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蟻の兵隊

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:池谷 豊、出版社:新潮社
 敗戦したあとも中国に残って、毛沢東の率いる中国紅軍と3年半も戦っていた日本兵の集団がいたなんて、ちっとも知りませんでした。
 中国山西省に駐屯していた北支派遣軍第一軍の将兵2600人は、中国国民党系軍閥の部隊に編入され、戦後なおも3年8ヶ月にわたって中国共産党軍と戦い、550人あまりが戦死した。生き残った者も700人以上が捕虜となり、長い抑留生活を強いられた。ようやく帰国できたのは昭和30年前後のこと。帰国したとき、これら元日本兵は逃亡兵の扱いを受けた。日本政府は、残留将兵たちが自らの意思で残留し、勝手に戦争を続けたとみなし、戦後補償を拒否した。
 2001年5月、元残留将兵ら13人が軍人恩給の支給を求めて国を訴える裁判を起こした。しかし、一審判決で敗訴した。日本って、ホント、むごい国ですよね。
 中国国民党系の軍閥の首領は閻錫山(えんしゃくざん)。彼は、1904年、21歳のときに日本へ留学し、陸軍士官学校に入学した。閻は孫文の中国革命同盟会に加盟し、弘前の連隊に勤務するなどした。5年間の日本留学を終えて中国に戻ると、山西省で大隊長級の軍人となった。そして、次第に力を蓄え、山西省に独立王国のようなものを築くにいたった。そこで、蒋介石は、閻錫山の軍隊と八路軍とを戦わせ、双方の弱体化を狙った。閻にとって、八路軍と衝突するのは蒋介石を利することになる。それを悟った閻は、日本軍と手を結ぶことにした。
 昭和20年の終戦時、日本の北支派遣軍第一軍は5万9000人いた。そのうち、閻は1万5000人を残留させ、自軍に編入することを試みた。名目は「鉄道修理工作部隊」とした。第一軍当局は、閻の要請を受け入れ、現地除隊の手続きをとらないことにした。現地除隊してしまえば、好きこのんで残留する将兵が誰もいなくなるからである。
 ところが、南京にある支那派遣軍総司令部から派遣された参謀が、山西省で軍の命令に反して勝手に日本兵の一部が残留しようとしているのを知り、妨害した。その結果、動揺が生じて、1万5000人の予定が残留者は2600人にまで激減した。
 日本兵の残留工作にあたった軍幹部の認識は次のようなものだった。
 蒋介石の国民党軍は、正規軍400万、地方部隊200万で、合計600万の大軍があった。これにアメリカが46億ドルの兵器を提供した。B29機、戦車、重砲、自動銃、火炎放射器、通信機。これに対する中国共産党軍は90万。兵器は蒋介石軍や日本軍から取り上げたもの。だから、1年か1年半で、人民解放軍を撃滅できる。
 ところが、八路軍は、徐向前の率いる20万の大軍、そして、猛将といわれた賀竜の率いる10万の大軍が進攻しており、山西省は陸の孤島になりつつあった。
 日本軍は山西軍を教育するだけでいい、直接の戦闘には加わらなくてよいという約束はたちまち反故にされ、早くも戦死傷者が出た。それまでは「逃げる八路軍」の体験しかなかった日本の将兵は、人海戦術で正面から戦いを挑んでくる共産党軍の存在を初めて知った。
 装備も士気も劣る山西軍との共同戦線なので、日本軍は必然的に最前線に立たされることになった。そこで、八路軍は、むしろ残留日本軍を標的に戦闘を仕掛けてきた。
 そんななか、中国残留をすすめていた山岡参謀長が帰国し、澄田第一軍司令官も日本に帰国した。澄田は帰国する前、次のように訓示した。
 祖国日本の復興のためにがんばれ。自分は閻将軍と台湾に行き、日本に帰ったら、必ず2万の救援軍を連れて帰ってくる。
 日本から2万の義勇兵を連れて中国に戻ることを約束したというのです。なんということでしょう・・・。この澄田元司令官は昭和54年に89歳で天寿をまっとうし、昭和29年9月に勲一等旭日大緩章をもらっています。まだ山西省で残留日本将兵が死闘をくり広げているころになります。
 軍隊そして軍人の無責任さには、ほとほと呆れてしまいます。
(2007年7月刊。1400円+税)

