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ハーバードMBA留学記

カテゴリー:アメリカ

著者:岩瀬大輔、出版社:日経BP社
 東大在学中に司法試験に合格し、卒業したあとハゲタカ・ファンドと呼ばれるコンサルタント会社に就職し、それからハーバード・ビジネススクールへ留学した青年の体験記(ブログ)を本にしたものです。あのハーバードで成績上位5%の優秀性だったというのですから、すごい秀才であることはまちがいないのでしょう。それでも、そんなに優れた日本の著者が、ビジネススクールへ入っていかに金もうけをするかしか念頭にないかのように見えるのは残念なことだと、つくづく思いました。
 社会的弱者の存在に温かい目を向け、その人たちとの連帯をどう考えていくのかを自らの課題とする。また、自然環境の保全に身を挺するなかで自分の生き甲斐を探る。そんな方向に日本の優秀な若者の英知を向けられないものなのでしょうか。
 お金は所詮はお金。あればあるだけムダづかいするという人のなんと多いことでしょう。
 前にアメリカのMBAは、実は企業にまったく役に立っていないと厳しく批判したMBA教授の書いた本を紹介しました。実は、私もまったく同感です。
 アメリカのMBAについて私が反感を抱くのは、MBAを卒業して経営者として成功した人たちの報酬が、とてつもなく高いという点です。著者も、この点については、次のように批判しています。
 それにしても、アメリカの経営者の報酬は高すぎる。社長が就任して数年たつと数千万ドルから1億ドルの報酬を普通に受けとっている。アメリカも決して昔からこうだったわけではない。アメリカの底辺労働者は日本と同等かそれ以下の給料しかもらっていない。それなのに、トップは100億円の報酬をもらっているなんて、これだけでもアメリカとアメリカのMBAが飢えた野獣を放置しているような野蛮な国だということが分かる。
 著者は日米の医療サービスの質を次のように比較しています。
 お金持ちにとっては、アメリカが圧倒的に上。しかし、普通の人や低所得層にとっては、日本は夢のような国だ。日本の医療は、全国津々浦々、所得に関係なく医療サービスを低コストで提供してきたという点で素晴らしい。
 ホント、そうなんです。ところが、小泉・安倍と歴代の自公政権は日本の良さを破壊し、アメリカ並みに引き下げようとしています。本当に困った連中です。
 この本は、日本の学校給食は世界に類のない素晴らしい制度だと絶賛しています。幼稚園でピザとコーラを食べているアメリカの食生活の貧しいことといったらありません。
 アメリカでハリケーン・カトリーナが襲ったとき、真っ先に逃げ出したのは営利の病院スタッフであり、最後まで残って市民を介護し続けたのは非営利の病院だった。なーるほど、ですよね。
 なんでもお金が万能。そんな生き方を礼賛するMBAって、本当に人間社会に必要なのでしょうかね・・・。

