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ヒトラー暗殺計画

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:グイド・クノップ、出版社:原書房
 小説ではありません。歴史ドキュメントです。本文とあわせて、関係者の証言がエピソード的に紹介されていて、ヒトラー暗殺計画の周辺状況を多角的に知る事実ができます。初めて知ることがたくさんありました。
 もちろん、私は暗殺とかテロを支持しているわけでもなく、賛美したりなど決してしません。しかし、ヒトラーに限っては(実は、スターリンについても同じですが)、早いとこ暗殺されてしまったら、ヨーロッパ戦線で数百万人の兵士が死ぬ必要はなかったろうし、数十万人のユダヤ人が死ぬこともなかっただろう。著者の、この指摘には同感せざるをえません。
 ヒトラー暗殺の第一弾は、1939年11月8日のこと。ミュンヘンでヒトラーが演説し、いつもより早く1時間半ほどで切り上げて会場のホールから立ち去ったあと、その13分後に10キロの爆薬が爆発した。演壇そばのホールの支柱が爆発したのだった。8人が死に、数十人がケガをした。
 犯人は、一人の工芸家具職人であり、単独犯で、黒幕はいなかった。彼はドイツ共産党に投票していたが、党員ではなかった。ヒトラーは戦争だ、ヒトラーがいなくなれば平和になる。このように考えての行動だった。
 この暗殺者は、実行する1年前に会場の下見をした。そして、爆弾を購入するために、少しずつ家財道具を売り払って、材料を買いととのえた。会場の店には夜のうちに入っていて物置部屋に忍びこみ、ホールの支柱に工作した。大変な苦労をしたのですね。ヒトラーが、この日、天候を気にして早めに演説を切り上げたのは、まったくの偶然でした。まったく悪運の強い男です。
 「犯人」はザクセンハウゼン強制収容所に入れられましたが、ずっと他の囚人から隔離されていました。独房3室があてがわれ、1室で寝起きし、1室に作業台を置いて木材加工し、最後の1室にSS監視兵が1人つめていた。食事も衣料も好待遇だった。暗殺に失敗したあと、5年半も生きていて、1945年4月9日夜、SS兵にうしろから撃たれ、翌日、ダッハウ強制収容所の焼却炉で灰になった。
 ヒトラーは、ドイツ帝国の東部国境を、バクー、スターリングラード、モスクワ、レニングラードのラインまでずらす。この線から東をウラル山脈まで焼きはらい、その地域の生あるものすべてを抹殺する。そこに住むロシア人3000万人は餓死させる。レニングラードとモスクワは跡形もなく消し去る。このような戦慄のシナリオを知ったヒトラーの犯罪的所業を阻止する必要があると考えたドイツ国防軍の将校群が生まれた。
 ユダヤ人、捕虜、コミッサールの射殺は総じてドイツ国防軍の将校団から拒絶された。このような射殺はドイツ将校団の名誉を毀損すると見なされた。そして、前線にいるドイツ国防軍の将校は我々の想像以上にこれを問題にしていた。
 1943年3月7日、ドイツ国防軍防諜部(アプヴェーア)長官カナリス提督が幕僚を率いてスモレンスクへ飛んだ。オスター少将、ラホウゼン大佐、ドホナーニ特別班長が同行した。表向きの会談は前線司令部における情報将校の大会議。実は、ヒトラー暗殺のあと、ベルリンでどのように政権を引き継ぐか、そのときの措置、そして意思疎通のための暗号が取り決められた。
 1943年3月、成功できたはずのヒトラー暗殺計画が、2件、たて続けに失敗してしまい、クーデター将校は仕切りなおしを強いられた。
 ブライデンブーフ大尉がヒトラーを自分の拳銃で射殺することになった。しかし、なぜか、その日、ブライデンブーフ大尉はヒトラーの参加する作戦会議の開かれた会議室に入ることを拒まれた。
 「ああいうことは、一度きりだ」とブライデンブーフは語った。神経の緊張はあまりにも大きく、2度もそれに耐えるとは思えなかった。
 シュタウフェンベルクは、1943年4月、アフリカのチュニジアで敵機の機銃掃射を受け、命は助かったが右手を手首の上方で切断され、左手の小指と薬指を失い、さらに左目も喪った。やがてシュタウフェンベルクは、快復したあと1943年、本国へ異動した。そして、市民レジスタンスグループと連絡をとることができた。
