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「虚構」

カテゴリー:社会

著者:宮内亮治、出版社:講談社
 ライブドアの内側がのぞける本です。ライブドアは、その最盛期に、グループ全体で6000人の社員をかかえていた。そして、プロ野球進出を表明してから、わずか1年半で命運は尽きてしまった。
 ホリエモンについての描写が面白い。堀江には、生意気さと人見知りが同居していた。胸を張って目を見ながら話すタイプではない。下からのぞきこんでくる印象で、目があえば逸らす。それでいて、図々しい。ともかく話が大きくて、自信満々にしゃべる。これは、まだ東大在学中の23歳のホリエモンに会ったときの初対面の印象です。
 堀江はドライな人間関係を好む。役に立てばつきあうし、立たなければアッサリと切る。ビジネスに感情はもちこまず、判断基準を数字にしぼる。感情に流されない。信賞必罰を貫いた。堀江の経営者としての美点は、情報収集力と発想力と理解力にある。
 堀江には天性の閃(ひらめ)きがあり、先読みができる。だが、読みが早過ぎるうえに、飽きっぽい性格もあって、成熟する前に止めてしまったりする。堀江の情報の確かさと読みの速さは天才的。だけど、速すぎてライブドアの業績には結びつかない。プロ野球進出で名前は売れたが、ライブドアに本業と呼べるほどのものはなかった。
 堀江が変わったのは、ライブドアがニッポン放送の買収を断念し、見返りに1340億円もの現金を手にし、堀江個人も若干の持ち株を売却して140億円近くの現金を得てからのこと。それまでの堀江は、かなりシビアな経営者だった。
 堀江は、市場に常にサプライズを与えなければ気がすまなかった。増収増益を続けつつ、100分割のようなサプライズを市場に与え、かつ上方修正することで成長イメージを鮮明にするのが堀江の戦略だった。でも、そんなアクロバットがいつまでも続くはずはない。
 堀江にはスポーツセンスがなく、スポーツは得意でない。ところが、ライバル視している三木谷が名乗りをあげたため、逃げることができず、トコトン戦うしかなくなった。ただし、ライブドアが敗北したとはいえ、堀江は認知度を高めるなど、むしろ勝利した。
 最盛期のライブドアの会員は1000万人。ライブドアが小泉改革の鬼っ子だというのは事実だ。自民党の武部幹事長は、堀江の手をとり、大きく上にあげて、「我が弟です。我が息子です」と絶叫した。
 ライブドアの軌跡は、実は失敗の連続である。近鉄球団買収も、プロ野球進出も、日本放送買収も、総選挙も、話題を提供した案件は、すべて成就しなかった。しかし、損はしていない。ホリエモンという名は売れ、堀江の虚栄心は満たされ、ライブドアのポータルサイトは活況を呈し、資金調達やM&Aは、非常にやりやすくなった。ただし、ホリエモンの浮上は、足蹴にされた企業や人間の恨みにつながる。殴った人は忘れても、殴られた人は忘れない。
 インターネットの世界は人間性を破壊する金権腐敗を生み出しているんだなと、この本を読みながら思いました。六本木ヒルズあたりの500メートルで昼も夜も行動していたというのです。世界が狭くなって、視野狭窄になってしまったのですね、きっと。

