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山本周五郎、最後の日

カテゴリー:社会

著者 大河原 英與、 出版 マルジュ社
 山本周五郎は、直木賞はもとより、毎日出版文化賞、文芸春秋読者賞など、すべての受賞を辞退した。
 八百屋や魚屋が、野菜や魚が売れたからと言って、客以外の人間から褒美をもらういわれはない。それと同じじゃないか。
 うーん、ちょっと違う気がするんですけどね……。やっぱり文化って、野菜とか魚とは少し違うんじゃありませんかね。
 周五郎は、戦前のうち、戯曲、少女小説、童話、時代小説、現代小説、推理小説など、広いレパートリーを書いていた。年に平均30編もの長編や中編の作品を書きまくった。仕事が早いし、小説はうまかった。
 山本周五郎は、人が生きる喜びを書くと同時に、その苦しみ、はかなさ、むなしさを描きうる作家だった。周五郎は小説を書くために生まれ、小説を書き尽くせぬままに、その生涯を終えてしまった。
 周五郎にとって、原稿料は、出してくれる雑誌社・新聞社の、自分の仕事に対する信用状みたいなもの。自分はそれを決して裏切らない。だから相手にも、その誠意を要求する。考えているだけの報酬を出さない会社なら、いつでも縁を切る。
前借りの効用は、自分で自分をしばること。貸してくれた会社に対する義務間で自分自身をギリギリまで追い込む、それによって必ず良い作品ができあがる。
 周五郎は、作品は担当編集者との共同作業と考えていた。常に担当者にあらすじを話し、その応答を見ながら作品を作り上げていく。一見すると関係のないような会話でも、担当者の応答は周五郎の中では確実に作品の滋養となっていった。
 周五郎は、担当編集者にこれから書く作品のプロットを話し、それが面白いかつまらないか、担当者の率直な意見を聞こうとするのが常だった。もちろん、担当者としては、そんな小説はつまらないなどとは、口が裂けても言えない。周五郎が本当に面白くなりそうな話ぶりで語るので、つい釣り込まれるようにして「よろしくお願いします」と答えてしまう。
 周五郎は先刻承知のうえ、本当に担当者が興味を持って答えているかどうか、鋭い透視力を駆使して観察していた。
 自分の小説は、ジャーナリズムの条件にしたがって書くのではなく、自分の条件で仕事をする。
 山本周五郎の本は、司法修習生のとき、修習生仲間の庄司さん(現在、石巻市で弁護士)にすすめられて読みはじめ、たちまちトリコになって次々に読みふけりました。あの、なんとも言えない、しっとりした情感がたまりませんでした。心の渇きを大いに癒してくれる本でした。それは、藤沢周平と似ていますが、また少し違うのです。
 スイスに行ったとき、これまではスイス・パスといって、1週間通用するパスを事前に購入していました。初日のスイスの駅で、駅員さんに日付を記入してもらって、その日から1週間使えます。これは駅の窓口でそのつど並ぶ必要がありませんので、その都度、切符を求めて並ぶ必要がありませんので、時間を惜しみたい旅行客には欠かせないものになります。
 ところが、今回は最大1週間の旅行でしたので、手配してくれた旅行代理店が、気を利かせて3日間有効のフレキシーパスを用意していました。これは、連続して3日ではなく、たとえば1週間のうちの3日間だけ使えるというものです。
 スイスでは、フランスでも同じですが、日付の刻印をする機械はあるものの、必ず車掌が検札に来るとは限りません。ですから、検札にあわないと1日もうかることになります。あいにく今回、私は毎回車掌の検札を受けました。すると、ポストバスに乗る前に3日間のフレキシーパスを使い終わってしまったのです。さあ、どうしましょう。ディアヴォレッツァ展望台に行くときに、スイスパスの3日間を使ったわけでした。そこで、サンモリッツの駅に行き、追加料金を支払いたいと申し出たのです。ところが、窓口に座った若い女性は、大丈夫だ、このパスでまだ行けると太鼓判を押してくれました。そんなはずはありません。私が、つたない英語で(フランス語は使うなとその女性から申し渡されていました)繰り返すと、「じゃあ、明日また来てね」というのです。私も、彼女ではダメだと思って、出直すことにしました。
 翌朝、きのうの女性に再びあたったら困るなと思っていると、別の中年男性に当たりました。今度はフランス語でなんとか通じました。彼は、いろいろ調べたあげく、やはり追加料金が必要だということで、料金を提示してくれましたので、言われた金額を支払い、チケットを受け取りました。
 ポストバスに乗るときに1人スイスフランを支払う必要があると日本語で言われていましたが、駅の窓口で支払っていたおかげで、バスに乗るときには支払不要でした。
 フレキシーパスというのは、効率が良すぎて困ることがあるということです。やはり、少々のアソビは必要だと痛感したことでした。
 それにしても、駅員の対応にも質の違いがあるのですね。
 
