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荷抜け

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:岡崎 ひでたか、 発行:新日本出版社
 信濃(しなの)、安曇(あずみ)地方に実際に起きた牛方集団の「荷抜け」事件を題材として書かれた小説です。青少年読書感想文全国コンクールの高校生向けの課題図書となっていますが、なるほど、とうなずける内容です。
 文政7年、信州・松本藩では、戸田氏が藩主になって100年の祝いを華やかに行った。松本城の城門前には、祝いの品を山と積み、家臣には紋付袴、裃、真綿などを下賜し、町は芝居や踊りに興じた。下されものの酒樽を町中に置き、誰にも自由に飲ませた。
 地主層は、より財を蓄えるため、飢饉で困窮した農民から高利貸しで稼ぎ、米・麦を買い占め、売り惜しみして値を釣り上げた。食うに困った農民の怒りが爆発したのは当然のこと。それが赤蓑騒動だった。3万の群衆が松本城へ押しかけた。藩の鉄砲隊によって解散させられたものの、それ以降、藩は農民たちの力を恐れるようになり、農民の要求は無視できず、力関係が逆転しはじめた。
 犠牲者は農民4人が永牢を命じられただけで、見せしめの磔(はりつけ)はできなかった。これが世直し一揆のはしりだった。3万人が起ち上がったこの百姓一揆にも、首謀者名を残さない工夫などがしてあった。
 「荷抜け」とは、荷主に頼まれた送り荷を横領すること。もちろん、発覚したら厳罰に処せられる。それが、牛方26人衆が集団で荷抜けしたという。その総額は76両にもなる。
 牛方26人衆は、問屋とかけあい、借用したことにして、年賦返済を承知させた。半分にもならないうちに、荷主問屋側はあきらめ、事件の幕を引いた。
 牛方の10歳になる子どもを主人公として話は展開します。次はどうなるのか、ハラハラドキドキの展開です。やがて、牛方は一揆勢の情報伝達などの役割を担って活躍していきます。百姓一揆は、きわめて組織的に、百姓の知恵と力を総結集して長い準備期間をかけて取り組まれていったことが分かる本でもあります。
 島根の弁護士から待望のノドグロが到来しました。干物なのですが、軽く焼くと、ねっとり柔らかい白身で、淡白な味というより、もちっとした味わいがあります。信じられないほどのおいしさです。一度食べると、病みつきになってしまう魚ですよ。まだ食べていない人は、ぜひ食べてみてください。
(2008年6月刊。800円+税)