 1943年9月にベルリンへ来てから、シュタウフェベルクは短期間のうちにクーデター計画のリーダー格になった。レジスタンスの最重要人物と連絡をとり、意見の相違はあっても、共通の目標に対する支持をとりつけた。
 1944年6月、連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功したとき、シュタウフェンベルクはクーデターに意義があるのか疑問を感じた。そのとき、トレスコウはこう言った。
 「いかなる犠牲をはらおうと、ヒトラー暗殺はなしとげなければならない。失敗するにしても、クーデターは起こさなければならない。もはや、重要なのは、現実の目標ではない。世界と歴史の前に、ドイツのレジスタンスが命を賭して決定的な一石を投じた、ということが重要なのだ。その事実に比べれば、ほかのことはどうでもよい」
 いやあ、すごい言葉ですね。しびれます。まったく、そのとおりです。私は、今は亡き、この2人の先人に対して心からの敬意を表します。
 いよいよ、ヒトラー暗殺を実行できるのはシュタウフェンベルク1人にしぼられていきました。日頃、口先で大きなことを言っていても、いざとなれば臆病風が吹いてしまうものです(なんだか、私のことを言われているようで・・・)。
 1944年7月15日に至る経過で明らかになったのは、ベルリンでクーデターを指揮できるだけの精神力と行動力をふりしぼることのできるのは、シュタウフェンベルクだけだった。彼は、刺客兼クーデター指揮者という2つの役を兼ねなければならなかった。
 しかし、片手の男が暗殺を決行するのは正気の沙汰ではなかった。ところが、ほかには誰もいなかった。シュタウフェンベルクと副官ヘフテンは書類カバンのなかに、それぞれ1キロのドイツ製プラスチック爆弾を隠していた。爆弾の組立は、きわめて複雑な作業である。確実に爆発させるためには1個だけでなく、2個か3個の信管を起動させる必要があった。ところが、2個目の爆弾をセットしようとする寸前にシュタウフェンベルクは謀議仲間から電話が入り、2個目の爆弾をカバンに入れることなく、ヒトラーの入る会議室に入ってセットせざるをえなかった。いやあ、これって、まさに運命のイタズラですね、仲間によって邪魔されたというのですから。
 シュタウフェンベルクがヒトラーをなぜ会議室で射殺しなかったのかというと、彼は暗殺が成功したときのことにまで責任をもっていたからだ。
 ああ、またもや悪運強し、です。ヒトラーは間一髪、爆死を免れました。ちょうどやってきていたイタリアのムッソリーニを無事に送り出し、ラジオで自分が元気でいることをドイツ国民に知らせることができた。
 ロンメル将軍は、ヒトラー暗殺計画に積極的に加担してはいませんでしたが、軍部レジスタンスの味方をしていました。ところが、7月20日の直前の7月17日にフランス国内でイギリス軍の機銃掃射にあい、予期せぬ重傷を負ってしまったのです。これまた、なんという皮肉な運命でしょうか。
 7月20日のヒトラー暗殺の失敗のあと、数週間のうちに800人ほどの人が逮捕され、200人が殺害された。ドイツ国民の大多数はヒトラーの暗殺未遂の知らせに驚愕し、激怒した。
 シュタウフェンベルクは1944年7月21日未明、直ちに銃殺された。8月7日、クーデター将校に対する裁判が始まったが、非公開で行われた。裁判を公開したら、被告人にしゃべらせなければいけない。それは危険だ。こういう判断でした。
 ゲッベルスはこの裁判の記録映画をドイツの映画館で公開するつもりだったが、むしろドイツ国民はフライスラー裁判長に対して嫌悪し、被告人たちに同情と尊敬を覚えるだろう。こう心配して、とりやめにした。
 8月8日、被告人たちに死刑が宣告され、ヒトラーの命令どおり、家畜のように絞首刑が執行された。その様子をカメラが記録していて、ヒトラーは、何度となく観賞してあきることがなかった。ヒトラーは、やはりサディストそのものです。
 死刑囚は、みな、嘆きの言葉一つも言わずに、背筋を伸ばして絞首台へ向かった。
 ずっしり重たい本です。東京からの帰りの飛行機で一心に読みふけり、時間のたつのを忘れましてしまいました。
(2008年3月刊。2800円+税)