(2009年6月刊。1800円+税)

フジツボ

カテゴリー:生物

著者 倉谷 うらら、 出版 岩波科学ライブラリー
 海岸にいけば、どこにでもいるフジツボ。岩にしがみつき、へばりついている貝の仲間。そう思っていると、なんとエビ・カニの仲間の甲殻類だというのです。そして、エビのように脱皮しながら成長するというから、驚きです。
 フジツボは、いったん付着面から取れると、貝と違ってくっつき直すことはなく、やがて死んでしまう。フジツボは、自前の殻を作っている。海水中のカルシウムを利用して成長する。フジツボの仲間は、恐竜が現れるはるか前の古生代カンブリア紀中期(5億3000万年前)から存在する。
 フジツボの分布範囲は地球規模。
 フジツボにも、こだわりがある。クジラに付くフジツボは、クジラ以外には断固として付かない。フジツボのペニスは、なんと自分の体長の8倍にまで伸びる。陰茎(ペニス)の先で卵が成熟した他の個体を探知し、ニューッと伸ばす。これによって移動せずとも離れた場所に付着している仲間との交尾が可能になる。
 卵からかえった後、しばらくは海の中を泳ぎまわる。そして、フジツボは、後悔しないよう、くっついてしまう前に、念入りに下調べする。
 フジツボの寿命は、種によってまちまちであるが、1年から長いもので50年にもなる。
 あのダーウィンも、1万ものフジツボの標本を調べて研究し、4巻1200ページの著書を書いた。
 フジツボは、環境汚染を調べる指標生物に、きわめて適している。
 フジツボの生態がたくさんの絵と写真でとても分かりやすく紹介されています。フジツボのたくましい生命力を知ることができました。
 サンモリッツには、セガティーニ美術館があります。ご多分にもれず、ここも昼休みは2時間あります。ですから、夕方は6時まで開いています。
 私は、サンモリッツの町なかからぶらぶらと歩いていきました。ちょっとした森のなかに遊歩道が出来ています。いい気持ちで歩いていると、いつのまにか美術館に到着します。町の中心部から歩いて20分もかかったでしょうか。とても小さな美術館で、暗くて狭い入口でしたので、もう閉館しているのかと心配したほどです。
 ここには画家セガンティーニの作品50点あまりが展示されています。2階の大きな部屋には、3枚の大作があります。自然の採光を取り入れた案内は、ちょっと薄暗いのですが、スイスの景色が、生、死、自然という3部作となっています。生と自然は夕方の景色で、死は総長の光の中で描かれているという対照が、意表をつきます。
 私はフランス語のオーディオ・ガイドに聞き入りました。もちろん、全部を理解することはできません。それでも、何回も同じ解説を聞き直して、なんとか理解できました。やはり習うより慣れろ、です。
 この美術館にいたのは1時間ほどですが、客の多くは日本人でした。すごいですね。日本人って。
 
(2009年6月刊。1500円+税)

