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日本人登場

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:三原 文、出版社:松柏社
 江戸時代の末期から日本人の軽業見世物一座がアメリカやヨーロッパに渡って、大変な人気を集めていたなんて、知りませんでした。子どものころは、よくサーカス一座が私の住んでいた田舎町までやって来ました。親に連れられて見に行くことがありました。最近はサーカスの巡行というのはほとんど見かけません。その代わりに大がかりのマジックショーを見ることがあります。春にハウステンボスで見たのは、大きなゾウが一頭まるまる目の前から消えるマジックでした。あれれ、いったいどういう仕掛けなのか、今もって不思議でなりません。昔はやったスプーン曲げや、時計を止めるというマジックはインチキであったり、偶然と確率を利用したりだということは、頭ではそれなりに理解しているのですが・・・。ロシアのボリショイ・サーカスを見たのもずい分と前のことです。
 日本の見世物は、西洋の人々の好奇心をみたした。日本人一座の芸は並外れて優れていた。サンフランシスコにある石造りの豪華大劇場で、3000人もの観客を日本人一座の演技は高く評価された。
 慶応2年から3年にかけて、アメリカへ出かけた一座は少なくとも6座はあった。女性芸人も子ども役者もいた。
 江戸末期に活躍した軽業名人日本一は、早竹虎吉である。その虎吉の名前が刻まれた墓石と線香立が大阪市内に今も残っている。この虎吉は、不運にもニューヨークで客死している。
 この本には、日本人一座の活躍を報じるアメリカの新聞記事や写真などが紹介されています。曲芸中心の舞台は、アメリカ人の大評判を呼び、連日連夜、超満員の観客の目を楽しませた。
 すごいですね。日本人は、この分野でも幕末期にすでに世界的興行をうっていたのですね。昔の日本人は偉いものです。それにしてもよく資料を発掘しましたね。
(2008年3月刊。3500円+税)

遊女(ゆめ)のあと

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:諸田玲子、出版社:新潮社
 いやあ、まことに作家の想像力というのは想像を絶するものがあります。ロマンあふれる時代小説、これはオビに書かれたキャッチフレーズですが、まさしく、そのとおりです。
 全国各地で大飢饉に見舞われ、財政難にあえいでいた幕府は八代将軍吉宗のもとで、倹約に次ぐ倹約で財政を立て直そうとしていた。ところが、尾張名古屋だけは違った。尾張徳川家七代宗春(むねはる)を藩主とあおぐ名古屋には、飢饉もなければ貧困もない。重税もなければ圧政もない。死罪もなければ諍(いかさ)いもない。大道に商店がひしめき、各地から押し寄せた商人の威勢のいい売り声が飛びかう。老若男女が愉(たの)し気に行きかい、城下は活気にみちている。不夜城のごとき遊郭からは、華やいだ嬌声や音曲が流れ、雨後の筍のごとく出現した芝居小屋の幟(のぼり)で、道の両側は埋め尽くされている。
 藩主宗春が江戸からお国入りしたときは、黒装束に縁がくるりと巻きあがった鼈甲(べっこう)の丸笠という奇抜ないでたちで、人々の度肝をぬいた。
 そんな名古屋の地へ、女2人、旅立った。ひとりは博多から。もうひとりは江戸から。
 宗春は正室をもたない。これも幕府への反発のあらわれだった。正室は人質として江戸に住まわせるという定めがある。それはよいが、御三家まで従えというのは、がまんがならない。
 宗春のしなやかな細身の体にまとっているのは、派手な青海波(せいがいは)文様の絹小袖、ゆるめにしめた細帯は黒びろうどで、髪は江戸で大流行の文金風。髷(まげ)の根を一気に上げて前へ折り曲げるこの髪型は、宗春の音曲の師匠でもある浄瑠璃語り、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の発案だった。
 宗春は鮮やかな紅の小袖と羽織袴をつけ、緋縮緬のくくり頭巾を被っていた。くくり頭巾とは、頭をすっぽり覆う丸頭巾の先端が縫い閉じられている。白牛ではなく、この日は駕籠(かご)に乗っていた。駕籠には天井がない。左右の簾も巻き上げてあるから、沿道の人々には宗春の姿がはっきりと見える。もとより、見せるために趣向を凝らしている。
 「ひゃあ、目が醒めるようやわァ」
 これが江戸時代の藩主の服装なんですよ。いやあ、すごいものです。
 真夏の陽射しを浴びて、紅と緋が禍々しい(まがまがしい)ほどの光彩を放っている。
 初夏の陽射しが降りそそいでいる。南天、芍薬、梔(くちなし)・・・。御下屋敷の北東の一画を占める薬草園では、草木の緑が萌え立ち、花々が妍(けん)を競っていた。
 鉄線とはクレマチスのことです。昔からあったんですね。今とまったく同じものなんでしょうか。私はクレマチスの花も大好きです。牡丹は私の庭にも2株、もらったものがあります。地植えにしています。毎年、見事な花を咲かせてくれます。その豪勢さには、つい見とれてしまいます。芍薬は、なぜか今年は花を咲かせてくれませんでした。枯れてしまったわけではなく、あとになって緑々した葉だけを茂らせてくれました。
 江戸情緒たっぷりのロマンあふれるお話でした。さすが、プロの書き手は読ませます。
(2008年4月刊。1900円+税)

