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がんのウソと真実

カテゴリー:未分類

著者:小野寺時夫、出版社:中公新書ラクレ
 著者は外科医で、消化器がんが専門の医師です。そして、自分も奥様もがんにかかり、手術や放射線治療を経験しています。医師として、がんで亡くなった患者を2000人以上もみてきたそうです。その経験にもとづく本ですので、かなりの説得力があります。
 今の日本における死因は、がんがもっとも多く、3人に1人。65歳以上だと2人に1人の割合になる。
 日本では、高度進行がんに手術をやりすぎ、逆に放射線治療をやらなすぎる傾向がある。高度進行がんに対する抗がん剤療法のやりすぎは、短い余命をそのために苦しみながら過ごさせるという悲惨な結果を招いている場合が少なくない。また、がんの痛みをガマンしている人は早死にするというのは、今では世界的常識になっている。日本では、苦痛の緩和が不十分なのに、延命治療に熱心すぎる。
 ほとんどのがん死は、亡くなるまでに年月がある。そもそも、がんの予後を正しく予測することは困難。しかし、治る可能性が高いのか低いのかは、予測できる場合のほうが断然多い。
 人は、どんなに高齢になっても、がんで助からないと分かって、年齢だからやむを得ないと、死をすぐ受容できる人などいない。告知を受けた人は、最初のショック、落ちこみから、いろいろな心情的苦悩を経て、早い遅いの違いはあっても、やがて、その人なりの心の平穏を得るようになる。人は死を意識してから、人として急成長することが多い。
 がんは、死因となるほかの病気とは、性質がまったく異なる。がんは、誤って発生したのではなく、もともと人の生命をコントロールするように仕組まれている。がんは他の病気と違って、注意しても予防できない運命的要素が強い。がんは、半年前とか1年前に発生したということはなく、20年も30年も前から始まっている。
 進行したがんは、目に見えるリンパ節やがんの周辺の組織をどんなに広く切除しても、目に見えないがん細胞がどこかに転移しているため、早かれ遅かれ再発する。
 高度進行がんについて、何の治療もしないのに、良好な状態で驚くほど長く生存する人が思ったより大勢いる。手術したものの数ヶ月内に再発した人のほとんどは、最初から手術適応がなかった。
 患者には化学療法を積極的に行ない、高度進行がんでも積極的に手術する医師が、自分の親が進行がんのときには、化学療法も手術もしなかったという例がいくつもある。
 なーんだ、そういうことだったのか・・・。そんな思いがしました。
 がん手術に名医はいない。名医が手術したらがんが治るというものではない。がん治療医に必要なのは、経験と適切な治療法の判断力、そして豊かな心情である。
 がんの免疫療法は、残念ながら、まだ研究段階にあり、実用にはほと遠いのが現実。
 がん細胞は異物だといっても、もともと人体にある細胞が遺伝子の異常で形や性質に違いを起こして生じたもの。がん細胞ががん抑制遺伝子の作用が弱いために生き残っても、ほとんど免疫力で死滅してしまう。がんができたというのは、自分の遺伝子を変えることで、免疫力の攻撃を逃れ通したツワモノ集団ができたということ。免疫力をくぐり抜けて出来たものを、免疫力の強化でなおそうというのが免疫療法である。だから、効果は期待できない。
 つまり、もともと免疫力を逃れてがんになっているので、がん細胞は免疫力に対する強い抵抗力をもっている。
 がんの末期患者は、なんでもいいから、好きなものを食べたほうがいい。食べ物の内容にあまりとらわれ過ぎてはいけない。余命の限られている人にとっては、「やりたいことをする」のがすべてだ。仕事、趣味、著述であれ、最後の整理業務であろうと、自分のやりたいことを体力の続くかぎりやること。これが人生を生き抜くうえでもっとも大切。副作用の強い抗がん剤療法や入院による代替療法を続けたあげく、死を迎えるべきではない。
 がんの患者に対して、「元気を出さないとダメ」「がんばって」などの言葉をかけるべきではない。死に近づきながら生きているのに、これ以上、何をどうしろというのか、
 お見舞いは患者が元気なうちにするべき。体調の良くない人に、いろんなことを長々と話しかけてはいけない。
 私は、父をがんで亡くしましたので、がんについては他人事(ひとごと)ではありません。この本は、とても実践的で、参考になりました。私は40歳になってから年に2回、人間ドッグに入っていますが、それは、私にとって骨休めと読書タイムを確保するためだと割り切っています。平日の夜、じっくり本を読むということは、意識的につくり出さないと、とてもうまれませんからね。弁護士を30年以上していると、自分の時間を大切にしたくなるものです。来年、私も還暦になります。自分でも信じられませんが、せめて気持ちのうえだけでも若さを保っていきたいものだと考えています。

