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未完の天才、南方熊楠

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 志村 真幸 、 出版 講談社現代新書
 南方熊楠は、知る人ぞ知る、国際的にも有名な天才です。まず、この人の名前は何と読むのか、私はしばらく分かりませんでした。まさか、「なんぽう」ではないだろうから、「みなみかた」だと思っていました。本当は「みなかた」です。では、下の名前は何と読むのか…。正解は「くまぐす」です。
 画期的な天才と言われる割にあまり知られていないのは、生前に3冊しか著書を刊行していないからです。といっても、南方について書かれた本はかなりあり、私もいくつかは読んでいます。熊楠は、一生を通して、一度も定職についていません。これまた驚くべきことです。東大帝大の教授にもなって然るべき画期的な業績をあげているにもかかわらず、です。
 熊楠が有名(高名か…)になったのは、変形菌を扱っていた同好の士である昭和天皇に面前で生物学の講義をした(1929年6月1日)ことにある。
熊楠は外国語の天才とも言われていますが、著者は、いくつかに限定しています。まずは漢文です。でも、現代中国語は話せませんでした。
 英語はもちろんペラペラです。中国の孫文とも英語で話しています。フランス語、ラテン語、イタリア語そしてドイツ語については、文献を書き写すなかで覚えていったとのこと。恐るべき才能です。そして会話は、その国の酒場に行って聞き耳を立てて身につけていったというのです。いやはや信じられません。ところが、ロシア語は挑戦したけれどマスターできませんでした。語学の天才である熊楠でも出来ないコトバがあったのです。
 熊楠は書物至上主義。大英博物館で洋書を書写して勉強しました。
 熊楠がもっとも長期間にわたって研究を続けたのは夢だった。
 熊楠はインプットに重きをおき、なおかつコンプリートには関心を持たないタイプの学者だった。
 熊楠は「書くこと」と記憶を軸とした巨大な情報データベースをつくりあげており、その構築にこそ人生をかけて取り組んでいた。熊楠が仕事を完成させなかったのは、怠慢や能力不足によるものではなく、むしろ熊楠にとって研究とは終わってしまってはいけないものだった。
 熊楠の魅力は、未完なところにこそある。なーるほど、ですね。
熊楠が生まれたのは幕末の1867年であり、海外(アメリカやイギリス)から帰ってきてからは、ずっと和歌山に居住して研究に没頭していた。亡くなったのは第二次大戦中の1941年のこと(74歳)。
 未完の天才である南方熊楠をよく知ることのできる新書でした。
(2023年6月刊。940円+税)

脳の中の過程

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 養老 孟司 、 出版 講談社学術文庫
 高名な脳科学者のエッセイ集です。著者は、読むものがないと死にそうになると言います。私とまったく同じです。
 本は年中、読む。乗る電車が1時間かかるとすれば、本がないと電車に乗れない。外の景色を見てもはじまらない。
 私は1時間も電車に乗るときには往復で新書3冊を読みたいと思っています。もちろん、完遂できないことが多々あります。でも、本を途中で読み終わってしまい、次に読むべき本がないというのが耐えられないのです。なので、カバンにはいつも4冊入れて行動します。
 著者は図書館が苦手で、他人から本を借りるのも好まないとしています。私も同じです。私の場合は、本を読んだら、これはと思うところには赤エンピツでアンダーライン(傍線)を引きます。そのため、ポケットに赤エンピツは欠かせません。借りた本だと、この赤いアンダーラインが引けないので困るのです。
 進化は、子が親に似ないことから生じる。親と子とがいつもまったく同じなら、進化が起きるはずがない。進化は常に遺伝の例外。みんなと同じではなくて、ちょっと変わったもの、変わったことを言う奴、そんな人やモノがいるからこそ、世の中は進歩していくのですよね。うれしい指摘です。
 ふつう、人は10歳になると神童になる。これって、もしかして将棋の藤井8段のことかしらん…。いえいえ、著者は10歳で変人になったとのことですから、全然、別の話でした。
著者は幼いころから虫好きで、そのころ甲虫を集めると決めたそうです。たくさんの虫採り機を持っている人のようです。
 男は頭髪がなくなるが禿(は)げない。ここは、男女でも肉体的な違いがある。
タコには記憶がある。タコは思ったより利口な動物だ。
「神経」というコトバは江戸時代の末ころ、『解体新書』のなかで初めて使われたコトバ。「神気の経脈」に由来する。
ヒト(人間)は、年齢を重ね、大脳皮質が薄くなったらボケる。皮質の厚さと、ボケの間には、関連性がある。
 さすがに脳科学者の話はいつ読んでも、何回読んでも、面白く、刺激的です。
(2023年8月刊。1100円+税)

ある紅衛兵の告白(下)

