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古代メソアメリカ文明

カテゴリー:アメリカ

著者:青山和夫、出版社:講談社選書メチエ
 アメリカ大陸を最初に「発見」したのは、いうまでもなくコロンブス一行ではない。最初のアメリカ人は、モンゴロイドの先住民たちであった。彼らは、今から1万2000年以上前の氷河期にベーリング海峡が陸つづきになったころ、アジア大陸から南北1000キロに及ぶ広大な陸橋ベーリンジアをこえて、無人のアメリカ大陸に到達した。モンゴロイドの先住民たちは、1万年以上にわたって生活を営みつづけていた。
 チョコレートの原料のカカオは、メソアメリカの先住民が栽培化した。ジャガイモは南米で最初に栽培された。メソアメリカ原産のトウモロコシは、古代から先住民たちの主食である。古代メソアメリカでは、タバコは単なる嗜好品ではなく、重要な儀礼用植物であり、主として王族・貴族のあいだで、宗教儀礼を清め、儀礼的な病気治療にもちいられた。
 日本の秋の代名詞であるコスモス、クリスマスに人気のポインセチア、ダリア、マリーゴールドなども、みなメソアメリカ原産の花である。
 日本人と同じモンゴロイドである先住民が、コロンブス以前に「四大文明」をはじめとする旧大陸と交流することなく、メソアメリカ古代文明を独自に築き上げた。
 古代メソアメリカ文明は、石器を主要利器とした、きわめて洗練された「石器の都市文明」だった。
 メソアメリカの人々は、手だけ(十進法)ではなく、手足両方の指をつかって20進法で数字をかぞえたのが特徴。南米のインカ文明は、日本人と同じく十進法だった。ゼロの概念は、旧大陸ではインダス文明、新大陸ではマヤ文明が、それぞれ独自に編み出した。
 メソアメリカでは家畜はイヌと七面鳥くらいで、耕したり運んだりする大型家畜はいなかった。すべて人は徒歩だった。牛や馬も利用していない。
 マヤの王は、政治指導者であるとともに、国家儀礼では最高位の神官であり、戦時には軍事指揮官でもあった。専業の神官は存在せず、王や貴族が神官の役割を果たした。神聖王であったマヤの王は、先祖・神々と人間の重要な仲介者であり、神々と特別な関係をもつことによって自己の権威・権力を正当化した。
 戦争では王がしばしば捕獲・人身供犠にされ、戦争の勝敗は、都市の盛衰に大きく影響した。しかし、一つの王朝が遠い別の王朝を征服して直接統治することはなかった。
 古代メソアメリカは政治的に統一されなかった。これは、南米で、インカ帝国が15〜16世紀に中央アンデスを統合したのと対照的だ。16世紀からのスペイン人の侵略によって、古代メソアメリカ文明は破壊された。しかし、その後も影響は今に至るまで残している。
 トウモロコシは、乾燥・貯蔵が容易で、その余剰生産は、古代メソアメリカの都市文明をうみ出した原動力の一つとなった。
 トウモロコシ、マメ、カボチャはメソアメリカの三大作物である。
 鏡はあったが、それは鉱石を磨いたもので冶金ではない。鏡は支配層の威信財だった。
 マヤ民族という単一民族は過去も現在も存在しない。共通語の「マヤ語」はなく、30のマヤ諸語が、800万人以上の現代マヤ人によって話されている。
 マヤ文字は、漢字かなまじりの日本語とよく似ており、一字で一単語をあらわす表語文字、一字で一音節をあらわす音節文字からなる。マヤ文字は全部で4〜5万あり、60%くらい解読されている。
 暦は365日暦がある。古典期マヤ文明は、南北アメリカ大陸で、文字、算術、暦、天文学をもっとも発達させ、ゼロの概念を独自に編み出した究極の石器の都市文明だった。
 メキシコ中央高地のテオティワカンは、最盛期の200〜550年には、23.5平方キロの面積に12万5000人〜20万人の人口が密集する、南北アメリカ大陸で最大の都市であり、ローマに匹敵する世界的な大都市として繁栄した。
 アステカ人にとって、戦争とは敵を活かしたまま人身供犠のための捕虜として捕らえ、貢納を確保することが一大目的だった。スペイン人のような、敵を無差別に皆殺しにするという概念は存在しなかったのである。
 数百人のスペイン軍より最終決戦では20万人に及ぶ敵対先住民の同盟軍によってテノチティトランは陥落させられた。アステカ王国の敗北はここに原因があった。
 知らなかったことがたくさんありました。日本人の学者が、この分野でも活躍しているのですね。
(2007年8月刊。1600円+税)

