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光州・五月の記憶

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 林 洛平 、社会評論社 出版
 今から30年前、1980年5月、韓国で光州事件と呼ばれる民衆決起と戒厳軍による虐殺事件が起きました。その実相を追及し紹介する貴重な本です。
 この事件は、初めのうちは「戒厳令下に不純分子が起こした暴動」つまり事態とされていました。しかし、1988年、軍人出身の盧泰愚(ノテウ)大統領は「光州で起きたことは民主化のための努力であった」と認めるに至り、光州民主化運動と呼ばれるようになりました。さらに、1990年に光州補償法が制定され、犠牲者への補償金の支払いが始まり、1993年には金泳三大統領が「光州での流血は、民主主義の礎であり、現在の政府はその延長線上に立つ民主政府である」という談話を発表しました。
 1995年、「光州民主化運動等に関する特別法」によって、全斗煥や盧泰愚という元大統領12・12クーデターと光州虐殺関連者での処罰の道が開かれました。
 この運動の中で市民軍のスポークスマンとして活躍し、銃弾に倒れた伊祥源(サンウォン)の生きざまを語った本です。
 一般市民そして市民軍の人々も、最後にはアメリカ軍が助けに駆けつけてくれるだろうと期待していたようです。無慈悲な虐殺蛮行の軍部とアメリカが手を握ることなんてありえないと市民は固く信じていました。ところが、アメリカは、市民の期待に反して戒厳軍を支持し、何らの動きも示しませんでした。
 戒厳軍を前にして、武器を捨てるのか、武器を捨てずに対等な交渉に持ち込むのかで市民内部の意見が割れました。伊祥源(サンウォン)たちは、武器を捨てずに戒厳軍圧倒的な武力の差の前に銃弾に倒れるわけです。
 では、早々に武器を捨てるべきだったのか・・・・。難しいところだと思いました。もっとも、勇気のない私などは武器を持って道庁内に立て籠もるという選択は出来なかったと思います・・・・。
 光州事件のとき、道庁内で死亡したのは20人。全体では606人。政府発表による死傷者数は3586人となっています。
 大変な事態であったことはいうまでもありません。韓国でも日本でも、この事件を決して風化させてはいけないと思ったことでした。
(2010年4月刊。2700円+税)
 土曜日の午後、福岡で韓国映画『クロッシング』を見てきました。北朝鮮の人々の置かれている厳しい現実がよく描かれていると思いました。涙の止まらない悲しい話です。決して反共映画ではありません。飢えている人々がいて、ヤミ市場があり、各種の強制収容所があるなかでも、人々は家族愛を育み、仲間同士で助け合っていることもよく伝わって来ました。
 5分前に映画館に着いたら、もう満席でした。一番前で補助椅子に座っての観賞でしたから、画面が歪んで見えるのですが、映画が進行するなかで、そんな歪みはまるで気にならず没入して見入りました。
 KBCシネマで上映中です。ぜひ足を運んでご覧ください。

