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CIA秘密飛行便

カテゴリー:アメリカ

著者:スティーヴン・グレイ、出版社:朝日新聞社
 9.11以降、既成概念にとらわれない発想が大はやりとなり、新たなテロの脅威に対する新たな戦争手法が模索されだした。新たな手法は、非合法(イリーガル)とはされなかった。そのかわり、ブッシュ政権は、それを超法規(エクストラリーガル)と呼んだ。これは、あらゆる法の枠外にあるということ、つまり無法状態ということである。
 エクストラ・リーガルシステムの目的は、囚人をあらゆる法律家、アメリカの裁判所、あるいは軍事法廷による保護の届かないところへ連れていくことにあった。テロリストは、なるべくなら、彼らを厳しく扱う国にその対応をまかせる。それこそ、ふさわしいやり方だと政治家たちは信じた。
 モロッコでの拷問は、剃刀の刃をつかって、全身くまなく、性器にいたるまで、切れ目を入れるもの。そんな目にあうと、政府の望むことは何でも「白状」することになる。
 それは、そうでしょう。私なんか、自慢じゃありませんが、いちころでしょう。とてもそんな拷問に耐えられる自信なんかありません。
 食事のなかに麻薬みたいなものが混じっていたり、ハンガーストライキを始めると静脈への点滴で何かの物質を体内に注入された。また、尿の臭いの立ちこめる部屋に一人入れ、ポルノグラフィーを見せたり、全裸や半裸の女性を一緒にさせ、罪を犯させようとした。
 キューバのグアンタナモ米海軍基地への700人をこえる囚人移送はレンディション(国家間移送)である。なぜなら、公式に「戦争捕虜」と認められたものは一人もおらず、全員が法的手続きも、条約もなしに、国家間を移送されたケースだからだ。アメリカの管理下へ「レンディション」されてきた人間の大多数は、アフガニスタンの戦闘地域以外から送られてきた者たちである。グアンタナモに収容所が設けられて以降の4年間に、  300人以上がそれぞれの出生国に再「レンディション」され、釈放されるか、再収監されるかしている。アメリカ軍がこれまでおこなった「レンディション」は1000件をこえている。
 CIAのテネット長官は、特殊作戦グループを復活させた。それは軍事、準軍事、隠密作戦にかかわる要員と、自前の専用航空資産、特殊装備を融合させたもので、命令ひとつで、世界のどこへでも展開できた。レンディションの実施には、輸送の足が必要だった。そこでCIAは傘下の偽装会社エアロ・コントラクターズ社に目を向けた。
 9.11のあとは、アメリカで裁判にかけることを目的にした従来型のレンディションはほぼ完全に放棄された。外国の刑務所に向けた秘密レンディションが通常の形態になった。有力テトリスとが捕まり、アメリカに戻されて裁判にかけられたというケースは  9.11後の5年間にただの1例もない。
 アブグレイブでの囚人の取調では、3つの組織が互いに競いあっていた。第1は、CIAの命令で動くイラク調査グループ。価値の高い囚人の大半を握っていた。第二は、各特殊部隊の寄り合い所帯であるタスクフォース121で、これにはCIAも参加していた。第三は、アブグレイブに集められたアメリカ軍の自前の情報部隊である。
 CIAもアメリカ軍情報部も、憲兵隊に対して、虐待しろという公式命令を下していたわけではなかった。たとえば囚人に性的虐待をおこなえという命令は、軍の指揮命令系統のいずれの者によっても出されてはいない。むしろ、ワシントンの政治指導者から出された一連の命令や法的見解の果たした役割が大きかった。
 CIAの尋問テクニックは、拷問そのものとは言えない、強化型テクニックを利用可能にしようとするものである。たとえば、囚人の睡眠を奪ったり、溺死すると勘違いさせるなどのテクニックを駆使したいのである。
 ペンタゴン内で映画「アルジェの戦い」が2003年8月に上映されたそうです。この「アルジェの戦い」は、1966年の映画です。私が大学に入ったのは1967年ですが、入試が終わって、大学に入学するまでの間に渋谷の映画館でみたような記憶があります。まだフランス語を勉強する前でしたが、フランス語の「アタンシヨン、アタンシヨン」という言葉を、今もくっきり覚えています。
 フランス軍(空挺部隊)は拷問と処刑の双方をふくむ残酷な戦術を用いて、アルジェリアの独立を目ざす民族解放戦線(FNN)の指導層をほぼ全員検挙し、一掃することに成功した。しかし、この勝利は一時的なものにすぎず、フランスはやがて戦争に敗れた。アルジェリアで、拷問は戦闘に勝ち、戦争に負けた。
 なーるほど、そういうことなのですね。久しぶりに40年前の映画「アルジェの戦い」を見てみたいと思いました。
(2007年5月刊。2500円+税)

