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犬語の話し方

カテゴリー:生物

著者:スタンレー・コレン、出版社:文春文庫
 人は、強い犬よりも、怯えた不安な犬にかまれるほうが多い。
 犬から威嚇されたときは、どうしたらいいか。まず第一に、背中を向けて走り出してはいけない。犬の追跡本能を刺激してしまうから。第二に、視線をやや横斜め下に落として、一、二度まばたきをする。これは服従を示し和解を求める反応だ。そして、口を少し開いて、犬が攻撃をしかけたら受けて立つ構えを示す。次に、ゆっくり二、三歩うしろに下がる。そのとき、犬とは絶対に目を合わせない。なんとか呼吸を整えられたら、顔を少し横に向けてあくびをするか、高い声でなだめるように何か話しかける。犬とのあいだに十分な距離があいたら、犬に対して横向きになるように体を回す。このとき犬が近づいてきたら、ふたたび犬と向きあい、大げさに何度かまばたきをし、横斜め下に視線を落とし、もう一度ゆっくりうしろに下がる。犬に対して横向きになったときに、犬の興奮や威嚇の度合いに変化がなければ、ゆっくり、犬と視線を合わせることなく、自然な足どりで遠ざかる。
 いやあ、難しいですね、これって。できるでしょうかね、こんなことが自然に・・・。
 犬のオスはセックスに常に関心があるものの、実際に性欲をかきたてられるのは、発情期のメスを目の前にしたり、その匂いをかいだときだけ。メスは交尾の態勢が整って積極的になるのは、年2回の短い発情期のときだけ。
 メスの発情期は、21日間続き、3つの段階がある。第一の段階は、発情前期で、9日間ほど続く。この時期のメスは、ひどく落ちつかなく、さかんに歩きまわる。水を飲む量がふえ、歩く先々で放尿する。この尿の匂いがオスをひきつける。犬の場合、出血は排卵の前に起こり、膣の壁に変化が生じて排卵の用意が整ったあかしとなる。メスは性的魅力たっぷりの香水を尿と一緒にあたりに振りまき、膣分泌物の匂いを風とともに運び、だれかれかまわずオスを誘う。だけどメスは、夢中になったオスたちをはねつける。
 メスは、オスをじらせているのではない。まだ排卵していないのだ。排卵は本当の意味の発情期に入って2日目くらいに起こる。分泌物の水分が多くなり、色が透明になると、交尾に対して膣の準備が整ったことになる。そして、排卵があっても、精子に対する卵子の受け入れ態勢が整うまでに、およそ72時間かかる。排卵期は2、3日しか続かないので、それまでに自分のまわりに大勢のオスをひきつけておき、いざというときに選べるようにしておくのが肝心なのだ。たいてい、選択権はメスにある。父親候補は、強い拒絶にあうものと、熱心に求められるものとに分かれる。
 進化は、すぐれた遺伝子を残すには、優位な強いオスを選んだほうがいいという知恵をメスに与えた。野生の犬に比べて家犬は、それほど交尾の相手を選ばない。これは人間による意図的な犬種をつくる計画のことである。
 犬の気持ちが手にとるように分かります。本のオビに、このように書いてあります。たしかに、犬の生態について、また深く知ることができました。
(2007年9月刊。705円+税)