ゾウと巡る季節

カテゴリー:生物

 著者 大西 信吾 、彩流社 出版 
 
  すごい、すごい。感嘆しながら、そして心をときめかせながらめくっていった写真集です。ミャンマー(ビルマ)の森深くでゾウと人間が共働している姿がよく撮られています。
 なかでも深く心が動かされ、まさに感動したのは、仔ゾウを人間づけしていく経過を紹介する写真です。いやはや、ゾウと人間というのは、一朝一夕でなしうるものではないのですね。あまりの素晴らしさに、見終わって、ついつい嘆息をついてしまいました。
ミャンマーの森の奥深くにゾウと人間が入り込んで、伐採した大木を運び出す仕事に徒事します。ゾウは仔ゾウのときから飼い慣らされているとはいえ、仕事が終わったら、また、仕事の合い間にも森の中で自由に暮らす。
 これがすごいですよね。ゾウは、ずっとオリの中に拘束されているのではありません。森の中で自由に過ごせるのです。それでも、また人間と一緒になって木材運搬の仕事に従事するというのです。それは、不思議としか言いようがありません。
森の中に入ると、人間は作業キャンプ(飯場)を付近の竹でこしらえる。そして、大木を切り出していく。そして、森の中にいるゾウを探し出し、川でゾウの身体を丁寧に洗ってやり、大木の運搬の仕事につかせる。
ここでは、トラックやトラクターは使えない。アマゾンのようにブルドーザーで一本道をこしらえたら別だろうけど、あくまで自然との共生が第一だ。そして、ゾウの健康状態をチェックする地域獣医官が巡回してくる。
うひゃあ、すごいですね。ゾウの健康を管理する専門の獣医がいるのです・・・・。
伐採した丸太を山あり谷ありをこえてトラックで運び出せるところまで持っていくのは、やはりゾウしか出来ないんだろうなという写真がたっぷりあります。ゾウは文句も言わずに、がんばります。母ゾウ54歳、仔ゾウ1歳。父親は行方知らずの野生ゾウ。こんなキャプションがついています。
 人間で54歳の母親が出産するなんて、あるのでしょうか・・・。
 仔ゾウは、母親ゾウのそばを離れない習性から作業班と共に行動する。かといって、決して人間になついているわけではない。放っておくと確実に野生むき出しの獣になる。4歳のころ、高さ1メートル50センチになったころに使役ゾウとしての訓練を開始する。それは訓練専門キャンプで行う。
子ゾウの自由を奪う。生まれて初めて自由を奪われた子ゾウは、とことん抵抗する。ゾウ使いは、おとなしくするように鉄拳制圧するが、目、口、関節などは避ける。
 そして、常に誰かが子ゾウの身体のあちこちに触り、背中に乗り、人の感覚に慣らせていく。昼も夜も朝も・・・・。
子ゾウの体調については、獣医官が常に管理している。子ゾウの身体には、拘束している木で擦り傷を負わないように、豚の油を絶えず塗っておく。
人の間隔に慣れてきたら、子ゾウの拘束を少しゆるめ、根気強くスキンシップを続け、少しずつ動作を学習させていく。
盲導犬と同じように、人や仲間のゾウと歩調をあわせて歩けることが、使役ゾウの学ぶべき最初の基本動作である。最初に覚えさせる指示語は、座れと立て。座れの大合唱とともにロープで子ゾウの脚を引っぱって力ずくで伏せさせ、立ての号令とともにロープをゆるめて立たせる。これを何度も繰り返す。
人間の感覚に慣れ、抵抗の度合いが弱まってきたなら、長い鎖で杭につなぐ。行動半径は限られているが、自分で歩く自由は得られる。一週間でこの段階まで来たら上出来だ。地道な訓練を2年ほど続けたあと、やっと荷かごを背中に乗せられるようになる。それでも、ゾウはなかなかまっすぐには歩かない。15歳までは荷物運搬専門に働き、16歳から丸太を動かす訓練を始め、搬出現場デビューは18歳のとき。ゾウ使いは、ずっと同じ人間であることが望ましい。
50歳をこえたら、徐々に仕事量を減らし、引退する。軽い仕事をする程度で、ゾウ使いとは一生続き、70歳ころにゾウは生涯を終える。
ゾウと人間の森の中でのゆっくりと時間が流れていく情景が紹介されている感激の写真集です。ぜひ、手にとってご覧ください。
(2010年3月刊。3800円+税)
 サッカーで日本が勝っています。うれしいことです。でも、今は大切な参議院選挙が進行中です。消費税を10%にすることの是非が問われています。ギリシャのようにならないためと言われてもピンときません。
 消費税10%は、法人税率の引き下げと抱き合わせです。強い日本を作るためだそうです。
 日本の大企業の経営者が、何十人も年1億円以上の給料をもらっていることが報道されました。月収1000万円ということです。私の周りの人の多くは、その100分の1、月収10万円前後の人ばかりです。それでも仕事がある人はまだましなのです。こんな高給を払えるほどもうかっている大企業の法人税を引き下げ、私たち庶民のフトコロを直撃する消費税を10%に引き上げたら、所得格差はますます進行してしまいます。
 ところがマスコミは、消費税が日本の国民にどんな影響をもたらすのか、法人税の引き下げが本当に必要なことか十分に報道しているとは思えません。消費税の引き上げを是として国民をリードしている気がします。
 サッカー報道が過熱していくなかで、いつのまにか消費税10%が既定の事実となることを、私は真面目に心配しています。

究極の田んぼ

カテゴリー:生物

著者、岩澤 信夫、日本経済新聞出版社
 田んぼを耕さず、肥料も農薬もつかわないで、立派なお米がとれるというのです。まさに、奇跡としか言いようがありません。
 冷害にも強いのです。農薬をつかいませんから、鳥たちの楽園にもなります。かといって、例のアイガモ農法には批判的です。
 イネを狩り取ったあとのイネ株はそのまま残し、そのイネ株とイネ株の間に今年の新しい苗を植える。苗は稚苗ではなく、成苗にしてから移植する。
 冬には田んぼに水を張っておく。これによって田んぼのなかの光合成を促し、植物プランクトンやそれを餌にする動物プランクトンの発生を助け、イネの生長に必要な栄養分が供給されることを狙う。その結果として、無肥料栽培になる。また、雑草の発生も抑えられるので、無農薬栽培となる。このようにイネ本来のもつ力を生かす自然農法である。
 イネは耕さない硬い土の中に根を伸ばそう、張ろうとする。そのときの強いストレスのため、エチレンという成長ホルモンを分泌する。このホルモンがイネを丈夫にして立派に育ててくれるばかりでなく、病気、虫害、冷害にも強くしてくれる。
 冬に田んぼに水を張っていると、イトミミズが10アールあたり1500万匹もいる田んぼになる。イトミミズの排泄物がトロトロ層になって、5センチメートルの層をつくる。
不耕起の田んぼでは、昨年のイネの株は残っているが、田植え後は水の中で分解を始める。
 不耕起の田んぼは殺卵しないことになるので、6月末にはトンボが孵化してトンボの楽園になる。
耕さない田んぼのコメは、3年継続して栽培すると、間違いなく美味しくなる。イネの根が根穴を残し、田んぼの土は根穴だらけになり、それがコメの味をよくする。
 なるほどなるほど、よく考えられた科学的な農法だと感心してしまいました。
(2010年4月刊。1500円+税)

