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超訳 古事記

カテゴリー:日本史(古代史)

著者 鎌田 東二、 出版 ミシマ社
 うひゃあ、こ、こんな本の作り方があるなんて……。信じられませんよ。畳に寝そべって話す人がいて、それを聴きとる人がいて、そうやって本を作ったというのです。
 バリバリと雷鳴が轟き、ピカピカと稲妻が走り、激しい雨音がザアーッと地面を打ち続けているなか、寝そべって話したんだそうです。それも、目をつぶって、なのです。もちろん、参考文献も何も持たず、ひたすら記憶とイメージを頼りに、心の中に浮かんでくる言葉の浮き出るままに語り、録音していったのです。さすがに学者ですね。大したものです。
 この本は、「古事記」の上巻の神話を口語に訳したものです。そして、原文に沿った通語訳ではありません。「古事記」自体が古くからの口承伝承にもとづいているので、それにもとづいてつくったというのです。
 私は、過去、何度も「古事記」に挑戦しましたが、思うように理解できませんでした。今度の本は、リズム感もあり、なるほど、こういう内容の本だったのかと、すんなり腑に落ちてくれました。とても面白い本です。
 
(2009年11月刊。1600円+税)

戦国大名と一揆

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 池 亨、 出版 吉川弘文館
 越前朝倉氏の拠点であった一乗谷に行ったことがあります。山の谷間の平地に小京都がありました。発掘が進んでいて、屋敷のいくつかが復元されていますので、往時を十分しのぶことができます。
 京文化の影響が強いとされていますが、文化的な成熟度の高いことを実感しました。
 応仁の乱(1467年)が起きたころ、家臣は主人の家督問題に積極的にかかわるようになっていた。もはや主人に一方的に隷属する「家の子」ではなく、自前の「家」を持つ国人領主だった。主人に求めたのは「家」の存続を保証できる政治的能力(器量)であり、それにもとづく家臣の指示が家督決定の鍵となった。
 山城国一揆や一向一揆などを通じて、江戸時代の百姓一揆とは異なる。一揆の正確で重要なのは、構成員が原則的に対等な立場から参加していること。一揆の構成員が約束を結び、「一揆契状」を作成するとき、上下の序列がない傘(からかさ)連判(れんぱん)形式で署名することが多いのは、そのためである。つまり、一揆の構成員になる条件は、自立をした主体であることだった。
 将軍・足利義政の妻の日野富子は、「まことにかしこから人人」(一条兼良)と評価された。当時の武家の妻は、単なる「お人形」ではなく、家政を取り仕切る立場にあり、夫に問題があれば子を後見するのも当然の役割だった。これは、この時代では珍しくはない。
 応仁の乱による室町幕府の全国支配の崩壊が、天皇や公家の経済的基盤に打撃的被害を与えた。その影響は、朝廷の儀式(朝儀)の衰退として表れた。伝統的儀礼の遂行こそ、朝廷のアイデンティティとなっていたから、これは深刻な問題だった。国家的祈祷が中絶するか簡略化された。
 代替わり儀礼である大嘗祭に至っては、江戸時代まで200年余も断絶した。
 それどころか、天皇の葬式を行うのも大変で、遺体が2カ月以上も放置されたことすらあった。
 重要な朝儀の場である紫宸殿は破損したままで、周囲の築地は崩れ、警備も手薄のため、人の出入りは簡単で、たびたび盗賊に襲われた。
 各地に誕生した戦国大名は、自らを「大途」(だいと)、「公儀」などと称した。公権力の担い手としての立場を表明したわけである。
 戦国大名には、領国を統治する公権力の側面と、主従制によって官臣を編成する家権力の側面があった。この両側面を統一的にとらえることが重要である。
 分国法の核心は喧嘩両成敗法にあった。
 中世社会では、国家権力の力が弱く、地方の紛争はほとんど自力救済によって解決が図られていた。
 室町幕府も、自力救済を規制しようと「故戦防戦法」を制定していた。その内容は、「故戦」(最初に喧嘩を仕掛けた側)と「防戦」(それに応じた側)とで刑罰に軽重があり、また「防戦」側は正当性があれば罰は減じられるというもの。これでは決しがたく、結局、中途半端なまま実行性を持たなかった。
 それに対して、今川氏の喧嘩両成敗法は、紛争解決における実力行使を一切禁止し、今川氏の裁判権に服することを強制したものとして画期的意義を持つ。裁判制度の整備、充実は、まさにこれと表裏一体の関係にあった。
 なるほど、そういうことだったのかと思い知らされることの多い本でした。
 
