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ゴードン・スミスの見た明治の日本

カテゴリー:日本史(明治)

著者:伊井春樹、出版社:角川選書
 イギリス人のリチャード・ゴードン・スミスは1858年生まれ(1920年死亡)、41歳のとき、日本にやって来た。日露戦争のとき、日本に滞在して、日本兵と日本人を観察した。
 明治37年(1904年)11月の203高地の日本軍の空貫突撃の様子が、日本兵の故郷への手紙で紹介されています。現代文のほうを紹介します。
 11月26日に突撃隊が編成され、「突貫」との命令のもとに午後4時に山腹より突進する。上部の堅固な塹壕を築いた要塞からは、容赦のない弾丸の雨が降り注ぎ、どうにか敵の陣地に近づいたとはいえ、犠牲者は増えるばかり。中隊長の戦死、次々と命を失い負傷する友軍、気がつくと残った中隊は自分を含めて10人ばかりというありさま。しかも、その死者の姿は実に残酷で、弾薬に焼けただれていた。あー、湯上がりにせめて一杯の白米のご飯が食べたい。ロシア軍による上からの容赦のない攻撃、自分が生きながらえたのは奇跡というほかなく、無数の屍(しかばね)をこえての二〇三高地の占領だった。その悪夢が、今では毎日毎晩のシラミ虫の攻撃に悩まされている。
 次に、ロシア兵の手紙も紹介されています。
 朝6時。日本兵は縦列になって接近し、第一隊砲火を浴びて倒れても、次の第二隊が、さらに第三隊が前進してくる。我々は銃剣を手にして20分もの死闘を続け、日本兵は 4000人ばかり戦死し、あたりにはおびただしい死体の山が築かれた。日本兵が退却したあと、死体を片づけるのだが、その光景はとても表現できない有り様だった。負傷者は水を求めて泣き喚き、ある者はもう一度、戦闘に加わって死にたいという。
 スミスは大英博物館の標本採集員という任務を帯びていました。新種の魚や動植物を発見したいという冒険心が行動に駆り立てていたのです。
 日記を8冊残していて、当時の日本人の生活や考え方を記録していました。
(2007年7月刊。1600円+税)

失われた文明マヤ

カテゴリー:アメリカ

著者:恩田 陸、出版社:NHK出版
 メキシコ南部からグアテマラあたりにあったマヤ文明を現地の写真つきで紹介する本です。マヤ文明が高度に発達していたことは残された石造の遺跡の素晴らしさからもよく分かります。本当にすごく立派な石造りの建物がたくさんありますし、彫刻もきめ細かいものです。
 マヤ文明は中央集権型の構造ではなかった。マヤ文明が長持ちしたのは、ネットワーク型の都市文明だったから。ネットワーク型組織は故障に強い。マヤでは、そこそこの規模の都市がゆるやかにつながっていたので、どこかがつぶれても残りは生き続けることができた。
 1695年、古代マヤ文明の中心地ティカルの遺跡が再発見された。密林のなかに忽然とピラミッドがそびえ立つ。1号神殿は高さが45メートルもある巨大な建造物だ。ところが、当時の古マヤの人々は鉄を知らず、つかったのは石の道具だけ。また、牛も馬もつかわず、すべて人間が担いで運んだ。
 うむむ、これはすごいことですね。
 ティカルには、およそ6万人が住んでいたと推定されている。
 この本では深紅に塗られた建物が建ち並ぶティカルの町の様子がCGで再現されています。まさに圧巻です。荘厳とでもいうべき眺めです。
 さらに驚くべきことは、ここに人工の貯水池が3つあったというのです。ティカルには川も湖も沼もなく、そのままでは乾期に人々は生活できないので、貯水池をつくった。それも、高度、中度、低度と、水の汚染度の違いで、水の利用を区別していたというのです。すごいですね。
 チチュン・イツァーのピラミッドには、春分の日になると、大蛇の頭にうねるような光の胴体がつながった、豊穣の神・ククルカンが出現する。
 これは、ピラミッドが真北から17度傾いていて、古代マヤ人は、太陽の観測から、それがつくる影の位置を正確にとらえて精巧な建築で再現したのです。
 こういっても、言葉だけでは分かりにくいと思います。しかし、特定の日に、影だけで大蛇を出現させるなんて、きわめて高度の天文学と建築学の知識を要することです。いやあ、まったく驚いてしまいます。
 このククルカンが降臨すると、それからひと月後に雨期が始まる。つまり、ククルカンの出現は、大事な農作業を始めるタイミングを教えるわけである。
 古代マヤ文明の遺跡からは、古代マヤの戦争を描いた壁画も発見されています。カラー写真で、迫力ある戦闘場面が描かれていることがよく分かります。
 インカ帝国とが別の高度に発達した文明があったことが、たくさんの写真を眺めているだけでも、よく分かります。
 今日は、私事ですが、私の50代で最後の誕生日なのです。そうなんです。来年は、ついに私も還暦を迎えるというわけです。我ながら信じられませんが、このブログを読んでいただいている方々へのお願いです。そのことについての一言コメントをぜひお寄せください。辛口コメントでも、もちろん結構です。
 還暦を目前にして、私も、もう一回、何か新しいことをしたいと考えています。
(2007年6月刊。1600円+税)

