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アリの生態と分類

カテゴリー:生物

 著者 山根 正気、原田 豊ほか 、南方新社 出版 
 
 南九州のアリの自然史というサブタイトルがついたアリの写真図鑑です。
我が家の庭にもアリはもちろんいますが、厄介なのは台所にまで出没する小さなアリたちです。白アリとは違うので家屋倒壊の原因にはならないでしょうが、それでもやはり、小さなアリたちが食べ物のあるところをウロチョロしているのを見るのは目障りです。つい、「アリ殺し」を仕掛けてしまいました。
 日本ではアリは非常に良く研究されている昆虫一の群だ。南九州には124種のアリがいる。うへーっ、そんなに種類がいるのー・・・・と叫んでしまいましたが、なるほど写真を見ると、少しずつ色も形も異なっています。どうして、こんなに多様化したのか、不思議でなりません。
この本はヒアリは要注意だと警告しています。アメリカでは、ヒアリによって毎年5~6000億円もの被害が出ているとのことです。ヒアリ毒によって、毎年100人も亡くなっているというのですから、なるほど警戒しなければいけませんね。
アリは、カリバチと総称されているハチから進化し、スズメバチ類と近い親戚関係にある。
 初めてアリが出現したのは6億2500年前のこと。恐竜時代である。ハチの仲間なので、完全変態する。これに対してシロアリは、ゴキブリの仲間から進化した。したがって、ゴキブリと同じく、不完全変態する。
世界には1万1000種のアリがいる。
 アリの寿命は不明だが、実験室のコロニーで20年以上飼育した実例がある。
コロニーに複数の女王がいるコロニーのほうが一般的である。
 アリとアリが出会うと、触覚で相手をなでまわす。アリの体の表面は、所属するコロニーに特有のにおいで被われており、触覚でなでまわすことで、相手が自分と同じコロニーの仲間であるかどうかを嗅ぎ分けている。違うコロニーのアリを発見したアリは警戒フェロモンを散布するので、コロニー全体が興奮状態になる。
 逆に、社会寄生性の種の新女王や奴隷狩り部隊は、鎮静効果のあるフェロモンをうまくつかって相手コロニーの防衛力を低下させる。
 実は、多くのアリが昼夜を問わず活動している。ええーっ、アリって夜行性のものもいるのですか。ちっとも知りませんでした。
 この本には、たくさんのアリが大きく拡大したアリの身体写真とともに細かく紹介されています。すごいものです。アリ愛好家ならではの写真集です。
 我が家の庭にいるアリたちの姿を、今度じっくり観察してみようと思いました。
(2010年5月刊。4500円+税)
 ディジョンから休校に乗って30分、ボーヌに向かいました。ボーヌは20年ぶりです。駅から、まっすぐ旧市街を目ざして歩いていきます。ボーヌは小さな町です。古い城砦跡がそのまま残っています。旧市街に入ると石畳の狭い道になります。やがてにぎやかな通りに出ました。ちょうどお昼時でしたので、補導に張り出したテラス席で食事中の人々をたくさん見かけます。神の館(オテル・デュー)の近くに目ざすホテル(ル・セップ)がありました。20年前の記憶では町の中心部から外れたさびしい通り、というイメージだったのですが、実際には観光名所であるオテル・デューやノートルダム教会のすぐ近くで、はずれというより中心部にあります。
 ヴィジオトランという市内観光バスに乗って、ボーヌ見物をしました。本当に狭い路地を3両連結でよく走れるものだと感心します。日本語による解説もついて便利です。
 ホテル・デュは施療院とも呼ばれ、15世紀、百年戦争のあと、貧民救済のために作られた病院です。ブルゴーニュ建築の特徴という赤や黄色の幾何学模様が目を引く屋根をかまえています。
 このボーヌに、ゆったり3泊しました。