陸軍特攻・振武寮

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:林 えいだい、出版社:東方出版
 思わず腹が立ってしまう本です。いえ、著者に対してではありません。軍人のいやらしさに、対してです。死んで華を咲かせてこい、などと偉そうに命令しておいて、自分は後方で酒など飲んで、のうのうとしている。そして、最前線から生きて帰ってきたら、その兵士を懲罰したというのです。人命軽視というのは軍隊の相も変わらぬ体質です。あー、やだ、やだ。そんな軍人に日本が再び支配されるなんて、まっぴらごめんです。そんな気持ちに、しっかりさせる本でした。
 戦争末期。特攻機には不良機が続出していた。なぜか? たとえば、飛行機の部品をつくっていたのは、慣れない高等女学校の生徒たち。彼女らが必死にヤスリで削っても、しょせんは素人集団。熟練工でないため、不良品が続出するのもやむをえなかった。これは、ナチスの軍事工場で、動員された女工たちが意識的なサボタージュ(不良品をわざとつくっていた)とは違うものです。国の生産管理そのものに無理があったわけです。
 部品の不良品が続出し、何回テストしても不合格となる。作業する女学生の精神がたるんでいるからだと検査官は責任を作業する女学生に転嫁した。しかし、資財の不足は決定的だった。3月27日、アメリカ軍のB29による大刀洗飛行場大空襲によって、九州一を誇った大刀洗陸軍航空厰が全滅した。そのため熊本県菊池にある陸軍航空分厰と山口県下関にある小月分厰とに故障機が殺到した。
 大刀洗飛行場は、陸軍が誇る西日本一の飛行場だった。そこで1万人が働いていた。大刀洗航空機製作所は、百式重爆撃機「飛龍」を製造した。1万3000人の従業員がいた。飛行場の上空は気流が安定していて、飛行訓練には最適だった。
 飛行機の操縦士というのは、募集しても短期間では教育できない。一人前の操縦士を育てるには3年はかかるといわれていた。そこで、大学や専門学校に在学している学生に白羽の矢が立った。学問して基礎教育はできている。思想的にも大人になっている。体力的にも訓練に耐えられる。そのような学生を集めて、特別に操縦士の早期育成教育をすることになった。勅令によって、特別操縦見習士官という制度がつくられた。
 教官と助教は、日頃から、生徒の操縦に注目している。本人の性格まで分析して、体の動きが機敏で反応が早いのは戦闘機、動作がゆったりしているのは重爆、素早くて目がいいのは偵察と決まっていた。分けられた者をみると、いつも納得させられた。
 もともと陸軍の航空隊は、海上の敵機動部隊への艦船攻撃の訓練を受けたことがない。陸軍の航空本部長は特攻作戦に反対した。
