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ユダヤ人財産はだれのものか

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:武井 彩佳、 発行:白水社
 ホロコーストは史上最大の強盗殺人であった。
 うむむ、な、なるほど、そういうことなんですね。
 ナチス・ドイツにとって、移住とは、無産化したユダヤ人の輸出であった。ヒトラー政権の成立時にドイツに暮らしていた52万5000人のユダヤ人のうち、移住した者は30万人、殺害された者は14万人とされる。その残りは不明ということでしょうか……。
 1933年当時のドイツの民間銀行1060行のうち、ユダヤ系のものが490行もあった。つまり、地方の民間銀行は、著しくユダヤ的な業種だった。大手銀行が、ユダヤ系の銀行を買収していくのがアーリア化の実態だった。
 ドイツにおけるユダヤ人収奪の最大の収益者は、明らかにドイツという国であった。
 1938年、ドイツの国家財政は破たん寸前だった。赤字は20億マルクにまで膨らんでいた。戦争に向けて大幅な増税は避けられないが、ヒトラーはこれを拒否した。
 ユダヤ人社会に10億マルクの弁済額が課せられ、特別税収は国家の収入を一気に6%も押し上げた。また、ユダヤ人の大脱出による出国税の税収増も加わった。戦争が始まる前は、国家予算の9%がアーリア化による収入であった。
 ユダヤ人から奪った物品を無償で分配することは原則としてなかった。収奪品を軍に引き渡すときにも支払いが要求された。盗品にも値札がつけられていた。
 ヨーロッパのユダヤ人から奪われた財産は、ドイツの戦争経費へ転化された。
 そして収奪されたユダヤ人の財産を戦後、どのように被害者へ還付するかというのが問題になったとき、肝心の遺族がいなかったのです。皆殺しにされたのですから、当然といえば、当然の現象ではあります。
 そこで、ユダヤ民族という集合体が、ヨーロッパに残された財産の相続人であるという国際法の常識を覆す主張が登場した。
 しかし、ユダヤ民族とは法的に定義可能なのか。民族というものに個々のユダヤ人の財産の相続権があるのか。つまり、集団全体は、集団の構成者の財産に対して権利を主張しうるのか。いずれにしても、殺して奪ったものによって富むことは許されない。このことは言える。
 では、誰が、相続人不在のユダヤ人財産に対する権利を有するのか。
 戦後ドイツのユダヤ人は2万人ほどでしかない。戦前の52万人ものユダヤ人には、とても匹敵しない。
 ナチス・ドイツが占領国の中央銀行から略奪した金塊を、スイスの中央銀行を含めた銀行が購入していた。
 ナチスに追われた難民がスイス国民で追い返された件数が2万4500件あり、少なくとも1万4500件の入国ビザ申請が領事館で却下された。
 IBMは、ナチ収容所の囚人管理のためのデータ管理システムを提供していた。
 ひえーっ、これには驚きました。あの天下のIBMって、ナチスのユダヤ人殺害に協力していたなんて、まったく知りませんでした。 
 島根の同期の弁護士から、太くて長い立派な長芋をたくさん送ってもらいました。実に見事な山芋で、トロロ汁を美味しくいただきます。でも、ちょっと食べきれませんので、知人にも少しだけ、おすそわけしました。
 トロロ汁もいいのですが、山芋ステーキも腹もちして、いい案配です。そして、梅肉を混ぜ込むと、これまた絶品です。思い出すだけで、口中によだれがたまってきてしまいました。
(2008年75月刊。2600円+税)

