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もうひとつの剱岳・点の記

カテゴリー:社会

著者:山と渓谷社、出版社:山と渓谷社
 明治40年、前人未踏の山・剱岳に挑んだ男たちを描いた映画「剱岳・点の記」の撮影のときの裏話と写真が満載の本です。
 ラストシーンに手旗信号が出てきます。これは、原作にはありません。木村大作監督のアイデアでした。遠くにいる人にも心は通じるという思いを込めたこのシーンは、本当にいちばん最後に撮られた。なーるほど、よく撮られた、感動的なシーンでした。
 映画制作に2年、ロケで200日は山に入った。機材を持って自分の足で歩き、自分の荷物は自分で持つ。山小屋では雑魚寝だし、テントにも泊まる。
 ロケ中は、撮影場所まで行くのが一番大変だった。主人公の柴崎芳太郎が測量した27ヶ所のうち22ヶ所をまわった。片道9時間もかけて現場へ行って、撮影したのは2カットだけということもあった。
 撮影の途中でスタッフがケガをした。これによって、山には危険がつきもの。無理をしてでも行きましょうという案内人・長次郎の台詞が生まれた。
 木村監督はヘリコプターをつかっての空撮はしなかった。ヘリでは風景になる。ドラマは感じない。歩いて、人の目線で撮ると、それだけで、ドラマになるんだ。
 撮影は瞬発力。準備も、技術も、理屈も、考えている時間はない。いきなりトップギヤで突っ走るしかない。自然も待ってはくれない。
 新田次郎について語った娘の話。マスコミによく登場する歴史学者が手に山ほどの本をかかえて、新田次郎にこう行った。
 「いいですねえ、小説家さんは。ペンと原稿用紙さえあれば書けるんですから」
 新田次郎は次のように言い返した。
 「いいですねえ、学者さんは。本さえあれば書けるんですから」
 新田次郎は、歴史学者は史実を正確に把握、読解し、言い表さなければならない。小説家は、その史実と史実の間に埋没している人間の苛烈な深層心理を書くのだと言いたかったのだろう。
 モノカキ志向の私には、この深層心理を書くという点が課題だと痛感しています。
 剱岳の神々しいまでに美しい写真の数々に魅せられてしまいます。でも、寒さに弱い私は、それに勇気もありませんので、写真をじっと眺めるだけで良しとしておきます。
(2009年7月刊。2000円+税)

地平線の彼方に

カテゴリー:アフリカ

小倉 寛太郎 、新日本出版社  
実に素晴らしい感動的な写真集です。アフリカの大地と、そこに生きる野生の動物たちが脈動しています。私たち人間と同じように、生命の尊厳は守られるべきだと実感させてくれる迫真の出来映えです。
 著者は、惜しくも、既に亡くなられています。私は、一度だけ名刺交換させていただき、声をかわしたことがあります。『沈まぬ太陽』の主人公・恩地元のモデルになった人です。古武士然とした風格を感じました。JALのナイロビ(ケニア)支店に飛ばされ、そこでもくじけずに、生きがいの一つとして動物写真を撮ったのです。ですから、もちろんアマチュアカメラマンなのですが、ここまでくるとプロフェッショナルとしか言いようのない傑作ぞろいです。
 写真を撮る前は、ハンターだったようです。でも、動物を殺すより写真の方が断然いいですよね。本当にそう思います。
アフリカは人類発祥の地でもあります。ジャングルからサバンナに出た人類らは、4本足から2本足歩行へ前進し、団結して知恵を働かせながら、苛酷な自然環境を生き延び、世界各地へ放散していったのでした。
 天知る、地知る、形知る。人が知らないと思って、内緒事をしていると、悪いことをしても天は見ている。大地も見ている。何よりも、お前が知っているじゃないか。だから、人が見ていないからといって、不正、悪事ははたらくな。
一体どうやって、こんなに近くからライオンとその子を撮ったのだろうかと不思議な写真があります。よほど著者はライオン一家から信用されていたのでしょう・・・・。
 たとえば、私が誘惑と脅迫に屈したとする。そうすると、私の心の傷、これは態度、挙措  にも出てくるだろう。そして、自分の生き方に自信を失うから、それは子どもに響くはず。子どもは親の後ろ姿を、背を見て育つと言うけれど、背中だけでなく、やはり親の生き方、片言隻句からも子どもは影響しているはず。今は分からなくても、やがては、と大いなる楽観を持っている。
 さすがに、偉大なる先人の言葉は含蓄深いものがあります。雄大な大自然の躍動する野生動物の写真に、目も心も洗われます。ぜひ、手にとってご覧ください。
 