若者はなぜ3年で辞めるのか

カテゴリー:社会

著者:城 繁幸、出版社:光文社新書
 この著者の「内側から見た富士通・成果主義の崩壊」は大ベストセラーになりましたが、成果主義の虚像を事実をもって暴いた点に深い感銘を覚えたことを覚えています。
 大企業の人事部は、たいてい通常の人事業務に加えて、結婚仲介的業務がある。
 なーるほど、今でもそうなんですね。官庁のキャリア組についても同じ部署があると聞きますが・・・。
 企業が欲しがっているのは、組織のコアとなれる能力と、一定の専門性をもった人材である。TOEICは、ちょっと前は500点そこそこだったが、今は600点代後半にまで上がっている。このように企業が学生に課すハードルは上がっている。
 企業においては、権限は、能力ではなく年齢で決まる。技術者にとっては、事務系よりはるかに深刻だ。キャリアを重ねても、必ずしも人材の価値が上がるとは限らない。なぜなら、技術の蓄積よりも、革新のスピードのほうが重要になった業種が急速に増えているから。
 日本の企業において、休暇は会社の温情によるサービスであり、労働者の権利とは認知されていない。もちろん、労基法では権利とされている。そんな無茶苦茶な労働環境の下で、黙々と働く日本人は、勤勉ではあるが、ヒツジの従順さのようなものだ。
 ヒツジを逃がさないようにするには方法が二つある。一つは逃げられないように鎖でつなぐ。もう一つは、そもそも逃げようという気を起こさせないこと。
 企業が体育会系を好むのは、彼らが主体性をもたない人間だから。徹底した組織への自己犠牲の精神、体罰さえも含む厳しい上下関係というようなカビの生えた遺物が、いまも多く体育会では脈々と受け継がれている。
 彼らは、並の若者よりずっと従順な羊でいてくれる可能性が高い。つまり、つまらない仕事でも、上司に言われた以上はきっちりこなしてくれる。休日返上で深夜まで働き続けても、文句は言わない。彼らにとっては、我慢こそ最大の美徳なのだ。
 他人より少しでも偏差値の高い大学を出て、なるたけ大きくて立派だと思われている会社に入り、定年まで勤める。夜遅くまで面白くもない作業をこなし、疲れきってはネコの額のような部屋に寝るために帰る。そして、日が昇るとまた、同じような人間であふれかえった電車にゆられて、人生でもっとも多くの時間を過ごす職場へ向かう・・・。
 それこそが幸せだと教えこまれてきた。だが、少なくとも、それだけで一定の物質的、精神的充足が得られた時代は、15年以上も昔に終わった。
 その証拠に、満員電車に乗る人たちの顔を見るといい。そこに、いくばくかの充足感や、生の喜びが見えるだろうか。そこにあるのは、それが幸福だと無邪気に信じ込んでいる哀れな羊か、途中で気がついたとしても、もうあと戻りできないまま、与えられる草を食むことに決めた老いた羊たちの姿だ。
 著者は、若者はもっと自分の権利を主張すべきだ。自分の人生を大切にすべきだ。投票所に行って、きっちり意思表示すべきだ。こう強く主張しています。この点は、まったく同感です。

21世紀のマルクス主義

カテゴリー:社会

著者:佐々木 力、出版社:ちくま学芸文庫
 数学史を専攻すると同時にマルクス主義とりわけトロツキイの信奉者でもあるという著者がマルクス主義を現代に復権させようと主張している本です。
 著者はコミュニズムを共産主義と訳すのは、若干アナクロニズムであり、賞味期限が切れているという印象を抱いています。共産というより共生というべきではないかと主張するのです。
 著者は環境社会主義を説きます。この環境社会主義は、初版社会主義の解放目標を保持し、社会民主主義の軟弱な改良主義的目的と、官僚社会主義の生産主義的構造とを拒否する。エコロジー的枠組み内での社会主義的生産の手段と目的を再定義することを主張する。持続可能社会のために本質的な成長の限界を尊重する。
 現代帝国主義は、自然に敵対する帝国主義である。とくに、核兵器は、現代帝国主義の政治的、モラル的矛盾の結節点である。
 ソ連「社会主義」の一時的挫折、中国の市場原理の導入をもって、マルクス主義本来の社会主義プログラムの蹉跌とみるのは、あまりに早計である。
 ソ連邦時代の公有財産は、彼らのもとで急成長した新興成金によって「強奪」されてしまった。かつての「労働者国家」ソ連邦が変貌した現在の資本主義ロシアでは、かつてのノーメンクラトゥーラである「デモクラトーゥラ」は国民の資産をかすめとって私物化し、さらに「強奪化」し、経済を混乱の極に陥れている。彼らを国際資本が助けている。
 今日の大方の論者は、ソ連邦の崩壊をもって社会主義思想一般までも有効さを喪失したかのように喧伝しているが、レーニンとトロツキイは、ソヴィエト国家を社会主義をめざすべき政体と見なし、その意味で「社会主義的」政体と呼んでいたものの、マルクス主義的意味での本来的な社会主義体制であると断定的に名指ししたことはないのだ。
 アメリカ型資本主義が勝利した。ソ連型社会主義は敗北した。マルクス主義なんて前世紀の遺物だ。そんな通説がいま根本的に疑われているのは確かです。なにしろ、アメリカ型資本の基盤の弱さには定評があります。その典型的例が治安の悪さです。人々が安心して暮らすこともできない社会にしておきながら、世界の憲兵として全世界を支配しようなんて、虫が良すぎます。
 マルクス主義の復権がなるかどうかは別として、政治の光はもっと弱者保護に向かうべきだと私はつくづく思います。ところが、安倍政権の高官が先日、格差を云々することは社会主義をもとめているようなものだと強弁しました。現代日本で格差が加速度的に拡大しているのは現実です。その格差縮小を目ざすのが社会主義だというのなら、日本は社会主義を目ざすべきだということになります。