筑紫の磐井

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:太郎良 盛幸、 発行:新泉社
 6世紀の初め、北部九州、八女の地に巨大な岩戸山古墳を築いた偉大な王がいました。大和王権に対抗して戦った筑紫の大王(おおきみ)・磐井(いわい)の偉大な生涯を描いたスケールの大きな小説です。
 私は八女によく行きますが、岩戸山古墳は遠くから見るくらいです。この本を読むと、「大和朝廷に反逆した」という通説がいかに間違っているか、再認識させられます。九州には、奈良にいた大王(おおきみ)と対抗していた立派な大王がいたのです。
 著者は岩戸山歴史資料館の館長をつとめる、元は高校教師だった人です。それにしても、よく描けた小説だと感心しました。古代朝鮮半島の状況、そして、大和朝廷における諸勢力の抗争との関連で、筑紫の大王・磐井の活躍ぶりが生き生きと語られていて、一気に読みとおしました。今度こそ、岩戸山古墳にのぼって実見してくるつもりです。著者も、この小説が縁となって、多くの人に八女を訪れていただければ幸いです、と語っています。
 この時期、筑紫・肥・豊国などの北部九州の豪族は、個々には独立した国であったが、筑紫君を盟主として穏やかな連合王国を形成していた。そして、各豪族は、周辺諸国との友好関係と先進文化を求めて、後継者と目される男子を大和王権や朝鮮半島の新羅・百済などに留学させていた。
 筑紫連合王国は、大和王権とは一線を画し、つかず離れずの状態にあった。連合王国にとっては、大和・新羅・百済が対立を強めず、伽耶(かや)諸国が安定していることがもっとも望ましいことだった。
この当時、多数の人に聞こえる大きな声を出すことは、王や将軍にとって欠かせないことだった。磐井は、上に立つ者は、はっきりと大きな声で話すことが大切だ、日頃から心がけておくように、と常日頃から言われていた。
 南九州一円には、大和王権の支配に属さない隼人(はやと)という勢力がいた。その中でも、急速に勢力を拡大しつつあったのが、薩摩隼人だった。今でも、ものすごく毛深い男性を時折見かけます。きっと隼人の血筋を引いているのでしょうね。
 501年9月5日、磐井は筑紫君(つくしのきみ)を襲名した。
 今後さらに筑紫連合国を発展させて、大和王権や朝鮮半島諸国と対等に親交できる国としたい。そのためには、まず、政(まつりごと)の仕組みの充実と、鉄製武器・農具の生産を増加させることだ。磐井は、政を政部(まつりごとぶ)、大蔵部(おおくらぶ)、司法部、戦部(いくさぶ)の4部門に分けた。そして、司法部の充実にとくに力を入れた。
 磐井は、筑紫連合王国全体から大王(おおきみ)と呼ばれることになった。
 奈良では、継体大王の即位に大和豪族が根強く反対したため、継体大王はなかなか大和に入ることができなかった。そうなんです。継体大王とは何者なのか。今も議論が続いています。日本の天皇は万世一系ではないのです。
 岩戸山の古墳が完成したのは518年。墳墓の特徴は別区にあった。別区には、裁判の様子を表すため、中央に解部(ときべ)に見立てた一丈(つえ。3メートル)もある大石人が立てられ、前には盗人に見立てた正座をした石人が置かれ、傍には盗んだものと分かる猪が4頭置かれた。
東側には、2丈四方の石で造った3つの宮殿、北側には1丈半四方の2つの石蔵が置かれた。石殿は、門、階段、しきりのある部屋、屋根など、実物そっくりに造られていた。西側には3体の武装石人、3正の飾り馬が並べられた。また、墳墓の周りには、武装した石人、石盾が120体も並べられた。
墳墓の入口にあたる北と南には、赤・青・白などの顔料で飾った力士に見立てた石人も墳墓の番をするように2体ずつ立てられた。
 526年9月、継体大王は、ようやく大和入りした。そして、磐井を討たなければ大和王権は危うい、として3万の討伐隊を九州に差し向けた。
 このあと、磐井の指揮する連合王国軍が大和王権の討伐軍と果敢に戦う様子が活写されます。この本がどこまで史実を反映しているのか知りませんが、古代日本が奈良の大和朝廷によって一元支配されていたわけではないこと、朝鮮半島と古代日本とは人的にも政治的にも密接な関連があったこと、そして継体大王と戦って敗れた磐井大王が、単なる大和朝廷への反抗児でなかったことは確実だと思ったことでした。
(2008年1月刊。2000円+税)

