法律相談センター検索 弁護士検索

筆に限りなし

カテゴリー:社会

著者 加藤 仁、 出版 講談社
 城山三郎伝です。まあ、よく調べてあることだと、ついつい感心しました。
 城山三郎が本を執筆していた書斎が資料館が名古屋にあるそうです(双葉館)。子どもの学習机ほどの小さい執筆机と、その周囲に取材メモや手紙類が散らかっています。城山の蔵書は、段ボール箱にして300個分あったそうです。本は1万2000冊。本や雑誌は、地元の文学ボランティアによって今なお分類・整理がすすめられていて、取材ノートやメモ・手紙なども仕分け作業がすすんでいます。毎日、1人か2人は作業しているのですが、まだまだ完成まで相当の時間がかかりそうだということです。
そして、城山三郎が1冊の本を書き上げるまで、大変入念な取材をしていることがよく分かる本でした。
 城山は家族に対して、チラシ1枚だって棄てないように厳命していた。だから、もう、ゴミ屋敷みたいだったと娘は語る。
 城山は戦前は完全な皇国少年であった。しかし、軍隊に入って、その現実をいやというほど知らされた。そして、戦後になって、戦時中の自分自身の精神生活がすべて否定されたことによる虚脱感に浸った。裏切られた皇国少年は、生きる拠りどころを失い、精神の傷痕と思索の混迷に喘ぎ、自分を失いかけた。
 城山は、戦後、今の一橋大学(当時は東京商科大学)に入った。
 城山は専業作家になる前、愛知学芸大学で経済論を教えていた。
 そして、『総会屋錦城』で世に出た。これは、異端の経済小説である。
 城山作品すべてに共通するのは、必ず自分の足で歩いて丹念に調べ執筆していること。調べるという学者の職能を大いに発揮して、インプットが多いほどアウトプットも多いと素朴に信じ、行動した。フットワークありきの小説執筆を皮肉って、城山のことを足軽作家と呼んだ文芸評論家がいた。
 城山は、資料収集から取材・執筆まで、スタッフを使うことなく、なにもかも一人でやってのけるのを原則とした。そのために投じる労力は計り知れず、流行作家のようには原稿の量産がきかない。城山三郎には才能があった。その才能とは、ケタはずれの努力をすることである。
 私が城山三郎の本として読んで記憶に残っているのは、『毎日が日曜日』『素直な戦士たち』などです。企業の内幕ものとして、高杉良の先輩作家というイメージがあります。
 
(2009年3月刊。1800円+税)

追録・蘇った「いつつぼし」記念パーティー

カテゴリー:社会

著者 内田 雅敏・鈴木 茂臣、 出版 れんが書房新社
 愛知県蒲郡市出身の内田雅敏弁護士による『いつつぼし』(昭和28年12月に発行された、当時、蒲郡南部小学校2年生の作文集)の発掘遺文ともいうべき文庫本です。
 ここまでやるか、と感嘆・感動・感銘を受ける追録集でした。私は知りませんでしたが、内田弁護士は、『法曹界の新宿鮫』とも呼ばれているそうです。そういえばそうかな、とつい思わずうなずいてしまったことでした。
 著者は、『乗っ取り弁護士』『敗戦の年に生まれて』など、いくつもの著書を出し、集会で飛びぬけて大きな声を出して周囲を驚かす快男児でもあります。といっても、私よりはいくらか年長です。私とは日弁連憲法委員会の同じメンバーとして、月に一回ほど顔を合わせる仲間です。
 ぶらんこ(2花 松井 延子)
 冬になるとぶらんこは、だれものらなくて、さびしそうにかぜにゆら、ゆらゆれています。かぜとなにか話しているよう、かぜも、ぶらんこもさびしそうだ。
 お正月(2花 井上 稔)
 お正月、まちどおしいな。マラソンで早くとんでこい。いいにおいするげたはいて、母ちゃんといなかのじいちゃんのとこへ、おきゃくにいくんだ。
 うーん、どちらもいい詩ですね。子どもの素直な心がそのままにじみ出ていますよね。
 昨年6月に開かれた同窓会のときには、当時の5人の担任のうち、女性3人が全員出席されたとのことです。残念なことに、男2人の先生は亡くなっていました。残念ですね。
 戦後の厳しい世の中を生き抜いてきた内田弁護士たちが、戦争だけは起こしてはならないという、担任だった鈴木久子先生の思いをしっかり受けとめていることもよく分かる本でした。内田弁護士の、今後ますますの健闘を期待します。
 