カメの来た道

カテゴリー:未分類

著者:平山 廉、出版社:NHKブックス
 カメの甲羅は、体の内部にある背骨や肋骨と完全に一体化している。カメでは胴体を動かすための背筋や腹筋などの筋肉がすべて失われている。
 カメには歯がない。スッポンやワニガメの咬む力は強く、人間の指なんか骨ごと切断してしまう。
 カメの首が甲羅の中にすっぽりと引っこむのは、首の骨(頸椎)の関節の仕組みにある。関節の可動範囲が非常に大きい。直角に折れ曲がるほどなので、首の長さが半分になってしまう。もう一つのカメのグループは、首を水平方向に折り曲げ、甲羅の縁にそって頭や首を隠すことができる。その動作は驚くほど素早い。
 大半のカメは、メスのほうがオスより大型化している。メスのカメは大きな卵巣を発達させている。
 カメは変温動物なので、夜に体温が下がったので、冷えた体を日光浴によって30度前後にまで上昇させ、代謝を活発にさせる必要がある。道理で、福岡の裁判所のお濠では午前中にカメが何匹も陽なたぼっこをしているのを見かけることができます。
 ゾウガメのように、人間の体重ほどにもなるカメが一日に必要とする食物は数百グラムにすぎない。エネルギー効率からいうと、変温動物は温血動物よりもはるかに経済的で、個体が餓死したりする危険性はきわめて低い。
 カメは社会性のある群れをつくることはなく、繁殖期をのぞくと、いちいち相手を認識する必要もない。目の前にいるのが餌なのか敵なのかを判断できればいいし、危険を察知したら首を引っこめればいいだけのこと。
 オサガメは史上最大級のカメで、全身2.4メートル、体重も900キロをこえる。体型はほぼ完全な流線型であり、最高時速24キロで泳ぐことができる。そのオサガメの主食はクラゲ。オサガメの子どもは、毎日、自分と同じ体重だけのクラゲを食べる。毎日 100キログラムのクラゲを食べなければならないということ。
 オサガメは、昼夜を問わず、ほとんど休むことなく泳ぎ続けている。これは熱をつくって体温を温かく保ち、冷たい深海に潜るための準備でもある。オサガメの体には大量の油が含まれている。
 このオサガメには、通常のカメにみられる甲羅はどこにもない。深海での強烈な水圧への適応形態である。オサガメは、クラゲのもっている毒を体内にもっているため、食用には向かない。平均的なカメの寿命は最大で100年程度。
 カメはトカゲやワニと同じ、爬虫類の仲間である。
 ウミガメが海の中に進出するときに最初に起きた大きな変化は、塩分濃度を調節するための涙腺の肥大であり、体のサイズや鰭脚の増大は二次的なものだった。
 カメは人間以上に寿命が長いので、必ずしもペット向きの動物とはいえない。
 いかにも一日中のんびり過ごしていて、何も考えていないように見えるカメの一生を改めて見直しました。
(2007年10月刊。920円+税)

関ヶ原合戦と大坂の陣

カテゴリー:日本史(中世)