生物と無生物のあいだ

カテゴリー:未分類

著者:福岡伸一、出版社:講談社現代新書
 ニューヨークにあるロックフェラー大学の図書館に野口英世のブロンズ像があるそうです。千円札の肖像画にもなっている立志伝中の人物です。ところが、アメリカでは野口英世はまったく評価されていないというのです。驚きました。
 野口英世の業績としてあげられる梅毒、ポリオ、狂犬病そして黄熱病については、当時こそ賞賛を受けたが、今では間違ったものとして、まったく顧みられていない。野口英世は、むしろ、ヘビイ・ドリンカーそしてプレイボーイとして評判だった。権威あるパトロンが野口の背後にいたため、批判されなかっただけのこと。
 うひゃー、そうだったんですかー・・・。ちっとも知りませんでした。道理で、最近の千円札が軽くフワフワと飛んでいって、すぐなくなってしまうんですね。
 ウィルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん、二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり、一切の代謝を行っていない。ウィルスは結晶化することもできる。鉱物に似た、まぎれもない物質である。
 しかし、ウィルスを単なる物質と一線を画しているのは、ウィルスが自らを増やせるということ。ウィルスは自己複製能力をもっている。ウィルスのこの能力は、タンパク質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されている、核酸=DNAもしくはRNAによる。
 ウィルスは、生物と無生物とのあいだをたゆたう何者かである。もし、生命を「自己を複製するもの」と定義するなら、ウィルスはまぎれもなく生命体である。
 細胞からDNAを取り出すのは簡単なこと。細胞を包んでいる膜をアルカリ溶液で溶かし、上澄み液を中和して塩とアルコールを加えると、試験管内に白い糸状の物質が現れる。これがDNAだ。
 しかし、DNAが運んでいるのは、あくまで情報であって、実際に作用をもたらすのはタンパク質。抗生物質を分解するのは酵素と呼ばれるタンパク質であり、病原性をもたらす毒素や感染に必要な分子も、みなタンパク質である。耐性菌から非耐性菌へ、あるいはS型菌からR型菌へ手渡されているDNAの上には、分解酵素や毒素タンパク質をつくり出すための設計図が書きこまれている。
 DNAが相補的に対構造をとっていると、一方の文字列が決まれば、他方が一義的に決まる。あるいは、2本のDNA鎖のうちどちらかが部分的に失われても、他方をもとに修復することが可能となる。
 DNAラセン構造を明らかにしたとされるワトソンとクリックについて、著者は重大な研究上のルール違反をしたと指摘しています。未発表データをふくむ報告書が実験を通じて重大な発見をしたロザリンド・フランクリン(女性)の知らないうちにライバル研究者の手にわたって、それが世紀の大発見につながったというのです。なるほど、それは問題でしょうね。ただし、フランクリンは、ノーベル賞授与のときには、既に亡くなっていました。
 半年あるいは1年もたてば、分子のレベルでは、人間の身体はすっかり変わってしまっている。かつて身体の一部であった原子や分子は、すでに身体内部には存在しない。
 私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から支えないと、出ていく分子との収支があわなくなる。
 人間の身体は一体何から出来あがっているのか、ふと考えることがあります。電波なんか身体をすっと通り抜けていくのですからね。何の支障もなく、障害を与えることもなしに。これも、考えてみたら、不思議なことですよね。知的関心にこたえる本です。

周恩来秘録(上)