古代アンデス、神殿から始まる文明

カテゴリー:アメリカ

 著者 大貫 良夫・加藤 春建 、朝日新聞出版 
 
  古代アンデス文明の発掘調査を日本の学術調査団が50年も続けているというのです。すごいものですね。そして、地道な発掘調査のなかで金製品の副葬品を発見するなどの成果をあげています。ただ、その発掘・発見した遺跡・遺品の維持・保存には大変な苦労があるようです。現地の人々の生活との調和を図るというのは、口で言うほど易しいことではないのでしょうね・・・・。
 この本で驚いたのは、権力者が確立してから神殿がつくられたのではないという説が提唱されていることです。ちょっと逆ではないのかしらん、と思ったことでした。
 カラー写真つきで紹介されていますので、雄大な規模の遺跡であることがよく分かりす。
アンデス古代文明といっても、本当に古いのです。前2500年から前1600年前のコトシュ遺跡、前1000年から前500年のワカロマ遺跡、前800年前から前550年のクントゥル・ワシ遺跡、前1200年から前700年のパコパンパ遺跡などが紹介されています。
ちなみに、有名なナスカの地上絵は紀元前後から6世紀にかけてのものですから、かなり時代は下ります。
日本の学術調査団は、土器よりむしろ神殿に注目した。土器以上に社会発展においては神殿の役割が重要であると考えた。神殿の建設や更新、そこで執り行われる祭祀を通じて社会が動き、農耕などの生業面を逆に刺激していったと確信した。
 太陽の神殿ワカ・デル・ソルは、長さ342メートル、幅159メートル、高さ40メートル。この建造に1億4300万個の日干しレンガが用いられた。レンガに印がついている。それは、製造した村をあらわすもので、支配地域にレンガが納入を強要した証拠と考えられる。  古代アンデス文明の豊かさを知ることは、人類はかつて野蛮でしかなかったという俗説を打ち破ることにつながります。知的世界をぐーんと広げる本でした。 
(2010年2月刊。1400円+税)

野球部員、演劇の舞台に立つ!

カテゴリー:社会

 著者 竹島 由美子、 高文研 出版 
 
 福岡県南部、八女の茶畑の真ん中にある高校の演劇部のお話です。この高校は、今年も甲子園に出場したほど野球の強い高校でもあります。その野球部員が演劇部の助っ人に参上し、自らを鍛えていくという感動的な内容です。実は、なんだろうな、この本、何が書いてあるのかなと、失礼ながら、まったく期待することなく読みはじめたのです。ところが、なんとなんと、素晴らしい。のっけから心を揺さぶられるようなエピソードがあり、盛り上がりを見せます。わずか230頁ほどの本ですし、写真もふんだんにありますので、1時間ほどで車中一気に読み終え、猛暑のなか一服以上の清涼感に浸ることができました。
 演劇の脚本を書いている著者の筆力にもたいしたものですが、紹介されている高校生の作文が出色の出来映えなのです。一読を強くお勧めします。この本を読むと、今どきの若者なんて無気力な奴ばかりで、つまらん。などと切り捨てる気持ちにはとてもなりません。
 ことのはじまりは、元気のない演劇部の状況に悩む顧問と野球部監督の何気ない会話。
 彼らの、あの背筋を伸ばした身体や大きな胸をしたからだが舞台に立ったら、どんなに愉快かしら・・・・。
 いいですね。彼らに違った世界を触れさせることが必要じゃないかと思っていたところです。でも、台詞を覚えたり、演技をしたりは無理ですよ。違う分野になると、とたんに小心者になりますからね・・・・。
そして、本番。みていた観客から、こんな声が上がった。
もしかして、本物の野球部員じゃないの?
まさか・・・・!
野球しか知らず、本を読んだこともなかった部員が演じたあと次のように書いた。
演劇をしていくうちに知らない言葉を調べ、知る楽しさを覚えた。新しい言葉を知ることは、ある種の快感だった。知らない言葉を調べることは、知らない自分を見つけることにつながると思う。もっと言葉を知りたいと思っていたとき、本という知らない言葉がいっぱい書いてあるものと出会った。
なんと初々しい発見でしょう。まさに、未来は青年のもの、青年の果てしない可能性が掘り起こされたのです。そして、なんと、あの谷川俊太郎の前で、自作の詩を朗読する生徒まで登場します。その詩の言葉の豊かさに私は圧倒されました。ここでは、出だしの4行だけ紹介します。 
私が神様だったころ、世界はただ明るかった 
人も道も物も、ただ私のためにあった 
ある日突然、神様の私に刃向かう者が現れた
私は神なのに、私は神なのに・・・・
野球部員が舞台に登場する。鍛えられた身体と、その動きが魅力的だ。だらしないことをファッションだと言い訳しながら自分を磨くことを放棄した多くの若者に、若さ本来の美しさを改めて思い出させる。舞台上で鍛えられた身体が鋭角的な機敏さで動くたびに、それだけで会場を圧倒する。
情報誌に連載したものを一つにまとめて本にしたというものなので、各章の結末がやや尻切れトンボの感はありますが、それはともかくとして、読んで心の震える本でした。この本を贈呈してくれた敬愛する畏友・宇都宮英人弁護士に心から感謝します。
 