聞き書きフィリピン占領

カテゴリー:アジア

著者:上田敏明、出版社:勁草書房
 11月にフィリピンに行きましたので、17年前に初めてフィリピンに行ったときに読もうと思って読んでいなかった本を引っぱり出して読みました。
 この本は、今から20年も前にルソン島で日本軍が何をしたのか、聞き出した内容をまとめたものです。
 今回、私たちがフィリピンに行ったとき、マニラでバタンガス出身の人に会い、日本軍の蛮行を糾弾されるのではないかとヒヤヒヤしたと語ったガイド氏がいました。この本を読むと、バタンガスに限らず、日本軍がフィリピンの至るところでひどいことをしたことがよく分かります。いえ、ひどいことをしたという表現は上品すぎます。フィリピンの人々に対して残虐このうえない、強姦や大虐殺をしたという事実があるのです。私たちは、同じ日本人として、その事実に目をそむけるわけにはいきません。それは自虐史観というものではありません。事実は事実として受けとめるしかないのです。
 バタンガスでの日本軍による大虐殺は日本の敗戦間近の1945年2月のことです。ところが、日本軍が、フィリピンの占領を始める1941年12月からフィリピン人の虐殺をはじめていたのです。
 日本軍は支配してすぐに「軍律に関する件」を布告した。これは、要するに、日本軍への反抗を少しでもしたら処刑か重罪に処せられるというもの。それを企図しただけでも処罰されるというわけなので、あってないような要件でした。
 マニラに今も残るサンチャゴ要塞を私たちも見学しましたが、ここは日本軍の恐怖政治を象徴する場所でした。憲兵隊の本部が置かれ、スペイン時代につくられた水牢が囚人を溺死させるものとして活用されていました。
 日本軍による戦争犯罪のフィリピン人被害者は、東京裁判のとき9万人をこえるとされた。戦後、フィリピンが抗日戦の損害賠償を求めた文書には人員損害として111万人とされている。
 フィリピンにスペインがもたらしたのは宗教(キリスト教)、アメリカ人は聖書をもたらした(スペイン人はスペイン語をフィリピン人には教えなかった。フィリピン人は英語によって聖書が読めるようになった)、日本人は鞭打ち(残虐行為)。このように言われるのは悲しいことです。
 二度目のフィリピン訪問でした。有名だったスモーキーマウンテンというゴミの山に住む人々はいなくなりましたが、川の上にバラックで住む人々、線路脇のバラックに住む人々、まさしくスラム街以下の人々の存在をマニラ首都圏のあちこちに見かけました。市内の至るところに大きく近代的なショッピングモールがあって、そこも人々であふれているのですが、スラム街に住む人々もきわめて多く、フィリピンの社会構造が安定しているとは、とても思えませんでした。
(1990年3月刊。2200円+税)