江戸商人の経営

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:鈴木 浩三、 発行:日本経済新聞出版社
 遅れた封建時代だったと考えられている江戸時代に、実は、高度な市場経済システムが成立していた。さまざまな業種で多様な市場競争が繰り広げられていた。江戸時代は、市場競争と市場メカニズムが機能する資本主義的な側面を色濃く持った時代だった。
江戸時代の商工業者にとって、事業の永続性は最大の経営価値だった。この点は、今の日本でもいえることだと私は思いますが、お隣の韓国ではまったくあてはまらないと聞いて、驚いたことがあります。
 井原西鶴の『日本永代蔵』には、現代の経営にも通じる企業行動と発想が随所にちりばめられている。たとえば、西鶴は烏金(からすがね。1日に限って貸す少額短期の高利金融)でわずかな元本を運用し、銭両替を経て本両替にまでなったひとの話を通じて、「銀(かね)が銀をもうける」という資本観念が当然のものだ、としている。
 また、『日本永代蔵』には、資金が遊休化しないように合理的な投資先やビジネスを探すこと、取引先の借用調査が重要だという認識、知恵や才覚によってビジネスチャンスを開くこと、後継者の指導育成と暖簾わけが重視されていたことが読み取れる。
 江戸の商業では、本業が危機に遭遇したときの保険・補完手段も発達していた。たとえば、多くの江戸の大店(おおだな)では、本店は近江や伊勢などの本国にあって、江戸の店は江戸店(えどだな)という支店の形態をとっていた。
日本列島沿岸に定期・商業航路が開設されたのは、戦国時代末期から江戸時代にかけてのこと。日本海側の海運組織としての北前船と西廻り廻船、そして、瀬戸内水運が、当時の経済先進国だった西国を中心に成立していた。
 そして、日本海沿岸の廻船は買積船(かいづみふね)だった。買積船とは、船主が自己資本で積み荷を買って船に積み、適当な相手に売るというビジネスで、差益商人そのものだった。主な船荷は、ふかひれ・ほしあわび・いりなまこなどの海産物や、金・銀・銅などの鉱産物だった。
江戸時代の貨幣経済の特徴は、金・銀・銅(銭)という3種類の貨幣が、それぞれ対等な本位貨幣として通用していたこと。金極め(きんぎめ)、銀極め(ぎんぎめ)、銭極め(ぎめ)という。金遣いの江戸でも、上等な茶、材木、呉服、薬品、砂糖、塩、職人の賃金などは銀建てだった。そして、吉原での遊興費や大名家で購入する書画・骨董などの高級贈答品は金建て。庶民の日常品、旅籠の宿泊料などは銭建てだった。
 江戸時代の年貢率は、寛文ころまでは7公3民で、農民の生産高の7割を領主が取立て、農民の手元には「もうけ」はほとんど残らなかった。ところが、寛文ころを境として、年貢率は急減して、農民に可処分所得が残るようになった。宝永・正徳期(1704〜16)には、3公7民となっている。
 町人は、信用を得るために両替商に預金した。当時の預金(銀)には当座預金しかなく、利子はつかなかった。しかし、両替高から信用されることは大いに評価された。
 よみ、かき、そろばんができないと丁稚にもなれなかったので、手習い=寺子屋が非常に盛んだった。天保期の江戸では、日本橋や神田といった町人の居住地域には手習い師匠が集中していて、師匠の生計は寺子屋だけで成り立っていた。「手習い師匠番付」まで発行されていた。寺子屋番付によると、221人の師匠が江戸で活動していたことがわかる。
 江戸時代に抜荷取り締まり令や禁止令がたびたび出されていたということは、それだけ抜荷つまり密貿易が頻発していた、ということである。
 江戸時代を新しい目で見ることを促してくれる本です。江戸と明治は切断されているのではなく、実は大きな連続性があるというわけです。
 このところ、曇天だったり小雨が降ったりすることの多い休日が続いていましたが、先の日曜日は久しぶりに秋晴れとなって気持のいい一日でした。選挙突入かと思われていたのに、いつの間にかそれはなくなり、かわって不景気風が吹き荒れています。こんなときには、庭いじりするのが何よりの気分転換です。
 まず、庭の一角を掘り上げ、コンポストの枯葉を取り出して埋め込み、その上にEMぼかしで処理した生ゴミを置き、土をかぶせます。本当はしばらく間をおくべきと思うのですが、師走の焦りから足で踏み固めるとすぐにチューリップの球根を植えこみました。
 そのあと、エンゼルストランペットを根元からバッサリ刈り取りました。コンポストに入れるために小さく切らないといけませんので、大バサミを使う腕が痛くなってしまいました。エンゼルストランペットは土中からすぐ芽を出すほど生命力の旺盛な木です。おかげで庭のあちこちにエンゼルストランペットが咲きます。すっかり見通しの良くなった庭に、ツメレンゲの小さな花がたくさん咲いています。
夕方5時半、暮れなずむ晩秋の夕空を見届けて本日の庭仕事の終了としました。
(2008年7月刊。1800円+税)