(2010年3月刊。3500円+税)

わが記者会見のノウハウ

カテゴリー:社会

佐々 淳行  著 、文芸春秋 出版 
 確かに不祥事は、いかなる団体、組織にもつきものです。それが発覚したとき、トップはいかに対処すべきか、また、部下は上司に対してどう進言したらよいか、日頃から考えておくべきことでしょう。
 私も、前にも書きましたが、弁護士会の役員をしていたとき、2回にわたって苦しい記者会見をさせられました。そのとき、日頃なじみのある記者も、ない記者からも厳しい質問が飛んできました。これは立場の違いから、仕方ありません。もっとも、日頃の飲みにケーションも私は不十分だったのは事実です。なにしろ、当時も今も、二次会には行かない主義ですから。それより私は一人で本を読んでいたいのです。
 そのとき私が心がけたのは、テレビカメラの回っている場なので、第1に自分からは決して席を立たないようにしよう、後ろ姿を撮られて「逃げるのか」という罵声を浴びせかけられるようなことはしないこと、第2に、質問に対しては出来るだけ誠意をもってカメラ目線で正面を向いて答えようということでした。記者会見は2回とも思ったより長く、30分以上もかかってしまいましたが、幹事の記者から、「これでおわります」という言葉が出て、カメラが閉じられるまで席を立ちませんでした。成果の報告、売り込みならニコニコしてやれるわけですが、なにしろ不祥事にともなうものでしたから、笑っているわけにもいかず、苦虫をかみつぶしたような顔で終始していなければならず、それも大変でした。
ちょっとした交通事故を息子が起こしたときに、どうするか?
 しかるべき地位にいて多忙な父親が、多すぎず、少なすぎずの額の現金をもって率直な謝罪に行くことがポイント。金額は、当座の費用として加害者が持ってくるだろうと先方が思っている金額の2倍が目安。本人に命じて、残高ゼロの預金通帳を差し出す。現金は10万円でも30万円でもいい。モノを言うのは、残高ゼロの通帳である。
 なーるほど、こういう手もあったのですね・・・・。
ひとたび問題が起きたときは、最初の動きが非常に重要である。危機管理の記者会見は、最初の一言で勝敗が決する。
 不祥事や失言など、問題の起きたときの「守りの記者会見」こそ、広報担当官の真価が問われる。このときは、すべての記者を敵に回すような、逆境での記者会見になる。
 正しいユーモア感覚の持ち主でないと厳しい攻撃的な記者会見は乗り切れない。隠したがり屋や杓子定規な官僚タイプの人、自分のコントロールができてない人も向かない。
 事前に打ち合わせをして、言ってはいけないことを確認してから発表の場にのぞむ。何でも聞かれたことには答えているかのように見せかけつつ・・・・。なるほど、なるほど、です。
 記者会見は、言葉による危機管理であり、言葉のたたかいである。言葉はたたかいの武器であり、平和を回復させる手段にもなる。単に前例を踏襲すると失敗する。緊急会議に集まった5人なら5人の、人生50年の集大成みたいな一言、これが組織の危機を救う。
 謝るのなら、誰に向かって謝るのか、はっきりさせておく必要がある。
 一語一句に注意を払いながらも、誠意と人間味をもって対応する。
 ネバー・セイ・ネバー。危機管理の鉄則である。「決して」と「決して言うな」。二度と決してこのようなことは起こしませんとは、絶対に記者会見で言ってはいけない。どれだけ最善を尽くしても、また起こってしまうことがある。努力してもゼロには出来ないことがある。
 新聞記者と犬と責任は、逃げると追ってくる。これを肝に銘じる。社会部の記者は猛獣である。それほどでなくても、政治部の記者も半ば猛獣である。手なずけているつもりでも、ガブッとやられる。猛獣然としていないだけに、かえって危険な面がある。
 ただ、「一切しゃべるな」では、口止めにならない。これは話してはいけないという、ネガティブリストの作成なしに「一切言ってはいけない」では、口止めにならない。あの全裸事件を起こした直後の草なぎ剛の謝罪記者会見のとき、最長28秒の沈黙があり、5秒ほどの沈黙は10回もあった。このことについて、ワイドショーは、自分で言葉を選びながら誠実に答えていたと評価した。普通なら、28秒もの沈黙は許されない。
いろいろ大変勉強になる本でした。  
(2010年2月刊。1524円+税

