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カチンの森

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ヴィクトル・ザスラフスキー、出版社:みすず書房
 スターリンって、本当にひどい男ですね。許せません。こんな独裁者を許した国民はどういうことなんだろうと思いますが、そうはいってもヒトラーに追従したドイツ国民、そして、我が日本では天皇制と軍部が日本国民を戦争へ駆り立てていったのですから、狂気というのは、どこの国でも起きてしまうものかな・・・、と悲観してしまいそうです。
 でもでも、それにしても事実を直視することがまず第一ですよね。この本には、カチンの森で虐殺され、埋められたポーランドの将兵の遺体発掘現場の写真が冒頭のグラビアにあります。目をそむけたるなる写真ばかりです。
 1940年4月と5月、ポーランドの市民、将兵2万5000人以上がソ連の秘密警察(NKVD)によって銃殺され、埋められた。
 ソ連がナチス・ドイツと相互不可侵条約を結び、東部ポーランドをソ連が占領したときに捕われていた人々である。
 スターリンは、カチン虐殺事件をもみ消し、ドイツ国防軍の責任になすりつけようとして、史上空前の偽造・隠蔽・抹消の大宣伝工作を展開した。
 ポーランド分割によって、ソ連は領土の52%、国民の3分の1を獲得した。そのなかには25万人の将兵が捕虜となった。
 ポーランド捕虜の扱いについて、NKVDは、ソ連強制収容所の数百万人の囚人を管理して得た豊富な経験を最大限に活用した。自国民のために強制収容所を組織してきたソヴィエト国家の弾圧機関が20年にわたって蓄積した経験のすべてが簡潔に凝縮された指令を発した。
 1940年3月には、ポーランド将校を処刑する決定が下されていた。ソ連の政治局は、ベリヤとウクライナ共産党第一書記のフルショフが共同で提案したものを承認した。
 彼らは、全員ソヴィエト制度を憎むソ連の不倶戴天の敵なのである。
 1940年3月5日、ソ連共産党政治局の7人の局員、スターリン、モロトフ、ベリヤ、カガノーヴィッチ、ヴォロシーロフ、カリーニン、ミコヤンはNKVD機関に対し、2万5700人のポーランド戦争捕虜を特別手続き、つまり裁判手続きなしに処理(銃殺)するよう命じた。
 つまり、ソ連の指導者は、ポーランド独立のための戦いでポーランド人を指導できる者は、誰彼とわず抹殺する決意だった。
 ソ連は、ポーランド将校たちを脅迫・強 ・約束で再教育し、ソ連に協力させようと努力したが、わずか24人を除いて、他はみな将来ソ連軍と戦う危険があると判断した。
 ポーランドの「地域活動家」は、追放の過程で、追放された者の財産を着服することが認められることを期待して、大いに張り切ってソ連に協力した。
 いやあ、どこの国にも、こういう人は少なからずいるのですよね・・・。
 ポーランド共産党の指導者は全員、民族主義ないし国際共産主義運動への裏切り者とされて銃殺された。
 ですから、イデオロギーの問題というより、ソ連のスターリンなどの一部の支配者の保身のためだったのではないでしょうか・・・。
 1943年4月、ナチス・ドイツはカチンの森のポーランド将兵の虐殺遺体を発見して、ソ連の仕業だと宣伝を始めた。この1943年春には、戦局がドイツ軍に不利になっていたので、絶好の宣伝機会として最大限に利用しようとした。
 ソ連は1941年夏に虐殺があったと発表した。しかし、現場を観た特派員たちは、遺体が冬服を着ているのに気がついていた。
 西側政府(イギリスやアメリカ)の積極的な助けがなかったら、ソ連は半世紀ものあいだカチン虐殺が自らのものであることを隠し通せなかっただろう。西側政府は、入手していた情報を隠蔽し、事件を握りつぶそうと全力を尽くした。アメリカ政府は1950年代はじめまで、イギリス政府はソ連政権の崩壊まで、この態度を変えなかった。
 チャーチルは、「この問題には取り組まない方がよいと決定し、カチンの犯罪は突っこんで調査されることは決してなかった」と回想録に書いた。
 フルシチョフは、スターリン時代の犯罪に自分が結びつかないよう全力を尽くした。しかし、カチン事件でのフルシチョフの個人的責任は明白である。
 処刑は、NKVDの銃殺執行隊によってなされた。ほとんどの犠牲者は、後頭部の正確な個所を狙って、一発の弾丸で殺されている。拳銃と十段はドイツ製のものがつかわれていた。
 殺された捕虜たちは、静かに死地に向かった。死は予想外のことだった。
 該当者が呼び出されると、隊伍を組んで収容所を出て鉄道駅に向かった。その多くは釈放されるとの期待から嬉々としていた。
 しかし、この撤収が処刑を意味していたのは、捕虜を除いて、収容所の職員はみな知っていた「秘密」だった。
 カチン虐殺にかかわったソ連側の加害者は4桁にのぼる相当の人数になると思われるのに、目撃証言は出ていない。沈黙の掟が支配している。
 処刑人たちは、銃殺が終わると、食堂車で大宴会だった・・・。
 NKVDのブローヒンは1926年にスターリンの目にとまり、少将にまで昇進した。26年間のうちに数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
 カチン虐殺を実行したNKVD処刑人たちは、勲章をもらい、加俸された。
 ソ連が崩壊して20年たっても、だれ一人として罪を問われていない。
 1943年3月、ドイツ軍がカチンの森でポーランド将校の遺体を発掘しなかったら、完全犯罪のままになっていた可能性もある。
 カチン事件を闇に葬り去るわけにはいかないと思わせる、貴重な労作でした。ポーランドの自主独立の回復を願いながら無念の思いで倒れた人々をしのび、襟を正しながら読み通しました。
(2010年7月刊、2800円+税)
 