著者:笠谷和比古、出版社:吉川弘文館
 いやあ、実に面白い本です。本を読む醍醐味をしっかり堪能することができました。まるで戦国絵巻を見ているような臨場感あふれていて、ハラハラドキドキさせられるほどの迫真の出来映えです。従来の通説に著者は真っ向から大胆に立ち向かっていきます。小気味のいい挑戦がいくつもなされ、思わず拍手を送りたくなります。著者は私とほとんど同世代ですが、たいした学識と推察力です。これまでにも『関ヶ原合戦』(講談社選書メチエ)や『関ヶ原合戦四百年の謎』(新人物往来社)を書いていて、私はすごく感心して読んでいたのですが、本書は、まさしく極めつけの本です。
 関ヶ原の地には、私も2度だけ現地に行ってみました。今度は、家康の本陣があった桃配山、小早川秀秋のいた松尾山、そして毛利の大軍が動かなかった南宮山などを、現地で見てみたいと思いました。
 石田三成が加藤清正や福島正則、細川忠興など有力7武将から追撃されて伏見にある家康の屋敷に逃げこんだという通説は誤りである。三成の入ったのは、伏見城内にあった自分自身の屋敷である。ひえーっ、そうだったんですか・・・。
 石田三成は伏見城西丸の向かいの曲輪にある三成自身の屋敷に入ったのである。それは「三成は伏見の城内に入りて、わが屋敷に楯籠もる」という当時の軍記本に明記されている。
 石田三成襲撃事件の本質は、朝鮮の陣における蔚山城戦をめぐるものであって、事件の主役は蜂須賀家政と黒田長政の2人だった。家康は、この事件を平和的に解決したことから世望が高まり、伏見城に入った。
 家康が会津追討に動いたあと、石田三成を首謀者とする上方方面での反家康挙兵は2段階ですすんだ。第1段階は、石田三成と大谷吉継だけの決起であり、淀殿にも豊臣奉行衆にも何らの事前の相談も事情説明もなされていなかった。第2段階は、三成らの説得工作がうまくいって大坂城にいる豊臣奉行衆や淀殿が三成の計画に同調し、豊臣家と秀頼への忠節を呼号して家康討伐の檄文を発出した段階。
 会津征討の途上にある下野国小山でなされた有名な小山評定は、この第1段階を前提としてなされたものであって、そのとき既に第2段階にあることを家康ほか誰も知らなかった。ふむふむ、なるほど、家康も自信満々というわけにはいかなかったのですね。
 家康は、東軍として行動していた豊臣系武将を十分に信用してはいなかった。彼らが西軍と遭遇したときの行動に不安があった。もし、西軍が秀頼をいただいて攻め寄せてきたらどうなるのか、家康には大きな不安があった。そんな彼らと身近に行動することの危険性を感じていた。
 家康は上杉方への押さえ、諸城の守備のため、かなりの武将を配置していて、関ヶ原合戦に投入することができなかった。家康にとって、背後にいる上杉・佐竹の連合軍を無視することはできなかった。
 徳川の主力部隊を率いていたのは嫡子の秀忠の方だった。そして、信州・上田城主の真田昌幸らを攻略するのは、小山評定で策定された既定の作戦であって、秀忠の個人的な巧名心に発するものではなかった。つまり、中山道を進攻する秀忠部隊の主要任務は、上田城にいる真田勢を制圧することであり、それが家康の指令だった。
 ところが、真田制圧ができていない状況のもとで、すぐに来いという家康の指令が届いて、秀忠部隊は大混乱に陥った。秀忠には、本来の任務である真田制圧作戦に失敗したという心理的な負い目が迷走を増幅させた。
 このように秀忠部隊の関ヶ原合戦の遅参は、徳川勢力の温存を意図してなされたものという説は間違いである。では、家康が江戸城にぐずぐずしていたのはなぜか。そして、出陣を急に決めて戦場へ急いだのはなぜなのか?
 もし家康ぬきで、家康が江戸にとどまったままで、東西決戦の決着がついたら、家康の立場はどうなるか。家康の武将としての威信は失墜し、戦後政治における発言力も指導力も喪失してしまうのは明らかである。