人が壊れてゆく職場

カテゴリー:司法

著者:笹山 尚人、 発行:光文社新書
若者に安定した雇用を保障しないでおいて、「今時の若者には我慢が足らない」なんて言う資格はありません。とりわけ、日本経団連の御手洗会長なんて、まったくもって許し難い存在です。自己保身と自分の取り巻き、そして大株主の利益を守っていたらいいなんていう発想の人物に、日本の将来を語る資格なんてあろうはずがありません。トヨタや日産、そしてイスズなどの自動車産業もそうですよね。
 たしかに、アメリカの金融危機に発した深刻な不況のなかで自動車産業がピンチになっているのは理解できます。それでも、若者の首切りをする前にやるべき企業努力というのがあるのではありませんか。なにより、これまでの貯め込み資産を吐き出し、雇用存続を前提としての知恵と工夫を働かすべきではないでしょうか。
 この本は、若手の労働弁護士の手になる奮闘記ですが、大変、今の若者に役立つ、実践的な内容となっています。
 「管理監督者」とは、経営者に近い立場の実体を有する労働者を指すのであって、「科長」とか「マネージャー」という名前で決まるものではない。「管理職」に祭り上げることによって残業代を払わなくてもよいという会社の取り扱いは、実のところ、残業代を払わないための偽装にすぎない。就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする。この場合において、無効となった部分は、就業規則で定める基準による。
 要するに、就業規則の水準に満たない合意は無効なのである。
 裁判は生き物であるから、当初は想定しなかった事情が出現して成り行きが変わっていくことも当然ある。だから、労働者から「不当に解雇されました」と訴えられても、「そうですね。不当ですね」とはうっかり口にすることはできない。慎重に回答せざるを得ない。
 この点は、本当にそうなんです。思わぬ反論が出てくることがあるのが裁判です。
 労働審判は、弁護士にとっても大変使い勝手が良い。
 7割の事件は、申立から3ヶ月以内に話し合い(調停)で事件全体が解決している。
 この本には、労働審判でうまく決着のついた事件が紹介されていて、参考になります。
 録音テープが有効なのか、とくに隠し撮りテープは証拠として使えるか、ということにも触れられています。私も、この本にあるとおり、たとえ相手方の同意のない録音であっても、内容がよれば基本的に証拠としてつかうべきだし、裁判所も採用する(させるべきもの)と考えています。
 著者は、若者たちの非正規雇用をめぐる事件で、弁護士費用がいくらかかるのか、それをどうしたのかについても触れています。たとえば、着手金は実費程度とし、報酬は上げた成果の1割とする、という具合です。
 本当に助けを必要としている労働者を、弁護士の側で拒否することがあってはならない。まったく同感です。
非正規雇用に関わる弁護士の仕事は、実に気持ちがいい。本当に助けを必要としている人の役に立てたという実感があるからだ。そこに非正規雇用の権利問題に取り組む醍醐味がある。
 いやあ、実にそのとおりです。著者には引き続き、大いにがんばってほしいと思います。といっても、先日の相談のとき、まずは自分でやれることをやってから来て下さい、と言ってお引き取り願ったことはありました。なんでも弁護士に任せてしまえば安心だという姿勢でも困るのです。弁護士と一緒になって取り組み、なんとかいい方向で解決を図りたい。そんな若者であれば、私も協力を惜しみません。
 先週、日比谷公園を歩きました。大きな銀杏の木が黄色く輝いていて、つい見とれてしまいました。ところが、あいにくの強風で、黄金の葉が舞い上がります。桐一葉、落ちて天下の秋を知る。ではありませんが、銀杏の木の葉が風で舞うのを見て、秋の終わりを実感しました。銀杏の木のなかに一本だけ緑の濃い葉をつけたものがあり、銀杏でも種類が違うのかなと友人と話したことでした。絵を描いている友人は銀杏の黄色をカンバスに描き出すのはとても難しいという話をしてくれました。それでも、静かに絵を描く時間を持つと、とても心が休まるだろうと思いました。
 翌朝、福岡に帰ると雪が降っていました。いよいよ冬突入です。
(2008年9月刊。760円+税)