アメリカを揺り動かしたレディたち

カテゴリー:アメリカ

著者:猿谷 要、出版社:NTT出版
 著者には大変失礼なのですが、どうせアメリカのファースト・レディたちを天まで高く持ちあげるばかりの本かなと思って全然期待しないまま読みはじめたのでした。ところが、意外や意外、大変に面白いアメリカのレディーたちの話が満載でした。
 帝国主義国家、世界の憲兵気取りのアメリカのなかでも、人種差別に反対し、民主主義と弱者のために全身全霊うちこんでたたかう女性たちの伝統が、昔も今も根強く生き続けているのですね。読んで、うれしくなりました。
 ポカホンタスというアメリカ先住民の女性の名前は聞いたことがあるだけでした。
 ときは1603年です。日本では関ヶ原の戦いが終わり(1600年)、徳川家康が江戸に幕府を開設した年です。イギリス人がアメリカにやって来て、餓死寸前の状態になったとき、先住民のインディアンが救いの手を差しのべました。そのときの首長の娘がポカホンタスです。やがて逆にイギリス側に捕らえられ、植民地のなかで英語を教えこまれ、キリスト教を信じるようになり、名前もレベッカと変えるのです。そして、ポカホンタス19歳のとき、イギリス人青年と結婚し、子どもを生みます。イギリスに渡り、国王とも会見します。ところが、天然痘にかかって、わずか22歳でなくなってしまいます。
 アメリカ大陸の先住民は、天然痘やチフス・インフルエンザなどへの免疫力をまったくもっていなかったため、次々に死亡し、人口が激減したのです。
 ストウ夫人の『アンクルトムの小屋』は、私は小学生のころ、ラジオの読み聞かせ番組で聞いていたように思います。この本にはストウ夫人も紹介されていますが、同じころ、奴隷救出に生命を賭けていたハリエット・タブマンという黒人女性をここでは紹介します。ハリエット自身も奴隷の生まれでした。そのころ、アメリカ南部から北部へ黒人奴隷を逃亡させるための地下鉄道が組織されていました。ハリエットも、その車掌に救われたのです。地下鉄道といっても、地下鉄ではなく、線路を走る鉄道でもありません。秘密裡に黒人を安全な北部へ脱出させる人々のことです。
 そして、ハリエットは、今度は救う側にまわります。10年間にメリーランドに潜入すること19回、あわせて300人もの奴隷の救出に成功したというのです。たいしたものです。当時、メリーランドの奴隷所有者はハリエットの首に4万ドルの賞金までかけていたそうです。
 フランクリン・ローズヴェルト大統領夫人のエレノア・ローズヴェルトも注目すべき女性だと思いました。エレノアは幼いころに両親に死別し、厳しいしつけを受けたので、内気でおどおどした、愛情に飢えた少女だったというのです。
 ローズヴェルトは、小児マヒにかかり、脚がマヒした。そのうえ、秘書との浮気もあった。しかし、エレノアは離婚せず、大統領である夫を支えた。たとえば退役軍人たちが政府に抗議行動を起こしたときには、エレノアはそのなかに乗りこみ、話し合い、一緒に歌をうたった。エレノアは国連のアメリカ代表の一人になり、国連の人権委員会の議長にもなって、広島の原爆被災地をはじめヨーロッパの戦禍の跡はほとんど見てまわった。
 すごいものですね。日本でいうと、三木元首相の奥さんが平和憲法擁護という革新的立場で活躍しておられるのを知っていますが、ほかに誰かいるのでしょうか?
 同じくフランクリン・ローズヴェルト大統領を支えたもう一人の女性が紹介されています。フランシス・パーキンズです。
 フランシス・パーキンズは大学を卒業したあと中学校の教員となった。しかし、それにあき足らずにシカゴへ向かった。貧しい人たちのセツルメントで働くようになったのです。私も大学生時代、セツルメント活動に没頭していましたので、とても共感を覚えました。そして、ここでの経験を生かして、労働長官に指名され、就任するのです。アメリカで初めての女性閣僚でした。フランシス・パーキンズは、1935年に社会保険法を成立させた。このときまで、アメリカには養老年金や失業保険の制度がなかった。彼女は、シカゴでのセツルメント運動をしていたときの夢を実現することができた。
 フランシス・パーキンズは、アメリカ史上に残る不況時代の労働長官として、12年間FDRの下でがんばった。すごいアメリカ女性がここにもいました。アメリカの民主主義はこういう人たちに支えられてきたのですね。
 1870年に憲法修正15条によって黒人に参政権が認められた。しかし、それは男性だけだった。黒人奴隷の解放をめざしてたたかった白人女性には、まだ選挙権が認められなかった。女性の選挙権は、第一次大戦が終わったあとの1920年のこと。
 レディー・ファーストは偽善的な性格をもつもの。強者である男性が弱者である女性へのいたわりと庇護なのである。アメリカは、今も昔も、完全に民主主義が貫いている国ということでは決してないのです。もちろんアメリカに学ぶべきところは多々あります。しかし、アメリカ一辺倒というわけにはいきません。

ぼくは毒ガスの村で生まれた

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:吉見義明、出版社:合同出版
 毒ガスの被害が、現代中国で発生しています。日本軍が投げ捨てていったものが、何も知らない子どもたちに拾われたりして事故を起こしているのです。
 なぜか。マスタードガス(イペリット)は、吸い込んだり身体にふれても、すぐには影響が出ない。数時間たってやっと影響があらわれる。その場で毒ガスにふれたことが気がつかないため、大勢の人が被害にあってしまう。
 毒ガスに触れた皮膚のキズは治りにくいだけでなく、大きな跡が残ってしまう。呼吸によって肺に入ると、ひどい咳が出て、呼吸が困難となる。現代の医学では、毒ガスの被害を完全に治す薬や治療法は見つかっていない。
 日本には毒ガスを製造していた島があった。瀬戸内海の小さな島、大久野島。今ではテニスコートなどもある国民休暇村となっていて、毎年12万人がやって来る。ここに、従業員5000人という大工場があった。毒ガスをつくっていた。
 日本でも中国と同じような事故が発生している。茨城県神栖町、神奈川県の寒川町や平塚市など。というのは、毒ガス弾を日本軍は終戦時に別府湾などに捨てたから。また、銚子沖にも捨てられている。
 日本にとって、戦後はまだ終わっていない。このことを実感させられる本でした。