カテゴリー:中国

著者:高 文謙、出版社:文藝春秋
 周恩来が1976年1月に死んだとき、多くの中国人が悲しみに沈んでいた。ところが、旧暦の大晦日(1月30日)、毛沢東は爆竹を鳴らして喜んだ。なぜか?
 周恩来は、常に毛沢東の傍らにあって、毛沢東に誠実に付き添い、小心翼々と付和雷同した。
 この「小心翼々と付和雷同した」という表現はかなりの異和感があります。しかし、この本を読むと、なるほどそうだとしか思えません。
 毛沢東は、湖南省の片田舎の貧乏村の生粋の農家の息子だった。これに対して、周恩来は江蘇省の交通・文化の発達する古い町・准安で生まれた。生家は没落した封建時代の名家の子孫である。
 毛沢東は独裁的・厳格粗暴な父親に抑えつけられ、幼いときから伝統に反抗し、権威を蔑視し、個性をふりまわす。反逆的な性格を養ってきた。これに対して周恩来は、文人の家柄の養母に育てられ、幼いときから穏やかな慈母の愛情に包まれて育ち、人となりは温良で慎ましい儒家的色彩を帯びていた。
 周恩来は毛沢東より少し遅れて政治生活を始めたものの、以後は順風満帆で、毛沢東の上位に立っていた。ちなみに、周恩来は日本に留学したが、何度も試験に落第して面目を失った。それで仕方なく帰国して前途をはかった。
 周恩来はフランスに留学し、命令を受けて1924年7月に帰国すると、国民党黄埔軍官学校の政治部主任に就任した。学校長は蒋介石である。この学校は、共産党の軍事方面の人材を養成するところであり、国共両党の高級将校は、みな黄埔軍官学校の出身で、周恩来と子弟の関係にあった。したがって、党内では周恩来は抜きんでた地位にあり、軍の創建者として、党中央の軍事部長をつとめ、軍内の多くの指揮官と深い関係を結んだ。
 このことは、毛沢東が周恩来に依存せざるをえず、同時に、常に周恩来を警戒する原因となった。そして前記のとおり、8年のあいだ、周恩来は毛沢東の上司であった。
 1932年10月、軍事作戦を話しあうために開かれた寧都会議において、毛沢東は軍権を剥奪され、周恩来がこれに代わった。毛沢東は、これによって「便所の踏み石」にされ、「幽霊も尋ねてこない」状態となり、周恩来を一生、恨みに思った。周恩来はあとで「生涯最大の誤り、罪科」と毛沢東に対して自己批判した。
 ひゃあ、こんなことがあったのですね。それにしても毛沢東の執念深さは異常です。
 長征の途上に開かれた遵義会議で毛沢東は全党の指導的地位を回復したと言われているが、それは事実に反する。たしかに、この会議で毛沢東は政治的に復活したが、党の指導中枢に参加しはじめたにすぎず、まだ周恩来の補佐役でしかなかった。このころの軍事三人組の中心は周恩来であり、毛沢東ではなかった。
 毛沢東は、周恩来を自分の軍内での指導的地位に挑戦しうる相手とみて終始、警戒心を緩めず、常に攻撃した。しかし同時に、革命の大業を成し遂げるのに必要かつ依存せざるを得ない人物ともみていた。毛沢東は、死ぬまで周恩来に対する、この矛盾した心理的葛藤から抜け出すことはなかった。
 この分析は、なるほど、鋭い。私はそう思いました。
 毛沢東は党内が劉少奇一辺倒であることを知り、余裕を失った。
 毛沢東からすると、劉少奇と勝負するうえで林彪とのみ手を組むのでは不十分であり、周恩来の支持少なくとも中立を保ってもらう必要があった。このように、毛沢東が文化大革命を発動したとき、周恩来は獲得し借用すべき力であった。
 毛沢東は猜疑心が異常に強く、今のところもっとも親密な盟友である林彪もふくめ、たとえどんな人間に対しても警戒心を解かなかった。?小平は、あとで林彪ないし周恩来を始末する日が来るときに備えた一枚の切り札だった。だから、文革において、?小平に対する批判は、適当なところで止めるようにしておいた。
 いやあ、本当でしょうか。こんな軽業みたいなことをして、毛沢東は中国政界を牛耳っていたのですか・・・。すごーい分析です。すごく勉強になりました。

