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西南戦争従軍記

カテゴリー:日本史(明治)

著者:風間三郎、出版社:南方新社
 明治10年(1877年)の西南戦争に病院係として従軍した久米清太郎(25歳)の7ヶ月間の日記を読みものにした本です。西南戦争の悲惨な実情がよく伝わってきます。
 著者は久米清太郎の子孫です。久米清太郎は幸いにも生きのび、屋久島に渡って、製糖事業をおこしました。
 2月14日、大雪のふるなか、大将・西郷隆盛の前に1万をこえる兵士たちが勢ぞろいした。一大隊は10小隊から成し、一小隊は200人の兵士からなる。したがって、一大隊は2000人規模。小隊の中心的存在は、城下士。郷士は、城下士の絶対的統率に従わねばならない。
 清太郎は大砲隊二番隊病院掛役を命じられる。砲隊は200人を二隊に分け、保有する砲は山砲28門、野砲2門、臼砲30門であった。
 2月15日、一番大隊長の篠原国幹以下4000人が先陣を切って出発した。
 2月19日、前日から降り出した雪は大雪となった。薩軍兵には制服はなく、大半が着物に草履と脚絆を巻いただけの軽装だった。大砲を引いての雪中行軍は遅々として進まない。
 山門砲や臼砲などの重装備を人力で運搬せざるをえなかった薩軍は雪を甘くみていた。これは誤算だった。
 2月22日、午前4時から熊本で戦争が始まった。
 3月7日、薩軍の大砲が一斉に熊本城へ向かって撃ちこまれた。
 3月10日、田原坂での激戦が続いていて、負傷者が次々に運ばれてきた。田原坂では17日間も決死の闘いが繰り広げられた。
 3月19日、官軍の別働隊が八代に上陸した。官軍の新鋭艦「春日」「鳳翔」「清輝」などが八代湾に入港し、4000人が上陸した。黒田清隆の考えた作戦である。
 4月21日、官軍は3万人にふくれあがり、薩軍は人吉に逃げた。御船で激戦となった。
 5月27日、薩軍は人吉城跡地で、住民の手もかりて、一日2000発の鉛弾をつくった。
 5月29日、清太郎の弟(18歳)が戦死した。この日の清太郎の日記には何も書かれていない。空白は弟の死を哀しむ気持ちのあらわれだろう。
 そのあと、清太郎たちは宮崎県の都城へ逃げた。都城でも、薩軍は追ってきた官軍に大敗した。近代装備を施した官軍2万の前に、心意気だけで戦う薩軍に勝ち目はなかった。
 8月11日、清太郎は、西郷隆盛の息子、17歳の西郷菊次郎に会った。母親の愛加那に似て、目の大きい彫りの深い顔立ちをしていた。
 8月15日、西郷隆盛が和田越の決戦のとき初めて戦場に立った。率いる兵は3500。対する山県有朋の率いる官軍は5万。午後2時、薩軍は全軍が敗走を始めた。菊次郎も官軍に捕らえられた。この菊次郎はその後どうなったのでしょうか?
 清太郎は、8月13日の官軍の延岡総攻撃のとき捕まっていた。
 9月24日、西郷隆盛は49歳で自決した。別府晋介が西郷の首をはねた。
 この日、薩軍の戦死者160余人、降伏した者200余人だった。
(1999年6月刊。1800+税)

