもを引きとって大奥で育てていた女性もいたようです。これにも驚きました。
奥方(おくがた)法度(はっと)は、男性に向けた規制令であり、奥方イコール女性ではない。
来客を迎えて応接し、儀礼を営むのが表御殿。表向(おもてむき)。当主とその家族が日常生活を送るのが奥御殿、奥向(おくむき)。将軍の御座之間(常の御座所)のある奥(中奥)の本質は奥向であり、奥向(奥御殿)の表方。
表向に勤務する番方(ばんかた。軍事職)や表向の役人は、原則として将軍の御座之間のある奥向に入ることは許されなかった。男が将軍に仕える奥(中奥)は表向ではない。男であっても表向の役人は奥(中奥)には入れなかった。
大奥に老女はいないとする人もいるが、老女と年寄は同義で、両様で呼ばれていた。
火事という生死を分ける緊急事態であっても、男人禁制は厳格に遵守するべき御法だった。
徳川将軍家出身の妻は、一門としての立場を利用して、さまざまな願いごとを将軍に聞き入れてもらうという、内証行為を登城した大奥で行っていた。
大奥では年中行事化した祈祷(きとう)があった。なので、大奥には継続的に男性の宗教者が出入りしていた。また、奥医師も日常的に大奥に出入りを許されていた。実は、大奥の女中には、奥医師の関係者も多く、大奥女中と強いコネクションをつくっていた。
大奥に奉公する女中の行動を規制する法令として女中法度が大老・老中主導によって1670年に制定された。これは、将軍の血統維持のためだけではなく、大奥の女性たちの意向が将軍の意思として表向に影響を与えないようにする方策でもあった。
江戸城大奥に男性が出入りすることは避けられなかった。儀礼、普請(ふしん)、掃除、病気の診断、重い荷物の運搬、火事や地震のときの非常時の場面で、男性が大奥の中に入ることは避けられなかった。男人(なんにん)禁制という実態はなかった。
大奥は、女と男の協業によって運営されていて、必要なときには男性が錠口の内部に入ることもできた。ただし、男性は必ず複数で行動した。
江戸時代、しがない庶民の妻を「奥さま」と呼ぶことは許されていなかった。
江戸城の大奥における生活の一端を知ることができて、大変勉強になりました。大奥についての間違ったイメージを訂正することができる本です。
(2021年7月刊。税込1870円)

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