 特攻隊というのは捨て身の戦法で、飛行機も操縦士も同時に失って再び戦闘につかえないという重大な欠陥がある。これは戦術的にも間違った戦法であって、本来やるべきことではない。お金をかけて長いあいだ養成した優秀な操縦士を、たった一度の体当たりで失うことに疑問をもった。しかし、そのように反対した本部長も参謀も更迭され、総入れ替えとなった。
 特攻隊をつとめるときには、熱望する、希望する、希望しないという3つの設定で回答を迫る。このとき、希望しないと書くのは、熱望すると書くよりも勇気がいった。うーん、たしかに、そうでしょうね・・・。
 陸軍の爆弾は、爆発した瞬間に広がり、敵兵をなぎ倒して死傷させることが目的であって、もともと艦船攻撃用のものではない。海軍の雷撃隊が使用する魚雷は、鉄鋼爆弾といって、戦闘艦の厚い鉄板を貫いて爆発する。陸軍の250キロ爆弾は、コンクリートの上に卵をぶつけるようなもので破壊力がない。
 特攻隊が出撃する前の軍司令官の訓辞は次のようなものでした。
 お前たちは、生きながらの神である。日本の国を救うのは、お前たち以外にはない。一命を投げ出して、国のためにいさぎよく死んでくれ。お前たちのことは、畏くも上耳に達するようにする。軍司令官も参謀も、最後の一機で突っ込む覚悟だ。お前たちだけを見殺しにはしない。
 うむむ、なんとカッコいい激励のコトバでしょう。でも、現実は、そうではありませんでした。乗った飛行機が故障して帰ってくると、次のようにののしられました。
 貴様たち、なんで帰ってきた。卑怯者のお前たちに与える飛行機なんかない。卑怯者、死ぬのが怖いから帰ってきたのか!
 特攻隊で出撃して死にきれない隊員は、軍人精神がたるんでいる証拠だ。飯を食う資格がない。まず、反省文を書け。教育勅語と軍人勅諭をオレがいいというまで書け。
 貴様ら、その態度は何か。それでも軍人か。何で生きて帰ってきたのか。貴様たちは、そんなに死ぬのが怖いのか。
 盛大な見送りを受けた特攻隊員が生きて帰還したとき、それは罪悪として非難された。しかし、死に追いやった者が生還者に言うべき言葉ではない。そのとおりですよ、まったく。そして、実は、生還者をののしった参謀は戦後、長生きした。しかし、80歳になるまで生還者や遺族から襲われることを恐れて、自分の護身用としてピストルと軍刀を身辺から離さなかった。なんということでしょう。おぞましい人生ですね。特攻隊の現実を考えさせらる本でした。
 お盆休みに知覧へ行ってきました。たくさんの特攻隊員の顔写真を見ながら、死にたくなかっただろうな、とつくづく思いました。お国のために死んでこい、オレもあとから続くなんて言った偉いさんたちのほとんどは、若者への言葉を違えて安穏な戦後を過ごしたのではないでしょうか。改めて腹が立つのを抑えきれませんでした。
(2007年3月刊。2800円)