ペリリュー・沖縄戦記

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:ユージン・B・スレッジ、 発行:講談社学術文庫
 著者はアメリカ第一海兵師団の一員として、中部太平洋にあるパラオ諸島のペリリュー島と、沖縄の攻略戦に参加しました。本書は、その体験記です。戦争の悲惨が惻々と伝わってきます。
 ブートキャンプの典型的な一日は、午後4時の起床ラッパとともに始まる。そして厳しい一日は、午後10時の消灯ラッパとともに終わりを告げる。
 無常で理不尽としか思われない、いじめも同然の「訓練」は、のちに戦場で生命を救った。戦争は、誰にも、とりわけ歩兵には眠ることを許さない。戦闘が約束するのは、永遠の眠りだけなのだ。
 しつこく何度もやってくる訓練教官の足音に聞き耳を立てた。真っ暗な闇の中、忍び寄ってくる教官の気配に絶えず耳を澄ませていたおかげで、聴力が著しく研ぎ澄まされた。
 強いストレスにさらされながらも、命令に従っているうちに、規律を身に着けていった。これがのちに戦場で明暗を分けた。聴力の鍛錬は、夜中に陣地に侵入してくる日本兵の気配を、塹壕の中で聞き分けることができた。
古参兵は言った。弾が飛んでくる音を初めて聞いたときは、クソ恐ろしくて、ライフルも構えていられなかったほどだ。怖気づくのは誰も同じ。怖くないなんて言うやつは、大嘘つき野郎だ。
 生き抜くためにすぐにも身に着けておかねばならん大事なこと、それは敵弾がどんな音を立てながら飛んでくるのか、それがどんな武器から発射された弾なのかを正確に知っておくこと。著者は、この訓練のおかげで激戦のなかを生き延びることができました。
 第一海兵師団の8割が18歳から25歳だった。そして、日本人に対して燃えるような憎悪を抱いていた。海兵隊員は、日本兵を激しく憎み、捕虜にとる気はなかった。
 日本兵は死んだふりをしておいて手榴弾を投げつける。負傷したふりをしてアメリカ軍衛生兵に救いを求め、近づいた相手をナイフで刺し殺す。そして、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃した。日本で、鬼畜米英と言われていたことの反対が、ここにあったのですね。
 用を足しておくことがいかに重要なことか、古参兵たちは身をもって学んでいた。激戦のさなかでは、食べたり眠ったりするのもままならないが、排便はなおさらなのだ。
 ペリリュー島に上陸したアメリカ軍はすぐに戦闘は終了すると見込んでいた。ところが、日本軍守備隊1万を率いた指揮官(中川州男大佐)はバンザイ突撃を禁じ、完璧な縦深防御の態勢を築いた。日本軍はバンザイ突撃どころか、戦車と歩兵が協同した、見事な逆襲をしてきた。その結果、アメリカ軍の死傷者の割合は、後の硫黄島でのそれに匹敵する。
 ペリリュー島では、硬い珊瑚の岩盤に深く塹壕を掘るのは不可能に近く、身のまわりに岩を積み上げ、倒木や瓦礫の陰に隠れて身を守るしかしかなかった。
 集中砲火を浴びたときや、長時間にわたって敵の攻撃にさらされているとき、一発の砲弾が爆発するごとに、身心はいつにもまして大きなダメージを受ける。大砲は地獄の産物だ。巨大な鋼鉄の塊が金切り声を響かせながら、標的を破壊せんと迫りくる以上に凶暴なものはなく、人間のうちにうっ積した邪悪なものの化身というしかない。まさに暴力のきわみであり、人間が人間に加える残虐行為の最たるものだった。
 銃弾で殺されるのは、いわば無駄なくあっさりとしている。しかし、砲撃は、身体をずたずたに切り裂くだけでなく、正気を失う寸前まで心も痛めつける。砲弾が爆発するたびに、力をなくしてぐったりし、消耗せずにはいられない。砲撃が長時間に及ぶときには、悲鳴をあげ、すすり泣き、あたりかまわず泣きわめきたくなる。大砲や直撃砲を集中的に浴びせられるのは恐ろしいとしか言いようがない。身を隠すすべもない開けた場所で集中砲火に身をさらすのは、経験したことのない者には考えも及ばない恐怖だ。
 ペリリュー島の日本軍守備隊は全滅した。死者1万900人。生きて捕虜になった日本兵は302人しかおらず、しかも兵士は7人、水兵は12人で、残りはアジア各地出身の労働者だった。これに対して、アメリカ軍精鋭の第一海兵師団は戦死者1252人、負傷者5274人。師団は見る影もなかった。
 ペリリュー島は悪臭の戦場と化した。地面は固く尖った珊瑚礁岩で、土というものが存在しない。日本兵の死体は放置されたままの場所で腐敗していった。そして兵士の多くがひどい下痢に苦しんだが、排泄物に土をかけるという処理ができなかった。屍臭に満ちた熱帯の大気が、筆舌に尽くしがたい悪臭を放った。汚物の山に埋もれたような状況で、ただでさえ熱帯に多いハエが爆発的に繁殖した。大型のクロバエ(アオバエ)で、丸くふくらんだ胴体は、青緑色の金属的な色をしている。ハエは、山地に散らばる人間の死体、排泄物、腐った携帯口糧に飽食して肥り、動作が鈍り、満足に飛べないハエすらいる始末だった。
 戦場のすさまじい悲惨さが異臭とともにひしひしと伝わってくる本でした。
 それにしても、アメリカ軍はこのペリリュー島を本当に攻略する必要があったのか、著者は疑問を投げかけています。同じことは、日本軍にとっても言えることでしょう。
(2008年5月刊。740円+税)