ジョルジオ・アルマーニ

カテゴリー:未分類

著者:レナータ・モルホ、出版社:日本経済新聞出版社
 ブランド品など、とんと縁のない私ですが、その名前くらいは知っています。アルマーニって、どんな人物なのかなと思って読んでみました。ずい分前にグッチについても本を読んで、この書評に紹介したように思います・・・。
 アルマーニは、イタリア北部の決して裕福とはいえない中産階級に生まれた。1934年7月11日、アルマーニは国立ミラノ大学医学部に入学し、3年で退学した。一兵卒としてシエナの工作部隊に入隊し、医療班に所属する。兵役を終えて、建築家のアシスタントになる。アルマーニは百貨店で、さまざまな仕事をこなした。そこで人々の望むものを見きわめる鋭い感覚を身につけた。そして、世の中が必要としているものの一歩先を読むことも。生来の観察眼の鋭さが、アルマーニの強力な武器となった。
 ふむふむ、そうなんでしょうね。同じものを見ていても、凡人のボンヤリした目では見えないものが、天才には見えているというわけなのでしょう。
 この本には、アルマーニの幼いころから現在に至るまでの写真が満載されていて、その仕事と生活の様子をイメージすることができます。
 アルマーニは、経営部門を担当した男性と同棲していました。つまり、ゲイだったのです。なぜか、芸術家にゲイの人々が多いですよね。それって、関連性があるのでしょうか。それとも単なる偶然なのでしょうか。
 アルマーニにとっては、仕事こそが人生そのものであり、プライベートとの区別はない。華やかさとは無縁の日常生活を過ごし、毎朝9時にオフィスに入る。アルマーニは俗世間とのつきあいを嫌い、無類の整理整頓好きだ。
 アルマーニは、アメリカ人のイタリアについてのイメージを一新した。それまでは、薄暗く、苦悩にみちた、高潔だが貧しい、というものだった。そんなネガティブなイタリア人についてのイメージが突如として霧散し、エレガンス、グラマラス、見るものをうならせる才能という、まったく正反対の価値観にとって代わられた。
 安物の旅行鞄ひとつでやってきた、運命に任せるしかない無学な移民というイメージが消え、美的感覚と創造性に圧倒的に勝る国というイメージがアメリカに浸透した。
 アルマーニは、意外なアイテムを組み合わせる。スーツのボトムにレザーパンツをもってくる、ロングジャケットにショートパンツを組み合わせる。ジャケットの上にベストを重ねる。生地の特性を最大限に生かす感性。ユーモアあふれるディテールや奇想天外なシンメトリー感、驚くような素材をつかって伝統的な形を新しいものに仕立てあげる。着こなしにもたらされた自由。なんといってもアルマーニの服は着心地がいい。
 ふーん、そうなんですか・・・。アルマーニなんて一度も着たことがありませんから、それがどんなことなのか、よく分かりません。
 アルマーニと仕事をするには、忍耐力、自己犠牲、情熱という資質が求められる。アルマーニはチームを組んでの仕事を理想とする。終始なごやかなチームというのではなく、活発な議論のできるチームを望む。
 アルマーニは、ミスをする人間に対して寛容ではない。過ちは決して許されない。
 アルマーニの発想のなかには日本の影響もある。北斎の浮世絵や広重の風景画にえもいわれぬ魅力を感じる。
 いやあ、すごいですね。イタリア人のアルマーニに日本の浮世絵の影響があるなんて、信じられません。
 アルマーニの最大の長所は、自分のアイデアをとことんまで信じること。本能的な勘に逆らうと、その決定は必ず裏目に出る。いつだってそう。自分の着想のほうが正しいという確信をもっている。それがアルマーニの強みだ。
 いまや、アルマーニ・グループは従業員4900人、13の製造工場をもち、売上高が14億2800万ユーロに達するモード界屈指の大企業である。
 すごいことですね。やはり発想が根本的に凡人とは違うのでしょうね。
(2007年7月刊。2800円+税)