先日、仏検(1級)のみじめな結果をご報告しましたが、少し補足します。合格点は84点でしたから、その半分しか取れなかった。逆に言うと、2倍の努力をしないと合格できないということです。そして、合格率は10.8%でした。
(2009年6月刊。500円+税)

隠された光

カテゴリー:司法

著者 堺 弘毅、 出版 治安維持法犠牲者国賠同盟福岡
 戦前の福岡で、治安維持法によって逮捕され、その日のうちに虐殺されるなど、犠牲となった人々の足跡を丹念にたどった労作です。2段組450頁もの大作であり、決して読みやすい本ではありませんが、そこで紹介される特高警察による弾圧は凄惨ですし、非道、あまりにもむごいと言うほかありません。
 特高が踏み込んだ家の2階から飛び降り、脊髄骨折したためまもなく死亡してしまった24歳の女性の話は泣けます。
 北海道出身の西田信春という共産党九州地方委員長は、小林多喜二と同じく、逮捕された1933年2月11日、その日の深夜までに殺されていたのです。久留米駅で逮捕されて福岡まで連行され、福岡警察署で拷問によって深夜までに殺されてしまいました。そして、九州大学法医学教室で解剖され、遺骨は福岡市内の無縁墓地に葬られたのです。この2月11日には九州では50人もの人々が裁判にかけられたのでした。
 西田信春については、一高、東大で一緒にボート部に所属し、寮の同室で生活もともにした大槻文平が次のように追悼しています。この人は、日経連会長でもありましたから、まさに財界の中枢にいた人です。
 彼(西田信春)は、決してでしゃばらない、はにかみ屋であったが、芯の強い、しかも誠実な努力家だった。日本社会の混迷期にあって、純でいちずな社会変革への熱情が彼を犠牲者として終わらせるに至ったのは、残念な限りである。
 いま、ペシャワール会の現地代表として活躍している中村哲氏のお父さん(中村勉氏)も紹介されています。
 中村勉氏は、給仕として働いていたところ、その英才を電力学会の鬼と呼ばれた松永安左衛門に認められて給費生として福岡工業学校に入学し、さらには早稲田大学に入学して再び若松に戻って、火野葦平と交流を深めていた。同時に左翼運動にも力を入れ、指導的立場にいた。しかし、昭和7年の2.24事件で逮捕され、懲役2年、猶予5年の判決を受けた。
 この紹介文を読んで、私は中村哲医師の不屈の心意気のルーツを思い知った気がしました。
 実は、この本には、私が生意気盛りの中学生のころ、半ば馬鹿にし、半ば畏敬の念を払っていた理科の教師も登場するのです。鍋田惣一という人です。その息子は、私の同級生でした。
 自分という存在を知るためには、歴史を振り返ることが大切だということを実感させられる本でした。
 青森に10年ぶりに行ってきました。私が大学1年生のときに出会ったサークル仲間がいるのです。今回は畑仕事仲間の人たちと一緒に陶芸家宅(ととろ工房)で会食しました。陶芸家の先生は食事までつくれるのです。最後は自らの手打ちソバでした。楽しく歓談することができました。
 サークル仲間の畑も見せてもらいました。黄色と橙色のアリストロメリアの花がたくさん咲いていました。私も花だけでなく、野菜にも再挑戦してみようという気が起きました。
 
(2009年4月刊。2300円+税)