浜風受くる日々に

カテゴリー:社会

著者:風見 梢太郎、 発行:新日本出版社
 関西の中高一貫の名門高校を舞台として、そこに通う高校生の悩み多き青春の姿が組合活動にいそしむ教師群などを混じえて生き生きと描かれています。私と同世代、団塊世代の話なので、共感を覚えながら読みすすめました。といっても、私は、ここに登場してくる高校生たちほど社会的に目覚めてはいませんでした。
 実のところ、私は自分の卒業した県立高校に、残念ながら、あまり親近感を抱いていません。よほど大学の方に親近感を抱いています。高校の同窓会にも、地元にいながら出たことがありません。というのも、地元の保守系政財界をこの同窓会出身者が牛耳っているとしか思えないからです。また、教師陣もあからさまな右寄り教師が幅をきかせ(例の変な教科書をいち早く採用したり)、生徒指導も自由を奪ってガンジガラメ。その結果、地元の評価は今や見るも無残に低下してしまっています。本当に残念でなりません。
私は学区制を復活すべきだと考えています。また、教師集団がもっと伸び伸び自由に取り組めるように改められるべきだと思います。
私は高校生のとき、生徒会の副会長そして生徒会長も務めました。2年生のとき、昼休みにタスキをかけて全クラスを立候補の挨拶に回りました。派手な選挙活動が流行っていたのです。対立候補も同じことをしましたが、私の方が見事に当選することができました。生徒会役員の他校訪問というのがあって、四国や広島の高校まで見学に出かけたことがあります。生徒会指導の教諭が引率しての旅行でしたが、とても楽しい思い出となっています。こちらは、少し前、一度だけ生徒会役員だった人だけの同窓会を京都でしました。
ところが、生徒会活動に熱中していると成績が下がってしまい、英語の教師から「どうした。最近、ぱっとしないやないか」と苦言を言われ、はっとしました。
 もう一つ、高校生活の思い出といえば、『ぺるそな』と名付けた同人誌を3号まで発刊したことです。私も下手な小説を書いて発表しました。しかしながら、あとは灰色の受験勉強に追われていました。思い出したくもありません。といっても、当時使っていた参考書は今も記念に大切に保存しているのですが……。
 この本の主人公(哲郎)は、中高一貫の有名校に高校から入りました。当初は苦労したのですが、たちまち成績優秀者として頭角をあらわしました。理科系の得意な哲郎ですが、新聞部に入りました。文章もよくしたのです。
 先輩の大学生がセツルメント活動をしているという会話が登場します。
「なんや、そのセツルメントって」
「生活が苦しい人たちが集まっている地域に行って、子どもと遊んだり、勉強を教えたり、法学部の学生は法律相談とか、医学部の学生は健康相談とか、やるんだって」
「ふーん、そんなことする人たちがおるんか」
「どこの大学にもあるようだよ、そういうサークルは」
 この会話はだいたいあたっています。ただ、私はセツルメントに入って青年部に所属していました。若者サークルのなかで、レクリエーションを主体としながら週1回交流するのでした。なんということもない話しかしないのですが、よく考えてみたら、こんな関係がいつまで続くのか、続けられるものなのか、ときどき胸に手を当てて考えざるをえませんでした。
「Kさん、ほら、さっき言ったセツルメント活動なんかやってて、まあ透明無色じゃないんだよ。それで、そういう人がD通信公社みたいなところに就職したことに対して、皮肉っぽくKさんに言う人がいたんだよ」
「D通信公社の中で、思想を貫けるのか。ものすごい弾圧が待っているのに……」
 そうなんです。セツルメント活動のなかで良心を自覚したとき、それが官庁や会社に入ってからも変質しないでいられるのか、私はすごく心配でした。そして、その心配は現実のものでしたし、あたっていたのです。
大学でセツルメント活動をやっていて、就職してからも自分の生き方を貫くのだ、と書いた手紙を同級生から見せてもらった。企業で過酷な差別を受けたとき、果たして乗り切っていけるだろうか……。
 この本には哲郎の独特の勉強の仕方、記憶法も紹介されています。
 世界史や生物のノートの余白に小さなカットを描いた。すると、哲郎は、それぞれの絵がページのどこに位置するかを容易に思い出せた。その絵に照らし出されるように周りに書かれた文字もおぼろげに思い出せた。絵に工夫をこらすと、いっそう文字も思い出しやすくなった。哲郎はノートの1ページを丸々覚えることができるようになった。
 そうなんです。視覚的に、あそこにこんなことが書いてあったというように記憶していくのは、私も得意技の一つでした。
高校では字をきれいに書くことをやかましく言われた。答案の字が汚いと受験のときに損をするという趣旨のようだ。哲郎も、中学時代の癖のある乱暴な字から、きれいな素直な字に変わった。字をきれいに書くということが精神の緊張を要し、それが思考を助けることも経験した。
私の場合、字がきれいになったのは、大学に入ってセツルメントのなかでガリ切りをするようになってからです。大勢の人に読まれる字、読みやすい字を書かなければ何時間も苦労して書いてもムダになってしまいます。一生懸命にきれいに書く練習をしました。
名門高校の授業についていけず、反発してドロップアウトしていく生徒がいた。また、早くも立身出世のみを願う生徒がいた。
「オレはなあ、たった3年間、勉強に専念するだけで、一生莫大な利益が得られる道に進もうとしてるんだ。ほかのことをやってる時間なんかないよ」
「大蔵省やら通産省の役人になるとなあ、自分の娘を嫁にもらってくれって、大会社の社長どもが押し寄せてくる」
「なんでや」
「役人は絶大な権限を握ってるんや。それが娘婿だったら、会社経営に断然有利やないか。娘婿を通じて役人に人脈もつくれるやろ。政府の情報はいち早く入ってくる」
「それは政略結婚やないか」
「別にええやないか。お互いに得になることやし。美しい、性格のいい嫁さんをこっちから選んでやる」
ええーっ、高校生が当時こんな会話をするなんてありえたのでしょうか……。いくらなんでも、私には想像を絶します。
(2008年10月刊。2200円+税)