歌姫あるいは闘士、ジョセフィン・ベイカー

カテゴリー:アメリカ

著者:荒 このみ、出版社:講談社
 ジョセフィン・ベイカーって、名前は聞いたことがありましたが、どんな女性だったのか、この本を読んではじめて知りました。
 ジョセフィン・ベイカーはアメリカ生まれの生っ粋の黒人。アメリカでの黒人差別に嫌気がさして、パリで成功するとフランスに定住する。成功した歌姫としてアメリカで公演するときも、黒人なので会員制クラブではおろか、レストランでもホテルでも公然たる差別を受けた。それに対してジョセフィン・ベイカーは敢然とたたかった。人種差別のない世界を目ざして、世界中から12人の養子をとった。1954年4月、日本にも来て、1人を養子にするはずが、2人の男の子を養子にした。
 第一次世界大戦のとき、40万人以上のアメリカ黒人が兵役につき、そのうち20万人がフランスに送られた。アメリカ側では黒人兵がフランス人と接触することを回避しようと、禁止令を出したが、効果はなかった。
 ジョセフィン・ベイカーたちはフランスでの公演でパリ市民を熱狂させた。
 写真を見ると、すごいのです。パリ市民がそれまで見たこともないような踊りだった。観客を戸惑わせ、それ以上に歓喜させ、狂喜させた。ほとんど裸体の踊りなのだが、エロチックというより躍動美であり、ついつい見とれてしまったのである。
 ジョセフィンの茶色の肌は観客にとってエキゾティックで蠱惑(こわく)的、本能的だった。踊りの速さ、動き、奇妙さは、それまでパリが経験したことのないものだった。ジョセフィンの官能的で機知に富んだ性格の輝きがあった。
 ジョセフィンの踊りから、人間の身体の根源的な美しさが感じられ、生の躍動がじかに魂に伝わってきた。だからこそ、パリの観客の心は激しく揺さぶられた。
 パリのレストランで、ジョセフィン・ベイカーが友だちと食事をしていると、アメリカ人の女客が店長を呼びつけて叫んだ。「あの女を追い出してちょうだ。私の国では、ああいう女は台所にやられるのよ」 ところが、どうぞお立ちくださいと言って店長が追い出したのは、そのアメリカ人の女客だった。
 いやあ、アメリカ人の黒人差別(実は黄色人種の差別も)は、昔も今も変わりませんよね。日本への原爆投下も猿以下とみなしていた日本人蔑視によるものであることは、歴史的事実ですからね。これはホントのことです。
 ジョセフィン・ベイカーは、フランス南部に城(シャトー)と所有し、そこで12人の養子を育てました。商業的には結局、破綻してしまうのですが、その夢は今も生きている気がします。
 そして、ジョセフィン・ベイカーは、第二次世界大戦中には、ナチスの支配に抵抗するレジスタンス運動に加担するのです。たいしたものです。情報員に求められるのは、勇気と直観と知性。この三つとも彼女には備わっていたと、レジスタンス運動に引っぱりこんだ幹部が語っています。
 ジョセフィン・ベイカーは、アメリカに帰ったとき、若い黒人大学生に語りかけた。一つは、社会で何かを成しとげるときには努力が必要なこと。自分の才能というのは天性であるとともに、努力するからこそ花が開く。二つ目に、黒人は劣等感にさいなまれているが、自分たちの人種的劣等感を捨てて、これまで自分たちの仲間が立派に活躍してきたことを誇りに思うこと。三つ目に、黒人の文化を教育することの重要性と緊急性である。これって、今の日本人の若者にも、すごくあてはまる大切なことのように思いますが、いかがでしょうか・・・。
(2007年6月刊。1890円)

伝説の社員になれ

カテゴリー:社会

著者:土井英司、出版社:草思社
 ビジネス書を1万冊も読んだというのです。あれれ、ビジネス書って、そんなに面白いものなのかしらん、私は懐疑的になりました。
 最低限の利益を出すには、人件費は売上げの3割におさえるのが経営の原則だ。つまり、今もらっている給料の3倍の売上げをあげて、ようやく給料にみあう働きをしていることになる。
 必要なことは、出世したり、高い給料を追い求めることではない。一生を通じて自分がケアをし、それによって自分も成長できる、そんな対象を見つけること。
 どんなことでも9年間続けたら成功できる。そして、成功するためには、その代償として何を捨てなければならないのか、それも考慮する必要がある。
 一流の人と出会い、つきあうことの利点は、情報をもらえる、何かトクがあるということではない。この人には絶対かなわないと実感できることだ。一流の人にふれると、彼らに勝てるとしたら、自分のどの部分だろうと考えるきっかけにする。
 一流の人にふれる利点は、素直に負けを認められること。
 私も新人弁護士のとき、先輩弁護士のあまりのすごさに圧倒されてしまいました。とてもかなわないと思いました。今でも、それは同じです。ともかく、口八丁、手八丁なのです。いやあ、これはかなわない。そう思ってしまいました。でも、どこか、私もできるところがあると思い、生まれ故郷にUターンしたのです。
 継続するための一番の方法は、それを習慣にしてしまうこと。
 一日の生活を単純化しています。夜12時に寝て、朝は7時に起きる。それは絶対に崩さない。朝はフランス語の書きとりをし、土曜日はフランス語会話教室に通う。夜はテレビを見ず、ひたすら活字を読むか、書きものをする。これで30年以上、やってきました。ようやく、世の中が少しずつ見えてきました。
 いろいろ参考になる言葉が紹介されていました。
(2007年4月刊。1200円+税)