真説・西南戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者:勇 知之、出版社:七草社
 五月のゴールデン・ウィークに田原坂へ出かけました。ちょうど植木スイカ祭りがあっていて、美味しいスイカをちょっぴり試食することも出来ました。そしてほかほかのイキナリダンゴ(1個100円)もいただきました。
 なぜ西南の役と呼ばれてきたか?それは、東京・大阪から遠い西南のほうで起きている戦争という意味。つまり、地方(田舎)での出来事でしかなかった。役というのは、軍役、使役の役のこと。つまりは役目のこと。民衆にとって、戦いに駆り出された兵士としての役務でしかなかった。
 なるほど、そういうことだったんですか・・・。田舎のちょっとした出来事でしかないと中央政府は言いたかったわけなんですね・・・。
 若き日の乃木希典が少佐として第14連隊を率いて参戦しますが、熊本県植木町で野戦になり退却します。そのとき、殿軍(しんがり)を連隊旗手の河原林少尉に命じたところ、この少尉は戦死して14連隊旗は薩軍に奪われてしまうのです。乃木少佐は自殺を図りますが、部下からいさめられて思いとどまります。有名な話です。乃木少佐は負傷して、久留米にあった軍病院に入院したとも言われています。政府軍の本営は、熊本県の南関町にありました。
 自動車のない当時です。馬と電信だけで連絡をとっていたようですが、誤報も少なくなかったことでしょう。現に、薩摩郡が南関町の政府軍本営を攻略しようとしていたら、田原坂が陥落したと伝令が誤報をもたらして中止したというもの紹介されています。
 田原坂が激戦地になったのは地形による。高さ500メートル。この坂を越えると、あとは熊本城まで平坦地で一直線となる。そこで、加藤清正も田原坂を北の要衝と認めていた。田原坂はなだらかな丘をくり抜いた道が通っているので、左右から伏兵の攻撃を受けやすい。しかも坂は蛇行しているため、大軍であっても苦戦せざるをえない。
 官軍が新式の大砲を運び上げるには、この田原坂を強行突破するしかなかったのです。
 官軍は、南関・三池を経て、90個中隊の官軍1万8千人が南下した。
 田原坂の戦いは、3月4日から20日まで17日間続いた激戦だった。ある薩軍兵士は、いやなのは、一に雨、二に大砲、三に赤帽と言った。雨は薩軍の旧式銃を不発にし、塹壕の水たまりはワラジを切らせ、降る雨は木綿の着物を濡らして行動を不自由にした。
 薩軍兵士のイヤなもの、警視抜刀隊。
 東京巡査に近衛(兵)がなけりゃ、花のお江戸に殴り込む
 この17日間の戦いで、薩軍は鹿児島私学校の精鋭を失い、体力を消耗させた。官軍の戦死者は1687人、一日平均99人。死傷者は6700人(1日平均370人)。
 田原坂戦での両軍の戦死者は3500人。死傷者は1万人をこえる。
 明治10年9月に西郷隆盛は城山で死んだ。翌年5月、大久保利通は暗殺された。
 さらに、翌年(明治12年)、大警視川路利良も死亡。毒殺されたともいう。
 田原坂の坂道を車で走ってみましたが、なるほど、勾配はそれほど急ではありません。ただ、曲がりくねっていて狭い道です。国道は別なルートを走っていますので、道幅は当時のままで、ほとんど拡幅されていないようです。
 田原坂の資料館に入りました。両軍の小銃弾が空中でぶつかりあったという弾が展示してありました。1日に何万発も撃ちあったということで起きた珍現象でしょう。
 ぜひ、一度、文明開化のきしみを意味する田原坂へ足を運んでみてください。
(2008年10月刊。1300円)