半世紀前からの贈物

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:内田雅敏、出版社:れんが書房新社
 50年以上前の1953年(昭和28年)に発行された小学2年生の文集をもとに、当時の子どもたちの生活を再現した本です。私が小学校に上がったのはそれより2年あとになりますが、およそ同じような状況ですので、親近感を抱きながら読みふけりました。
 著者は1945年生まれで、いまは東京で弁護士として活躍しています。小学校は愛知県蒲郡町立南部小学校(蒲南。がまなん)です。
 かごの中の、じゅうしまつ(十姉妹)はちゅうちゅうないてせまい、かごのなかをとびまわっている、かわいそうだね。
 私の家でも同じように十姉妹を飼っていました。鳥籠を買って、私もその世話をしていました。毎朝、水を取りかえ、アワなどのエサをやり、鳥籠のなかの鳥のフンを始末してきれいにしてやりました。小鳥たちが楽しそうに水浴びしているのを、いい気持ちで眺めました。
 にわとり
 ぼくがおまつりでかったひよこが大きくなってたまごをうんでくれましたが、このごろうまなくなってしまった。
わが家でも鶏小屋をつくって鶏を何羽か飼っていました。私も、そのエサになる雑草をとりに行っていました。丈夫な卵をうんでくれるように、貝殻をこまかく叩いたものもエサとして鶏にやっていました。飼っている鶏を父が絞め殺し、さばく様子を間近で見ていました。卵の生成過程が見事にできているのも見ました。卵の殻が、あとで黄身と白身にかぶさるようになっていく様子もしっかり見て、自然の不思議を実感したことを覚えています。
 当時の少年雑誌は、今のような週刊ではなく、月刊。『冒険王』『少年画報』『少年』など。毎月7日の発売日が待ち遠しかった。
 私の家でも少年雑誌を一つ購入していたように思います。記憶が定かではありませんが、付録に組立できる工作がついていて、その組立が大きな楽しみでした。恐らく『小学○年生』だったと思います。姫路城を再現するような工作がついていました。ワクワクドキドキする豪華版の付録でした。といっても、前号の予告の写真のほうがすごくて、期待に胸をふくらませて開けてみると、なーんだ、こんなものかとガッカリすることもたびたびでした。
 蒲郡市の『広報がまごおり』に1年余にわたって連載したエッセーをもとにした本だということです。護憲派の弁護士として大活躍している著者の原点を知ることのできる好著です。
(2007年10月刊。700円+税)

昆虫がヒトと救う

カテゴリー:生物

著者:赤池 学、出版社:宝島社新書
 ひゃあ、そうだったのか、知らなかったー・・・。つい、そんな叫びをあげてしまいました。
 ウジ虫が劣悪な衛生環境の中で生きていけるのはなぜなのか?
 こんな発想をもったことがありませんでした。ウジ虫は自分のもっている自然免疫を活性化させているから、ひどい環境のなかでも成長できる。その抗菌力はザルコトキシンによる。これは小型タンパク質の一種、ペプチドである。
 その殺菌力は協力で、1ミリリットルの体液中、1ミリグラムの1万分の1というわずかな量さえあれば、細菌類を殺すことができる。それでいて、動物の培養細胞には何の悪影響も及ぼさない。つまり、悪い菌だけ殺して必要な細胞は殺さない。
 そして、このザルコトキシンは、一度つくられて永久に体内に存在するわけではなく、体が傷つくたびに生成される。この物質から、人間のある種のガンにピンポイントで効果をあらわすものが発見された。うむむ、なんと、なんと、すごい発見です。
 次はシルク。シルクはタンパク質で、糸はタンパク質同士が水素結合でくっついてできた集合体。シルクは昆虫の体内にあるときには液体なのに、外に吐き出されたとき一気に美しい糸になる。糸は直径10ミクロンで、長さは1500メートルもつながっている。
 このシルクには、カビにくいし、質感を変えておいしくする作用がある。カビの発生を遅くし、味が滑らかになる。ふーん、シルクって光沢があるだけではないのですか・・・。
 スズメバチに刺されて死ぬ人が毎年25人ほどいる。それほど猛毒をもつ昆虫である。このスズメバチは巣がないと2〜3日しか生きられない。なぜか?スズメバチは虫などを食べる肉食昆虫なのに、自分で捕ったエサ(肉ダンゴ)を食べることができない。というのは、スズメバチの胸と腹をつなぐ胴がものすごくくびれているため、液体しか通らない。これは、どの方向、どの位置にいる敵に対しても毒針を刺せるよう、自由自在に腹を動かせるためのもの。ところが、その結果、スズメバチは液体流動食しかとれない身体になってしまった。では、そのエサはどうやってとるのか。なんと、幼虫からもらうのです。幼虫は親のスズメバチからもらった肉団子を食べて、大量のアミノ酸ドリンクをつくり、それを親に与える。だから、幼虫がいないと、親は栄養をとることができない。スズメバチの親子は、栄養の交換を通じて、固い絆で結ばれている。
 うむむ、これはすごーい。そして、このアミノ酸ドリンクが、スズメバチの高い運動能力をもたらしていたのです。そこに気がつき、着目した学者は偉いですよね。このアミノ酸ドリンクは、ふだん燃えにくい脂肪を燃やして、エネルギーにして運動しているのです。そして、これは運動しなくても脂肪が燃えるということから、運動なしでやせられる夢のダイエット飲料として着目されました。これが有森裕子と高橋尚子が宣伝するVAAMなのです。
 いやあ、驚きました。ちっぽけな昆虫たちが、たまに人間を殺してしまったり、嫌われもののウジ虫が実は人間のためにすごく役立つ存在でもあったなんて・・・。ホント、世の中は不思議なことだらけです。
(2007年10月刊。700円+税)