観光コースでないフィリピン

カテゴリー:未分類

著者:大野 優、出版社:高文研
 開放的でおおらか、過ちにも寛容な優しい世界。7000万人のうちカトリック教徒が83%、プロテスタント教徒が5%。イスラム教徒もミンダナオ島などに人口の4%いる。7100の島々から成る国で、言語は110もある。
 以上の数字は10年前のものです。今の人口は8000万人だと思います。スペインが333年間も支配し、その後アメリカが42年間、植民地として支配した。日本も第二次世界大戦中に3年間、軍事占領した。
 フィリピンという国名は、スペイン皇太子フェリペに由来する。
 日本との関わりでは、戦国期のキリシタン大名である高山右近が日本を追放されてマニラに住み、日本との交易は盛んだった。20世紀にはミンダナオ島ダバオでマニラ麻栽培を日本人が手がけていた。
 私は11月の連休を利用して3泊4日のフィリピンへ出かけてきました。二度目のフィリピン旅行です。
 ニノイ・アキノ空港は今回も人であふれていました。入国するにも出国するにも大変な行列をつくります。出国する前に空港内でみやげ物を買いたいと思っても、レジの前に並ぶ行列の長さに閉口して、あきらめてしまいました。私たちが出国するのに、上着をとり、靴を脱がされ、ボディーチェックされるのです。出国して数日後、高級ホテルに軍人などが立て籠もって反政府宣言したという事件が起きました。やはりフィリピンの政情は安定していないことを実感しました。
 アキノ元大統領の夫であったニノイ・アキノ上院議員が空港で暗殺されたのは1983年8月21日のことです。マニラのホテルで読んだ新聞に、その暗殺犯たちが24年たって釈放されたことが記事になっていました。空港警備隊長ら兵士16人が終身刑になっていたのです。当時のマルコス大統領が政敵のアキノ議員の暗殺を命じたというのが真相のようです。下手人役の兵士たちがワリを食ったのです。
 アラヤ財閥とかソリアノ家などは、今も純粋なスペイン人の血を保っているそうです。混血を拒否する、恐るべき「白いフィリピン人」です。
 マラカニアン宮殿にも見学に行きました。イメルダ夫人の2000足の靴のうち一組のみが展示されていました。宮殿の半分が開放されて観光コースになっているのですが、そこに至るまでに、何回となく厳重に警戒チェックされます。
 マルコスを追放した2月革命は、フィリピンでエドサ革命と呼ぶそうです。1986年2月22日にはじまりました。50万人のフィリピン人が結集したと言います。マルコス一族は、アメリカ軍のヘリコプターでマラカニアン宮殿を脱出し、ハワイへ亡命しました。ハワイで死んだマルコスの遺体はフィリピンに戻り、今も遺体が保存されているそうです。
 マニラ市内にはリセール公園という広大な公園があります。スペインからの独立をかちとる国民的英雄であるホセ・リサールが処刑された公園です。ホセ・リサールはスペインから独立するについて武力行使に反対したようですが、スペイン軍に捕まり銃殺されます。処刑されたときも、ホセ・リサールはいつものようにスーツを着てネクタイを着用し、山高帽をかぶっていました。リサールは背後から銃殺されたようです。
 サンチャゴ要塞を見学しましたが、リサールが刑されるまで歩かされたときの足跡がずっと残っていました。私は、まさか本物の足跡が残っているはずはないと疑いましたが、ガイド氏の説明は本物だということでした。本当でしょうか?
 サンチャゴ要塞は、スペイン統治のときは牢獄、アメリカ統治時代は陸軍本部、日本軍統治のときには憲兵隊本部と牢獄としてつかわれていました。1945年2月、日本の敗戦間近のとき、牢獄内で600人ものフィリピン人やアメリカ人が虐殺されたということです。水牢を見学しましたが、日本軍の残虐な行為を思って、息を呑みました。
 モンテンルパ刑務所も見学しました。山下奉文大将や本間正晴中将など、日本軍の将兵を敗戦後に収容したところです。戦後まもなく、渡辺はま子の「モンテンルパの夜は更けて」という歌が流行して有名になりました。私自身は聞いた覚えはありませんが、名前だけ知っています。刑務所の正面はアメリカのホワイトハウスを思わせるようなきれいな建物です。ところが、5000人を収容する、この刑務所内はギャングの支配する恐るべき状況があるそうです。
 日本軍の敗戦後、マニラでも日本軍の戦犯を裁く「マニラ法廷」が開かれ、山下大将、本間中将ら80人が処刑されました。
 刑務所の近くに世界平和祈念公園があります。ここで処刑された17人の名前が記されていますが、山下大将や本間中将の名前はここにはありません。彼らは別のところで処刑されたからです。
 日曜日、久しぶりにちょっとした山歩きをしました。ダイエットに励んでいる最中ですから、しっかり汗をかこうと思って、必要以上に着こんで出かけました。歩いて1時間あまりで山頂につき、上半身裸になって着換え、さっぱりしたところでお弁当をいただきました。といっても、目下、米、パン、めんを絶っていますので、おにぎりはありません。代わりにリンゴ丸かじりです。
 春霞ならぬ秋霞の日和りでした。風もなく、爽やかな山頂でしばし遙か彼方に海を見おろし、遠くの山を眺めて浩然の気を養いました。山のあちこちでジョウビタキを見かけました。人を見ると、尻尾をチョンチョンと下げて挨拶する愛嬌者の小鳥です。
 往復3時間あまりの山歩きのあと、少し昼寝をとってから、庭にチューリップの球根を植えました。久しぶりにのどかな秋の一日を過ごすことができました。
(1997年11月刊。1900円+税)

