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蝶の道

カテゴリー:生物

著者 海野 和男、 出版 東京農工大学出版会
 いのちあふれ、きらきらと輝く蝶の写真にただただ圧倒されます。魚眼レンズですから、蝶が目の前をヒラヒラ飛んでいるようです。
 蝶は水たまりから水を飲む習性がある。土から溶け出したミネラル分を摂取するためだ。ただ、不思議なことに、集まるのは全部オスの蝶だ。
 なんと、蝶が勢いよくオシッコしている写真まであるのです。すごい、ですよ。水をたくさん飲んでは、しょっちゅう排出するのです。
 蝶にも飛んでいく蝶道がある。沢沿いに、開けた林道に沿って蝶道があり、そこでカメラを構えて待ち続ける。魚眼レンズを使っても、蝶までわずか1センチというところまで近づくため、逃げらることも多い。
 蝶は、同じ種類同士で集まる習性がある。一匹が水を飲みに地面に降りると、まわりを飛んでいた同種の蝶も次々に舞い降りて、集団をつくる。繁盛しているレストランに、さらに人が集まるのに似ている。
 蝶は、子孫を残すために交尾をする。オスの仕事はメスを探すこと。オスがとどまらずに草むらをとんでいたら、メスを探していると思っていい。それに対して、メスの仕事は卵を産むこと。メスが飛んでいるのは、産卵に適した植物を探しているのだ。
 蝶は交尾しながら飛ぶこともある。たいていは、交尾直後に安全な場所に移動しようとするからだ。オスとメスのどちらが飛ぶかは、種によって決まっている。モンシロチョウの場合は、オスがメスをぶら下げて飛ぶ。
 モンキチョウのメスは、オスに誘われると交尾する気がなくても後をついて飛ぶという面白い習性がある。
 モンシロチョウは、農薬を使わない家庭菜園に多い。モンシロチョウが食べているキャベツなら、人間も安心して食べられる。
 いやあ、そうなんですか。実際にキャベツを栽培してみたことがあります。そのとき、その大変さが身にしみて分かりました。毎日毎日、青虫取りに追われるのです。割りバシを使って青虫をつまんで踏みつぶす作業を続けましたが、とても追いつかず、まさしく虫食いだらけのキャベツとなり、人間はあえなくモンシロチョウに敗退してしまいました。2年ほどキャベツづくりに挑戦しましたが、ついに断念してしまいました。ということは、いま、店頭に並んでいる見事なキャベツには相当の農薬がふりかけてあるはずです。
 表紙にある蝶の道の写真は、アマゾン(ペルー)の林道だということです。色とりどりのおびただしい蝶が舞う道です。こんな道が12キロも続いているというのですから、地球は広いですね。心の軽くなる、豪華絢爛たる蝶の写真集です。
 
(2009年2月刊。3600円+税)