モスクワ攻防1941

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ロドリフ・ブレースウェート、 発行:白水社
 1612年のポーランド軍も、1812年のフランス軍も、1941年のドイツ軍も、すべて同じルートをたどってモスクワを目ざした。ロシア軍は以上すべてのケースでスモレーンスクで抗戦し、1812年と1941年にはボロジノーで踏みとどまって抗戦した。1941年のドイツ軍は、ナポレオン軍とほとんど同じくらい馬匹輸送に依存していて、モスクワに接近するまでにナポレオンよりずっと長い日数をかけた。ドイツ軍侵攻が違っているのは、快速の機甲戦力を駆使して多数のロシア兵を包囲し、捕虜にする能力を持っていた点だ。
 ドイツ側の数字によると、捕虜にしたロシア兵は、7月10日から10月18日までに225万人をこえる。
 ナポレオンは1812年6月24日にモスクワ攻略を開始し、9月14日にモスクワに到達するまで83日かけた。ヒトラーは1941年6月22日に開始して、12月5日まで166日かかったがモスクワに到達することはできなかった。
 ドイツ軍はモスクワ攻略を目ざすタイフーン作戦を10月初めに開始した。中部軍集団の戦車部隊が北と南から迂回してロシア軍前線に約480キロの突破口をこじあけ、70万以上のロシア兵を捕虜にした。10月末までにモスクワからわずか130キロの地点まで迫り、しばらく停止させたのち、11月15日に進撃を再開した。しかし、ロシア軍が頑強に抵抗し、ついに12月5日、ドイツ軍の最後の総攻撃は阻止され、ロシア軍の反攻が始まった。
 モスクワ攻防戦は、第2次大戦でも、最大の、したがって、史上最大の会戦である。双方あわせて700万を超える将兵がこれに加わった。モスクワ攻防戦はフランス全土に匹敵する広大な地域で戦われ、6ヶ月にわたって続いた。ソ連は、この攻防戦だけで92万6000人もの戦死者を出した。この犠牲者数は第2次大戦全体を通じての英米両軍の犠牲者数の合計よりも多い。
 モスクワに至る道の夏の砂塵はヒトラー軍の戦車や車両のエンジンを摩耗させ、詰まらせ、ついには立ち往生させた。冬の酷寒は夏の炎暑におとらずすさまじい。12月から2月まで、マイナス40度以下に下がることもある。しかし、最悪の時期は秋から冬、冬から春への季節の変わり目だ。このとき近代的に舗装された道路以外は、すべて泥沼と化す。ナポレオンとヒトラーの軍勢を押しとどめたのは、実は冬将軍ではなく、この泥濘だった。
 スターリンは見境のないテロルを発動した。1973年と38年にはソ連全国で250万人もの人が逮捕された。4万人もの人々を刑場あるいは収容所に追いやり、全国で80万人もの人が処刑された。法廷で審理されることなく殺されたり、尋問中ないし獄中で死亡した人はこれよりもっと多い。
 スターリンによる粛清期に、ソ連に5人いた元帥のうちの3人、16人の軍司令官(大将)のうち15人、67人の軍団司令官(中将)のうち60人、師団長(少将)の70%が処刑された。いやあ、何回聞いても信じられない、ひどい、おぞましいスターリンの圧政です。独裁者であるトップが狂うと、こうなってしまうのですね。
 1941年1月、ソ連最高統帥部は2度にわたって国土演習をおこない、赤軍がドイツ軍の攻撃に対処する能力を検証した。いずれのシナリオでも防御側の敗北という判定が下された。赤軍が戦闘準備を完整するまでは、なにがなんでも戦争を避けなければならないことが明白となった。