ひとり誰にも看取られず

カテゴリー:社会

著者:NHKスペシャル取材班、出版社:阪急コミュニケーションズ
 孤独死は全国で毎年3万人ほど出ていて、実は自殺者の3万2000人を上まわるのではないか。ええーっ、と驚いてしまう数字です。いつのまに日本はそんな国になってしまったのでしょう。
 トントントンカラリンとお隣りさん、という世界は、はるか彼方の遠い昔のこと。今では、隣りは何をする人ぞ、というだけ。無関心、没交渉。お金がいくらかあっても、まさに人知れず死んでいく人がなんと多いことか・・・。
 最近、私の依頼者でアル中の人が死後3ヶ月ほどして発見されました。同じ市内に親兄弟が住んでいたのですが、アル中のため散々、身内に迷惑をかけていたため、ついに家を追い出され、一人でアパートを借り、生活保護を受けながら生活していたのです。発見の契機は、通院先の病院から、実家に「最近、通院されていませんが、どうしたのでしょうか」と安否を尋ねる電話がかかってきたので、アパートに行ってみたところ、死後3ヶ月たっていたというのです。発作をおこして病死したようです。痛ましい孤独死でした。
 孤独死の定義は、いろいろあるようです。
 孤独死とは、低所得で、慢性疾患に罹患していて、完全に社会的に孤立した人間が、劣悪な住居もしくは周辺領域で、病死および自死に至るときをいう。
 孤独死とは、すでに社会的関係が絶たれていて、その結果、誰も死に気づかず、死後かなりたってから、第三者に発見された場合をいう。
 千葉県松戸市にある常磐平団地は4、5階建ての中層集合住宅。入居開始は1960年4月。総戸数4839戸。入居完了は1962年6月。当時は入居希望者が殺到し、抽選倍率は、なんと20倍。
 当時としては、まさに夢の住まいだった。団地内に、保育所、幼稚園、小・中学校、郵便局、商店街まで備えた、一つの町、ニュータウンが誕生した。団地族が誕生した。人口のピークは、1970年ころ、2万人。一戸あたりピーク時4人、今は2人を下まわっている。65歳以上の住民が3割に達している。
 家賃滞納で孤独死が発覚するケースは、今はほとんどない。家賃を口座引き落としにしている人が9割以上だし、生活保護を受けていると、毎月、引き落としされる仕組みになっているから。人と人とのつながりが希薄になっているだけでなく、システムとしても孤独死が見えにくくなっている。このため長期間、放置されてしまうケースが出てくる。
 孤独死する人は、電話も止められていないのに、誰にも連絡することなく亡くなっていることが多い。うへーん、寂しい話ですよね、これって・・・。
 40代、50代、60代の中年男性の孤独死が、高齢者の孤独死を上回っている。
 孤独死を扱った番組に対して、読者からの投書には、なぜ孤独死してはいけないというのか、孤独死する覚悟はできているぞ、というものが多かった。
 これに対して著者は反論する。死を概念的にしかとらえず、「放置された死」がどういうものか知らないことも大きい。ウジがわき、ひどい臭いを放つ姿になった自分を、赤の他人に見られる。遺品もすべて他人の手に委ねられる。そして、それを処理する人の迷惑。現実の孤独死は、美学とはほど遠いものでしかない。
 うむむ、そうなんでしょうね・・・。考えされられる本でした。
(2007年8月刊。1400円+税)