手ごわい頭脳

カテゴリー:アメリカ

著者 コリン・P・A・ジョーンズ、 出版 新潮新書
 アメリカのロースクールは3年制で、1年目が一番重要である。残りの2年間は、ほとんど自分の興味のある分野を勉強して、卒業に必要な単位を揃えればいい。しかし、1年目は必須の基礎科目を勉強しなければならない。ロースクールで教えられるのは、主としてそれぞれの分野の一般原則だ。
 ロースクールの学生たちが身につけるもの、それは「弁護士の思考法」だ。
 アメリカの陪審員制度は、日本の裁判員制度とは根本的に違う。たとえば、アメリカの陪審員は、裁判員がクロと思い、世論の9割もそう思っていても、被告を「シロ」にできる、すごい権限を持っている。それは、アメリカの法律制度は、政府に対する深い不信を大前提にしているからだ。
 アメリカの陪審は、法律を無視することができる。明確な法律違反があっても、被告に有利な評決を下すことが出来る。そして、検察は無罪判決に対して上訴することが出来ない。うむむ、このように断言できるというのでは、たしかに日本とはまったく違います。
 弁護士は、クライアント(依頼者)の目的を達成するために全力をつくさなければならず、弁護士本人の良心やモラルをその過程に挿入する場面は原則として存在しない。
 アメリカの弁護士は、ロースクールでサイコパス(精神病質者)としてのトレーニングを受けていると主張する心理学者がいるが、そのとおりだ。自分がまったく信じていない主張を、強く信じているかのように平然と主張できることは、通常の人なら精神病にかかっている証(あかし)となる。しかし、そのように主張することこそが、弁護士の仕事なのだ。
 弁護士が、自らクライアントの主張を信じていないような事件、自分の両親が引き受けるのを許さないような事件を引受けて、一生けん命に依頼者のために努力出来ないのであれば、社会的に嫌われている人たちや不合理な偏見に苦しんでいる弱者の権利は誰が守れるのか。そうなんです。なぜ悪い者の弁護士をするのかと問われることがあります。でも、それこそ弁護士としての仕事なのですと答えますが、なかなか分かってもらえません。
 弁護士の役割は、各市民がそれぞれ「正しい」と思っていることを、自ら法律制度を利用して追求するための手助けをすることに過ぎない。アメリカの弁護士の思考の根底はここにある。
 著者はニューヨークで10年のあいだアメリカの弁護士としてキャリアを積んだあと、2005年4月から日本のロースクールの教員として現在まで活躍している人です。アメリカの日本の弁護士の思考方法の違いと共通項がよく分かり、とても興味深い本でした。
 
(2008年10月刊。680円+税)

絶対貧困

カテゴリー:アジア

著者 石井 光太、 出版 光文社
 アジアからアフリカまで、スラム街などの貧困地帯に体当たり取材をした著者による総集編というべき本です。改めて、問題の所在を認識させられました。
 世界リアル貧困学講義として全14回に分けて展開されます。そして内容は、スラム編、路上生活編、売春編と、三つに分かれています。いずれも、なるほど、そういうことなのか、と思わされる内容ばかりです。
 スラムの住人は、不潔なところに住むため、感染症にかかり、バタバタと死んでいる。スラムの中では免疫力のある人だけが生き残るという自然淘汰がなされている。
 5歳児未満の死亡率(1000人あたり)は、日本で4人、アメリカで8人であるのに対して、アフガニスタンでは257人、シエラレオネでは270人となっている。これって、とてもすごい、悲惨なことですね。
 大麻は、人々が公園で堂々と楽しんでいる。ヘロイン中毒者たちは物陰に隠れて吸っている。売り手はあまりもうからず、その裏にいる密売組織だけがもうかる。
 銃の価値はアフリカが一番安い。カラシニコフ(AK47)は、もとは1万円したが、今では3000円とか、ついには1000円にまで落ち込んでいる。
 しかし、スラムは決して恐ろしいところではない。スラムに暮らす9割の人が表の仕事をし、正義感を持ち、立派に生きている。スポーツだって、勉強だってしている。もし、本当に危険なところなら、著者がちょこっと行って、写真までとって帰ってこれるわけがない。なーるほど、そうなんでしょうね。でも、それにしても、著者って勇気ありますよね。
 スラムは、全体としては明るい地区ではあるが、一部の人は隠れたところで、犯罪に手を染めている。そうなんでしょうね。ただ、そこから脱出するのは大変なことでしょう。
 日本に来ているフィリピンの女性たちは、親族全員の生活を背負って出稼ぎに来ているのだから、取れるところからは徹底的に取る。本国に送金しても、その恩恵に多くの人があずかろうとして寄ってたかって吸い上げるため、これだけ稼いだら十分ということはない。だから、10年間も働き続けて、1000万円以上も送金してきたのに、本国に帰ってみたら、実家はいっそう貧しくなっていたなんてこともざらにある。うひゃあ、そ、それはたまりませんね。
 出稼ぎ労働者の多くは、背水の陣で海外に出ており、夢破れたからといっておいそれと帰れるような状況ではないので、そうした人々が外国人路上生活者として年に居着くようになる。
 ストリートチルドレンの多くは、幼いうちに死亡する。薬物による中毒死、酩酊状態のときに事故に巻き込まれる、感染症による死、栄養失調など。そして、ストリートチルドレンには、トラウマがつきまとう。
マフィアのような犯罪組織が手がける、レンタルチャイルド・ビジネスとは、赤子を誘拐して数年間は貸し出し用として使う。その子が6歳になったら、一人で物乞いさせ、儲けの全部を奪う。インドの犯罪組織は、誘拐してきた子どもに障害を負わせて、大金を稼がせようとする。障害児となった子どもたちは、共存していくために、マフィアへの恐怖や恨みをすべて忘れ去り、自分が悪かったから目をつぶされたのだと自らを納得させようとする。
 なんということでしょうか……。おー、マイガッ、です。なんてひどい話でしょう。
 アフリカでは地域によって、売春婦の9割以上がHIVに感染している。途上国では、なんとか一日2~3食を食べていくために売春するという意味合いが強い。
 貧困の現実を知るきっかけとなる本でした。目をそむけてはいけないと現実があるのだと思いました。
(2009年3月刊。1500円+税)