グリーン・ゾーン

カテゴリー:アメリカ

著者 ラジブ・チャンドラセカラン、 出版 集英社インターナショナル
 グリーン・ゾーン内では、食べ物のすべて、ホットドック用のソーセージを茹でる水まで、イラク国外の指定業者から調達するべしというアメリカ政府の規則がある。
 そこでの料理は、みんなが故郷にいるような気持ちになれる者でないといけない。その故郷とは、アメリカ南部を指す。
 共和国宮殿の中ではワシントンの連邦政府庁舎と同じ規則が適用されている。誰もが身分証明書用のバッジをつけ、天井の高い大広間では行儀よくすることが求められている。
 グリーンゾーンの外に出るには、最低でも自動車を2台連ねなくてはならず、しかも、それぞれM16ライフルか、それ以上に強力な武器を携行することになっている。
 ブレマー総督がグリーンゾーンを出るときには、2台の多目的装甲車が先導する。片方の屋根には50口径の機関銃が据え付けられ、もう片方は手榴弾発射装置を載せている。それと同じ武装の装甲車のペアが後方を固めている。4台の装甲車のすべてに、M16ライフルと9ミリ拳銃で武装した兵士が4人ずつ乗っている。4台の装甲車に前後を挟まれて縦隊走行する3台のGMCサバーバンが厳重な警護という分厚い甲羅の、いわば「中身」だ。
 イヤホンを耳に挿し、M4自働ライフルを抱え、胴体を覆うケヴラー社製の防弾チョッキは、カラシニコフの銃弾も跳ね返すセラミック補強板入りである。彼らは全員、階軍特殊部隊SEALのOBで、民間警備会社ブラックウォーター社の職員だ。
 ブレマー総督の乗るサバーバンは、窓は2センチ近い暑さの防弾ガラスで、ドアはRPG弾の攻撃を受けても大丈夫のように鋼鉄の板で補強してある。CPA職員を集めるときには、ブッシュ大統領と共和党に対する忠誠心が重視された。
ブレマー総督を護衛する傭兵は、1日1000ドルの報酬を受け取る。
 バクダッド市内では何百台ものパトカーが盗まれ、個人タクシーに転用されていた。
 戦争終結直後、当時のバクダッドの恐怖と無秩序は、宝の山だった。
 イラクにおける医療サービスは、長いこと、すべて無料だった。
 イラクの原油埋蔵量は世界2位か3位だが、イラクの製油所の精製能力では、突然倍以上に増えた自動車すべてのガソリンタンクを満たすことはできなかった。
 CPAがイラクへの輸入車の関税をゼロにしたおかげで、ヨーロッパじゅうから安い中古車に流入した。渋滞が慢性化するのは当然だった。
 イラクで選挙を実施するうえで最大の障害は、長いこと国勢調査が実施されていないということ。国勢調査なしでは、各県の人口も把握できず、したがって、議席数の配分も決められないことになる。
 サドル師が指揮する暴動に直面して、イラク全土の警察や政府系の民兵組織があっけなく崩壊したことに、CPAは驚愕した。その数日後、ファルージャでの市街戦で、アメリカ海兵隊を支援するよう命じられた新生イラク軍の大隊が命令に従うどころか反乱を起こしたことに、CPAはまたしても驚いた。
 この2つの事件から、ブレマーによる1日イラク軍の解体命令のあと、新しい警察と軍隊をゼロから作り直すというCPAの戦略の根本的な欠陥が明らかになった。ちなみに大暴動が起きた時点で勤務していた警官9000人のうち、6500人が訓練を受けていなかった。また、警察にも民兵4万人の市民防衛隊にも十分な装備を支給していなかった。
 「ファルージャ旅団」と名付けられた旧イラク軍人部隊の投入は大失敗に終わった。彼らは、アメリカ海兵隊の配った砂漠戦用の迷彩服ではなく、旧イラク陸軍の戦闘服を着用した。そして、反乱軍と対決するどころか、元軍人たちは、ファルージャに向かう道の検問所に陣取るだけだった。いや、やがてそれもやめた。結局、海兵隊が「ファルージャ旅団」に渡したカラシニコフ機関銃800挺、ピックアップトラック27台、無線機50台は、いつのまにか反乱軍の手に渡っていた。
 アメリカによるイラク占領の実に寒々とした実体がこれでもか、これでもかと明らかにされています。侵略者アメリカはイラクからすごすごと退散していくしかなかったのです。
 といっても、2009年10月までにイラク駐留外国軍兵士の死者は4667人。そしてイラク人の死者は10万人から60万人にのぼるというのです。これは、9.11の死者3000人をはるかに上回る大変な数字です。事実を直視しなければいけません。
 私は、アメリカ映画『グリーン・ゾーン』も見ましたが、イラクに大量破壊兵器がないことを知りながらイラクへ侵攻させたアメリカ政府の責任はきわめて重大です。おかげで世界平和がまたまた遠のいたように思います。
(2010年2月刊。2000円+税)

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