北朝鮮はなぜ潰れないか

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:重村智計、出版社:ベスト新書
 北朝鮮は、すでに社会主義国ではない。社会主義の柱である「配給制」をやめたからだ。社会主義は事実上、崩壊した。支配機構としての労働党が存在しているに過ぎない。社会主義というよりは、政治学の分類では「軍事独裁」といった方が正確だろう。
 北朝鮮は、2002年7月1日から配給制を廃止した。国民は、すべて自分で稼いで生活しなければならなくなった。事実上の初歩的な市場経済の導入である。このため、給料を20倍から30倍に引き上げた。
 ええっ、そうだったんですか・・・。私は、知りませんでした。
 韓国は、なぜ北朝鮮の崩壊を望まないのか。東西ドイツの統一を見て、尻込みしてしまった。ドイツは、統一後、不景気や失業に悩まされた。かつての西ドイツ国民の生活水準が下落した。統一ドイツは、旧東ドイツに毎年10兆円の補助金を出した。10兆円は、韓国の国家予算の6割にあたる。とても、こんな負担には耐えられない。
 韓国民にとって、統一は理想だ。しかし、今すぐの統一は「悪夢」だ。だから、北朝鮮が崩壊しないよう、食糧や肥料の支援をせざるをえない。
 キム・デジュン(金大中)前大統領は、金日成総書記と面会するとき、面会料として、5億ドル(600億円)を支払った。
 韓国が、いま崩壊した北朝鮮を引き取ると、経済が停滞し、大混乱に陥るのは間違いない。統一すれば、韓国民の一人あたりのGDPは、今の1万4000ドル(170万円)が、半分の7000ドル(80万円)に落ちこむ可能性がある。
 北朝鮮を崩壊から救っているのは、韓国と中国である。
 北朝鮮は暴発する能力をもっていない。正規軍100万人いるのに、軍が最大限つかえる石油は45万トン。これではまともな訓練もできない。日本の自衛隊は、年間150万トンの石油をつかっている。空軍のパイロットは、アメリカ軍や自衛隊では、年間200時間の飛行時間が求められる。北朝鮮では、それがやっと年間20時間。訓練もままならない。50万トンしかない石油では、10日以上は、戦闘を継続できない。
 テポドンもノドンも、最新鋭のミサイルではない。三代前くらいの古いミサイルである。なぜ古いのか。まず液体燃料をつかっている。新鋭のミサイルは、固形燃料でないと武器として意味がない。
 液体燃料は、事前に発見されやすい。攻撃を受けやすい。発射直前に燃料を注入するから。早くから燃料を注入すれば、金属が腐食して発射できなくなる。また、注入に時間がかかるから、発見される可能性が高い。
 うむむ、北朝鮮からミサイルが飛んできたら、どうするのか、というのが憲法改正の大きな理由の一つとなっています。この本を読んで認識を改めないといけないと思いました。
(2007年7月刊。680円+税)

はい、わかりました

カテゴリー:社会

著者:大野勝彦、出版社:サンマーク出版
 ごしんぱいを おかけしました
 両手先 ありませんが、
 まだまだこれくらいのことでは 負けません
 私には しなければならないことが たくさんありますし、多くの人が 私をまだまだ必要としているからです
 がんばります
 これは、45歳のとき、農作業しているとき、ちょっとした自分の不注意から両手を失った著者の初めての言葉です。すごいですね、心がふるえるほど感激しました。
 この本のタイトル、「はい、わかりました」は、両手のない人生をはじめた著者が、いちばん大切にしている言葉です。言われたことは否定せず、まずは受けとめよう。心を閉ざさずに肯定しよう。
 そうやって受け入れる人生を歩みはじめると、それまで見えなかったことが、見えるようになった。
 なーるほど、ですね。この詩画集にのせられている絵は、どれもこれも、実に生き生きと躍動しています。いかにも、いま生きていることが楽しい。そんな感じの線であり、色あいです。派手目の色が今にも飛び出してきそうなほど輝いています。
 昔のわたしは理屈ばかり言っている人間だった。説得力とは実践だ、と言わんばかりに、眼光は鋭く、けっして笑わない。笑う男は軽いヤツだとまで思っていたほど。たくさんのやさしさに囲まれている今のわたしが思うこと。笑顔必携、やさしさ持参。人に会うたびに、人間の顔はすごいなあと気づかされる。
 著者の生き生きした絵を見ると、きっと両手を喪う前から絵を描いていた、あるいは幼いころ絵描きを目ざしていたと思います。ところが、著者によると、絵心なんて昔からあったわけではないというのです。色をつかう発想も最初はなく、墨をうすめて水墨がのようなタッチで窓から見える山の風景とか身のまわりを描いていた、といいます。
 それが、今では1年365日、絵を描かない日はない。どこかへ行ってすわったとたん、もう義手が鉛筆を握っている。無意識のうちに、風景を見ていると、ワクワク、ドキドキしてきて、デッサンしたあと、さささっと水彩絵の具で、色をつけてしまう。理屈ではなく、からだが反応してしまう。
 そんな著者の絵が、阿蘇にある大野勝彦美術館にはたくさんあるそうです。ぜひ、一度行ってみたいと思いました。
(2007年7月刊。1600円+税)