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 梁 暁声 、 出版 情報センター出版局
 私と同世代の中国人は、かの文化大革命の大嵐のなかで、もまれにもまれ、命を落とし、迫害のなかで発狂し、家族をバラバラにされてしまいました。
 学校も工場も、まともに機能しなくなったため、学術・文化が停滞し、大量の文盲が生まれました。そして、工場だけでなく農業も生産活動がほとんどストップし、行政機能が崩壊したため、大量の餓死者を出してしまいました。
 それでも、私と同世代の青少年は、はじめは気楽なものでした。学校の授業がなくなり、教師が打倒され、権威というものは毛沢東のほかには何もなく、無料で北京まで行って、憧れの毛沢東を一目見ることができたのです。
 権威がなくなると、たちまち群雄割拠です。紅衛兵にも、いくつものグループが生まれ、「我こそは正統派、毛沢東公認だ」と、それぞれ主張して収拾がつきません。すると、いったい、人々はどんな生活を過ごすことになるのか…、実に惨たんたる有り様が、次から次に展開していきます。
 親を反動派と告発する、ごく親しかったはずの近所の人を「黒五類」と関わりあいがあると密告する…。人間関係がギシギシして、ちょっとした言葉づかいの間違いが命とりになってしまうのです。
さらに、紅衛兵のグループ同士の抗争が始まります。すると、そこには、権威ある上部機関なるものが存在しないのですから、あとは物理的な力が決めることになります。
 毛沢東は軍隊だけは文化大革命の外に置きたかったようです(軍隊は自分が動かすだけだと毛沢東は考えていたのです)。そうもいきません。軍隊を巻き込んだ紅衛兵の集団同士の衝突は武力抗争そのもの。戦車や装甲車が出動し、小銃だけでなく、機関銃も登場し、まさしく内戦状態に陥ってしまいます。
 工場を、どちらの紅衛兵集団がとるのか、どちらが毛沢東に認めてもらえるのか…、緊迫した状況が続くなか、ついに毛沢東は一方を支持すると通知したのです。それに反した集団は当然ながら反革命集団として迫害されることになります。それも、言論だけではなく、銃撃戦があり、肉体的な抹殺をともなうのでした。
主人公の父は大騒動のなかで所在不明が続いています。主人公の若き男性(14歳から16歳)は、一方の紅衛兵集団に足を踏み入れ、危うく、銃撃戦のなかに巻き込まれ一命を落としてしまうところでした。なんとか助かったものの、母親は発狂したか、発狂寸前のありさま。
いやはや、中国の文化大革命のときの地方(ハルピン)における実情が手にとるように理解できました(と思いました)。
(1991年1月刊。1500円)

ジュリーがいた。沢田研二、56年の光芒

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 島﨑 今日子 、 出版 文芸春秋
 ジュリーと言えば、私と同世代、団塊世代のヒーローの一人です。
 大学生のころ、ザ・タイガースは全盛期だったのでしょうか。家庭教師に出かける先の戸越銀座を歩いていると、どのテレビもグループサウンズを放映していました。まさしく熱狂的雰囲気でした。その中心にいた人間こそジュリーです。
何十というグループサウンズのソロ歌手の中で、沢田研二の魅力は群を抜いていた。華やかさだけでなく、艶(つや)やかさもあり、危険をはらんだ毒性もあった。少女たちは花を見、はるか年長のプロの男たちは、毒を感じて評価していた。
 まさしく、そのとおり、ピックリ実感にあうコトバ(評言)です。
沢田研二は、京都の岡崎中学時代には野球部のキャプテンにしてファーストを守った。その夢は立教大学に進学してプロ野球の選手になることだった。
ジュリーって、歌がうまいだけでなく、スポーツ選手でもあったのですね。私なんか、そのどちらもなくて、艶やかさのない、しがない弁護士生活を陽の当たらない田舎で50年おくっています。
音痴の私は、歌がうまい人がうらやましくて仕方ありませんでした。耳の音感はないし、ノドの音域が極端に狭いことを自覚していました。なので、カラオケは私の天敵のようなものです。他人(とくに素人)のうまい歌を聞くと、それだけで頭が痛くなってしまいます。
タイガースが解散したのは1971(昭和46)年1月24日。このころ私は寮の一室にたて籠って司法試験に向かって猛勉強中でしたから、世の中の動きはまったく頭に入っていません。
沢田研二(ジュリー)がNHKの紅白歌合戦に初出場したのは1972(昭和47)年12月。あさま山荘事件が起きて連合赤軍の集団虐殺事件が発覚したあとのころです。
沢田研二(ジュリー)は完璧主義者で、コンサートひとつとっても、全身全霊でやっていた。地方でも、ステージがいつだって真剣勝負だった。
沢田研二の生活態度は、普通の人以上に普通というか、まじめそのものだった。
沢田研二は、自分の仕事を確実に成しとげるというプロ意識の持ち主で、本当に真面目で、謙虚な人間だ。いやはや、これこそベタほめの典型ですよね…。
沢田研二は、料理をつくり、子ぼんのうで子育てにも関わった。
沢田研二にとって、レコードが売れるということは、スターであるため、芸能界で生きていくための生命線だった。
18歳のときから日本一の人気者だった沢田研二は、大衆の喝采(かっさい)という頼りにならない不安定なブランコに乗ってしまった。沢田研二にとって、不安を解消する方法はたったひとつ。一生懸命に歌い、パフォーマンスし、どんな仕事も手を抜かず、走り続けること。
沢田研二は伊藤エミと離婚したとき、18億円相当の資産すべてを譲渡し、ゼロから再出発した。いやはや、すごいものですね、なんと財産分与金が18億円とは…。
マリリン・モンローは36歳、エルヴィス・プレスリーは42歳、マイケル・ジャクソンは50歳、石原裕次郎と美空ひばりは52歳で亡くなった。ところが、わが沢田研二は還暦(60歳)をすぎてなお、日本国憲法9条讃歌の「我が窮状」をバックに千人のコーラスを従えて歌っている。
いやあ、涙があふれ出てきます。わがジュリーは健在です。不屈です。さすが同時代のプリンスだけあります。
(2023年7月刊。1800円+税)