真田氏三代

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 笹本 正治、 出版 ミネルヴァ書房
 戦国時代の武将の中で真田氏は人気ランキング1位になったりするほど、特別な人気がある。
 確かに私も、子どものころに読んだマンガ『真田十勇士』などに影響されてか、真田幸村(ゆきむら)には、とても愛着があります。徳川家康と互角で戦った戦国武将というイメージです。
 この本は、戦国合戦を生き抜いた武将というより、戦国時代を統治者として生き延びた真田氏三代を明らかにしています。
 真田氏は、出自が明らかではない。真田家が飛躍するのは、武田信玄に仕えた真田幸隆の代から。武田信玄と上杉謙信とのあいだの川中島決戦に、真田幸隆は武田軍の重要な武将として参加している。
 武田信玄は父を追放して当主となったが、その嫡男・義信を自刃させた。これって、戦国時代の非情さを示す象徴ですよね。
 武田勝頼にとって真田一族は、もっとも信用に足る家臣であった。武田信玄にとって真田幸隆は使い捨ての駒だったが、使ってみると思ってもみなかった戦功をあげてくれたので、そのまま対上杉謙信戦の最前線に置いた。そして、その都度、幸隆が手柄を立てたので、次第に重用していった。武田信玄は、真田幸隆の子、昌幸そして信昌を人質にとった。
 真田幸隆が亡くなると、その跡を継いだのは嫡男の信綱であったが、信綱は織田信長との長篠の戦いで討死してしまった。このとき、信綱の弟・昌輝も戦死したため、三男の昌幸が家督を継いだ。真田氏三代のうちでもっともよく知られるのが、この昌幸である。
 真田昌幸は使えていた武田家が滅亡するや、主家を滅ぼした織田信長に臣従した。ところが、その後、2か月もたたぬうちに信長は明智光秀に襲われて死亡した。これ以降、真田昌幸は、自分の領地を守ろうとして、周囲にいる北条氏直、徳川家康、上杉景勝、豊臣秀吉という大勢力の中を泳ぎ渡らねばならなくなった。
 やがて、真田信幸は豊臣家譜代として位置づけられた。
 秀吉の死後、関ヶ原合戦に際して、真田昌幸と次男の信繫が石田三成の西軍につき、嫡男の信幸が東軍について、一家で道を分けた。その直前、この父子三人は石田三成の密使を前に去就を話し合い、このように決めた。というのも、真田氏は、家が絶えることの悲惨さを身近に感じていたからである。
 真田昌幸は、宇多氏を媒介として石田三成と深くつながっていた。嫡男の信幸は、家康重臣の本多忠勝の娘を妻としており、家康そして秀忠と密接な関係にあった。
 当時の人々は、家の存続を第一義としていた。その背後に、家と家とのつながり、それを実体化していた女性の役割が大きかった。
 この本で不満が残るのは、関ヶ原の戦いについて、当然に家康の東軍が勝つべくして勝ったと見ており、秀忠軍が真田昌幸を攻略できずに遅れたことは影響を与えなかったとしていること、また、大坂夏の陣のとき、真田信繁が家康の本陣へ突撃して一時は家康を窮地に追い込んだ状況が詳しく描かれていないことなどにあります。とりわけ関ヶ原の戦いについては、家康も内心、秀吉子飼いの武将を信用し切れなかったのではないかという最近の有力説は説得力があると思いますが、この本はその点についてまったく触れるところがありません。残念です。
 大坂夏の陣の戦いについて、薩摩藩の武士が、真田こそ日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)と書いたそうです。
真田氏三代の実相をよく知ることのできる本です。
先日受けた仏検(1級)の結果が届きました。ガーン。なんと39点です。ショックです。120点満点で3割しかとれていません。いやはや、どうにもなりません。脳の老化現象のせいでしょうか、単語がポロポロと忘却の彼方へ飛び去っていきます。まあ、でも、なんとか、めげずに、こりずに、これからも毎日毎朝フランス語を聞き続きます。
(2009年5月刊。3000円+税)