ブータンに魅せられて

カテゴリー:アジア

著者:今枝由郎、出版社:岩波書店
 ブータンは小さな王国。人口は60万人。国土の72%は森林で、20%は万年雪に覆われている。農耕地は8%しかない。ブータン人口の5人のうち4人が農業で生計を立てている。
 ブータン国立図書館は、民家としては大きいといえる程度のごく普通の木造2階建て。中には経典が山積みにされているが、多くはない、目録もなかった。図書館員は堂守で、図書館長は僧正である。
 チベット仏教の伝統は、師資相承で伝えられるのが原則であり、お経は自分で勝手に選んで読むものではない。先生が弟子の資質を見きわめて、このお経なら理解できる、あるいはこのお経を学習すべきであると判断して初めて、弟子にそのお経を授けて学習させる。ブータンでは、お経が死蔵されることなく、生きている。
 ブータンは、つい最近まで、かたくなに鎖国を続け、一度も外国の植民地になったことがなく、現在でも小さいながらも独立国家として近代化の道を着実に歩みつつある。だから、ブータン人は外国人に対して何のコンプレックスも持っていない。
 ブータンでは、少なくとも女性が従属的でなければならないという社会的通念が非常に薄い。そもそも隷属的な地位を経験したことのない、自然な奔放さがある。
 田畑も家も、すべて女性のもので、男は外部から来て、労働と生殖に関わるだけである。これがブータンの女系社会である。ブータンの家では、女性のほうが実権をもっている。
 財産はすべて女性のものだし、男性は労働力の一部でしかない。男は、よく家から放り出される。離婚率も高い。
 ブータン人は決して排他性がなく、異文化に対して非常に寛容である。
 ブータンには、ネパールのようなポーターを生業とするシェルパはいない。
 ブータンの国王は、農民を登山隊のポーターとして徴集することを禁じた。ブータンの国会は、登山永久禁止条例を発令したので、ブータンの7000メートル級の山々は、今でも世界の例外として未踏処女峰のままである。ふむふむ、なるほど、そうなのですか。
 ブータンの特徴は、農家の一軒一軒がかなり離れて建っており、集落がないこと。
 ブータンは、チベットからの政治亡命者によって打ち立てられた国家のようなもの。インドとブータンの優劣関係は明らかで、一種の不平等条約だ。ブータンはインドの属国ではないが、完全にインドに依存していて、少なくとも経済的には自立していなかった。GDPではなく、GNH。国民総幸福という指標がある。人生の充足度を計ったもの。これによると、1位はデンマーク、2位はスイス、3位がオーストリア。ブータンは8位。アジアでもっとも幸せな国にランキングされている。ちなみに日本は、178ヶ国のうちの90位。
 ブータンは時間がありあまっているから、時間を世界に輸出したらどうか。これは、通産省の産業振興会議で出された意見だそうです。うひゃあ、そんな・・・。びっくりしますね。ブータンという、おおらかな国民のゆったりと時間の流れていく国の姿を少しだけ知ることができました。それにしてもGNHという指標はいいですね。そして、日本が世界の中くらいでしかないというのは残念でなりません。まあ、そうなんでしょうね・・・。
 物質的豊かさは必ずしも幸福を意味しないということですよね。アメリカなんて、GNHでみると最低のほうでしょうね、きっと。
(2008年3月刊。740円+税)