分断時代の法廷

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:韓 勝憲、出版社:岩波書店
 いやあ、すさまじい闘争がお隣の韓国では、戦後ながく続いてきたのですね、改めて思い知りました。韓国で民主主義と人権擁護のためにたたかってきた弁護士の弁論集を一冊の本にしたものです。読むにつれ、思わず襟を正されました。
 先日、有楽町の映画館で『光州5.18』という韓国映画をみてきました。土曜日朝の上映なのに、始まる前から観客がつめかけていました。大変政治色の濃い内容ですが、女性が多数を占めているのにも驚きました。
 光州事件は、1980年5月に始まった。10日間にわたって民主化を求める人々が軍隊(戒厳軍。全斗煥将軍による空挺特別部隊)の凶暴な鎮圧作戦のもとで、罪なき多くの光州市民が虐殺されました。軍隊は国家(というより、権力を握る特権階級)を守るためのものであって、フツーの市民を守るものではないことがよく分かります。
 この映画が『シルミド』『ブラザーフッド』など、韓国現代史の闇を正面からとり上げたものであるのに、興行収入としても歴代8位だというのですから、韓国映画界のすごさ、そして韓国民の意識の高さに対して、日本人として素直にシャッポを脱がざるをえません。たとえば、日本でいうと、「60年安保」や沖縄返還闘争を真正面から描いた映画ということになるのでしょうか。でも、そんな映画に日本人が740万人も映画館まで見にきて大ヒットとするなんて、とても考えられませんよね、残念ながら。
 最近、小林多喜二の「蟹工船」が流行している(売れている)そうですが、映画化されて、多くの日本人がみたということにでもなれば、少しは違うでしょう・・・。それはともかく、この『光州8.15』は、とてもいい映画です。ぜひ、みなさん映画館まで足を運んでみてください。韓国で、20年ほど前に、現実に起きた事件です。そして、日本政府は韓国の凶暴な軍事政権を物心両面にわたってずっと支えてきたのです。
 著者は検事を5年つとめたあと、1965年に弁護士に転身した。それからの40年間に、2度にわたる有罪判決を受け、8年のあいだ弁護士資格を剥奪され、また、2年ほど政府の監査院長に在任した。
 朴正熈の独裁政治のもとで、弾圧の裏面で、支配階層の腐敗が蔓延した。これに対する不満を防ぎ、抵抗を抑えるため、朴政権は階級意識の鼓吹と容共嫌疑で逆襲した。筆禍事件のとき、著者は、次のように弁論した。
 月を指しているのに、月を見ないで指だけを見るようなものだ。
 まったく言いえて妙な、たとえです。韓国の刑法には、宣告猶予というものがあるそうです。執行猶予より、さらに軽い判決だということです。
 有名な詩人である金芝河の『五賊』が、反共法で起訴されたとき、著者は『五賊』が共産主義的階級思想を鼓吹するものではなく、社会の不正腐敗を告発する作品だと強調した。
 ところが、弁護人である著者の弁論までもが反共法違反に該当するとして拘束され、被告人である金芝河と同じソウル拘置所の中で顔をあわせることになってしまった。