タケ子 Ⅱ

カテゴリー:社会

 著者 稲光 宏子、 新日本出版社 出版 
 
私が弁護士になる前のことです。1973年(昭和48年)6月、私は司法修習生でした。大阪で参議院の補欠選挙があり、自供対決の一騎打ちで共産党の女医さん(50歳)が自民党の資本家(製薬会社の社長)候補を打ち負かしたのです。しかも、劇的な逆転勝利でした。
これを知って、ずっとずっと長く続き、不敗と思われていた自民党政権も変えることができるんだとまだ20歳代だった若き私の熱い血が騒ぎました。あれから40年たち、自民党政権が本格的に退場し、民主党政権の迷走ぶりはともかくとして、日本の政治だって国民が選挙によって変えることができるという確信を持てたことは大変すばらしいことだと考えています。
それはともかくとして、この本は40年も前に自共対決で共産党がなぜ自民党に勝てたのか、勝った女医さんとはどんな人だったのか、等身大で明らかにしています。とても読みごたえのある本で、青森への出張の帰りの機内で私は一心に読み耽りました。
ドクタータケ子は大阪の下町(姫島)で地元の人々に支えられて診察所を開設します。まだ20代でした。ともかく、昼となく夜となく診察し、その合い間には自転車で患者宅へ往診に出かけていくのです。そして、大水害が起きると、小船に乗って被災者のなかの患者を診てまわります。いやはや、その行動力や、馬力のすさまじさに圧倒されてしまいます。若いって、やっぱり素晴らしいですね。還暦を過ぎて、つくづくそう思います。
そして、推されて市会議員に立候補します。地元の圧倒的な支持をもとに、たちまち当選。32歳の市会議員が誕生しました。医者と「二足のわらじを履く」生活が始まったのでした。
市会議員になってからも、市民とともに要求実現の運動にとりくみます。旧来の政治家のように、「オレに、私にまかせておきなさい」というのではありません。これだったら、財界本位の自民党候補者にたしかに一騎うちで勝てたんだろうなと納得できました。
読んで元気と勇気の湧いてくる本です。若返ります。少なくとも気分だけは……。 
(2010年4月刊。1800円+税)

「沖縄核密約」を背負って

カテゴリー:社会

 著者 後藤 乾一 、岩波書店 出版 
 
 私は国際政治学者だった若泉敬(けい)なる人物をはじめて知りました。沖縄返還の日米首脳交渉に首相の特使として深く関与したという人物です。当時は、まだ30代半ばの気鋭の学者でした。佐藤栄作首相の特使として、隠密裡にアメリカ側のキッシンジャー大統領補佐官(のちに国務長官)と交渉していたのでした。
表面に出た日本合意は、実はは裏に密約があり、それを否定しつつ、佐藤首相は「非核三原則」を貫いたとしてノーベル平和賞を受賞したというのです。とんでもないペテンです。でも、考えようによっては、表に出た「非核三原則」がノーベル平和賞をもらったということで、日本政府をしばり、国際平和の維持に結果として多少なりとも貢献したことになるのでしょうね・・・・。
 若泉敬は戦後の東大で新人会に関わったが、これは戦前の同名団体とはまったく関係なく、むしろ反共リベラルの団体だった。沖縄がまだアメリカ軍政下にあり、復帰運動に対して、そんなことは共産主義者に利用されるだけだからやめとけという脅しが公然となされていた時代です。
 佐藤首相は、1965年1月、マクナマラ国防長官との会談のとき、海上の核兵器の持ち込みは容認すると発言した。いやはやひどいものです。二枚舌も、ここまで来ると許せません。といっても、鳩山前首相も同じようなものでしたね。いずれも、アメリカには、ひたすら従順に服従するのみです。菅首相も、就任直前、いのいちばんにアメリカのオバマ大統領に電話して日米合意を守ることを約束しました。国民に対して十分な説明をするより前にですよ・・・・。
 1965年1月、佐藤首相は初めて訪沖し、沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わっていないという声明を発表した。1969年5月、日本は沖縄にあるアメリカの核兵器の存続を認める秘密合意議事録を作成した。つまり、緊急時にアメリカは核兵器を沖縄に持ち込むことが出来ることを日本は認めたのです。
 表向きは「核抜き全面返還」としつつ、裏では「暗黙の了解」としてアメリカの核持込みを日本政府は許したのでした。これこそ二枚舌の典型です。アメリカは、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、カデナ、ナハ、ヘノコ、・・・・の基地をいつでも使用できる状態としておき、重大な緊急事態が生じたときには、活用できるものとする・・・・。(1969年11月21日)。
 「核密約」なるものは、いくつも存在したようです。今もって、その全貌が明らかになっているとは考えられません。
 また、主人公の晩年が幸福なものだったとは思えない記述もあります。「核密約」の一端を知るうえで、大変貴重な資料となる本でした。
(2010年4月刊。3600円+税)

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