プロ法律家のクレーマ対応術

カテゴリー:社会

著者:横山雅文、出版社:PHP新書
 いま、多くの企業が一般人(暴力団など、いわゆる反社会勢力に属さない人をさします)による悪質クレーマー対応に頭を悩ませている。このごろのクレーム事案は、1年以上にわたって交渉をつづけていることも珍しくはない。
 悪質クレーマーは、あくまでフツーの人。フツーの人が病んでいるのだ。思考やロジックが極端に自己中心的である。人格障害といえることも多い。
 悪質クレーマーが増加したのには、3つの背景がある。
 その1。消費者保護保制ができて、権利意識が高まっていること。
 その2。度重なる企業不祥事と、それに対する一般社会の激烈な反応。
 その3。インターネットの普及により、一般人でも企業や行政に対する攻撃が可能となった。
 悪質クレーマーと対応させられている窓口の社員や職員は地獄におかれている。
 悪質クレーマーは、合理的な説明とか常識的な対応では納得しない。必ず堂々めぐりとなり、いつまでたっても平行線である。
 そんな悪質クレーマーに対しては、速やかに法的対応をとるべきだ。
 悪質クレーマーに対して、マニュアルにそって形式的に対応するのは危険だ。具体的ケースをもとにしたマニュアルをつくるのは重要だが、現実のケースでは固定化せず、臨機応変に更新していく工夫が求められている。
 たとえば、クレーマーに念書をとられないようにする。念書をとられたときの要因は、迫力負けによる混乱と長時間の拘束(軟禁状態)にある。
 言質をとられないためのコツは、「自分には決裁権はないが、事実調査については自分が責任者だ」ということを明確にする。そして、会う場所は不特定多数の人がいる喫茶店やファミリーレストランを指定する。クレーマー対応では、事実確認が最優先事項。
 悪質クレーマーの要求には、損害の回復とは関連性のない要求が非常に多い。
 悪質クレーマーは4つのタイプに分けられる。その1は、性格的問題クレーマー。良心の呵責(かしゃく)がなく、反省することもない彼らにたいしては、要求をキッパリ拒絶し、弁護士に交渉窓口を移管する旨の書面を郵送する。
 その2は、精神的問題クレーマー。その真の目的は、担当者との心理的密着によって、自分の心の欠損を埋めることにある。このときには、できるだけ紋切り型の言葉をつかい、型どおりの接客・対応をする。
 その3、常習的悪質クレーマー。攻撃性はなく、安易に金銭を渡したり返品に応じると、味をしめて次に何回でも登場する。そこで、クレームの事実関係を根ほり葉ほり質問していくこと。
 その4、反社会的悪質クレーマー。このときには、決して「秘密の共有」をしない。
 その1の性格的問題クレーマーは、経済的損得勘定はなく、自分の有能感を感じることが目的である。
 通知を出すときには、メールではなく、書面で郵送すること。普通郵便でもいい。そして、その通知文のなかに不当な要求行為であることを具体的に書くべきだ。
 悪質クレーマー対応の巧拙は、従業員の士気、ひいては企業の文化に影響してくる。
 話し合っていくうちに2時間たったら、辞去の言葉とともに腰を実際に上げるのが効果的だ。
 インターネット掲示板に書きこみがなされたときは、無視するのが一番。それでも無視できないときには、法的措置をとる必要がある。
 ネットの誹謗中傷に対しては、プロバイダーとネット主宰者の双方を相手方として、差止仮処分を裁判所に提出する。
 「お客様相談室」における2007年問題というのがあるのを初めて知りました。私たち団塊世代を対象とした、面白くない事態です。定年退職した団塊の世代がヒマをもてあまし、その知識と経験を生かして厄介なクレーマーになるのではないか、という予測が立てられたのです。でも、よく考えてみると、当然なのかもしれません。むしろ、団塊世代はクレーマー世代になって、最後のひとはなもふた花も咲かせるべきです。おとなし過ぎるといって、私たち団塊世代は世間から(若い人たちから)バカにされているのです。
 私よりひとまわりも下の中堅弁護士による、クレーマ対策にあたっての実際的な経験を集約して文章化した本ですが、とても読みやすくコンパクトにまとまっていて大いに勉強になりました。
(2008年5月刊。720円+税)