格差社会とたたかう

カテゴリー:社会

著者:後藤道夫、出版社:青木書店
 現在日本の勤労者世帯中の貧困率は2割前後。小泉首相は、格差の増大の原因を高齢者世帯の絶対数の増加のせいにするが、貧困世帯の増加268万世帯のうち、勤労世帯における増加分が142万世帯なので、小泉首相の主張は間違っている。
 国民の4割が加入している国民健康保険の保険料の滞納世帯は、2000年6月に  370万世帯だったのに、4年後の2004年6月には461万世帯と2割近く増えた。
 就学援助を受ける小中学生も急増し、日本全国で1997年度に78万人だったのが、2004年度には134万人となった。
 収入が増えている人々もいる。1997年に年収1000万円以上の人が5万6000人(5.8%)いたのが、2002年には6万8000人(6.5%)に増えた。IT産業関連など高処遇の職種群が形成されている。
 年収2000万円以上の人が2001年に18.1万人だったのが、2004年には 19.6万人に増えた。2005年9月の総選挙において自民党は首都圏で圧勝した。それは、これら上層の人々と、その周辺の人々、そして自分も上層への仲間入りが可能だと思っている人が支えている。
 なーるほど、東京で石原慎太郎が仕事もろくにしないのに300万票もの支持を集めるのは、それだけの現実的基盤が、それなりに存在するということなんですね。
 このような上層国民を社会統合の中心とするためには、上層への利益供与システムをつくり、彼らに社会秩序維持の担い手たる自覚をもたせることが必要となる。そのため、所得税の累進度を大きく緩和した。1980年代初めは75%が最高税率だった。1990年代初めに50%に大幅ダウンした。1998年の税制改革により37%になった。
 公私二階建て方式がとられるようになった。すべての国民に開かれる「公」は薄く、脆弱なものとし、「公」を支えるための高所得層の費用負担は小さくする。その分を、「私」の部分を購入する費用としてつかうことを可能にする。
一部の上層は、たしかに「報われる」。反対に、ワーキング・プアだけで600万世帯をはるかに超えるが、これらの多くの人々が「報われる」ことなく、それどころか、以前なら考えられないような生活不安、労働不安、そして将来の不安に直面している。
 「努力すれば報われる社会を」というスローガンは、自助努力に欠けるとみなす人々を、排除し、切り捨て、財政負担を軽くしたうえで、そんな人を治安管理の対象として、いわば隔離するとともに、一種の見せしめとして、「中層」以下を叱咤鼓舞する。
 ここまで落ちるんだぞ。それがいやなら、何であれ、死に物狂いで努力せよ。
 というものです。いやあ、本当にあたたかみのない、殺伐とした日本になってしまいましたね。弱者切り捨てがどんどん進むなかで、上昇志向の若者が自分の足元を見ることなく、手を叩いて、格差拡大を喜んでいます。ここに切りこみ、対話して現実をしっかり見つめることを多くの人に求めたいものです。

周恩来秘録(下)