江戸の転勤族

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:高橋章則、出版社:平凡社
 タイトルと本の内容とのギャップが大きすぎます。むしろ、サブタイトルの「代官所手代の世界」がぴったりですし、さらにはオビにある「手代たちは狂歌がお好き」がもっと内容をあらわしています。
 江戸幕府の直轄地である天領を治める実務家である代官所手代は全国各地を転勤していたというのです。そして、彼らの多くは狂歌をたしなむ文化人でもありました。代官所手代は江戸時代の文化を担っていた人たちでもあったのです。
 代官手代とひとくくりにされている代官所の主要な構成員である「手附」(てつき)と「手代」(てだい)のうち、手附は、武士身分を有しており、代官同様に全国を転勤する転勤族であった。
 手附が幕臣であるのに対して、手代は農民・町人のなかから事務に習熟した者が縁故によって採用された。民間人が見習いの書役として出仕し、昇格して手代となり、なかには手附と同様に上位管理職である元締めとなった。そして、さらには武士身分を獲得し、手附となり、代官になった例すらある。
 飛騨高山には「高山陣屋」が再現されています。私も一度だけ行ったことがあります。
 この高山陣屋の主は、郡代とも呼ばれ、全国の10数%を占めた天領の行政・裁判の執行者である代官の最高位を占めたエリートだった。石高でみると、普通の代官領が5万石程度であるのに、郡代領は、その倍の10万石ほどであった。郡代は、関東・美濃・九州・飛騨の要衝地4ヶ所におかれていた。
 漬け物に あらねど人の 孝行は 親を重しと するが肝心
 老いらくの 身には針より 按摩より 気をもまぬこそ 薬なりけり
 なかなかよく出来た狂歌だと思います。
 お寺の扁額に狂歌作者たちの画像が描かれているものが紹介されています。ちょうど、公民館に歴代館長の写真を飾るような感じでしょうか・・・。
 江戸時代には役者から学者に至るまで、さまざまな人品をめぐる番付表が作成されていて、それぞれの世界における秩序・序列が可視的にまとめられていた。狂歌の世界でも多くの番付表がつくられた。ということは全国の狂歌作者が相互に知りあっていたということを意味する。
 ふーん。そうなんですね。江戸時代って、タコツボのような閉鎖社会ではなかったということですね。
(2007年7月刊。2600円+税)

石油、もう一つの危機

カテゴリー:社会

著者:石井 彰、出版社:日経BP社
 今またガソリンが値上がりしています。リッター140円台です。どうして、こんなに値段が上下するのでしょうか。さっぱり分かりません。
 2003年までの価格の3倍にも高騰した。ところが、イラン原油が全面的に輸出停止になっても困らないほど、世界の石油消費量の3年分はあった。では、中国の石油需要が急増したためなのか。それも、否。
 ピークオイルが近づいたためか?
 ピークオイル論というのは、世界の石油生産能力が数年以内に地質的限界、資源量的限界に達してピークを迎え、あとは秋の日のつるべ落としのように、運命的、必然的に凋落していくという議論である。ただし、これははじめに1990年までにピークが来ると言っていたのが、2007年まで、いや2010年までと、何回も延びのびになっている。
 いま、公的機関でも業界でも、2015年より前のピークアウト、いや、2030年より前にピークアウトすると予測しているところはない。
 では、なぜ石油価格が高騰しているのか?
 原油先物市場が完全に金融市場にのみ込まれて金融商品化し、そのため需給実態を反映しない過度な価格高騰を来した。これは、石油市場の過去の歴史にはない、21世紀に入ってはじめて現れた現象である。
 価格上昇の主導権は、プロの投機家から、年金基金を主体とする巨額資金の素人投資家に変化した。
 現在、日本の発電用エネルギーのうち、石油はわずか1割。世界でも6%ほど。発電による二酸化炭素の発生源は大半が石炭である。
 世界的にみて、石油需要は、6割が自動車、航空機、船舶等の交通用需要である。発電用や工場・商業施設等の熱源、石油化学の原料などは、全部あわせても4割。
 石油は、もはや産業の米や経済の血液ではなく、交通・輸送の血液に大転換している。
 世界的に見たら、今や「産業の米」は、石油ではなく、天然ガスである。一次エネルギー消費に占める割合でみると、日本では石油が依然として最大で5割を占める。天然ガスはわずか13%ほど。しかし、先進諸国では、石油が40%、天然ガスが25%を占めている。
 かつては、シェルやエクソンなどの七シスターズが世界の石油生産と貿易を牛耳っていた。今や、新セブン・シスターズとは、サウジアラビア、ロシアのガスプロム、中国のCNPC、マレーシアのペトロナス、イランのNIOC、ブラジルのペトロブラス、ベネズエラのベドヴェサの7つの国営石油会社をさしている。
 メキシコとサウジアラビアは、外資をまったく受けつけず、資源資源ナショナリズムでいく。今日の石油をとりまく情報の一端を知ることがことができました。日本の石炭も、もっと大切にすべきだったと、つくづく思います。
 芙蓉の木いっぱいに艶やかな淡いピンクの花が咲き、見るだけで心が和みます。酔芙蓉の花も咲いています。午前中は純白の花が、午後になると次第に赫く染まっていくさまは、まさしく酔人の顔そのものです。エンゼルストランペットも咲きはじめました。細長いトランペットのような黄色い花がたくさんぶら下がっています。チューリップの球根を植えました。とりあえずは、50個ほどです。12月まで、折々の日曜日に植えています。そろそろヒマワリを刈る季節にもなりました。
(2007年7月刊。1600円+税)