(2009年8月刊。2600円+税)

岩盤を穿(うが)つ

カテゴリー:社会

著者 湯浅 誠、 出版 文芸春秋
 日本中を震撼させた年越し派遣村の村長だった著者は、民主党政権の下で、内閣府参与となり、ホームレス等の対策にあたっています。著者には私も大いに期待しています。これは、決して皮肉ではなく、本心からの言葉です。皮肉なんて言っていられないほど、事態は深刻かつ急迫していると思うのです。
 著者は活動家を募っています。そこで求められている活動家は次のようなものです。従来のものとはかなりイメージが異なります。
 活動家は、夢見る権利を擁護し、夢見る条件を作ろうとする。認定された夢だけを夢とする社会の岩盤にぶち当たらざるをえない。
お金がなければアウト、非正規だったら負け組、恋人ができなければ人間失格、マイホームにマイカーがなければ甲斐性なし、病気をすれば自己管理が不十分、老後の貯蓄がなければ人生のツケ。いやはや、なんと寂しい日本の現象でしょうか……。
 国が企業を守り、企業が男性正社員を守り、男性正社員が妻子を守る。そのルート以外の守られ方は、自堕落、怠惰、甘え、努力不足、負け犬……。いい加減にしてほしい。
 この「いい加減にしてほしい」に形を与えること。形を与えるための“場”をつくること。そして、他なる社会を夢見る条件を作ること。それが活動家の仕事だ。
 なるほど、こんな言い方もできるのですね。こうやって運動の輪を大きく広げていって、現代日本の社会を少しでも良い方向に、みんなで少しずつ、一歩一歩、変えていきたいものです。
 私も日比谷公園にはよく行きます。有楽町駅から歩いて日弁連会館に行く途中にあるからです。そこにできた年越し派遣村に来た人は、5日間で500人を超したのでした。そして、ボランティア登録をした人は1800人、のべ5000人となった。寄せられたカンパは2300万円。ちなみに、今年の公設派遣村は昨年を上回って、800人でしたか、1000人でしたか……。
 多くの人にとって、「見たくない現実」だった。忘れてはならないのは、「その現実を生きている」人たちがいること。この現実を直視できるかどうか、そこに日本社会の地力が現れる。そうなんですよね。貧困は目をそむけたら見えなくなるものです。
 かつての日本では、山谷(東京)や釜ヶ崎(大阪)の寄せ場に日雇い労働者はいた。しかし、今では日本全国に広がっている。貧困の問題は、フツー、目に見えないという特徴がある。貧困が見えにくいのは、アメリカでもイギリスでも同じで、これは世界共通のものだ。野宿の人たちは、炭鉱のカナリアのような存在だ。
 日本では、まわりの人から「簡単に人に頼っちゃいけない」と言われて育っているので、SOSの出し方が分からない。
 企業の多くは「地球を大切にしています」などと広告・宣伝している。しかし、「私たちの企業は、非正規労働者の命などなんとも思っていません。そんな私たちですが、良かったら商品を買ってください」と言うべきだ。
 ふむふむ、なるほど、なるほど、そのとおりですよ。日本経団連の露骨な、あまりに金儲け本位の姿勢を少しでもまともなものに改めようと考える資本家はいないのでしょうか……。
 国がセーフティネットを確立しようとするのは、実は19世紀のビスマルクの時代に始まったのだそうです。人間がボロ雑巾のように使い捨てにされる社会は弱くなるにきまっている。これが理由です。そうなんですよね。弱者をどんどん切り捨て、排除していく社会は、全体的な力も弱めてしまうのです。お互い、明日は我が身ですよ……。
ホームレスの人数確認が困難なのは、夜は寒さをしのぐために歩きまわり、昼間は図書館などの公共施設に入って仮眠を取る人が捕捉できないから。なーるほど、そういうことなんですね。
 政治不信は言われ始めて久しい。しかし、本当に深刻なのは、むしろ社会不信ではないのか。どうにも這いあがれない状態に追い込まれながら、そのこと自体が「努力が足りない」と叩かれる理由になっている社会では、何かを言ったところで、誰もそれを受け止めてくれるとは思えなかったとしても不思議ではない。
 自己責任論は、人を黙らせるもの。活動は、人を喋らせるもの。
 著者の提起を受け止め、私も著者のいうような活動家になりたいと改めて思いました。
 