(2010年5月刊。1600円+税)

モスクワ攻防戦

カテゴリー:ヨーロッパ

 著者 アンドリュー・ナゴルスキ、 作品社 出版 
 
 ナチス・ドイツがソ連に攻めこんだときの戦闘が紹介されています。 
モスクワ攻防戦は1941年9月30日に始まり、1942年4月20日に終結したとされている。203日間である。しかし、実際には、それをこえた期間に大量殺戮があっていた。両軍あわせると、最高750万人もの将兵が投入され、戦死傷者は合計250万人に達した。ソ連側の戦死者は190万人、ドイツ兵は62万人だった。ドイツ軍の捕虜となったソ連兵96万人は、ほとんど殺害された。ロシア攻防戦のあとに戦われたスターリングラードでは360万人の将兵が戦場に駆り出され、両軍の犠牲者は91万人だった。モスクワ攻防戦のほうが、はるかに多い。モスクワ攻防戦におけるドイツ軍の敗北によって、ドイツ兵の不敗神話が崩れ、その終わりが始まった。
 そして、このモスクワ攻防戦において、日本にいたソ連のスパイであるリヒャルド・ゾルゲの果たした役割はあまりにも大きい。
 日本が、少なくとも1941年から42年にかけての冬季には、東部からソ連に攻め入ることはないとスターリンに最終的に確信させることが出来たのがゾルゲだった。ゾルゲのもたらした最新情報にもとづき、スターリンはソ連西部にあけるドイツ軍との戦闘に投入するため、シベリアの前哨部隊に所属する40万の兵士を大急ぎで送り込む決断を下すことができた。その兵士たちのほとんど全員が直ちにモスクワ防衛に当てられた。
 ソ連極東地域の極寒の気候に耐えうる冬の装備に身を包んだ新たな兵士たちは、ドイツ人侵略者と赤軍のあいだの戦闘の形勢を逆転させるうえで、不可欠の存在だった。すぐに勝利できると信じこんでいたヒトラーは、冬服を支給しないまま、ドイツ兵をソ連に派兵していた。そのため、ドイツ兵は冬の季節に対応するための装備の点で、はるかに勝るソ連兵が大量に投入されるころには、夏服のまま、日に日に低下する気温に苦しめられていた。
この本を読むと、スターリングラード攻防戦よりも、その前のモスクワ攻防戦のほうがはるかにスケールが大きかったこと、そして、ソ連の勝利に日本にいたゾルゲの情勢が大きく貢献したことを改めて認識させられました。
 駐日のドイツ大使に信頼されていたゾルゲは1941年10月に逮捕されてしまいます。そして、日本とドイツの敗色が濃厚となった1944年11月7日のロシア革命記念日に絞首刑に処せられたのでした。今もモスクワにはゾルゲの像と記念碑があります。駐日ソ連大使そしてロシア大使は、ゾルゲの墓参を今も欠かしません。
 モスクワ攻防戦の悲惨な実情が詳細に明らかにされています。モスクワ市民のすべてが勇敢に戦う人ばかりではなかったのです。
