法律相談センター検索 弁護士検索

引き裂かれた海

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 吉崎 健 、 出版 論創社
 福岡高裁が開門を命じ、その判決は確定したのに、国がその判決を無視して、結局、開門しなくてよいという判決を別にもらって、こちらも確定したという、日本の裁判史上、初めての奇想天外な出来事が起きました。
 現在、諫早湾干拓は開門されないまま、深刻な漁業被害が今も続いています。そして、国は漁業被害と干拓事業との因果関係を肯定も否定もせず、ずっとずっと不明だとして、開門しないことを前提とする協議を求めているのです。
 国って、冷たい権力そのものなんだと実感させられる話なんです。
 諫早湾干拓は2008年3月に完成し、4月から営農が始まった。672ヘクタールの広大な干拓農地で、現在35経営体が営農している。当初41事業体でスタートして、13事業体が撤退した。
 諫早湾を閉め切った「ギロチン」は、1997年4月なので、すでに26年たっている。
 ギロチンのあと、有明海では赤潮が頻発し、タイラギ漁が不振となり、養殖アサリもたびたび死滅した。「ギロチン」のとき、漁業が続けられなくなる8漁協には202億の補僓金が、その外側の4漁協には41億円が支払われた。
 干拓の目的は当初は稲作のための耕地づくりだった。でも、全国的に減反政策が進むなかで、ここだけ稲作のためというのはおかしい(ありえない)ので、途中から「畑作」に変わった。つまり、もともとが「食糧増産」という目的ではないのです。
 ところが、ここに2530億円もの事業費(税金)が投下されました。ともかく、大型公共事業をしたかったというホンネを元長崎県知事(高田勇)が吐露しています。全国各地ですすめられている新幹線の延伸、リニア新幹線そして地方の飛行場の新増設と同じです。ゼネコンの仕事づくりなのです。「国民の利便」は、あとから取ってつけた口実でしかありません。
 そして、農水官僚の「天下り」先の確保でもあり、大手の受注企業に次々に「天下り」していきました。ひどいものです。許せません。そのとき、事業は「官製談合」が常態化しました。
 福岡高裁(岩本宰裁判長)は、「抜本的解決のために話し合い解決をするよう」文書で勧誘しました。ところが、国は問答無用として、話し合いのテーブルにつきませんでした。沖縄の辺野古基地建設をめぐる国の態度とまったく同じです。ひどいものです。ひどすぎます。
 国はゼネコン優遇、自分たちの「天下り先」の確保しか念頭になく、有明海がどうなろうと知ったことではないという無責任な態度に終始しているのです。こんな国のあり方は是正されるべきです。司法がそれをしないとき、いったい国民はどうしたらよいのでしょうか…。
(2023年9月刊。1800円+税)
 日曜日、朝から仏検(準1級)のペーパーテストを受けました。午後1時に終わったときは、へとへと、まさしく疲労困憊でした。この1ヶ月ほど、朝と晩、いつものNHKラジオとCDの勉強に加えて、過去に受験した問題冊子をひっぱり出して復習しました。この5年とか10年ではありません。もう30回近く受験しているので、2往復はできません。
 頭をすっかりフランス語仕様に仕立てて臨んだつもりですが、いやはや難しいのです。つくづく自分は語学の才能がないと悲観してしまいました。単語は覚えられないし、仏作文もつまづきばかりです。自己採点したら71点でした。120点満点で6割が合格ラインですから、今年は危いです。さて、どうなりますか…。
 帰宅して、庭いじりで気分転換を図りました。チューリップの球根を60個ほど植えつけたのです。

植物に死はあるのか

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 稲垣 栄洋 、 出版 SB新書
 植物の葉っぱが当たり前に行っている光合成の反応を完全に再現することは、現代の科学技術をもってしても、出来ない。これって意外ですよね。宇宙にロケットを飛ばして、はるか彼方から極小の粒々を地球にもって帰ることの出来る人間が、たかが植物の葉っぱにかなわないとは…。信じられません。
 この光合成によって、酸素が廃棄物として植物から排出される。そして、酸素は生命を脅かす猛毒の存在なのだ。ええっ、そ、そうは言っても、疲れをとるため酸素マスクを口にあてかっているでしょ。あれは何なのでしょうか…。
 酸素は生物にとって危険な物質ではあるが、爆発的なエネルギーを生み出す力がある。
ソクラテア・エクソリザという植物は、「歩く植物」とも言われ、光の当たる方に移動する能力があり、1年間で数十センチも移動する。
 植物が巨木になれるのは、細胞壁のおかげ。
ウミウシの仲間は、細胞の中に葉緑体をもっていて、それが光合成をし、そこから養分を得ている。
 光合成を行う小さな単細胞生物は、シアノバクテリアと呼ばれている。このシアノバクテリアを体内に取り込んだか、取り込まなかったか、それだけが植物と動物の違い。
 木から草が進化した。草のほうが、木よりも進化した形である。
 生きている木のほとんどは、死んだ細胞から出来ている。木の中心部分は、実は樹木として立っているときから死んでいる。木のうちの生きている細胞は木の外側のやわらかい細胞であり、この外側の部分だけが生きている。人間の場合には、死んだ細胞が生きた細胞を包んでいる。
植物には、脳がない。脳細胞は、1000億個あまりの細胞がある。
 いま、身近な田で稲穂の刈り入れが始まっています。その田の畔に咲くヒガンバナは、縄文時代に日本に渡来した。ヒガンバナは三倍体なので、種子を作ることができない。
 サツマイモは根っこが太っただけで、ジャガイモは茎が太ったもの。
 生命の源は、星の死によって生み出されたもの。植物も星のかけらから出来ている。ええっ、空を飛んでいる「かけら」が地上の植物に一大変身するというのですね。本当ですか…。
 1週間をたどるうちに、植物という存在の出現、そしてその意義と問題点を学生からの質問にこたえる形式で明らかにしている楽しい新書です。
(2023年8月刊。990円)