(2009年11月刊。1200円+税)

山田洋次

カテゴリー:社会

著者 新田 匡央、 出版 ダイヤモンド社
 映画『おとうと』を見ました。世間から鼻つまみ者にされている弟を姉が最後まで面倒みるストーリーです。笑いながらも涙を流してしまいました。すごいものです。山田洋次監督の技のすごさに、今さらながら感嘆しました。『母べえ』と同じく、心が洗われ、すっきりした思いで雨のなか帰路につきました。
 この映画には「みどりのいえ」というホスピスが登場します。ほとんどボランティアで運営されている施設のようです。私は申し訳ないことに知りませんでした。こんな施設が存在すること、そして、それを大勢のボランティア・スタッフが支えていることは、もっと世の中に知られていいことだと思いました。その点でも、山田監督はすごいと思いますし、この映画を見る意味があります。ぜひ、みなさん映画館に足を運んで見てください。
 せめて映画館に入る時くらい、このむごい世の定めを忘れたい、と観客は願っている。そんな思いに応える映画をつくるためには、スタッフは皆仲良くなければいけない。仕事を楽しくしなければならない。
 山田監督の映画作りのときには、出演を予定していない人もふくめて、みんなで芝居を見て、役者を励まそうと呼び掛けられる。出演しない人が、外でタバコを吸って一服しているということはない。
 山田監督は、脚本に描かれたことだけを撮影すれば事足りるという姿勢に与しない。
 山田監督の指示どおりにスタッフが動くことを、山田洋次は嫌う。
 監督から言われたとおりにはするな。いや、だったら、こうしたほうがいいんじゃないかと提案すべきなんだ。山田洋次は提案者を待っている。ただし、悩みに悩んだ提案者だ。単に、「いまどきの若者はそんなことは言わない」と批判するのでは足りない。山田洋次はそれでは絶対に納得しない。なぜ言われないのか、どうして昔のような言い方がいけないのか。現在の社会はどういう状況にあるのか、そのなかで若者の生態はどうなっているのか。そして、観客が何を求め、観客に何を伝えるのか。理由とともに具体的な提案をすれば、山田洋次は決して否定しない。採用しなくても、なぜ提案を採用しないのか、必ず考える。
 映画の成否はシナリオの出来が6割を占める。次いで俳優のキャスティングで、これが3割の重要性を持つ。だから映画監督のできることは実は微々たる割合しかない。
 ぼくたちは全部ウソをついている。これが映画の極意。何のためにウソをつくか。映画を見る人達も騙されようと思って騙されている。でも、上手く騙してくれないと怒る。ありえないウソだといって……。
 より真実を描くためにウソをついている人だ。
 これは山田洋次の言葉です。なるほど、そうなんですよね。
 著者はこの本が初めての単行本だということですが、映画『おとうと』の出来上がる過程をよくとらえています。凄い技を持っていると感嘆・感激・感謝します。これからも大いにがんばってください。
 