自民党政治の終わり

カテゴリー:社会

著者:野中 尚人、 発行:ちくま新書
 小沢一郎は、1980年代の終わり、自民党システムが完成した時期にその頂点に立った。しかも、自民党の支配体制が本格的に動揺し始めた1990年代の初期にも主導権を握って、その舵取りを行った。このように、小沢一郎は、かなり長い期間にわたって、自民党システムの中枢にいた。
 その小沢一郎が、小選挙区制の導入を柱とする政治改革を強引に推し進めた。なぜか?
 小沢一郎は、国会議員になってから、佐藤派に入りつつ、実質的には田中角栄に師事した。小沢一郎と田中角栄の関係は極めて緊密だった。小沢一郎の結婚式で、田中角栄は父親がわりをつとめた。田中角栄のロッキード裁判は、6年9ヶ月間、191回あったが、小沢一郎のみ全部を傍聴した。
 金丸信が小沢一郎を重用したため、小沢一郎は1989年8月から1991年4月まで、自民党幹事長として、まさに君臨した。
 その小沢一郎が今や自民党と対立する民主党の党首というのですから、なんだか信じられないのも当然です。2人だけでコソコソ隠れて対話するのではなく、堂々と国会で大いに論争すべきですよね。
 小泉純一郎が「派閥を壊す」というのは、経世会を標的とした攻撃であり、「自民党をぶっこわす」というのは、経世会の支配する自民党は解党的な出直しが必要だということ。
 小泉純一郎は、清和会という自分の派閥を最大限に利用した。つまり、小泉純一郎は、派閥というものを原理的に否定していたとは、とうてい言えない。
 小泉純一郎は、単純小選挙区制には必ずしも反対ではなかったが、少なくとも小選挙区比例代表並立制には強硬に反対していた。
 しかしながら、小泉純一郎によって、結果的に自民党は、全体として、派閥システムが後戻りがきかないほどに崩れた。人材を育成し、難し意思決定を支えるという派閥の役割がなくなった。これまで、当然のように自民党を支持してきた人々が、初めて、そのことに疑いをもつようになった。自民党は、もっともコアな支持層の離反に直面するようになった。決して野党に流れるはずのなかった固い支持層の流動化、これこそが自民党の圧倒的優位が崩壊したことを物語っている。
 自民党の最大の特徴の一つは、巨大な党本部機構である。その巨大な組織が、政策面での役割分担のために、きわめて細かく分化している。自民党内部は、政策を所管する省庁への対応と、外部の利益団体への対応がクロスする形をとりながら、きめ細かい組織を組み上げていた。
 自民党組織のもう一つの大きな特徴は、党自体の地方組織がきわめて脆弱で、事実上ほとんど存在していないこと。
 派閥は、全体として非常に分離的な自民党が最後に統制力を発揮するためのみちでもあった。人事権を握る派閥会長が、自民党システムのなかで、重要な権力核だった。
 自民党は崩壊寸前だと言われながら生き延びている。その理由は2つ。一つは、自民党システムが社会の隅々まで根を張って、きわめて強靭なこと。もう一つは、自民党システムの存続期間が長かったので、そこからの移行プロセスも長くかかるということ。
 国会解散・総選挙という政治日程が、どんどん先送りされています。しかし、ともかく生活再建・景気回復とあわせて、「人間らしい生活を取り戻せ!」ということが主要なスローガンでなければならないと私は思います。 
(2008年10月刊。760円+税)