日本人だけが知らないアメリカ世界支配の終わり

カテゴリー:アメリカ

著者:カレン・ヴァン・ウォルフレン、出版社:徳間書店
 カール・マルクスに対する支持が再び広がりつつある。イギリスのBBC放送は、2005年に史上もっとも偉大な哲学者は誰なのかについて世論調査を行った。その結果、最高の票数を獲得したのは、ほかでもないカール・マルクスだった。
 マルクスは再び、多くの人々が直面する現実を理解するための指針となっている。
 ひゃあ、そうなんですか・・・。私も大学生のころ、マルクスの本をたくさん読みました。その深い洞察力に、ただただ感嘆していました。
 マルクスの哲学は、社会の現実、とりわけすべてを包含する政治経済における現実を説明するものだった。そして、これは人類すべてにとっての真実であるとされている。
 マルクスは教条的であるが、彼の思想は『資本論』にとどまらぬおびただしい著作に展開されており、その視点は世界を認識するうえで、いまなお優れている。マルクスのもっとも重要な貢献とは、現実にかんする思想において主流となるものは、支配エリート層、すなわち経済的に優位な立場にある人々によって形成され、維持されるという指摘だろう。
 うむむ、なるほど、そのとおりですよね。日本のテレビだって、自民党と金持ち礼賛であふれています。
 アメリカは、もはや世界の覇権国ではない。もはやアメリカは覇権国として世界に君臨してはいない。なぜなら、覇権というのは、軍事力だけでは成り立たない。それは、強力な国家の存在を受け入れることから発声する恩恵をこうむっていると理解している国々からの、集団的な尊敬の念に依存している。もちろん、アメリカは軍事的には世界最強の国である。しかし、皮肉なことに、このような強大な軍事力を備えていることは、同時にそのパワーの衰えをも示している。
 アメリカがいかに無能で無力になりつつあるかが顕著にあらわれたのが、イラク侵攻と占領だった。アメリカはイラクを占領していると言われているが、現実にはアメリカはイラクを支配することができないため、占領しているとは言いがたい。占領というより、不法占拠という言葉のほうが適切だろう。
 いやあ、この点も指摘されているとおりですよね。私はまったく同感です。
 9.11のあと、ブッシュ政権は恐怖をあおった。一般的に言って、政治家たちは恐怖におののく有権者を歓迎する。なぜなら、恐怖に凍り付いている人々はコントロールしやすく、権力者に容易に従うから。ブッシュ政権は、アメリカでもっとも富裕なわずか数パーセントの人々のみに恩恵を与える減税や、大統領権力の拡大といった重要なアメリカ右派の政治的プランの一部を推進するとき、恐怖をもって人心を操る政治手法を利用した。
 このような手法が現実に可能となったのは、アメリカの一般社会が無知だからである。アメリカの人々は、常にマスメディアからの大量のメッセージとイメージを浴びている。だが、それらの中で、真の生活、真の政治、世界の新なる発展に役立つものは実に少ない。アメリカの人々が浴びているのは、ほとんどがエンターテインメントである。