夢顔さんによろしく

カテゴリー:社会

著者:西木正明、出版社:文春文庫
 最後の貴公子・近衛文隆の生涯というサブ・タイトルのついた上・下2冊の文庫本です。タイトルの意味が分からず、まったく期待もせずに読みはじめたのですが、どうしてどうして、意外や意外、すこぶるつきの面白さでした。途中からは手に汗を握るほどの大活劇の展開となりました。ええーっ、これって本当のことなの・・・と思いながら、後半は頁をくるのがもどかしいほど一気に読みすすめていきました。2000年の柴田練三郎賞を受賞した本だということを読み終わってから知りました。なるほど、なーるほど、と納得した次第です。
 1945年2月14日、近衛文麿は昭和天皇に対して、次のように上奏した(要するに口頭でレクチャーしたということ)。
 敗戦は必至である。米英の主流は日本の国体の変更までは求めていない。敗戦だけなら、国体の護持は可能だろう。むしろ憂慮すべきは、敗戦にともなって起こりうる共産革命である。
 天皇は大いに驚き、その根拠を近衛に問いただした。昭和天皇が共産党と共産革命を恐れていたことについては別の情報もあって裏付けられています。
 終戦後の昭和20年12月16日、近衛文麿は青酸カリをのんで自殺した。54歳だった。そのとき、息子の近衛文隆はシベリアの収容所に抑留されていた。陸軍砲兵中尉であった。身長1メートル79センチ、体重81キロ。
 近衛文麿は一高から東大に入学したが、途中で京大に転じた。社会主義に傾倒し、マルクス主義経済学者である河上肇に師事し、オスカー・ワイルドに夢中になった。
 文隆の愛称をボチという。これは、「ぼくは・・・」と言うべきところを「ボチは・・・」と何度となく言ったことから来ている。
 文隆はニューヨークで勉強するようになり、エイミー・ベルグマンという金持ちの女性と親密な関係になった。ところが、その女性はアメリカ共産党の隠れ党員と交際があった。そこで、文隆は女性と別れさせられた。突然のことである。
 やがて文隆は東京に戻ってくる。そこでドイツの新聞記者ゾルゲと知りあい、親しく交流するようになった。そうなんです。あの有名なソ連スパイのゾルゲです。
 文隆は、父の文麿が首相になったとき、その秘書官として政治の中枢で働いた。ただし、わずか5ヶ月あまりのこと。そのあと、文隆は上海に渡る。そこで美貌の中国人女性ピンルーと深い仲になるのです。それを知って面白くないのが日本の憲兵隊。文隆に警告を発します。強引に別れさせられることになるのです。文隆は日本に戻り、やがて召集令状が来ます。徴兵検査も受けていないのだから、意図的な召集だった。敗戦後、文隆はシベリアに抑留される。
 ゾルゲと尾崎秀実がスパイ罪で絞首刑にされたのは1944年11月7日のこと。しかし、その事実は、戦後の昭和24年2月10日まで秘匿されていた。もちろん、ソ連に抑留されている文隆は何も知らない。
 文隆に対してソ連当局は元首相の息子として利用価値ありと判断し、ソ連のスパイになるようにもちかけた。文隆はそれを断わった。そのころから、文隆の健康は思わしくなくなり、ついには原因不明の病気で亡くなった。
 うむむ、なんだか変ですね・・・。ところで、タイトルの夢顔さんによろしくとは、何でしょうか。ムガンと呼んで、ゾルゲの生地のことだというタネ明かしがされています。ふむふむ、なるほど、そういうことなのでしょうね。
 よく調べてあるうえ、読みものとしてもよく出来ています。感心しながら、ついつい読みふけってしまいました。
(2002年10月刊。629円+税)

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