 モスクワの人口は、1941年1月に422万人だった。そして、翌1942年1月には半減して203万人でしかなかった。1941年10月、モスクワ市民は雪崩をうったようにモスクワを脱出していった。このころ、モスクワ市民100人のうち98人がヒトラーは遅かれ早かれモスクワを占領すると考えていた。
当初からスターリンは、二つの戦争を並行して戦い続ける必要があるという揺るぎない信念を持っていた。二つの戦争とは、外国の侵略者に対する戦争と、国内の裏切り者や政敵に対する戦争である。要するに、スターリンとその軍隊は、敵味方を問わず、進んで人を殺す死刑執行人だった。ソ連兵は一切の退却を禁じられ、従わなかったときは射殺されることになった。スターリンは、開戦のはるか前、より大勢の軍関係者を処刑していた。これが、ドイツ軍侵攻のときに、ソ連軍が驚くほど準備不足だった最大の理由である。
 軍部が粛清に巻き込まれたとき、NKVDは150万人を検束した。そのうち、あとで釈放されたのは、わずか20万人だけ。その多くは強制収容所に送られた。75万人が射殺された。スターリンは、万一、反乱が起きるとしたら、その指揮をとるのは軍人だと考え、軍部を優先的に粛清の対象とした。実物の武器を持ち、その扱いに長けている集団である軍をスターリンが見過ごすはずはなかった。
 ヒトラーもスターリンも、自分が聞きたくないことについては、部下がいくら説明しても、耳を傾けようとはしなかった。スターリンは、自らの招いた政策の失敗を、ヒトラーの恐怖政治によって挽回することができた。
 モスクワ攻防戦は、実は第二次世界大戦の勝敗を決めた一大決戦だったこと、それを決定したのが日本で活躍していたスパイ、ゾルゲだったことをしっかり認識しました。500頁もの大部な本でしたが、とても読みごたえがありました。 
(2010年6月刊。2800円+税)
 ディジョンはブルゴーニュ・ワインの名産地に接しています。美食で有名な町でもあります。ディジョン駅からも見えるサン・ベニーニュ大聖堂の高い尖塔の並びにあるホテル(赤い帽子)に泊りました。駅から歩いて10分ほど。スーツケースをがらがら引っ張って、辿りつきました。ホテルは高級レストランを併設しているのですが、なんと隣には回転寿司の店もありました。ヨーロッパ式の古いホテルです。
 ディジョンの街を何回となくぶらぶら歩きました。ここは、ブルゴーニュ公国の首都だったところで、その公邸が市庁舎と美術館になっています。その前には広大な広場があり、噴水があって子どもたちが水と戯れていました。
 ここにもノートルダム寺院があり、建物の角にふくろうの彫刻があります。左手をあてて願をかけると願うことがかなうとの言い伝えがあり、すっかり摩耗していました。私も、無病息災を願いました。