男たちの部屋

カテゴリー:韓国

(霧山昴)
著者 ファン・ユナ 、 出版 平凡社
 韓国の「遊興店」とホモソーシャルな欲望。こんなサブタイトルのついた本です。状況を告発し、鋭い問題提起がなされています。
 韓国の男性たちは、カラオケ、団らん酒店、遊興酒店といった遊興店のどこへでも女性のキャストを呼び出すことができる。女性が男性を楽しませるべきという論理が、社会文化的に当然視されている。
 女性をタダで入店できるという誘い文句で引き寄せ、ウェイターは女性がナイトクラブに入店するやカバンを奪い、女性客が帰りたくてもクラブから出られないようにする。タダ酒を飲めるという口実で、女性はウェイターの手に引かれ、そのウェイターが管理する男たちの部屋を転々としなくてはならない。
 遊興酒店は、多くの女性従事者を抱え、女性を「チョイス」する権利を男性客に支える。女性従事者は男性客に「チョイス」されることで収入を得ることができるため、男たちの部屋で発生する暴力やセクハラやわいせつ行為に耐えることは、女性たちが収入を得る「機会」のための必須条件となる。
 営業日の夜10時、「組版会議」が開かれる。どの客をどのテーブルに配置するが、MDたちが集まって議論する。大金(高額)を提示した客ほど良いポジションに座れる。テーブル競争に勝つため、客は数百万ウォン、数千万ウォンを超える酒を注文する。
 何も知らない女の子が、江南のそんなクラブに入ったことで、人生を棒に振ってしまった子が少なくない。これは要注意ですよね。
 MDは、自分が周旋したVIP席のテーブルチャージの10~20%を手数料として受けとる。そして、店の経営者とバックにいる投資者が罪に問われることはない。すべてはMDと客たちの責任になる。
 男性の呼び出しに応じて女性が男性を接待する遊興店は全国に4万2千店以上あり、女性従事者は14万人ほどいる。
 遊興店の「接待」は「一次」であり、「二次」つまり性売買につながっている。
 日本では、一次と二次が必然という店は、少なくとも公然と存在することはあまりないように思うのですが…。
 遊興店に来る男性客は、自身の力を誇示し、気分を良くする。
 男たちは、女性が自分より惨(みじ)めな状況にあることを知って優越感を覚える。
 男は、上下関係をはっきりさせたがる。
オレは金を稼いでいて、頭もいい。お前は顔は良くても家は買えないし、学歴もない、といった…。
女性たちは、実年齢にかかわらず店では常に「アガシ」と呼ばれる。アガシとは保護されるべき未熟な存在。
警察は遊興店の擁護者となっていて、両者は、まさしく癒着している。
男性は、職場で、上司のご機嫌とりに奔走し、疲弊し、たまったストレスを発散すべく女性(アガシ)のいる遊興店でつかの間の「目上になる」経験をし、こんな上下関係を相互に贈りあって、男性連帯を結ぶ。
これって、日本のサラリーマン社会と共通しているのでしょうか…。なんだか違う気がしていますが、よく分かりません。
日本の現況のレポートをよく読んだことがないので、対岸の話なのか、此岸でもあるのか、一部にとまどいを感じながら読みすすめました。ぜひ、日本のことも誰か教えてください。
(2023年6月刊。2600円+税)

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