天皇の軍隊と日中戦争

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:藤原 彰、出版社:大月書店
 現代史・軍事史研究の権威であった著者は陸軍士官学校を出て陸軍将校として中国へ派遣され、決戦師団の大隊長となったが、陸軍大尉として無事に戦後、復員してきました。その体験をふまえての軍事史研究ですから、やはり重味が違います。
 兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴だった。圧倒的勝利に終わった日清戦争をみてみると、日本陸軍の戦死傷者はわずか1417人。ところが病死者はその10倍に近い1万1894人。患者総数はのべ17万1164人であり、出動部隊の総人員17万3917人に匹敵している。これは軍陣衛生に対する配慮が不足し、兵士に対して苛酷劣悪な衛生状態を強いた結果である。
 日露戦争のときには兵士を肉弾としてつかい、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。ベトンで固めた旅順要塞に対して、銃剣だけに頼る決死隊の総攻撃をくりかえして死体の山を築いた。
 兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが補給の無視だった。精神主義を強調する日本軍には、補給・輸送についての配慮が乏しかった。武士は食わねど高楊枝とか、糧を敵に借りるという言葉が常用されたが、それは補給・輸送を無視して作戦を強行することを意味していた。
 アジア太平洋戦争における日本軍の死没者230万人の半数以上が、餓死か栄養失調を原因とする病死である事実を直視しなければならない。
 硫黄島の戦いを描いたクリント・イーストウッドの映画を2本ともみましたが、日本軍が兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に欠けていたという指摘は本当にそのとおりだと思いました。2万人いた守備隊のうち1000人ほどしか生還しなかったのです。栗林中将が自決したときにはまだ3000人の日本兵がいたというのに、降伏しないまま  2000人が死んでいるという事実は、実に考えさせられます。
 兵士の自主性を認めず、その生命を軽視している日本の軍隊が、その存立の起訴として重要視したのは、軍紀を確立し、絶対服従を強制することだった。絶対服従が習慣となるまでに、兵営生活の中で習熟させた。
 ただ、この点はアメリカ軍でも同じような気もします。ベトナム戦争を扱った映画「プラトーン」や「ハンバーガーヒル」「フルメタルジャケット」などに、新兵を殺人マシーンに仕立てあげていく様子がリアルに再現されています。
 最後の支那派遣軍総司令官だった岡林寧次大将が戦後(1954年)に偕行社で行った講演が紹介されています。
 日露戦争の時代には慰安婦は同行しなかったが、強姦もなかった。ところが、昭和12年になって、慰安婦を同行しても、なお多くの強姦する兵士が続出した。
 1939年(昭和14年)、陸軍次官は、中国戦線から日本へ帰還した日本兵が中国での虐殺や強姦の事実をしゃべることのないよう取り締まれという通達(通牒)を陸軍の各部隊に発した。というのは、帰還兵たちが、たとえば半年にわたる戦闘中に覚えたのは強姦と強盗だけだ、と言っていたから。
 著者は南京大虐殺を幻だとか捏造だと決めつけている論者を厳しく批判しています。
 たとえ捕虜の撃滅処断1万6000、市民の被害1万5000としても、それは大虐殺である。中国側のあげる南京での30万人の大虐殺という数字は、白髪三千丈式の誇張であるとし、それを攻撃することで、南京大虐殺は捏造だと決めつけることが、日本人として取るべき態度なのか。捕虜の不能な殺害や市民に対する残虐行為が、正確な数は不明としても多数存在したことは、消しがたい事実なのである。数の多少を問題にするのだったら、範囲を広げれば、いくらでもその数はふえるのである。
 日本軍が、軍紀の弛緩と中国人、アジア諸国に対する蔑視観とから、大規模な残虐行為を犯したことは遺憾ながら事実なのである。その事実を直視し、原因の追及と批判を行うことが、忌まわしい歴史を後世への教訓として生かすことになる。
 私は、この指摘にまったく同感です。私の亡父も中国戦線へ一等兵として送られていました。幸いなことにマラリアなどの病気にかかって本国送還されて南京攻略戦には参加していませんが、侵略軍の一員であったことは事実です。その子どもとして、日本人は加害者であったという事実を直視しなければいけないと考えています。