中原中也、悲しみからはじまる

カテゴリー:社会

著者:佐々木幹郎、出版社:みすず書房
 この10月に山口の湯田温泉に行ってきました。小さな温泉街です。町なかにしゃれた美術館がありました。中原中也美術館です。この本はそこで買いました。私は美術館に行ったときには、DVDを見るようにしています。よくまとまっていますので、便利です。詩人の中原中也は湯田温泉に生まれました。父親は中原医院を開業している、有名な医者でした。期待した息子(長男)が医者にならず詩人になるのを認めなかったそうです。でも、こればかりは仕方のないことですよね。私も長男が弁護士をめざすと言ったときにはうれしく思い、別の道を歩みはじめたときには少し寂しさを感じました。だけど、自分にあった道を歩むのが一番です。父親だからといって私の意見を押しつける気はさらさらありません。
 この本を読んで、中原中也の早熟さに驚き、かつ呆れてしまいました。
 十代の中学生のとき、中原中也は早々と詩を書く以外にない、眼が覚めたとき詩人である自分がいた、というのです。
 中原中也が、かの有名な評論家である小林秀雄と同世代であり、三角関係にあったということも初めて知りました。小林秀雄は、中原中也に魅力と嫌悪を同時に感じたといいます。いわば早熟男が別の早熟男に魅力と嫌悪を感じたということだろうと著者は解説しています。
 中原中也は、小林秀雄の批判に対して、「それが早熟の不潔さなのだよ」と言い返しました。なんという言い方でしょうか。さすがは詩人です。私にはとても発想できない言葉のつかい方です。
 中原中也は、中学4年生17歳のときに、6歳年上で23歳の女優である長谷川泰子と京都の下宿で同棲生活をはじめます。
 うむむ、なんと早熟な・・・。
 そして、小林秀雄が親友の恋人(泰子)に惚れてしまい、泰子は小林秀雄と一緒になる道を選ぶのです。中原中也は親友に恋人を奪われ、失恋してしまったわけです。
 日本の文芸批評を創始した小林秀雄は、一人の女性と一人の詩人を通して評論家になった。著者はこのように解説しています。ところが、中原中也は小林秀雄との絶交状態をいつのまにか解消して、つきあいを復活させるのです。なんということでしょう。ここらあたりになると、凡人の私の理解をこえます。
 この本には中原中也の詩が推敲される過程が原文の写真つきで紹介されています。
 中原中也は語勢を大切にした。語勢とは、詩のリズムをあらわす、中原中也らしい表現である。詩の世界では、言葉というものの面白さをどのように引き出すかが、いつも問われる。
 汚れちまつた悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れちまつた悲しみに
 今日も風さへ吹きすぎる
 たまには声を出して詩を読んでみるのもいいものです。
(2005年9月刊。1300円+税)

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