長沼事件、平賀書簡、35年目の証言

カテゴリー:司法

著者 福島 重雄・水島 朝穂・大出 良知、 出版 日本評論社
 司法分野の本を読んで、久々に心の震えがしばらく止まらないほど感動しました。実にすばらしい本です。35年前の福島裁判長の日記が公開されていますが、実に素直に気負いの感じられる書きぶりであり、畏敬の念に打たれました。
 この本がなにより画期的なのは、長沼事件で、自衛隊は憲法9条2項が禁止する「戦力」にあたるから違憲だと判決した、福島裁判長の当時の日記が公開されていることです。
 「今までの裁判所は、なんだかんだと言いながら、自衛隊の憲法9条問題を避けてきた。だが、いつかはどこかで、誰かがやらなければならない問題である。……夕方、一人、役所の裏門を出る。孤独な闘いが裁判官の心を揺さぶる。平和と民主主義への闘いが」
 「今日は会議室を使って起案した。それにしても、この事件で感じたことは、いかに裁判官が憲法論をやるのを恐れるのか、憲法について判断するのを回避したがるか、ということ。それにしても陪席諸君は意気地がない。もっと勇気をもたなければ、これからの裁判所を背負ってはいけない。やや失望した」
 「正邪は歴史のみが、これを言うことを得る。俺は、ただ自らが正しいと信ずる道にしたがって進むのみである。人を気にするな」
 判決後の日記に福島裁判長はこう書いた。
 「人生を賭しての頑張りであった。人、男として生まれたからには、何か一つ世に残り、歴史に刻み込まれる仕事をしたいものである。法律家としての、裁判官としての私にとっては、まさにそれがこれであった。それを無事に終えられて、なにより幸せであった。
 歴史は流れる。国民は、人民は、平和を求める。歴史は流れる。希望の灯は次第に明るくなる」
 福島裁判長は、このとき42歳。実は、海軍兵学校を卒業している(78期)。306分隊に所属し、今ではハウステンボスになっている長崎県の針尾島に配属されていた。306分隊の同期が毎年集まる会合には欠かさず出席し、最後には海軍の旗を掲げて軍歌を歌う。そんな元軍人が、自衛隊は違憲だという判決を下したのです。すごいことです。
 福島裁判長は、24人もの証人を採用した。そのなかには、遠藤三郎という元陸軍中将がいた。陸軍士官学校長もつとめたが、反骨の軍人であり、戦後は日中友好と反戦運動に関わった。遠藤元中将は、参謀本部で作戦計画の立案に関与した経験から、日本は領土を守るという発想は初めからなく、常に戦場を外地に求めていたと証言した。
 源田実・元空幕長は、正直に、自衛隊の能力ではアメリカ軍の基地を守ることしかできないと述べた。アメリカ軍は日本を守る能力はあっても意思はなく、自衛隊は日本を守る意思はあっても能力はない、ということです。
 平賀書簡の実態が、いかにひどい裁判干渉であったか、唖然とさせられました。
 札幌地裁の平賀所長から、所長室に5回も6日も呼ばれて、「この事件は重要案件だから慎重に審理しろ」と繰り返し言われた。その上の手紙である。決定そして判決の内容を知っての「慎重に」ということは、国を負かすなというに等しい。
 所長室に入って福島裁判官がソファに座ると、その真横に平賀所長が座り、左肩を自分の肩でグッ、グッと押しながら、「ねえねえ、きみ、慎重にね」と言ったというのです。想像するだけでも気味悪い光景ですよね。
 この平賀書簡について、札幌地裁では緊急の裁判官会議が開かれます。なんと、土曜日の午後1時に始まり、夜中の午前0時までかかっています。40人もの裁判官が出席しての会議でした。結論は、平賀所長に対し口頭による厳重注意処分でした。
ところが、平賀書簡がマスコミに報道されると、自民党の側から猛烈な巻き返しが始まります。結局、国会の裁判官訴追委員会では、平賀所長については何ら非違は認められないとして、訴追しない決定がなされたのに対して、福島裁判長のほうは訴追猶予処分となったのです。いやはや、とんだ茶番劇ですね。白を黒と言いくるめるような決定だとしか言いようがありません。
 それにしても、最近の名古屋高裁判決でイラクへの自衛隊派遣が憲法違反であると明確に弾劾されたのは胸のすく快挙でしたが、それを契機として長沼事件の意義が再び脚光を浴びるなか、福島裁判長(今は富山県で弁護士)が元気に社会に向かって発信されていることを知って、私まで元気が湧いてきました。やはり、やるべきとき、言うべきときには、きちんと言動で示すべきなのですね。そして、今が、そのときだという気がしてなりません。
(2009年5月刊。2700円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.