ガザの八百屋は今日もからっぽ

カテゴリー:アジア

著者 小林 和香子、 出版 JVCブックレット
 2008年12月27日、イスラエルはガザへ大規模な軍事進攻作戦「鋳られた鉛作戦」を開始した。60機もの爆撃機、軍用ヘリコプター、無人航空機が100発以上の爆弾を50以上の標的に投下した。そして1月3日、地上部隊が侵攻した。
 23日間に及んだ軍事進攻によって、1440人の死者、5380人の負傷者が出た。民間人の死傷者の半数は、女性と子どもたち。国際法で禁止されている白リン弾の使用も、民間人の被害を広げた。3554軒の家屋が被害にあった。避難民2万人以上。難民を支援する国連機関の本部ビルも被害にあった。
 日本国際ボランティアセンター(JVC)は、2002年から、ガザで子どもの栄養改善を中心に活動をすすめてきた。著者は2003年からガザで活動に従事している日本人女性です。すごい勇気です。敬服します。今後とも安全と健康に気をつけてがんばってください。
 ガザの人口は1948年に8万人。その後、20万人の難民が押し寄せ、現在は150万人。その多くは難民キャンプに住んでいる。
 度重なるイスラエルによる軍事侵攻と、厳しい封鎖政策は、ガザに住む人々を援助に依存せざるを得ない状況に追いやった。ガザは、屋根のない「巨大な刑務所」と化した。JVCは、他の国際NGO団体と共同して子どもたちの栄養改善に向けたプロジェクトに取り組んでいる。25の幼稚園の園児2500人に対して、1日1パックの牛乳と1パックの栄養ビスケットを配りはじめ、今では160の幼稚園、2万人の園児を対象としている。
 イスラエルとアラブが平和的に共存できることを私は願っています。どちらにも過激派がいて、相手を軍事的に制圧しようと考えているようですが、やはり武力ではなく、話し合いによって平和的共存の道を採るべきではないでしょうか。
 もちろん、これって、口で言うほど簡単ではないと私も思います。しかし、それしかないと言わざるをえません。 
 
(2009年6月刊。840円+税)

やつらはどこから

カテゴリー:司法

著者 髙木 國雄、 出版 作品社
 うむむ、これはよくできた小説だ。思わず、唸ってしまいました。情景描写といい、筋の運びといい、とにかく冴えわたっています。感心、感嘆。私もこんな小説を書きたいと思いました。オビの文句を紹介します。まったく異存ありません。
 中学生の息子を襲う恐喝といじめ。税理士の父親への無法な強請り、たかり。現代日本に生起する荒廃の日常を活写する、現職弁護士による異色の小説集。
 6つの独立した短編集から成る本です。私より6歳年長の東京の弁護士です。
 あとがきによると、文芸同人誌に発表した11篇のうちの6篇に、少しだけ加筆・修正したものだということです。
 慌ただしく動き回ることと、その目的を精一杯果たしたいと焦燥に駆られる日常に、突然訪れたものであったからこそ、予期しない感動が鮮明だったのかもしれない。
 感動の本体は、人の言動であったり、ある物事自体であったりしたが、いったん確かに見聞し体験して触れたと思ったその中身は、時の経過とともに薄らいで、いつの間にか消えていった。それでも、書き進むという作業を繰り返す中でのほんのたまに、心の裡に感動の一部がよみがえったと思える瞬間があった。そのわずかな一時だけは、書くという手の作業が感動を確かに言葉に結びつけている、といった思いになれた。
 しかし、そんな充実した思いも長くは続かない。振り返ってみると、相変わらず馴れになってしまった、とりとめのない物事に埋没して動き回る日々を過ごしてきた。
 銀行の支店長に騙されて企業が倒産。DV夫から逃れようとする妻。頼まれて借金とり退治に精を出す坊さん。交通事故の真相を究明しようとするけれど、警察はそんなことにかまってくれない。
 他者をいじめる本性を持つのは、大人、子どもを問わず、狙う相手を探している。誰でもいわけではない、犠牲者は選別している。その選別のとっかかりとして、小出しに相手をつつき、叩いて、様子をうかがう。不条理な暴力や要求に断固として反発し抗議する相手方であれば踏み込めないのであって、反撃が弱く、態度があいまいな場合に限って、暴力はエスカレートする。つまり、いじめが本格化する。
 子ども社会で不条理な虐待を避けるには、その始期にはっきり反撃する態度、つまり仕掛けられたケンカへ正面からかみつき払い落す姿勢を身に着けているかどうかがポイント。いじめにあった子どもに共通するものは、最初の、いじめが始まるときに断固とした反発・反撃がまったくない、ということ。うむむ、なるほど、そういうことなんですね。
 ただ弁護士を長くやっていれば、立派な小説をかけるということではありません。やはり日常不断の研ぎ澄まされた感性が必要のようです。
 サンモリッツの3日目の夕食は、町の中心部にある広場に面した「ステファニィ」というレストランでとりました。店の外のテラス席です。メニューを眺めていると、日本語のもありますよと声がかかり、すぐに持ってきてくれました。
 魚は、舌ビラメのグリエ、そして肉は仔牛のチューリッヒ風というホワイトソースのたっぷりかかったものを注文しました。あと、サラダです。イタリアのワインを注文したら、カラフで持ってきましょうか、とボーイさんが言ってくれたので、お願いしました。
 観光客が広場をゾロゾロ歩いているのを見ながら、そして見られながら食事をするのです。虫は飛んできません。涼しいというより、少し寒さを感じるほどですので、イタリアの赤ワインを飲んで身体を温めました。
 子どもを連れた家族連れで、テーブルはどんどん埋まっていきます。日本人の大家族もやってきましたが、外のテーブルは満席なので、店内に案内をされました。広場に面した端のテーブルに中高年の日本人おじさん2人組も座りました。サンモリッツはどこでも日本人をよく見かけます。
 ワインを味わいつつ、道行く人を眺めながらゆったりと過ごしました。日本でこんな夕食をとることはありません。
 