ルポ 労働と戦争

カテゴリー:社会

著者 島本 慈子、 出版 岩波新書
 日本は、憲法9条で軍隊を否定しながら、自衛隊という軍事力をもっている。この現実のねじれは、「専守防衛」というキーワードで正当化されている。これは、9条が消えたら「専守防衛」というキーワードも消え、日本が外国で兵器を使うこともありうるということだ。
 日本の自衛隊が、2006年度までに調達したクラスター爆弾は、23%はアメリカ製で、残る77%は国産だ。つまり、この日本の中で日本の労働者がクラスター爆弾をつくっている。そうなんですね。毎日毎日、人殺しの役にしかたたない爆弾をつくっている人が日本にもいるわけなんですね。
 戦闘の無人化が何を意味するかというと、銃後の責任が重くなるということだ。アメリカ軍の基地を拒む感情は今も根強い沖縄だが、アメリカ軍基地で働きたいという若者が増えている。民間の人材派遣会社が、会社によっては何百人という規模で、派遣社員をアメリカ軍基地内の諸機関へと送りこんでいる。
 2007年度、沖縄でのアメリカ軍基地の従業員募集に際して、341人の採用に対して8448人が応募した。同じように、沖縄以外の本土でも、884人の求人に対して3425人が応募している。
 アメリカ軍基地で働く雇用形態はさまざまだ。雇用主は日本政府で、使用者はアメリカ軍という雇用形態が一番多い。全国で2万5000人、神奈川と沖縄が9000人、東京が3000人弱。こんなに基地で働いている日本人がいるのですね……
 一人ひとりの仕事が細分化されているため、従業員はアメリカ軍の殺戮に加担しているという意識は持っていない。うーん、これも考えさせられます。
 憲法9条があり、武器輸出3原則のある現時点の日本では、軍需部門の肥大した大企業は存在しない。防衛省への納入額トップの三菱重工でさえ、防衛部分の売り上げは全体の20%にも満たない。
 日本国内の防衛産業全体に従事しているものは6万人。軍事大国アメリカの場合は、軍需関連の仕事をしている民間労働者は360万人。フランスでは、軍需関連の労働者は100万人。いやあ、これ以上、軍需産業が肥大化しないように、私たちは不断の監視が必要ですね。
 この一見平和を謳歌している日本で、人殺し兵器を作る人が6万人もいるなんて、ぞっとします。ほかに仕事がないため、アメリカ軍基地で働くのを希望する若者が増えているという指摘にも心身が震え、凍る気持ちです。
 アメリカでは、貧困から抜け出そうとして軍隊に入り、イラクなどに送られて、毎日毎日、人が殺され、人を殺す現場にいて、平常心を奪われて精神を病む若者が急増しているとのことです。日本も、平和憲法とりわけ9条を守り、そんなアメリカのような国にならないようにしたいものだとつくづく思います。
 火曜日、日比谷公園の中を歩くと、真っ赤な大きなバラがたくさん咲いていて、若い人たちがケータイで写真を撮っていました。黄色いバラも爽やかな感じですね。赤いバラのそばに白いバラもありました。初夏というより、夏本番という気温で、汗ばむほどでした。札幌から来た弁護士はようやく桜が咲き始めたと言っていました。
(2008年11月刊。740円+税)