 家康は、豊臣武将たちの華々しい戦果の報告に接すると、前線に相次いで使者を派遣して新たな作戦の発動を停止させ、家康の到着を待つよう指示した。
 家康がもっとも恐れた事態は、大坂城にいる西軍総大将である毛利輝元が豊臣秀頼をいただいて出馬してくる事態であった。秀頼が戦場に出馬してくるという風説を流されるだけでも東軍の豊臣武将たちが浮き足だつ心配があった。だから、できる限り早く三成方の西軍との決着をつけなければならなかった。
 関ヶ原合戦での東軍は3万人というが、徳川の主な兵力は井伊直政と松平忠吉のあわせて6千人でしかなく、残りはすべて豊臣系の将士だった。
 石田三成は、かねて大坂城より大砲数門を運んできていて、この大砲で応戦したため、東軍の大部隊を相手にして、長時間にわたってもちこたえた。
 むしろ、小早川秀秋が家康方東軍の要請にこたえて、手はずどおりに動かなかったことが、この合戦を複雑なものにした最大の要因だった。
 西軍の鶴翼陣のなかに包まれるように東軍が布陣したのは、小早川軍の裏切りを織り込んでいたことによる。家康は一気に勝敗をつけるつもりでいた。ところが、石田三成の部隊が最後の一兵にいたるまで奮戦敢闘したため、小早川秀秋の裏切りがずるずると遅れてしまったのである。家康は、自分が罠にはめられたとうめいたほどである。
 関ヶ原合戦のあと、家康による論功行賞がなされたが、最大の功労者である福島正則に対しても、使者による口頭伝達がなされた。なぜか?
 領地配分の主体が家康なのか、秀頼なのかという微妙な問題があったから。
 関ヶ原合戦において家康方東軍が勝利しても、豊臣体制が解体したわけではなく、まだ、家康は豊臣公儀体制の下で、大老として幼君秀頼の補佐者にとどまっていた。したがって、家康は、書面を発給できなかった。
 うむむ、なるほど、なーるほど、そういう事情があったのですね・・・。
 秀頼は、関ヶ原合戦のあとも、将来、成人したあかつきには武家領主を統合する公儀の主宰者の地位に就くべき人間であると了解されていた。慶長8年に家康が将軍に就任し、同20年の大坂の陣で豊臣氏が滅亡するまでは、二重公儀、二重封臣関係の時代であった。
 関ヶ原合戦のあと、豊臣家と秀頼が摂河泉の3国の一大名に転落したという認識は誤っている。この3か国は純粋の直轄領にすぎず、ほかにも知行地はあった。
 豊臣氏は、諸大名とは別格であり、徳川将軍と幕府の支配体制に包摂されない存在だった。家康は、将軍に任官したあとも、秀頼に対しては臣下の礼をとった。家康は、秀吉の臨終間際の、「秀頼をよろしく頼む」という哀願を受け入れて行動した。
 家康は、徳川将軍家を基軸とし、豊臣関白家と天皇家との血縁結合を完成させるべく起想し、実行していた。血縁結合による徳川・豊臣・天皇家のトライアングルを形成することこそ、徳川成犬を強化する最善の戦略だった。
 しかし、しかし。すべては家康という固有の軍事カリスマの存在が前提である。この状態で家康が死んだら、どうなるか・・・。ふむ、ふむ、なるほど
 方広寺大仏殿の鐘銘は単なる偶然のことではなく、意図され、意識的に記されたものだった。家康の知恵袋である金地院崇伝が言いがかりをデッチ上げたという説は誤りである。
 うむむ、これも、そうなのか・・・、と、つい、うなってしまいました。
 大坂冬の陣そして夏の陣の経緯についても興味深いものがありましたが、ここでは割愛します。興味のある方は、ぜひ、本書を手にとってお読みください。
 私は、すごい、すごい、そうだったのかと、大いに興奮しながら読みすすめていきました。学校で教わる日本史の教科書も、ぜひ、このように書いてほしいものだとつくづく思いました。
(2007年11月刊。2500円+税)