小泉の勝利、メディアの敗北

カテゴリー:社会

著者:上杉 隆、出版社:草思社
 小泉純一郎が首相になったときの内閣支持率は80%。5年たって辞めたときの支持率は60%近かった。なんという馬鹿げた現象だろうか。自民党ではなく、日本社会を徹底して破壊した男に対して、日本人がこんなにまで高く評価するとは・・・。
 この本は、小泉政権発足を支えた功労者でもある田中眞紀子の虚像を暴くところから始まります。
 眞紀子の実母への冷たい仕打ち、秘書や身近な者に対する冷酷さ。弱者に光をあてる福祉の実現を目ざすと眞紀子が言うとき、その言葉はむなしい。しかし、その虚像を知りながら、マスコミは眞紀子を天まで高く持ち上げてきたし、今も持ち上げています。その罪はまことに重大です。
 小泉のメディア戦略は、首席秘書官の飯島勲によって立てられた。活字よりテレビ、一般紙より週刊誌。一般紙にちょこっと書かれるよりも、スポーツ新聞にドーンと書かれたい。
 テレビは政治劇場と化していた。ワイドショーなどの情報番組は、特異なキャラクターをもつ政治家を頻繁に取りあげ、主に主婦層をターゲットに昼間の視聴率を競っていた。
 役者はそろっていた。小泉純一郎、田中眞紀子、塩川正十郎、竹中平蔵の言動が連日テレビにのって伝えられた。司会者やコメンテーターは、彼らは政治を分かりやすくしてくれた立役者として高く評価し、くり返し、その映像を流した。
 本当にこんなことでいいのでしょうか。この本は「メディアの敗北」といっていますが、私はメディアは「敗北」したのではなく、小泉と一緒になって国民を欺した共犯者だと考えています。視聴率至上主義で、世の中がどうなろうと自分たちの知ったことじゃないと無責任に走ったのです。「敗北」なんて、きれいごとですませてほしくはありません。
 テレビには陥穽がある。画面に流れる番組の大半は事前に録画されたものであり、番組制作者の恣意がたやすく入ってしまう余地がある。都合のいい場面やコメントを切りとり、視聴者の求めていると思われる番組づくりを繰り返す。
 テレビに限らず、実は、日本のメディアにはタブーが多く存在する。
 暴力団、芸能界の腐敗、電通、皇室など。私は、ほかにもまだたくさんのタブーがあると考えています。
 日本のメディアは、自己規制によって自らタブーをつくっている。
 2005年夏の郵政解散・総選挙について、著者は、それをジャーナリズムにとっての「敗北の墓碑」だと断言する。メディアは、小泉の欺瞞を暴き、視聴者や読者の前に提示し、選挙中に選択の材料として提供することができなかった。つまり、権力監視というジャーナリズムの最大の仕事を全うできなかった。
 この本で救われるのは、著者がこうやって反省しているのを知ることができることです。しかし、この反省は決してジャーナリズム一般に共通しているとは思われません。悲しいことです。いままた安倍首相の憲法改正論を当然のことのようにマスコミはたれ流しているではありませんか・・・。

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