カテゴリー:中国

著者:高 文謙、出版社:文藝春秋
 周恩来は、林彪が家を出たのを確認してから毛沢東に報告し、措置を仰いでいる。とにかく強行に阻止するよう命じることなく、林彪専用機の離陸を阻止する指令を出さず、結局のところ、みすみす逃亡を許してしまった。
 もし周恩来が即刻決断して徹底的な措置をとっていたら、林彪のいた北戴河から山海関空港まで少なくとも車で40分かかるから、山海関空港を制圧するよう命令を下していたら、林彪に逃げるすべはなかったはずだ。
 周恩来は、このときただちに全国に飛行禁止令を出したと言われているが、実際はそうではなく、華北地区のすべてのレーダーをつかって、林彪専用機の行動を監視させただけである。管制官を通じて林彪に戻るよう呼びかけ、どこに着陸しようとも、この周恩来が迎えに行くと告げた。
 林彪墜落については、公式発表のいうように、燃料が足りずに専用飛行機が強行着陸しようとして失敗したというのは真相ではない。ここにはまだ秘められた事実がある。機は突然Uターンして中国に向かって引き返し、その途中で墜落している。乗っていた9人の死因は燃料タンク爆発後の激しい炎による窒息死である。燃料不足で、どうやってこれだけの燃料が引き起こせるものか。
 専用機は、強行離陸したあと、何度か無理な旋回をくり返した。行き先に迷っていたというのは、林彪の矛盾した心のあらわれ、考えを変えて命じたものなのか、それとも操縦士が抵抗して、混乱のうちに強行着陸しようとしたものなのか・・・。
 中国は、今に至るも、ロシアに資料を公開するよう要求していない。何かを隠しているからだ。
 毛沢東は、文化大革命を誰かが否定するのではないかということを常に気に病んでいた。周恩来にさえ、気を許せなかった。毛沢東はまた、文化大革命が党や軍の多くの老幹部から恨みを買っていることを知っていた。
 それで、毛沢東は、文革中に老元帥たちが迫害された責任をすべて林彪に押しつけた。毛沢東は病気してから、自分が周恩来より長く生きられないのではないかと心配するようになった。周恩来が、もし自分の死後に率先して文革の評価を覆したら、周の党内外における声望と手腕によって、皆が一斉に周恩来に賛同し、庇護を失った党内文革派はまったく相手にならないだろう。毛沢東は、そう考えて、周恩来のガンが判明したとき、その治療をさせなかった。毛沢東は周恩来の死を明らかに早めた。
 周恩来は自分の身体の病気治療について、一般人と異なり、自分の希望を通すことができず、すべて毛沢東の考えに従って行動するしかなかった。周恩来の体重は、ついに30キロでしかなかった。毛沢東が妨害したため、治療が遅れてしまったせいだ。それでも、周恩来は文句ひとつ言わなかった。1976年1月8日、周恩来が死亡したとき、77歳だった。
 毛沢東は林彪事件によって面目丸つぶれになった。そこで外交でなんとしても勝利を手に入れ、国内の視線をそちらに振り向け、文革の敗勢をごまかさなければいけなかった。キッシンジャーが秘密裡に訪中し、ついにニクソン大統領が訪中するに至るのは、こういう背景があった。
 毛沢東は、周恩来をずっと中国共産党のなかで儒教思想をもっとも強く受けていると見なしてきた。表面上はいかにも謙虚で君子然として自制心があり、完璧を求め、何ごとにもバランスを保っているが、しかし、その実は狡猾で世故にたけ、欺瞞に満ち、政治信条をもたず、常に流れを読んでふらふらしていると見た。
 毛沢東が内心おだやかでないのは、周恩来のような者が党内外で非常に好感をもたれ、国際社会でも賞賛されていることだった。
 批林批孔運動は、実は毛沢東が周恩来を批判する運動だった。このとき、周恩来は次のように言った。
 一、人に打倒されそうになったら、どんなに打たれようと、決して倒れてはならない。
 二、人に追い出されそうになったら、自分から去ってはならない。
 三、人にやられそうになったら、どんなにやられようと、自分から死んではならない。 これって、周恩来の日頃のイメージとはかけ離れていますよね。
 ?小平が復活した。これについて、長いあいだ、?小平の捲土重来は周恩来のおかげだと言われてきた。しかし、実際には、毛沢東こそ?小平の復活を裏で推しすすめた黒幕であった。しかも、それは周恩来の追い落としが本当の目的だった。
 毛沢東は政治闘争において、古い友情などにほだされたことなど、一度もない。毛沢東が決心を渋ったのは、周恩来が劉少奇や林彪よりずっと難敵であることをよく承知していたからだ。
 毛沢東は政治に波風を立てることを習慣としていた。まず周恩来をつまみ上げ、徐々に権力の中枢から退け、?小平にとってかわらせるつもりだった。
 毛沢東は周恩来の追悼会に体調不良を口実に欠席した。周恩来の追悼活動は、党内外の「名誉回復」派が?批判に抵抗する隠れみのになっていた。
 毛沢東はこう語った。
 なぜ私が周総理の追悼会に参加しなければならないのか。私には参加しない権利があるだろ。偉大なマルクス主義者などとは、誰が周総理に贈った呼称か?私と、このマルクス主義者の総理とは、10回以上も闘争した。無理強いしてはいけない。
 毛沢東は1976年9月9日に82歳で亡くなりました。
 この本に書かれていることがすべて事実なのかどうか分かりませんが、この本を読むと周恩来に対するイメージがかなり変わるのは間違いありません。

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