九州・琉球の戦国史

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 福島 金治 、 出版 ミネルヴァ書房
 戦国時代、火薬の原料となる硫黄の産地は薩摩の硫黄島(アメリカ軍と対決した硫黄島ではない)、豊後(大分)の硫黄岳(伽藍(がらん))岳などであり、中国の明王朝などが日本の硫黄を欲した。
 サツマイモとも呼ばれる唐芋が日本に定着したのは16世紀。わが家の庭にもサツマイモを植えていて、10月末に掘り上げるつもりです。
 室町幕府の九州統治は、九州探題を通して守護を管轄するのが原則だった。
 中世には、複数の主人をもつことが許されていた。しかし、主従関係は未来永劫(えいごう)と認識される時代に変わっていった。
 天文7(1538)年に秋月で和議(合意)が成立し、大友氏は筑後・肥後、大内氏は筑前・豊前を支配することになった。
 朝廷(京都)の公家にとって、九州の武士たちの交流は直接の収入源であった。そして、見返りに国人(武士)は権威やブランドを手に入れた。
 大永3(1523)年に、中国の寧波(ニンポー)で、細川と大内という両氏が武力衝突したのを「寧波の乱」と呼ぶ。
 イエズス会の宣教師ザビエルは、日本に来る前にアルヴァレスの報告を読んでいて、ザビエルは、日本人は識字率が高いから、教理の習得は可能と判断した。ただし、ザビエルは、2年あまり豊後に滞在したあと、インドに戻った。
 島津氏は宣教師もキリスト教徒もうまく対応できなかった。
文禄・慶長の役において、日本軍が緒戦で勝利したのは、朝鮮官軍の逃亡、戦闘回避、民衆の官物略奪、日本軍の主要武器である鉄砲への不慣れがあった。
 兵糧の需要増加によって、出撃基地である名護屋の米相場は京都方面より6割増しに高騰した。
 朝鮮出兵のとき、日本人捕虜が数千人規模で「降倭」となり、日本軍と戦った。
 戦後、日本から6000人あまりの人々が朝鮮半島へ帰還した。
戦国時代の九州・沖縄の動きを通覧・通読することができました。ここでは、特に印象的なところを紹介しています。
(2023年7月刊。3800円+税)

獲る、食べる、生きる

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 黒田 未来雄 、 出版 小学館
 私の日曜日の夜の楽しみは、録画したNHK『ダーウィンが来た』をみることです。
 日本と世界のさまざまな生き物の生態が詳しく紹介され、いつも驚嘆しています。自宅で映像をみるのは楽ちんそのものですが、映像を撮っているカメラマンとそれを支えているスタッフの苦労は想像を絶します。
 この本の著者は、まさしくこの番組のディレクターをつとめていたそうです。
 著者が大自然に触れる道を踏み込むようになったのは、星野道夫、有名な野生動物カメラマンです。この星野氏は、残念なことに、43歳のとき、カムチャッカでヒグマに襲われて亡くなってしまいました。
 著者は26歳のとき、星野道夫も行ったアラスカの犬ぞりを体験しています。すごい行動力です。
 犬ぞりを引く犬たちの健康管理で大切なことはエサよりも水。湿度が低いため犬は脱水症状になりやすい。犬の尿の色が濃くなっていないか、常に気を配っておく必要がある。
 犬ぞりの犬が引くことのできる重量は自分の体重と同じ。だから、体重40キロの犬が4頭なら160キロ。犬たちは、走りながら排泄する。犬たち自身が走りたいと思わないと犬ぞりは動かない。そこで、性格の違う犬の一頭一頭に声をかけ、抱きかけ、抱きしめ、ほめてやり、チームとしての集中力を高め、走り出す。なかなか難しいんですね。
 ヘラジカの鼻は珍味中の珍味。全体を覆う毛を焼いて落とし、ゆっくりと煮込む。黒く変色した皮をナイフで丁寧に取り除き、少し塩をつけて口に放り込む。濃厚な脂、コリコリとした軟骨、さらにとろけるように柔らかい肉。いろいろな味と食感が、絶妙なバランスで複雑に混ざりあう。いやあ、ホント、美味しそうですよね…。
 野生動物を狙うハンターに求められる(問われる)のは、観察力と想像力、そして最後は気力。まさに人間力が根底から試される真剣勝負だ。
著者のハンターとしての先達(師匠のキース)は、狙った獲物に銃弾があたったと分かっても、「すぐには動くな」と著者をさとした。「彼は今、死を受け入れなくてはいけない。そのための時間を、彼に与えてあげなくては」と言う。
 「獲物に最後の力が残されているとしたら、まだ近づいてはダメ。彼らが死を受け入れるためのひとときを決して穢(けが)してはならない。しっかりと待つんだ」
 いやあ、これにはまいりました。さすがは先達です。こんな心構えで、獲物を狙うのですね。単なる楽しみとはまるで違います。
 著者は北海道でヒグマを撃ちました。仔グマ2頭を連れた母ヒグマでした。そんなときは仔グマも生かさないのだそうです。「なんで僕が殺されなくてはいけないの…」と訴える仔グマの視線を感じたとのことです。いやあ、臆病な私にはとても出来ない状況です。
 いま51歳の著者は東京外国語大学を卒業し、商社に入って、そのあとNHKに転職したとのこと。そしてNHKを辞め、最近では狩猟・採集生活を送っているそうです。とてもとても真似できない人生です。うらやましい限りですね。だって、人生は一度かぎりなんですから、…。やりたいことをやった者が勝ちですよね。
(2023年8月刊。1700円+税)