 独ソ戦争の勃発は、完全にイギリスの思うつぼだった、スターリンは、そんなトリックに引っ掛かるつもりはまったくなかった。スターリンの希望的観測は、破滅的な脅迫観念と化した。ドイツが自らの意思でロシアと戦うなんて絶対にありえない。このようにスターリンは確信していた。
 1941年6月21日の真夜中にヒトラーがソ連国境に投入した兵力はナポレオン軍の6倍、300万の兵員、2000機の航空機、3000両の戦車、75万頭の馬。これらが3個の軍集団の戦闘序列下にあった。これに対して、ロシアは170個師団、400万の兵員を擁していた。ただし、その多くはまだ東部から移動中だった。
 スターリンは開戦後1週間の緊張にすっかりまいってしまっていた。ドイツの意図について途方もなく誤った判断を下し、自らの固定観念にそぐわない助言を拒否したことで、彼の権威はひどく失墜した。その結果、スターリンは虚脱状態になって別荘にひきこもった。6月30日政治局の面々が別荘にやって来たとき、スターリンは自分を逮捕しにやって来たと不安に思い、「君らは何をしに来たのかね?」と問いかけた。ところが、この人々が腑抜け連中であることを見抜いたスターリンは自信を取り戻した。
 この記述に私は眼を開かされました。あの独裁者スターリンも、一瞬、弱気になっていた時期があったのですね……。
 ドイツ軍の進撃に対してロシア軍は意外なほど抗戦した。最後まで徹底して抗戦した。無謀な逆襲を仕掛け、自殺的な波状攻撃を仕掛けた。これはドイツ兵に脅威を感じさせた。結局、これがモスクワを救ったのです。
 モスクワの若い女性たちも、男性にひけをとらないほど熱心に従軍を志願し、前線で電話・通信兵や衛生兵・軍医として活躍した。赤軍の前線勤務軍医の約40%、衛生兵の全員が女性であり、17人がソ連邦英雄の称号をうけた。うち10人は死後の追贈だった。
 実践部隊の戦闘員として従軍した女性も多かった。中央女子狙撃手学校の卒業生は、戦争中に1万2000人のドイツ兵を射殺した。全部で80万人もの女性が戦時中、赤軍に勤務した。この女性兵士たちの活躍ぶりと、それが戦後は評価されなかったことを詳しく語った本は先に紹介しました。
 スターリンは、赤軍将兵の後退を阻止するためにNKVD阻止隊を組織した。阻止隊は2万6000人を逮捕し、1万人を射殺した。戦争中に100万人の軍人が軍法会議で判決を受けた。その3分の1は脱走によるもの。40万人が刑の執行を猶予されて、懲罰部隊に編入された。懲罰部隊の死傷率は異常に高く、通常の部隊の6倍だった。
 ドイツ軍の捕虜となってソ連に送還された元捕虜200万人が「洗い出し」システムにかけられ、34万人が労役大隊に送られ、28万人が逮捕された。
 スターリンの存命中、ロシア人はまともな歴史を書くことができなかった。
 スターリンの致命的な誤りにもかかわらず、ナチス・ドイツ軍のモスクワ信仰を阻止したのは、老若男女を問わないロシア人の自発的な犠牲的行動によるものであったことがよく分かる本です。当時の写真も豊富にあって、状況がよく伝わってきます。なんだか数字をたくさん紹介してしまいましたが、実はモスクワ市民の戦時下の日常生活の様子などもたくさんの写真とともに紹介されていて、興味深いものがあります。
(2008年8月刊。3600円+税)

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