幕末下級武士の絵日記

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:大岡敏昭、出版社:相模書房
 私も小学生のころ、夏休みに絵日記をつけていたことがあります。ところが、変化のない毎日ですので、何も書くことがなく、苦労した覚えがあります。そして、残念なことに絵も上手ではありませんでした。いえ、下手ではなかったのです。絵をかくのは好きなほうでした。ただ、自分には絵の才能がないということは子ども心に分かっていました。この本は、江戸時代末期に下級武士が自分の毎日の生活を絵と言葉でかいていたというものです。すごいですね。江戸時代についての本は、私もかなり読みましたが、武士が絵日記をつけていたというのは初めてでした。行灯(あんどん)の絵もかいていたというのですから、もちろん絵が下手なわけはありません。劇画タッチではありませんが、当時の下級武士の日常生活が絵によってイメージ豊かに伝わってきます。とても貴重な本だと思いました。
 ところは、現在の埼玉県行田市です。松平氏所領の忍(おし)藩10万石の城下町に住む10人扶持の下級武士、尾崎石城がかいた絵日記です。
 石城は御馬廻役で100石の中級武士だったところ、安政4年、29歳のとき、藩当局に上書して藩政を論じたため蟄居(ちっきょ)を申し渡され、わずか10人扶持の下級身分に下げられてしまいました。ときは幕末、水戸浪士が活動しているころで、尊皇攘夷に関わる意見書だったようです。
 石城の絵日記をみると、毎日、実にたくさんの友人と会って話をしていることが分かる。平均で5〜6人、多い日には8〜9人にもなる。当時は、それだけ人と会うのが密接だった。家にじっと閉じこもっていたわけではなかったのです。
 石城は書物を幅広く読んでおり、自宅には立派な書斎をかまえていた。貸し書物屋が風呂敷に包んだ本を背負って、各家を訪ねていた。石城が読んでいた408冊も日記に登場する。万葉考、古今集、平家物語、徒然草、史記、詩経、五経と文選、礼記、文公家礼などの中国古典もあり、庭つくりの書まであった。
 床の間の前で、寝そべりながら、友人たちと一緒に思い思いの書物を読んでいる姿も描かれています。のんびりした生活だったようです。
 酒宴がよく開かれていたようです。しかも、そこには中下級の武士たちだけではなく、寺の和尚と町人たちも大勢参加しているのです。身分の違いがなかったようです。仲間がたくさん集まって福引きしたり、占いをして見料(3800円)をもらったり、ええっ、そんなことまでしてたのー・・・。と驚いてしまいました。
 酒宴をするときには、知りあいの料亭の女将も加わって踊りを披露したり、大にぎわいのようです。そのなごやかな様子が絵に再現されています。
 茶店は畳に座るもので、時代劇映画に出てくるようなテーブルと椅子というのはありません。
 石城が自宅謹慎(閉戸、へいと)を命ぜられると、友人たちが大勢、そのお見舞いにやってきたとのこと。なんだかイメージが違いますね。友人がお酒1升と目ざしをもってきたので、みんなでお酒を飲んだというのです。
 石城は明治維新になって、藩校の教頭に任ぜられています。独身下級武士の過ごしていた、のんびりした生活がよく伝わってくる絵日記でした。

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