アジア・太平洋戦争

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:吉田 裕、出版社:岩波新書
 太平洋戦争は真珠湾戦争で始まったものではない。その前の、1941年12月8日午前2時15分(日本時間)、日本陸軍は英領マレー半島のコタバルへ上陸作戦を開始した。その1時間後に真珠湾攻撃が始まった。
 この事実は、なにより対英戦争として始まったことを示している。オランダに対して日本は宣戦布告せず、豊富な石油資源を有するオランダ領インドネシアを無疵で手に入れようとした。日本政府は、宣戦布告の事前通告問題の重要性をほとんど認識していなかった。
 日本政府が太平洋戦争を始めたときの戦争目的は、明らかに「あとづけ」でしかなかった。1941年11月2日、昭和天皇は、東条首相に対して、戦争の大義名分をいかに考えるのかと下問し、東条は「目下、研究中」と奉答した。
 むむむ、なんということ、「目下、研究中」の大義名分のために戦争を始めようとしたとは・・・。絶対に許されないことですよ、これって・・・。
 12月8日午前11時40分の宣戦詔書では、「自衛のための戦争」となっていた。ところが、同じ日の夜7時30分には「アジアの解放のための戦争」となっていた。
 日本政府のかかげた戦争目的は、「自在自衛」から「大東亜新秩序維持」と「大東亜共栄圏建設」とのあいだをゆれ動いた。
 いやあ、これって、あまりにもいい加減すぎます。まるで信じられません。
 日本軍がアメリカとの戦争を決意した理由は、臨時軍事費による軍備の充実だった。開戦時、太平洋地域では、日本の戦力はアメリカを凌駕していた。国策よりも、自らの組織的利害を優先するという海軍の姿勢があった。つまり、軍備拡充に必要な予算と物資とを確保するため、武力南進政策を推進する。しかし、十分な勝算のない対米英戦は、できれば回避したい、というのが海軍のホンネだった。ところが、海軍首脳が対米開戦反対を明言できなかったのは、海軍は長年、大きな予算をもらって、機会あるごとに海のまもりは鉄壁だ、西部太平洋の防守は引き受けたと言ってきた手前、今となってにわかに自信がないなどとはどうしても言えなかったということである。
 対米戦争の主役は海軍である。このことは陸軍もよく理解していた。だから、海軍が本当に対米開戦を決意しているのか、あるいは対米戦に勝利する確信をもっているのかというのは、陸軍の重大関心事だった。
 9月6日に開かれた御前会議の時点では、昭和天皇は、対米英開戦について確信をもてず、参謀総長などに対して、その勝算について厳しく問い正している。ただし、天皇が開戦に反対していたというわけでもない。勝算のない開戦には大きな危惧を抱きながらも、統帥部(軍部)の主張に耳を傾けていた。
 11月5日の午前会議の時点では、天皇は木戸幸一内大臣などの宮中グループの助言を受けいれながらも、はっきり戦争を決意していた。『機密戦争日誌』には、「お上もご満足にて、ご決意ますます強固になっているようだ」と書かれている。
 日本政府は、戦争瀬戸際外交をとっていたので、強力な言論報道統制と世論指導をした。
 政府には内乱への恐怖があり、内乱を避けるために戦争を決意せざるをえないという転倒した論理が生まれていた。戦争瀬戸際外交は、国内的にも、日本政府をあともどりできない地点まで追いこんでいく結果となった。
 アメリカの主力艦隊との艦隊決戦に備えて、まずアメリカの植民地であるフィリピンと米領グァム島を攻略したい海軍とは異なり、陸軍にとってアジア・太平洋戦争とは、何よりも日英戦争を意味していた。
 アメリカのルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知っていたという一次資料は存在しない。ルーズベルトは、通信諜報などによって、日本が戦争を決意したこと、東南アジアで軍事行動を開始したことは事前に知っていた。しかし、陰謀論は成り立たない。