動的平衡

カテゴリー:人間

著者 福岡 伸一、 出版 木楽舎
 各紙の書評で取り上げられ、注目していた本です。うむむ、なるほど、そうなのか……。うんうん、唸りながら読みました。期待にたがわず、実に面白い、というか興味深い本です。人間って、いったいどういう存在なんだろう、と悩んでいるひとに、特におすすめします。
 食べて、寝て、排泄して、人間の身体なんて、まるで管(くだ)みたいなものじゃないか。そんな疑問を持っているひとには、その悩みを解決するヒントが盛りだくさんの本です。
 生命現象は、絶え間ない分子の交換の上に成り立っている。つまり、動的な分子の平衡状態の上に、生物は存在している。
 食べ物にふくまれる分子が、またたく間に身体の構成部分となり、また次の瞬間には、それは身体の外へ抜け出していく。そのような分子の流れこそが生きていることなのだ。
 ヒトの身体を構成している分子は、次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは脳細胞といえども例外ではない。記憶物質なんていうものは脳には存在しえない。分子レベルで記憶する物質的基盤は、脳のどこにもない。あるのは、絶え間なく動いている状態の、ある一瞬を見れば全体としてゆるい秩序を持つ分子の「淀み」である。
 人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、想起した瞬間に作り出されている何ものか、なのである。つまり、過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。
 タンパク質の新陳代謝速度が体内時計の秒針なのである。そして人間の新陳代謝速度は、加齢とともに確実に遅くなる。体内時計は徐々にゆっくりと回る。しかし、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっていることに気づかない。タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的な時間は、いつでも同じスピードで過ぎていく。つまり、年をとると一年が早く過ぎるのは、「分母が大きくなるから」ではない。実際の時間の経過に、自分の生命の回転速度がついていけないということなのだ。
 うむむ、なんだか、なんだか、小難しくてよく分かりません。でも、また、なんとなく分かる気もしてくる指摘なのです。
 生命体は、口に入れた食物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報を解体する。これが消化である。タンパク質は、消化酵素によって、その構成単位、つまりアミノ酸まで分解されてから吸収される。タンパク質はアミノ酸にまで分解され、アミノ酸だけが特別な輸送機構によって消化管壁を通過し、初めて「体内」に入る。体内にはいったアミノ酸は、血流に乗って全身の細胞に運ばれる。そして細胞内に取り込まれて新たなたんぱく質に再合成され、新たな情報=意味を紡ぎ出す。
このように、生命活動とはアミノ酸というアルファベットによる不断の並べ替え(アナグラム)であるといってよい。
私たちが食べたものは、口から入って胃や腸に達するが、この時点では、まだ本当の意味では体内に入ったわけではない。まだ、身体の「外側」にある。体内にいつ入るかというと、消化管内で消化され、低分子化された栄養素が消化管壁を透過して体内の血液中に入ったとき。
 食べ物とは、エネルギー源であるというより、むしろ情報源なのである。だから、身体の中の特定のたんぱく質を補うために、外部の特定のタンパク質を摂取するというのは、まったく無意味な行為なのである。
 消化管内は、食べた食品タンパク質と、これを解体しようとする消化酵素が、ほぼ等量、グシャグシャに混じり合ったカオス状態にある。そして、消化酵素もまたタンパク質なので、最終的に消化酵素は消化酵素自身も消化し、アミノ酸になる。それらは、再び消化管壁から吸収される。消化管内でひとたびアミノ酸にまで分解されると、それはもともと食品タンパク質だったのか、消化酵素だったのか見分けはつかない。つまり、人間は食べ物とともに、自分自身をも食べているのだ。
 ふむふむ、難しい生命の神秘が、実に分かりやすく(でしょうね)解き明かされています。読んで絶対に損をすることはない本だと私も思いました。
 
(2009年3月刊。1524円+税)

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