江戸城

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:深井 雅海、 発行:中公新書
 江戸時代は格式社会である。
 大名も江戸城に入ると、下乗橋(げじょうばし)の手前で駕籠から降りなければならなかった。御三家は、その先の中之門の手前まで駕籠に乗ることができた。玄関からは大名一人の行動になる。数千人の家臣を持つ大大名に対しても、登城時から将軍の威光を示し、将軍家の臣下であることを実感させる工夫がなされていた。
 一般的な大名は刀を玄関に持ち込むことができなかった。それに対して、御三家は玄関式台より奥の大広間溜(たまり)まで刀を持ち込むことが許されていた。
殿中儀礼に参加することにより、大名は、大名同士の競争意識を植え付けられていた。
江戸幕府が大名を親藩・譜代・外様の三つに分けていたという史実はない。大名の家格としては存在しなかった。これは『武鑑』を見れば明らかである。
有力外様大名は正月2日に大広間で将軍に謁見している。それだけ将軍にとって遠く、煙たい存在であったことを示している。
 国持大名は、幕府役職の信任から排除されていたため、自分自身の序列を上げるには官位昇進しか途がなかった。国持大名とは、律令の国郡制の一国一円以上を領する前田や島津などの大名(9家)と、それに近い規模をもつ伊達や細川などの大名(9家)をさし、十八国主と称された。
 旗本の場合は、どんなに高い家禄をもらっていても、諸大夫役に任命されないと官位は与えられなかった。
老中は、毎日九ツ時(午後0時)ごろに執務室を出て、近くの部屋を一巡する「廻り」という行事を行っていた。老中の執務時間は、四ツ半時(午前11時ころ)から八ツないし八ツ半時(午後2時から3時ころ)まで。つまり、老中の御用部屋での執務時間は3〜4時間と、限られていた。
 老中は通常4〜5人、若年寄のほうは3〜5人。ともに大事は合議で、日常的なことは月交代の月番制で処理していた。老中の合議は、書付を扇子にはさんで回覧するという、書類による稟議だった。
 将軍綱吉の時代に、老中の御用部屋が将軍の御座所から遠ざけられた。真の理由は、老中合議制から将軍独裁制への転換を図ったものである。
 寛政の改革、天保の改革は、いずれも主導者の松平定信、水野忠邦が老中を解任されて改革は終了した。松平と水野がだんだん独裁的になり、幕閣内で孤立化したことが要因とみられている。つまり、老中数人の合議を基本とする老中合議制という仕組みの中では、改革を長期間持続することが困難なことを意味している。
 なーるほど、ですね。
 歴代の将軍のうち、正室の御台所の子は三代家光だけ。世嗣をもうけるうえで、側室は不可欠だった。
 家綱・綱吉・家継の生母の父は、農民・町民・僧である。吉宗の生母の父も農民である。庶民の出身であっても、将軍の生母となれば、本人のみならず、親族の栄達も約束された。ただし、八代家斉の側室は全員が旗本の娘である。この時期に、側室は女中の中?から選ぶという制度がほぼ確立した。
 側室は、たとえ将軍の世嗣を産んでも、女中身分のまま。わが子が将軍職を継ぐと、はじめて家族の構成員となり、多くの女中がつけられた。
将軍の娘は、大名家などに嫁いだのちも、あくまで将軍家の「姫君」として遇された。この点、将軍の息子が大名家に養子に入ると、基本的にその家の人間になる。両者の扱いは大きく違っている。
 将軍家の娘が大名家に嫁ぐと、大名家の江戸屋敷地に別棟の住居が建築された。その住居を、御三家・御三卿など三位以上に昇進できる家に嫁いだときは「御守殿」他の大名家に嫁いだ場合は「御住居」(おすまい)と称した。そして、幕府若年寄の一人が「御掛」を命じられ、幕府から一定の「賄料」(まかないりょう)、つまり、生活費を支給され、女中と広敷役人が付けられた。
 将軍家御成、つまり、将軍の外出先として定められていたのは、上野の寛永寺と芝の増上寺、そして江戸城内にある紅葉山のみ。それ以外は個人差がある。将軍が大名の屋敷に出かける時には、たった一日の御成であっても「御成御殿」を造営して将軍を迎えた。将軍がたとえ一日移動するときであっても、幕府政庁の中枢が一緒に移動した。つまり、御用人、老中、若年寄などの執務室や奥右筆の部屋も一緒にもうけられたのである。
 江戸中期以降、将軍が外泊することはほとんどなかった。その例外が日光社参である。
 江戸時代の将軍とその取り巻きの人々の生活の一端を知ることができました。
(2008年4月刊。760円+税)

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