 アメリカ人は、自分たちの国家こそが最高で、偉大であり、最も成功をおさめたと考えている。そして、アメリカ人は歴史を知らない。アメリカの外交エリートたちというのは、過去の栄光の影のような存在だ。
 テロに対して闘いを挑むという思想はばかげている。なぜなら、テロというのは手法を示す言葉であって、われわれが闘いを挑むことのできる組織などではないから。テロは組織ではないから、テロとの戦いに終わりがあるはずもない。テロリストの最後のひとりを抹殺しても、おそらくもっと多くのテロリストが新たに誕生することだろう。
 テロに対する闘いという虚構が危険なのは、正義を求めて対立的な姿勢をとるあらゆるグループが、国際テロリストというカテゴリーに組み込まれてしまう危険があるからだ。
 アメリカは大金をつぎこんで捜査した結果、アルカイダのメンバーであると確認された者を、ひとりとして見つけることができていない。
 よほどすばらしい映画やニュース番組を除いて、テレビをほとんど見ない。なぜなら、テレビは重要な情報をほとんど与えてくれないからだ。情報源として、テレビは役に立たない。しかし、その影響力は、きわめて大きい。
 ふむふむ、テレビを見ないという点では。私もまったく同じです。私にとってはテレビを見る時間があるなら、本を読みます。同じ時間で得られる情報量は断然ちがいます。
 投機家はアンテロープ(羚羊)の群れに似ている。アンテロープは危険を察知すれば、すぐさま全速力で同じ方向へと駆け出す。これと同じように投機家たちも、お金がふんだんにあると見るや市場に殺到し、わずかな変化が起きれば、たちまち市場からどっと逃げだし、市場に壊滅的な打撃を与える。
 そうなんです。投機って、詐欺と同じです。要するに、庶民は欺され、お金をまき上げられるだけです。証券会社と大銀行がもうかるだけです。
 先進諸国によって推進されてきたグローバリゼーションというのは、ある種の奇妙な帝国主義なのだと結論づけることができる。帝国主義を生み出したのはアメリカであるが、それを支持してきたのは、冷戦時代の同盟国であるヨーロッパや日本、そしてそれたの国々の大臣やマスコミの人間、そして政治経済界のエリートたちだった。最大の利益を獲得したのは誰なのか?ほとんど企業幹部、とりわけアメリカの企業幹部だ。
 グローバリゼーションは、ひところ大いにもてはやされましたが、要するにアメリカ大企業の幹部に不当なもうけを保障しただけでしたね。問題の解決には何も役に立っていないどころか、かえって、環境汚染や貧困の問題を深刻化させました。
 アメリカは世界最大の債務国であり、アジアとヨーロッパからの資金供給に過度に依存している。アメリカは巨額の経常収支赤字をかかえている。アメリカは、その差が毎年1100億ドルの割合で増えている。その額は、2005年には8000億ドル、2006年度には、一日平均40億ドルのお金を毎日借りていた。この状況をいつまで続けられるのか誰にも分からない。しかし、いずれ終わりが来るだろうという認識では、みんな一致している。アジアからの資金供給がなければアメリカ経済は破綻する。
 なーるほど、こうみてみると、アメリカが近いうちに行き詰まるのは必至ですよね。
(2007年7月刊。1600円+税)