 日本でも、戦前、共産党員の弁護をした弁護人(弁護士)が治安維持法違反で検挙されたということがありました。目的遂行罪というものです。処罰の要件なんて、あってないような代物です。恐ろしい世の中になっていたわけです。
 韓国ではキリスト教信者が日本に比べて大変多いようです。そして、教会の牧師さんたちが社会的運動に積極的に関わっています。牧師が教会で説教し、ビラを信者に配布したところ、政府転覆を企てた、内乱陰謀にあたる、と起訴されるという事件が起きました。
 聖書と賛美歌をもって集まった女性中心の信者たちが暴力で放送局と政府庁舎を占拠し、政府の転覆を図ろうとしたということで、牧師に懲役2年の実刑が言い渡された。ところが、その2日後には保釈が認められた。信じられないことですよね、これって。
 未成年ではないが未婚の女性なので、本物の判別能力が微弱と認定されるなどの情状を酌量し、執行猶予とする。こんな判決が下されたこともあったそうです。まったく女性と若者を馬鹿にしています。でも、要するに裁判官は執行猶予にしたかっただけなんでしょうね、きっと。
 韓国では、北朝鮮スパイ事件というのも少なくないようです。その事件で、被告人が否認していると、検事が、「どこのスパイが、私はスパイですと正体を現すものか」と言ったのに対して、著者は、「だからといって、私はスパイではないという者はみんなスパイだという論法は成立しない」と切り返した。うむむ、な、なーるほど、これって、すごい反撃になっていますよね。
 民青学連事件と人革党再建委事件は2002年9月に、当時のKCIAによるでっちあげだとされたが、合計8人もの被告人が、大法院で上告が棄却されて1日もたたない18時間後に絞首刑が執行され、生命を奪われてしまった。これは拷問によるでっち上げを隠すためのものだったと思われる。いやあ、ひどい、ひどい。またく許せません。
 スパイとして死刑になった人物について「ある弔辞」というエッセーを著者が書いたところ、その哀悼文が反国家団体を利しているということで反共法違反となったということも紹介されています。まことに独裁国家は法無視の存在だと実感します。
 光州事件のあと、犠牲者の追悼行事さえも処罰の対象となった。金大中(元大統領)もこの当時、拘束されました。
 1987年6月、巨済島にある大宇造船で大規模な労使紛争が発生した。このとき、盧武鉉弁護士(つい先日まで韓国大統領でした)が、釜山から巨済島へやってきていました。このとき盧弁護士は、葬儀妨害等で警察に拘束されてしまいました。警察のうった催涙弾で死亡した労働者の埋葬地をどこにするかについて、弁護士が意見を述べただけで罪に問われるなんて、非常識きわまりありません。
 やはり、韓国は朝鮮戦争を経ているだけに、利害対立が日本に比べて格段に激しいことを実感される本でもありました。70歳をすぎた韓弁護士のますますのご壮健とご活躍を心より祈念します。
(2008年2月刊。2800円+税)