 素人の私も、そうじゃないかと思います。
 真珠湾攻撃は、潜水艦部隊による攻撃としては、完全な失敗に終わっていた。真珠湾攻撃に際して5隻の小型潜航艇に2人ずつ乗り組み、戦死した9人の隊員(残る1人の将校はアメリカ軍の捕虜となった)を「九軍神」とたたえる大キャンペーンが展開された。
 日露戦争のときの軍神は30代から40代の中堅将校であったが、今度は20代の「軍神」である。時代は若者の大量死の時代にふさわしい新しいヒーローを必要としていた。
 うむむ、なるほど、なるほど、すごく鋭い指摘だと思いました。
 東条首相は、陸相として陸軍省の機密費を自由につかうことができたという有利な立場にあった。東条首相の政治資金の潤沢さは鳩山一郎からも指摘されていた。東条は、アヘン密売の収益金10億円を鈴木真一陸軍中将から受けとったという噂があった。東条のもっているお金は16億円で、それは中国でのアヘン密売からあがる収益だった。
 宮内省などに東条の人気が良かったのは、東条の付け届けが極めて巧妙だったから。たとえば、東条は、秩父宮と高松宮に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には、食物や衣服そして、万年筆などの贈り物をしていた。東久邇宮のところには、アメリカ製自動車が届けられた。いやあ、これって全然知りませんでした。東条が汚いお金で宮中などの要人を「買収」していただなんて・・・。ひどい話です。
 東条首相が昭和天皇の信頼を得ていたのは、東条が天皇の意向をストレートに国政に反映させようと常に努力していたから。
 1942年4月の翼賛選挙のとき、非推薦候補に対しては露骨な選挙干渉がなされたが、推薦候補に対しては1人あたり5千円の選挙費用が政府から交付された。この費用は、臨軍費から出ていた。ところが、激しい選挙干渉にもかかわらず。85人もの非推薦候補が当選した。そこには、翼賛選挙に対する国民の批判が一定反映されていた。
 東条内閣の政治では、憲兵の存在を忘れてはならない。陸軍大臣を兼任していた東条首相の意を受けた憲兵政治がなされた。憲兵の私兵化だ。
 また、東条は、メデイアを意識的に利用した最初の政治家だった。東条は絶えず国民の前に姿を現わし、率先して行動し決断する戦時指導者という強烈なイメージをつくり出そうとした。くり返しラジオに登場した。東条は最後までオープンカーにこだわった。国民の視線に常に自らをさらすというのが、一貫して姿勢だった。
 東条の芝居がかったパフォーマンスは、識者の反撥と顰蹙を買った。しかし、一般の国民は東条を強く支持した。東条は、一般の国民にとって「救国の英雄」だった。うむむ、そうだったのですか・・・。ここで、つい小泉純一郎の姿が東条英機にかぶさって思われました。
 陸海軍の兵力が急激に膨張したことは、精強さを誇ってきた日本軍が弱体化したことを意味する。幹部の質の低下である。指揮・統率能力が低く、体力・気力ともに劣る、兵士に対して押さえのきかない将校が増大した。同時に彼らは、一般社会の空気を吸い、一般社会での経験を積んできた将校でもあった。軍隊の地方化、市民社会がすすみつつあった。
 1944年3月、日本軍は「玉砕」という言葉をつかわないようにした。玉砕という表現が逆に日本軍の無力さを国民に印象づける結果になるという判断にもとづいている。昭和天皇の弟である高松宮の日記(1943年12月20日)にも、「玉砕は、もう沢山」という表現がある。
 1943年12月。民心は、東条内閣からもうまったく離れていると小畑中将が細川護貞に語った。東条の極端な精神主義への傾斜が周囲の顰蹙を買っていた。
 大変勉強になる本でした。知らないことが、こんなにもあるなんて・・・。
(2007年8月刊。780円+税)