子供たちは甦る!

カテゴリー:司法

著者:吉永みち子、出版社:集英社
 本のタイトルはいただけません。読めませんし、最近は、子供という漢字はつかわず、子どもと表記するのがフツーです。そして、やっぱり、よみがえるとしてほしいです。漢字だとイメージが違います。初めからケチをつけてしまいましたが、本それ自体はとても読みやすい内容で、素直にすーっと読めました。少年院や少女苑で働いている教官の皆さんの毎日のご苦労に心から敬意を表します。
 最近の少年の特徴は、基礎的な力が本当に落ちていること。人間が自立していきていけるためには、小学校4年生程度の基礎学力、基礎体力をクリアすることが必要だ。ところが、それを教育現場で身につけられないまま成長している子どもたちがいる。生育過程で発達を促す体験も、教えも、環境も与えられなかった結果、健全な成長ができないまま、幼年から少年になってしまった子のいるのが現実。
 幼年期から少年期を経て、大人として自立して生きて人格をきちんと形成するためには、それぞれの年代で体験して身につけておかなければならない発達の課題がある。それが、さまざまな要因で体験できなかったことから、非行行動に走るケースがある。
 必要なことはとことん教え込むという強い指導の姿勢が薄れたことで、初期段階でつまづくと、どんどん流れから取り残されてしまう。基礎的な力が培われないと、その先に積み上げることはむずかしい。
 とにかく、最初は体力づくりだ。まっすぐに走れない。視覚と距離がうまく処理できないからだ。バランスをとるのが苦手な子が多い。猫背の子も多い。
 厳しいトレーニングとして集団行動訓練をしているのを外部の人が見ると、軍隊的でよろしくないということになるかもしれないけど、中途半端にしないで徹底させることによって、できない部分、弱い部分が目に見えてくる。集団行動訓練は、何ができないかを教官が把握するためでもあるが、自分でも気づかなかったことを気づかせるためでもあり、自分では気づいていても、それをひた隠しにしてきたことに向きあわせるためにも必要なことである。
 歩くことから一歩すすんで、走る。ともかく全員に走らせる。教官も一緒に走る。できる子は走り、できない子はあきらめて走らないという状況はつくらない。
 読むこと。本の読み方を知らない子がいる。絵本を読んでもらったこともなければ、買ってもらったこともない。書かれた文字を読んだことのない子に本の読み方を教えこむ。絵本を声を出して一緒に読む。書かれた文字から、場面や人物の気持ちなどを創造させながら読む力を少しずつ向上させていく。言葉が乏しいと、対応の選択肢も貧しくなる。それまでは、むかつき、の一言だったのを変えていく。
 読む力をつけたら、書くこと。自分の感じていることを言葉に置き換えることによって、自分を客観的にふり変えることができる。
 少年院に送られてくる少年には、メタ認知能力が低い子が多い。メタ認知とは、認知を認知すること。つまり、自分の行動や考え方、感じ方、知識量、特性、欠点や長所などを、別次元から眺めて認識すること。それができる力をメタ認知能力という。
 院生には掛け算の九九ができない子が多い。九九がまったくできない子が1割、完全にはできない子が6割。分数になると、9割ができない。ということは、小学校2年程度ですでに落ちこぼれてしまったということ。九九ができないまま10代後半に達すると、実際の生活で自尊感情を傷つけられる場面が増えてくる。そのことが、いじめや非行へのリスクを高めることにつながっていく。計算する力が弱いほど、犯罪行為は自分の人生にとって大きな損失になるという損得勘定が働かない。
 パニックや衝動的になってしまうのは、視覚・聴覚などからの刺激が正しく弁別されず、いっせいに脳になだれ込むために処理ができなくなってしまうから。だから、なるべく静かな環境においてやれば、衝動的な行動を抑えることができる。
 自閉的な傾向の高い少年の固執性は、なぜ起きるかというと、時間がたつにつれて記憶が軽減されないことからくる。いらないものを忘れることができない。
 学校で、もう少し子どもに寄りそった指導をしてくれたらいいけれど、どうにもならんと放り投げてしまう。しかし、予防コストより処理コストのほうが、よほど高くつくのだ。
 聴くスキルを身につけさせる。聴こうとする姿勢を示す。相手が話しやすい雰囲気をつくる。聴いたことをちゃんと考える。子供たちに聴く姿勢が育たなかったのは、幼いころから親や教師に話を聞いてもらう経験が乏しかったことにもよる。
 子どもたちに、これまで食べてきたものを聴くと、ほとんどカップラーメンやファーストフードばかり。
 決してあきらめないこと。さっさとあきらめて子どもを少年院へ送りこんだのは大人たちだ。
 人間同士の認知のギャップをどう埋めていくか、それが教育だ。子どもは変わる。
 事件を起こした子どもは、もう自分には未来なんてないと思っている。どうにでもなれと開き直っているのは、自らの手で自らの将来を葬り去ってしまった不安の裏返しだ。一生けん命に立ち直ろうなどという気持ちより、不安や絶望を反発や怒りに転化させることで、辛うじて自分を保っている状態なのだろう。
 私は、ロールレタリングというのを初めて知りました。手紙を書くのですが、その相手は家族や友人や被害者などです。書いた手紙が相手に読まれることはありません。だから、相手が怒ったり、泣いたり傷つくこともありません。自分の視点と相手の視点と、それぞれ役割を変えながら相手にあてた手紙を書くのです。安心して自分の内面をぶちまけます。
 なーるほど、ですね。自分という存在を少し離れたところから見つめ直す、いい手法だと思いました。
(2007年7月刊。1500円+税)

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