(2005年1月刊。1500円+税)

羆撃ち

カテゴリー:生物

著者 久保 俊治、 出版 小学館
 いやあ実にすばらしい本です。まさに読書する醍醐味をとことん味わわせてくれました。
 男が野生の風になる瞬間を知った。その研ぎ澄まされた感性に羨望する。
 これは、オビに書かれた言葉ですが、まさしく言い得て妙です。
 森の中に一人分け入ってヒグマを追い続け、狙い定めて撃ち倒します。とても残酷です。ほめられたことではありません。でも、一対一の真剣勝負として、そこに生命を尊重しながらの戦いがえがかれているので、思わず拍手したくなるのです。そして、愛犬が登場してきます。一段と情愛細やかに狩猟場面が描かれます。その愛犬を日本に置いて、アメリカへ修行の旅に出ます。アメリカでの苦難の日々は、すごいものがあります。日本に帰国したとき、野も山も変わり果てていました。
 今どき、こんな狩猟を生業とする人がいるのだろうかと、不思議な思いで読み進めて行きました。すると、なんと著者は私と同じ団塊世代だったのです。私が大学生のころ、著者は北海道の山奥深くに分け入って、感性を研ぎ澄ましていたのでした……。
 ヒグマは本来、非常に警戒心が強く、常に人間とは距離を置こうとする。仔ヒグマを守らねばならないとき、自分のエサだと決めたものを守るとき以外、相手を威嚇する声は出さない。逃げるか、遠ざかろうとするのが、ほとんど。
 藪を歩くときのように、どうしても音が出てしまう場合には、できるかぎりシカの歩調と間合いに似せた歩き方をするように努力する。上手にできたら、シカの警戒心をゆるめることが出来る。そして、気づかれるよりも先に見つける方法を心がける。それには、一つのことだけに心を奪われ過ぎず、あたり一帯に均一な緊張感で注意を払わなければならない。とくに目を見開いて探すより、半目にして見るほうが、かすかに動くものでも目の隅でとらえやすい。自分の肌で感じた天候、気温、風などを記憶し、寝跡、足跡、エサ場などの場所と採食時間帯を自分の記憶と照らし合わせてみることも大切だ。
 シカを倒す。ナイフを取り出してシカの腹を裂く。その腹腔に凍えてかじかんだ両手を潜り込ませて温める。シカの最後のぬくもりが、痛いほどの熱さで両手にしみこんでくる。そのまま、しばしの間、じっとしている。最後のぬくもり、シカの生命のぬくもりの全部を両手にもらった。
 焚火であぶっていたシカの心臓を、焼けたところから、小さなナイフで切り取っては口に入れる。うまい。新鮮な心臓特有の、チリっとした鉄臭い味が口いっぱいに広がる。そして、空っぽの胃に気持ちよく落ちていく。
 うーん、なーるほどですね……。とても美味しそうですね。
 シカを倒した時、心臓と肺を引き出す。心臓は割って血を出し、あらかじめ踏み固めておいた雪の上に置く。このとき、柔らかな雪の上に置いてはいけない。まだ体温が残っていて、それが雪を溶かし、雪の中に埋もれてしまう。そうすると、十分に血が流れる前に凍ってしまい、ベチャベチャした感じになって味が悪くなる。