ホメイニ師の賓客(下)

カテゴリー:アメリカ

著者:マーク・ボウデン、出版社:早川書房
 イランのアメリカ大使館が占拠されて人質にとらえられている人々を救出するため、カーター政権は秘密のプロセスをたどっていた。そうです。人質救出のための直接的な軍事行動に出ることにしたのです。ところが、アメリカ軍の粋をきわめ、精鋭兵士を何ヶ月も訓練し、万全を期してのぞんだはずなのに、この救出計画はみるも無惨に失敗してしまいました。そのプロセスをこの本は明らかにします。
 デルタ・フォースは、カリフォルニアの海兵隊基地で6度目の徹底した予行演習を行い、上々の結果を出した。デルタ戦闘員は眠りながらでもほぼ完璧にこなせるくらい、自分たちの動きを知り尽くした。
 しかし、不測の事態を考えるべきだ。デルタはあくまで軽歩兵部隊だ。戦車や装甲をほどこした兵員輸送車が出てきたら、長くはもちこたえられない。その心配にこたえて作戦当夜は、ACー130ガンシップがテヘラン上空を旋回することになった。ACー130なら、イラン軍の装甲車が救出作戦に介入しようとしても破壊できる。
 デルタ兵士たちは何ヶ月ものあいだ隔離され、延々と訓練してきた。誰にも、自分のやっていること、行く先、戻ってこられそうな時期を教えるのを禁止されていた。何ヶ月ものあいだ、昼も夜も狭い空間で一緒に生活させられるのは、大人にとってじわじわと拷問にかけられるのにひとしい。意見がとげとげしくなり、あらゆることが口論の火種となった。
 カーター大統領は、イランの不法行為に並々ならぬ自制で応じた。国益と53人の人質の両方を重視し、慎重に対応した。それは国内外から高く評価された。支持率は、占拠の当初は2倍に上昇した。しかし、月日がたつにつれ、カーター大統領のとった自制策は弱さと優柔不断のあらわれと見られるようになった。
 MCー130は、アラビア半島の南東先端にあるオマーンの沖に浮かぶマシラという小島を夕暮れに飛び立った。1時間後には、MCー130機の1機とCー130の4機が続いて離陸した。MCー130の二番機には総勢132人に増えた急襲部隊の残り全員が乗っていた。地形に沿って飛べるよう、各機とも空軍の最新鋭の地形回避航法システムを装備していた。
 アメリカ軍のさまざまな部門から志願してきたペルシア語のできる兵士(全員がイラン系アメリカ人)や元イラン軍将校2人が、デルタ隊員とともに飛行機で運ばれた。
 MCー130一番機は目的地にふんわりと着陸できた。やわらかい砂のおかげだ。そしてMCー130の二番機も着陸した。ところが、そこへ、屋根に荷物を積み、驚いた顔のイラン人乗客40人を載せた大きなバスがやってきた。さらに、近くを走っていたトラックを撃つと、燃料を積んでいるトラックが爆発し、真昼の陽光なみのまばゆい閃光がひらめいた。バスは、タイヤがパンクし、走行不能となった。乗客のほとんどはチャドル姿の女性で、泣き叫ぶ。
 万事が予定の時刻表より遅れていた。ヘリコプター部隊が潜伏地点2ヶ所に夜明け前に到着するのは無理だった。 兵士たちは2時間も地上で待たされた。砂嵐が兵士たちの顔を激しく叩き、目をあけていられなかった。
 8機でイラン領内に侵入したヘリコプターのうち2機が、故障で引き返し、6機となった。そして、目的地に着いたとき、1機がエンジンを止め、使えるのは5機になった。
 仮に5機が潜伏地点まで行けたとして、翌朝、5機すべてが飛び立てるのか。
 一機か二機が飛び立てず、他のヘリも被弾したときには、人質と兵士をどうやって運ぶというのか?
 救出作戦の中止が決定された。ヘリコプターが飛び立つと、Cー130は四機とも、幸いにもイラン空軍から攻撃されることもなく、脱出することができた。戦闘機の護衛なしでイラン領内から脱出できたのは幸運としか言いようかない。
 アメリカの精鋭救出部隊は、何ヶ月もの訓練を経て、科学技術の粋を尽くしたにもかかわらず、敵との交戦がないまま兵士8人とヘリコプター7機とCー130一機を失った。完全な敗北だった。大潰走という言葉どおりであった。
 この大失敗を聞いたアメリカ人の多くは、救出作戦には賛成しつつ、失敗に終わったことを悲しみ、落胆したが、カーター大統領を非難することはしなかった。
 救出部隊の派遣を決断したカーター大統領には66%の支持が寄せられた。
 カーター大統領はその後も人質救出に全力を傾注したが、次のレーガン大統領はまったく関心をもたなかった。すべて前大統領の責任問題だとみなしていた。
 イランのアメリカ大使館の人質救出作戦の大失敗の実情を知ることができました。やはり、何ごとも力による解決には限界が大きいということですよね。
(2007年5月刊。2500円+税)

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