(2010年1月刊。1500円+税)

公事師公事宿の研究

カテゴリー:司法

著者 瀧川 政次郎、 出版 赤坂書院
レック大学の反町勝美学長が最近出された『士業再生』(ダイヤモンド社)を読んでいると、江戸時代の公事師について不当に低い評価がなされていると思いました。そこで、私が改めて読みなおしたこの本を、以下ご紹介します。私のブログでは3回に分けましたが、ここでは一挙公開といきます。ぜひ、お読みください。
いつもと違って長いので、特別に見出しを入れます。
民事裁判と刑事裁判
 江戸時代には、公事訴訟を分って出入物と吟味物との二としたが、この区別は大体今日の民事裁判、刑事裁判の区別に等しい。公事も訴訟も同じ意味であるが、厳格に言えば白洲における対決を伴うものが公事であり、訴状だけで済むものが訴訟である。江戸時代に於いて公事師が取り扱うことを許されたのは出入物だけであって、吟味物には触れることを許されなかった。是の故に公事師は又一に出入師とも呼ばれた。
公事は江戸時代には訴訟の意味であるから、訴訟のことを『公事訴訟』とも言った。しかし、公事と訴訟とを対立して用いるときには、公事は訴が提起せられて相手方が返答書(答弁書)を提出してから後の訴訟事件を言い、訴訟は訴の定期より訴状の争奪に至るまでの手続きを言う。即ち訴訟というのは、まだ相手方の立ち向かわない訴えであり、公事というのは対決する相手のある訴訟事件である。
 江戸時代においては、行政官庁と司法官庁との区別はなく、すべてのお役所は、行政官庁であると同時に裁判所であった。
江戸時代の法定である『お白洲』に於いて『出入』即ち民事事件が審理せられるときには、原告即ち『訴訟人』とその『相手方』である被告とが『差紙』をもって『御白洲』に召喚せられて奉行の取調べを受けたのであって、『目安』即ち訴状の審理だけで採決が下されたのではない。必要があれば、奉行は双方の『対決』即ち口頭弁論をも命じたのである。…公事師が作ったのは願書にあらずして『目安』すなわち訴状である。願書の代書もしたが、公事師の作成した文書のすべてが願書であるわけではない。願書と訴状とは明瞭に区別されていた。
江戸時代の庶民は、決して『裁判所を忌み、訴訟を忌み』嫌わなかった。江戸時代の裁判所は、権柄づくな、強圧的なものではなく、庶民の訴を理すること極めて親切であって、時に強制力を用いることもあるが、それは和解を勤める権宜の処置であって、当事者間に熟談、内済の掛け合いをする意思があれば、何回でも根気よく日延べを許し、奉行は時に諧謔を交えて、法廷には常に和気が漂っていた。
 江戸の庶民は、裁判を嫌忌するどころか、裁判所を人民の最後の拠り所として信頼して、ことあればこれを裁判所に訴え出て、その裁決を仰いだ。
徳川時代奉行所や評定の開廷日に於ける、訴訟公事繁忙の状は、全く吾人の予想外に出でている。水野若狭の内寄合日には、『公事人腰掛ニ大余り、外ニも沢山居、寒気も強く大難渋』であり、評定所金日には、『朝六ツ半(午前七時)評定所腰掛へ行候処、最早居所なし』、『朝六ツ半時分に御評定所へ出。今日は多之公事人ニつき、都合三百人余出ル』とあるほど、多人数が殺到している。此事は徳川時代の民衆が、奉行の『御慈悲』に依頼して、相互の争を解決することが最良の方法であることを、充分に知覚していたことを意味すると同時に、幕府の裁判が民衆の間に、如何に多くの信頼と『御威光』とを、有していたかを物語るものである。

(さらに…)

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