中国動漫新人類

カテゴリー:中国

著者:遠藤 誉、出版社:日経BP社
 私はテレビを見ないので、もちろんテレビのアニメを見ませんし、マンガも読みませんから、いま日本で人気のあるマンガの内容がどんなものなのか、さっぱり分かりません。ただ、映画で宮崎駿のアニメは大半を見ていますし、大学生のころまでは、よく少年マンガ週刊誌を読んでいました。社会人になってから読んだマンガというと、手塚治虫くらいでしょうか。あっ、そうそう、藤子不二雄の『まんが道』、矢口高雄の『ふるさと』も読みました。なかなか良くて、大いに感銘を受けました。
 この本は、日本のアニメとマンガが中国の青少年に大きな影響を与えていることを実証的に明らかにし、その背景と問題点をいろんな角度から論じています。近くて遠い中国の知らなかった一面を認識させられました。かつて中国へ侵略していった日本人として知るべきことが多く盛りこまれている、知的刺激にみちた本でした。
 動漫。中国語でアニメと漫画をひとくくりにして、こう呼ぶ。
 中国では、1980年以降に生まれた若者の世代を「80后」と呼ぶ。この「80后」こそ、生まれた翌年から『鉄腕アトム』が放映され、まさに生まれ落ちたときから日本動漫を見ながら育ってきた世代である。いまの中国の若者たちは、日本のアニメや漫画の影響を多大に受けている。
 そして、この日本動漫隆盛の裏には、悪名高き、「海賊版」の存在があった。日本の動漫は、海賊版の力で中国を席巻して、結果的に中国市場に深く浸透した。日本円で年間10兆円単位になろうという中国の巨大な動漫関連市場のかなりの割合を海賊版の日本コンテンツが占めている。
 たかが子ども向けの作品として、何の規制もなく中国に普及していった日本のアニメや漫画は、中国の若者たちに、民主主義と市場経済の甘い蜜を知らずしらずのうちに味わせていた。こうした甘い蜜を少しでも味わってしまうと、もう欲望は後戻りできない。
 1996年、中国で『スラムダンク』がテレビ放映されたころから、中国における日本アニメブームは全盛期を迎えた。中国全土で史上空前のバスケット熱が巻き起こり、中学、高校、大学と、どのキャンパスでもバスケに夢中になる若者が激増した。
 アニメ市場では、もうけのほとんどは、アニメそのものではなく、アニメの副産物であるキャラクターグッズがうみ出す。だから、ヒットするアニメを放映し、そこからキャラクターグッズが誕生しない限り、大きなもうけはない。
 中国全土で、熱狂的な日本語学習ブームが起きている。日本の声優の声は美しく、声に表情があり、心のひだをたおやかに表している。
 うむむ、そ、そうなんですか・・・。そう、でしょうね。
 日本動漫に熱狂するあまり、映像の中のキャラクターに自分自身もなり切って、コスプレをし、さらなる自己投影と自己実現を試みる若者が中国で急増している。中国政府は、積極的に、全国的なコスプレ大会を開いている。今や500万人の参加するイベントである。コスプレ大会では、寸劇形式をとっている。
 ところが、最近になって、中国政府は日本動漫を「敵対勢力」と位置づけた。「堕落し没落した生活方式」が中国の未成年者に悪い影響を与えているとし、その対策を取りはじめた。
 うむむ、これって、なんとなく分かりますよね。それにしても、日本と中国が実はこんなに近く、そして遠い国だということを、アニメとマンガの分野で実感させられました。面白い本でした。ほまれさん、ありがとうございます。
(2008年2月刊。1700円+税)