龍の子を生きて

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 二ッ森 範子 、 出版 こうち書房
 八路軍従軍看護婦の手記というサブタイトルのついた本です。
八路軍というのは中国共産党の軍隊です。日本が中国に侵略戦争を仕掛けていたとき、頑強に戦いました。蒋介石の国民党軍と一緒に日本軍と戦っていた時期もあります。国共合作によって誕生した名前です。中国では「パーロ」とも呼ばれていました。
そんな八路軍に日本敗戦後に大勢の日本人が参加しました。日本軍がアメリカに無条件降伏したといっても、中国現地の八路軍は装備は貧弱で、人員も足りていませんでしたから、日本人に「助っ人」を頼んだのです。
私の叔父(父の弟)も応召して関東軍の兵士(工兵)として山中で地下陣地を構築していましたが、八路軍の求めに応じて、紡績工場の技術者として戦後8年間、働いていました(1953年6月、日本に帰国)。私は、叔父の手記を基として『八路軍(パーロ)とともに』という本(花伝社)をこの7月に刊行しました。まだ読んでいない人は、ぜひ買い求めてください。少し付加、訂正したいところがありますので、改訂版を出したいのですが、売れゆきがかんばしくありません。どうぞお助けください。
山形県の山村で生まれ育った著者は、16歳(数え)のとき、満州に渡って看護婦になりました。満州の中央にあるハルビンの義勇隊中央医院が職場です。もちろん、初めは看護婦になる勉強から始まります。
待遇は、日本(内地)に比べるともったいないほど良かった。祭日には、お菓子もお餅もあった。満州に渡ってきた義勇隊の少年たちが次々に病人として運び込まれてきました。栄養失調と結核が目立って多かった。厳しい苛酷すぎる自然環境でした。
日本軍の敗戦(8月15日)の前、8月9日深夜、ソ連軍が突如として満州に、侵攻してきた。頼りの関東軍は、その精鋭部隊は南方戦線に送り出されていて、員数あわせだけで成りたっている、見かけ倒しの軍隊にすぎなかった。
ソ連軍のあとは、国民党軍がやってきて、ついに八路軍も姿をあらわした。国民党軍は規律のなさから現地の人々から総スカンを喰った。
八路軍は、日本人の医師や看護婦に対して、あくまで紳士的に、礼儀正しく、協力を要請してきた。そして、著者はそれに応じることを決断した。やがて国共内戦が始まりました。
共産党軍(八路軍)は当初、アメリカ式の最新兵器を有する国民党軍に追われていましたので、著者も八路軍と一緒に広い満州をわたり歩いたのでした。
著者が初めて出会ったときの八路軍の兵隊は、ノミとシラミ、そして垢(あか)にもまみれて行軍していた。こんなみすぼらしい軍隊が、最後には勝つだなんて、とうてい信じられなかった。しかし、負けるという気もしなかった。
病院は忙しく、毎日、大変だったが、暗い雰囲気はまったくない。毎日、変化があり、刺激的で楽しく、満ち足りた日々だった。
1948年春になると、八路軍は勢いがあり、進撃に転じていた。このころ著者は19歳の看護師で、1日40キロを行軍した。
著者たちは「三大規律、八項注意」の歌をうたい、「一日に3つは良いことをしよう」と決めて実践していた。
1953年4月、25歳の著者は日本に帰国し、宮城県にある坂病院で看護婦として働きはじめた。中国での看護婦としての大変さがよく伝わってくる手記でした。岡山の山崎博幸弁護士(26期、同期です)に紹介され、インターネットで注文して読みました。
(1995年12月刊。1500円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.