左手の証明

カテゴリー:司法

著者:小澤 実、出版社:Nanaブックス
 周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』は、とてもいい映画でした。残念なことに、『Shall wee danse?』ほどの観客動員はできませんでした。日本人の社会意識って、まだまだ遅れているところがありますよね。毎度毎夜のバカバカしいテレビ番組(私はテレビ自体を見ていませんが・・・)を見るヒマがあったら、こんな映画こそ見て、いったい日本国民の基本的人権はどうやったら守られるのか、心配してほしいと思います。ホント、です。
 私は大学1年生のとき、岩波新書『誤った裁判』を読んで愕然としたことを今もはっきり覚えています。ええーっ、日本の裁判官って、信用できないのか、そう思ったとき、背筋が冷たくなる気がしました。そのときには自分が弁護士になるなんて夢にも思っていませんでしたので、いったい、冤罪にまき込まれたとき、どうやったら自分の身を守れるのだろうかと、心底から心配しました。
 この本は、2006年3月8日に、東京高裁で逆転無罪となった満員電車内のチカン冤罪を扱っています。女子高校生がチカン被害にあったこと自体は事実のようです。しかし、真犯人は別にいて、被告人とされた人は間違われただけだということです。
 女子高校生のスカートのなかに男が左手をさしこみ、下着の中にまで手を入れて触ったという事件です。ところが、被告人とされた男性は左手に、でっかいスポーツ腕時計をはめていたのです。下着の中に左手を入れたら、すぐにひっかかるか、何か不都合が起きたでしょう。写真を見たら一見して、そう思えます。
 しかし、警察の捜査段階では、そのことが何も問題になっていません。弁護側は、一審でも、当然、そのことを大きな問題と指摘し、弁論しました。ところが、岡田雄一裁判官は懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の有罪判決を下しました。
 女子高生の下着は長く使用していたため、腰のところのゴムが多少緩くなっていた。左手首に時計をはめた状態で女子高生の下着の中に左手を入れることは想定困難な行為であるとは考えられない。このように判断したのです。ところが、肝心の女子高生の下着は、証拠として提出されておらず、その形が客観的に明らかにされていないのです。岡田雄一裁判官は証拠にもとづかず、ひとり勝手に想像して、被告人を有罪としたわけです。思いこみというのは恐ろしいものです。プロにまかせていれば裁判は安心、というものでは決してありません。
 いずれにしても、有罪判決が出てしまいました。こんな不当判決でも高裁でひっくり返すのは大変です。そこで、弁護団は、控訴審の第一回公判のとき、被告人と3人の弁護人が法廷内で電車内の位置関係を再現するパフォーマンスを敢行しました。すごいですね。私も、今度やってみようと思います。
 そして、改めて電車内の再現実験をして、ビデオにとって証拠申請しました。検察官が不同意としたので、ビデオは上映できません。そこで、ビデオをとった責任者である弁護士が証言台に立ちました。その結果、裁判所は再現ビデオを証拠として採用したのです。うーん、すごーい。粘り勝ちですね。しかも、高裁は、改めて被害者の女子高生を職権で尋問しました。
 事件発生・逮捕が2003年10月22日。保釈が認められたのが3ヶ月たった(106日)の翌年2月4日。一審有罪判決は、さらに翌年の1月21日。そして、高裁での逆転無罪判決は、事件発生・逮捕から868日の3月8日のことでした。実に2年半近くもたっています。その間、奥さんの自殺未遂などもありました。本当に大変だったと思います。控訴審判決には、次のような指摘があります。
 警察官(戸塚警察署)が杜撰ともいえる犯行の再現実験などで、強引なまでに被告人の弁解を封じて、一顧だにしない態度をとったために、被害者は次第に被告人が犯人だと確信するようになってしまった。被告人と被害者との言い分を当初から冷静に吟味すれば、あるいは本件は起訴には至らなかった事案ではないかと考えられる。この種の事案を、たかが痴漢事件として扱うのではなく、当然のことながら慎重な上にも慎重を期した捜査を経たうえでの起訴が必要である。
 刑事被告人として逮捕・勾留・起訴されることの重さを、警察に、そして、裁判官にもっと考えてほしいと思わせる本でした。
 朝、澄み切った青空の下、わが家の庭に何十匹もの赤トンボが群れ飛んでいました。折から昇ってきた朝の太陽に照らされ、眩しいばかりに光り輝く赤トンボの乱舞に、生命の躍動を感じました。背の高い、黄色い小さな花をたくさんつけたヒマワリ畑と、ピンクの大輪の花の芙蓉の花のあいだを、たくさんの赤トンボが行ったり来たりしているのです。エサを取っている気配もありません。朝の運動なのでしょうか。いったい、どこから小川のほとりにあるわけでもないわが家に集まってきたのか、不思議でなりません。
 秋らしい日々となりました。近くの小学校では子どもたちが運動会の練習に励んでいました。子どものころのリレー競争をつい思い出してしまいました。自分では速いつもりでいたのに、追い抜かれて悔しい思いをしたこともついつい思い出してしまいました。
(2007年6月刊。1500円+税)

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