内奏

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:後藤致人、出版社:中公新書
 上奏とは、大日本帝国憲法を最高法規とする明治憲法体制に位置づけられた奏のこと。大日本帝国憲法で上奏という用語は1ヶ所しか出てこない。
 「両議院は、各々、天皇に上奏することを得」(49条)
 上奏とは、首相・国務大臣・統帥部・枢密院・議会など国家諸機関による、法律・勅令など、天皇裁可を必要とする公文書の天皇への報告手続きであった。
 奏上は、天皇に申し上げる行為全般を指す。
 近代以降の上奏は、天皇大権と密接に関係している。
 輔弼(ほひつ)とは、憲法上、国務大臣が行う天皇の補佐を表す用語である。ほかに内大臣と宮内大臣に輔弼規定がある。それ以外の天皇補佐には、輔翼という用語を用いる。参謀総長・軍令部総長については輔弼とは言わず、輔翼と表現する。
 惟幄(いあく)上奏とは、統帥部が軍機・軍令について、直接、天皇に上奏すること。この惟幄上奏には、二つの問題があった。第一に、惟幄上奏が拡大解釈され、本来は統帥部だけであったものが、内閣の一員である軍の大臣が首相を超えて惟幄上奏した。第二に、統帥部と陸海軍省が対立したとき、惟幄上奏が軍内部の調整を経ずに行われ、政治問題化すること。
 陸軍統帥部は天皇からの御下問を極度に畏れていた。そこで御下問が、陸軍の暴走の歯止めとの一つとして作用していた。
 御前会議によって最高国策が最終決定されるのではなく、天皇の退出後、あらためて政府・統帥部が上奏手続きをして、天皇の裁可を得る必要があった。御前会議の法制上の位置づけは明確ではなかった。
 内奏とは、正式な上奏に先だち、内意をうかがうもの。そこで、これでよろしいとなると、その後、正式な上奏の形式に現れた「勅旨」になる。
 戦前そして戦中、帝国議会について、首相は天皇に内奏する習慣があった。
 天皇が発する言葉には、御下問(ごかもん)、御沙汰(ごさた)、御諚(ごじょう)、優諚(ゆうじょう)など、さまざまな表現がある。どう違うのでしょうか?
 優諚とは、天皇のめぐみ深い言葉のこと。
 昭和天皇は、上奏前の内奏段階では、かなり踏み込んだ御下問をする。しかし、上奏については、必ず裁可を与えている。
 天皇の御下問は、宮中の人間の助言を受けず、直接、内奏する統帥部の軍人に行われていた。昭和天皇は、統帥関係の御下問については、木戸幸一内大臣に相談せず、直接、統帥部に対してするのが普通だった。
 昭和天皇は、上奏については裁可すべきだと認識していたが、内奏段階では御下問を通じ、輔弼者らに意見を表明してもよいと考えていた。天皇は、参謀総長・軍令部総長の上奏・内奏に対しては、強い口調でその矛盾をつくことがあった。
 宮中側近の助言を受けずに発せられる天皇の御下問は率直であり、軍を悩ましていた。
 戦後、日本国憲法が施行されてから、内閣から天皇に法律の公布を求めるときの用語が、かつての上奏から、「奏上」「奏請」に変わった。
 日本国憲法の施行後、上奏は消滅した。しかし、内奏のほうは生き残った。
 昭和天皇は、人事への関心が深く、佐藤首相にしばしば意見を言った。
 1966年、認証式や叙勲などの天皇の国事行為の機会の前後に、佐藤首相は一般政務の内奏を行っていた。昭和天皇は、この内奏によって人事や政情について、より深く情報を得て、御下問していた。
 1969年1月の東大紛争の際の秩父宮ラグビー場での大衆団交についても、佐藤首相は天皇に内奏した。うひゃあ、これには驚きました。私は駒場に残って待機していたように思います。それにしても、こんなことまで首相は天皇と会話していたのですね。なんと言ったのか、知りたいところです。
 昭和天皇は、長く政権を担当して気心が知れる佐藤首相に対して、御下問を通じて率直に政治的な意見表明をすることに慣れていた。昭和天皇は、保革対立に揺れる保守政権を励まし、あえていうと保守政治の精神的な核のような存在であった。警察庁長官も、定期的に(年1回)天皇に報告している。そして、天皇への内奏、天皇による御下問の内容を外にもらさないことは、政府部内で暗黙の了解事項だった。
 この本を読むと、戦後日本においても天皇に対して政治情勢等について政府の説明が定期的になされ、そのことが政府の確信ともなっていたことを知ることができます。私たち一般国民にとって意外なほど、天皇の言葉は政府にとって重い意味をもつもののようです。
(2010年3月刊。760円+税)
 ディジョンからSNCF(フランス国鉄)に乗ってオータンを目ざしました。12世紀に建立されたサン・ラザール大聖堂のある大きな町です。ところが、日本で買って持っていったトマス・クックにある乗り継ぎ列車がありません。途中のエタンで立ち往生しました。駅前にタクシーが1台とまっているのを見つけて交渉し、なんとかオータンに辿りつくことができました。
 曇り空だったのが一時的に快晴になりましたので、絶好のシャッターチャンスとばかりに写真を撮りました。
 オータンにはローマ時代の劇場跡が残っていて、今も野外劇場として活用されています。背後に湖があり、階段式の観客席が大部分残っています。
 2万人収容というフランス最大の劇場跡ということでしたが、成るほど広大なものです。ローマ軍団の偉大さを偲びました。

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