 雪の上に置いておいた肝臓の一片を少し切り、口に入れる。血の味といっしょに甘い味が口いっぱいに広がる。旨い。手負いで苦しんだり、興奮して死んだ獲物に比べて、苦痛や恐怖をほとんど感じることなく倒された動物の味は、いかにも旨い。
 そうなんですか……。
 寝袋にのって目を閉じると、手を凍りつかせたまま逃げたシカのことが思い出される。生きるということの凄さ、生きようと懸命に努力する姿を目の当たりにすること、それが猟の一番の魅力なのかもしれない。
 ヒグマに出会ったとき、注視するとヒグマもなんとなくこちらを見るので、あわてて目をそらす。できるだけ楽な姿勢で見るともなく半目にしていると、ヒグマもこちらを見ない。
 ヒグマを倒すと、仰向けにして山刀の峰で皮に筋目を入れてから、腹を裂き、内臓をとりだす。胆管を綿糸で縛ってから、胆のうを肝臓から切り離す。肺とすい臓はそばの木に掛け、他の動物に残す。胃と腸は、内容物を出して流れできれいに洗い、胆のう、肝臓とともにテントに持ち帰る。
 ヒグマを倒したとき、最後に、胸腔にたまってプリンのようになった血に、腸間膜を細かく切って混ぜあわせ、裏返して雪で洗った腸に詰め込み、ブラッドソーセージをつくる。それを塩ゆでにして食べる。食べるもののすべてが、すぐに血となり、エネルギーになって、身体の隅にまで浸みこんでいく。
 猟犬は、どんなに素質が良くても、主人の技量と心以上には育たない。猟犬を育てる側は、常に技と思考の向上を目指すことが必要となる。それを怠れば、素質のある犬ほど、自分の猟欲を満足させるために猟をするようになってしまう。
 犬の持っている能力を十分に引き出すためには、気を抜いてはならない。ほめるにしても、叱るにしても、いついかなるタイミングで行うのかを常に考えながら、注意深く、丹念に丹念に訓練を重ねて行く。素質のある犬ほど基礎訓練の覚えも早く、猟のたびに新たなことを覚え理解していく。
 猟犬にこれまで一人でやってきたヒグマ猟のことを話して聞かせる。猟犬に話して聞かせることは、大事な訓練の一つになる。
 山暮らしするうちに感覚が鋭くなって、いつの間にか時計も使わなくなった。陽の高さと、自分の体内時計とで、何も不自由を感じない。とりわけ聴覚と嗅覚が敏感になった。
 職業として狩猟を始めたころは、ヒグマに対する漠然とした恐怖と不安が、いつも頭の片隅にあった。攻撃することを決心したヒグマの恐ろしさは、半端なものではない。攻撃を決心するまでには時間がかかるが、一度決心を固めると、確実に攻撃に移り、焚火などがあっても、その攻撃を止めることはできない。
 猟で生活するのは、あまりお金にはならないが、なんとか食うことは出来る。いつも十分で腹いっぱいとはいえないが、食うものは常にうまいと感じ、ありがたいと思って食うことが出来る。雨、風、雪、寒さ、暑さ、すべてが備わった自然の中で、生きること、生きていることが肌で感じられる。
 すごい本です。思わず森の中にいる気分になって身構え、周囲を見回してしまいました。ありがとうございました。
 
(2009年8月刊。1700円+税)

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