ミクロにひそむ不思議

カテゴリー:未分類

著者:牛木辰男、甲賀大輔、出版社:岩波ジュニア新書
 いやあ、この世界は知れば知るほど、不思議と神秘にみちみちていますね。ミクロの世界が、これでもかこれでもかと次々に紹介されます。息を呑むような精巧かつ奇妙な構造にあふれているのです。ジュニア新書というのですから、一般には子ども向けのやさしい解説書のはずですが、おっとどっこい、大人の私たちにも大いに勉強になる写真集であり、これで800円、180頁ほどの新書版ですからたまりません。世の中の不思議を知りたい人に、一見、一読をおすすめします。
 顕微鏡をつかった解剖学を顕微解剖学という。顕微鏡というのも、光学顕微鏡、透過型顕微鏡、走査型電子顕微鏡、走査型プローブ顕微鏡などいろいろある。
 ミクロの世界なんて、さぞかし単純に出来ていると思われるだろうが、実はまったく逆で、そこには想像もできないような奇妙な構造があふれていて、しかも、そのどれもが精密きわまる構造をしている。
 たとえば、花粉です。実にさまざまな大きさや形をしています。花粉症の原因ともなるわけですが、それは人間の身体が粘膜に接触した花粉を洗い流そうとするための反応。過敏で過剰な反応を引き起こすのが花粉症である。
 実は、私も花粉症に悩まされている一人なのですが、塩水による鼻うがいを始めてから、すっかり症状が軽くなりました。薬を一切つかわずに、鼻うがいだけで対応しています。みなさんも一度試してみてください。
 アリ、ハチ、ハエ、カの頭部が紹介されています。なんだか、みんなよく似ています。こんな小さな生き物たちが、本当に精巧な造形物であることを知って、やっぱり神様なんていないな、と無神論者である私は思いました。ミクロの世界でこんなに精巧な造形物をつくる必然性が、全能の神様にあるとはとても思えない、という意味です。宗教を信じる人は逆に思うのかもしれません。すみません。
 さらに極めつきは、人体のミクロの世界です。人間の身体って、本当にかくも精巧な物体から成り立っているのかと感動を覚えます。よくも、こんな精密・精巧な仕掛けを、脳が間違わずに制御できるものだと不思議でなりません。
(2008年2月刊。780円+税)

僕たちの好きだった革命

カテゴリー:社会

著者:鴻上尚史、出版社:角川学芸出版
 実のところ、読む前は全然期待しておらず、車中で昔の学園紛争についての資料みたいに軽く読み流すつもりでした。ところが、さすがはプロの書き手ですね。次はどういう展開になるのか知りたくて、ぐいぐいと引きこまれてしまいました。
 今から40年前、学園闘争を果敢にたたかった人たちが、その後どんな仕事と生活をしているのか、私も大いに興味と関心があります。この本は、30年前の学園闘争のとき機動隊に頭を直撃されて植物人間となった高校生が、30年後に目が覚めて現代の高校に復学したという、とてもありえない設定で始まります。今どきの高校生と30年前の高校生徒で話が合うはずはないのですが、そこは同じ日本人なのです。いつのまにか共通するところが出てくるのが不思議なところです。
 しかも、現代の高校の教頭先生が実は30年前の全共闘のリーダーであったり、今どきの高校生の親たちが、実は、かつての全共闘の活動家だったりするわけです。となると、内ゲバの悲劇も登場せざるをえません。そうなんです。そのトラウマを今も引きずっている母親がいたのでした。
 これらを一つのストーリーに仕立てあげて読みものにするあたりは、私に真似できそうもない小説家の技(わざ)ですね。
 「オレたちは夢を見ていたのかもしれん。マルクス主義という夢、人類の平等と解放という夢、だがなあ、おまえが30年ものあいだ寝ているあいだに、ソ連を初めとする社会主義国は、続々と崩壊したんだ。あの当時の理想は消え去った・・・」
 「そんなことじゃない。あなたは賢いから、マルクスとか、いろんなことを考えていたでしょう。でも、ぼくは、自分たちの文化祭だから、自分たちだけでやりたい。自分たちの文化祭の内容を先生ではなくて自分たち生徒が決めるのはあたり前、それだけだったんですよ。それって間違いなんですか?」
 団塊世代よりちょうどう10年若い著者による本です。この本を読んで学園紛争とか全共闘について関心をもった人には、『清冽の炎』(神水理一郎。花伝社)をおすすめします。相変わらず売れていないそうです。私は、なんとか売れるように必死で応援しています。
 食事をすませ、夜、うす暗くなったころ、歩いて近くの小川に出かけます。ホタルに会いに行くのです。夜8時ころがホタルの飛んでる時間です。道端をフワリフワリと飛んでいます。そっと両手でつかまえ、ホタルの光を指のあいだにしばらく眺め、また放してやります。ホワンホワンと光るホタルって、すごくいいですよ。手にのせても、まったく重さを感じません。童心に帰るひとときです。
(2008年2月刊。1700円+税)

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