悪果

カテゴリー:未分類

著者:黒川博行、出版社:角川書店
 警察ハードボイルドです。読みはじめたら、その後の展開がどうなるのか、目が離せない思いで、一心不乱に読みふけってしまいました。
 ここではストーリーを展開するわけにはいきませんので、この本に書かれている警察の実情を紹介します。どこまで本当なのでしょうか?
 暴犯係の刑事はヤクザの犯罪を取り締まるのが仕事であり、どれだけの情報をもっているかでその手腕が分かる。日頃から組事務所に顔を出して様子をうかがい、ときには個人的な相談に乗って情報を拾う。組員とのつきあいにどこで一線を引くかは各人の裁量に任されている。
 暴犯係の刑事は、つかんだ情報をめったなことでは他にもらさない。刑事に情報開示は無縁。自分なりに裏づけをとって、これはいけると確信したときに、はじめて口を開く。そういう縄張根性と、手柄をひとり占めしようとする意思があってこその刑事稼業だ。
 刑事は情報が命であり、相手が上司であれ同僚であれ、不用意にたれ流していたら自分の首を絞めることになる。情報は独占してこそ値打ちがあり、もちネタが多ければ多いほど、この世界ではうまく立ちまわれる。
 ヤクザと飲み食いするのも仕事のうち。勘定はもちろんヤクザもち。こちらが弱みを見せればこそ、向こうもスキを見せる。それがマル暴担の刑事の度量だ。
 ひとりで組事務所に出入りしたり、ひとりで内偵捜査をしたがるマル暴担当の刑事は、ヤクザに取りこまれていることが多い。
 県警の監察の役目は警察官の犯罪や不正を摘発することではなく、いかにしてその犯罪を隠蔽するかにある。とりわけ保安や暴犯担当の長い刑事は女や博打や組筋とのつきあいで身をもち崩すことが多く、定年まで勤めあげる刑事はほかの部署に比べて圧倒的に少ない。優秀なマル暴担ほど、途中でドロップアウトする。
 警察はヤクザよりひどい。ヤクザの守り料は定額で、それ以上は要求しないし、払えば守ってくれる。だが、警察は守り料をとらないかわりに、しょっちゅうタダで遊んでいくし、マナーが最悪だから女の子も嫌がる。おまけに盆暮れの挨拶、異動時の餞別、各署対抗の武道大会のご祝儀なども要求され、際限なくお金を払わされる。もし払わないと営業停止になるので、いいなりになるしかない。
 これは風俗店の経営者の言葉です。
 マル暴担という利権を手にしながら気の利いたシノギのひとつも見つけられないような奴は出世する見込みがない。たとえばマンションころがし。マル暴担の刑事が第三者名義でヤクザが入居しているマンションを競売などで安く買う。そして暴対法の中止命令などをかけてヤクザを追い出し、マンションの値が上がったところで転売する。
 保安係、風紀係は最高の利権だ。飲食業や風俗業に対する許認可権と取締権の両方をもち、おのれの胸三寸でどうにでもできる。業者からの接待攻勢はひきもきらず、飲み食いはもちろん、ゴルフコンペ、温泉旅行と、次々にお座敷がかかって身体の空くヒマがない。
 元マル暴担はヤクザよけになるからツブシがきく。金融、保険、流通といった民間企業の顧問を5、6社もすれば、それで食っていける。
 警察官には三とおりある。ごますりの点取り虫と、まじめなだけのボンクラと、ほんまもんの捜査ができる本物の刑事だ。
 署長賞や部長賞や本部長賞といった褒賞をいくら受けたところで、巡査が巡査部長に昇進するわけではない。昇任試験を受けて合格しない限り、巡査は永遠に巡査のまま。警察という絶対の階級社会の中ではまじめに働く人間が損をし、試験に長けた要領のいいやつが得をする。
 警察官は、試験にとおって星の数を増やしたらうまい汁が吸える。妙な使命感や正義感は出世の妨げだ。
 日比谷公園を歩いてきました。見事に黄金色に色づいた銀杏の木から風に吹かれて大量の黄金の葉っぱが落ち、まるで黄金の大雨が降っているような夢幻の光景でした。師走も半ば近くになり、気ぜわしさを感じます。
(2007年9月刊。1800円+税)

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