逝きし世の面影

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:渡辺京二、出版社:平凡社ライブラリー
 文庫本で600頁の本です。東京からの帰りの飛行機のなかで一心に読みふけりました。なんだか、久しぶりに懐かしい人々に出会ったような、心温まる至福のひとときを過ごすことができました。
 江戸末期から明治にかけての日本人が、おおらかに毎日を楽しく幸せな日々を過ごしていたことを、何人もの海外からの観察者が異口同音に記録しているのです。ホント、うれしくなります。いえ、それは決して都市上層の裕福な町民の生活のことでは決してありません。むしろ、その大半は社会の底辺に住む人々の生活の描写なのです。
 日本人は落ち着いた色の衣服を好む。あらゆる階級のふだん着の色は黒かダークブルーで、模様は多様だ。女は適当に大目に見られており、その特権を生かして、ずっと明るい色の衣服を着ている。それでも彼女らは趣味がよいので、けばけばしい色は一般に避けられる。原色のままのものは一つもなく、すべて二色か三色の混和色の、和やかな柔らかい色調である。むしろ、裏に豪勢なものを着こなす。
 日本人の健康と満足は、男女と子どもの顔に書いてある(ティリー。イギリス人)。
 日本人はいろいろの欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる(オールコック)。
 どう見ても、彼らは健康で幸福な民族であり、人々は幸せで満足している(プロシャ使節団)。
 誰の顔にも陽気な生活の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌の良さがありありと現れている。何か目新しく素敵な眺めにあうか、物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めているとき以外は、絶えずしゃべり続け、笑いこけている(ヘンリー・S・パーマー。イギリス人)。
 この民族は笑い上戸で、心の底まで陽気である。日本人ほど愉快になりやすい人種は、ほとんどあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして、子どものように、笑いはじめたとなると、理由もなく笑い続ける(ボーボワル)。
 日本人は話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人には生まれつきそういう気質がある(オイレンブルク使節団)。
 無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意思がある(ブラック)。
 江戸庶民の特徴は、社交好きの本能、上機嫌な素質、当意即妙の才である。庶民の著しい特徴は、陽気であること、気質がさっぱりしていて物に拘泥しないこと、子どものようにいかにも天真爛漫であること(アンベール)。
 人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがいい(ハリス。アメリカ人)。
 日本の下層階級は、おそろしく見たがり屋、聞きたがり屋だ(ジェフソン・エルマースト)。
 どうでしょうか。現代日本の社会に残念ながら失われてしまった雰囲気ではありませんか。人々が今よりもっとおおらかに毎日を暮らしていた、そういうことですよね。
 家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使いにとっては美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならない。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。
 日本では、夜に入って一家が火鉢のある部屋に集まって団欒するとき、女中もその仲間入りして、自分の読んでいる本の知らぬ字を主人にたずねることができる。
 今どき召使いと言われてもあまりピンときませんが、会社員と置きかえたら、これって今も通用しているものでしょうか。私には、かなり疑問に思えます・・・。
 離婚は、日本では異常な高率を示しているが、これは女性の自由度を示すものである。離婚歴は女性にとって何ら再婚の障害にはならなかった。その家がいやなら、いつでもおん出る。それが当時の女性の権利だった。
 日本の女性は外国人に対して物おじしない。夫人の洋服を着たがり、自分の洋服姿に大満足だった。
 江戸時代の女性は、たとえ武家であっても飲酒喫煙は自由だった。たてまえは男に隷従するというものであっても、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であった。
 日本人の性格の注目すべき特徴は、もっとも下層の階級にいたるまで、万人が生まれつき花を愛し、2、3の気に入った植物を育てるのに、気晴らしと純粋なよろこびの源泉を見いだしていることだ。
 私の法律事務所では、幸いにして笑いが絶えません。深刻な相談に乗っているときなどには、笑い声が聞こえてくると場違いな雰囲気になって、相談者に申し訳なく思うことがあります。それでも、私にとってはストレス発散になって、ノイローゼから免れることができる利点があります。

粘菌、驚くべき生命力の謎

カテゴリー:未分類

著者:伊沢正名、出版社:誠文堂新光社
 ああっ、これはすごーい。こんな不思議な色と形の生命体がこの世にいたなんて・・・。ホント、世の中は広大無辺だと実感します。
 粘菌の見事な写真のオンパレードです。ぜひ一度、この写真集をどこかで手にとって見てみてください。きっと、世界観が変わることと思います。
 日本の粘菌分類学研究で有名なのは、昭和天皇と南方熊楠(みなかたくまぐす)である。昭和天皇は磯辺にすむ海洋動物の研究をしていたと思っていましたが、違うんですね。
 粘菌は単細胞生物。彼らの住みかは朽ち木の中や枯葉の下の湿った土の中であり、そこでミクロなサイズで生きている。肉眼で見るのはむずかしい。ただ、ときに数センチほどに成長した変形体や1ミリほどの大きさをもつ子実体を見かけることもある。
 朽ち木を壊した拍子に、血管網のようにびっしりと朽ち木に入り込んだ糸状の変形体が現れてびっくりすることもある。変形体は、このような網目構造をつくって活発に這いまわる。その網目構造は、環境や外部の刺激により劇的につくり変えられる。これは体形の変化であり、変形体の行動の一様式である。
 粘菌の登場する映画がある。えっ、何?なんと『風の谷のナウシカ』なんです。宮崎駿監督による映画です。私は子どもたちと一緒に何回も見ました。すごく圧倒されるような映像です。そこに粘菌が登場します。
 粘菌は、土鬼の科学者がトルメキアを倒すために種菌を特殊培養した植物兵器として描かれている。空中戦艦の中で爆発的に成長した粘菌は、艦を覆い尽くし、地に降りて土鬼の領地を浸食し、猛毒の瘴気をまき散らし、あっという間に直径数キロもの姿に変貌する。王蟲と粘菌を菌床に広大な領土は腐海に没し、土鬼帝国は崩壊する。
 いやあ、すごーい写真集ですよ。この世の中に、こんな色と形の生き物がいたなんて、驚きです。みなさんも、ぜひ一度、手にとって眺めてみてください。

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