 遠野に行ってきました。昔話で有名な、あの遠野です。実は10年ほど前に、花巻から電車に乗って行きかけたことがありました。遠くて時間がかかるのが分かって、途中で引き返したのです。今回は親しい弁護士たちとのバス旅行でした。遠野は小さな町ですが、何箇所かある見るところは結構離れていて、全部を歩いて見て回るのは大変です。1泊はしてゆっくり見て回るだけの価値はあるところです。
 まずは遠野の昔話を聞きました。100人ほども入りそうな小さなホールで、幸い一番前のかぶりつき席に座ってじっくり語り部の話を聞くことができました。語り部は老婆と言ったら失礼にあたる中高年のおばちゃんです。小さな舞台に一人番台に腰掛け、少し早口の遠野弁で語ります。私は半分ほどしか聞き取れませんでした。座敷わらし、雪女、とうふとコンニャクの話です。あとで遠野物語の本を読んだのですが、やっぱり半分しか分かりませんでした。語り部によると、修学旅行で来た生徒たちはさっぱり分からなかったという感想が出ることも多いそうです。無理もありません。
 昼食は、遠野地方の野趣あふれたお膳でした。サンマと牛肉の組み合わせにミソをつけ、ほおの葉でつつんだものが出ました。デザートに山ブドウとアケビが出てきました。どちらも少し酸っぱく、自然そのものの味がして、子どものころを思い出させます。アケビの皮に詰め物をした料理が、前日の夕食に出ました。アケビの皮は食べられないとおもっていたところ、京都の川中夫人が店の人に尋ね、アケビの皮まで食べられるということを教えてもらいました。なんでも訊いてみるものですね。
 遠野ではお祭りがあっていました。広場で子どもたちの可愛い踊りを見たあと、お祭りがあっていました。広場で子どもたちの可愛い踊りを見たあと、博物館へまわりました。水木しげるの妖怪マンガもあります。愛らしい河童が登場するのです。かやぶき屋根の曲り屋を伝承園で見たあと、歩いてカッパ淵に回りました。お寺の裏に流れる川は、いかにもカッパが出てきそうな雰囲気です。清流にキュウリをつけた釣り竿が仕掛けてあります。カッパをこれで釣ろうというのです。
 遠野は昔話が現代に生きている町です。

銀狼王

カテゴリー:生物

 著者 熊谷 達也、 集英社 出版 
 
 開拓期の北海道。老猟師は、幻の狼を追う・・・・。両者の誇りをかけた緊迫の5日間。これはサブ・タイトルとして書かれた文句です。猟師が雪の中、狼を追い続けてさまよい、ついに狼の群れに遭遇します。狼王は、連れの狼が撃たれて倒れたとき・・・・。手に汗にぎる、迫真の対決です。すごいですね、この著者の生々しい描写力には、いたく感服してしまいました。
 老猟師といいますから、60代か70代だろうと思っていると、とんでもない、わずか50歳でしかないのです。これで老猟師とは可哀想です。と、いつのまにか61歳になってしまった私は思います。
 北海道において、ヒグマやオオカミ猟は、とれた獲物の毛皮や肉でもたらされる利益だけでなく、直接、現金を得る手段となる。鹿狩りと違って、捕獲に対する手当がお上から出るのだ。10年前に、狼と羆それぞれ一頭につき2円から始まった捕獲手当は、すぐに狼が7円、羆が5円に引き上げられ、5年前に羆が1頭3円に下がったものの、狼は逆に1頭につき10円の手当がつくようになった。
オオカミを追うほうが、ヒグマをとるより、はるかに楽しい。本物の狩りというのは、獣と人間との知恵比べである。
 北海道の冬を甘く見てはならない。しかも、ここは、標高1000メートルはある山の中だ。いったん気温が下がりだすと、どこまで凍てつくか、分かったものではない。歩き続ければ、体温の低下は防ぐことができる。実際、牧場に飼われてはいても、西洋馬と違って、厩舎をあてがってもらえない道産馬は真冬になると、夜は一晩中歩き続けて身体を温め、昼に睡眠をとることで、厳しい冬を乗り切る。
食えるときにたっぷり食っておくのが、山歩きを続けるときの鉄則である。無理に我慢すると、肝心なときに力が出ないばかりか、悪くすると、食い物をたっぷり持っている状態で行き倒れになることもある。
鈍重そうに見えて、その実、ヒグマは驚くほどに知恵が回る。ヒグマに限らず、野ウサギなどもそうだが、穴に入るときには、必ずといってよいほど、留め足をつかって身の安全を図ろうとする。つまり、自分がつけた足跡を忠実に踏んで後ずさり、そこからひょいと脇にそれる。経験の浅い猟師には、追っていた足跡が突如として途切れたかのようにみえるので、獲物そのものが消えてしまったかのような錯覚をおこし、痕跡を見失ってしまう。
 また、穴に入る前に、必ず沢を渡るヒグマもいる。沢に入ることで、雪につけてきた足跡が途切れ、これまた駆け出しの猟師は途方に暮れることになる。
 狼の奇妙な習性は、もともと自分たちの獲物になる鹿のような動物ではない相手、たとえば人間などに出くわしたとき、気づかれないようにして、しばらくそのあとを追い続けるという習性がある。そして、逃走にかかったとみるや、すぐさま追跡に転じるのも、これまた狼の習性の一つである。いや、狼だけでなく、ヒグマやツキノワグマもそうだ。背を見せて逃げる相手を追いかけるのは、彼らの本能である。
 狼は、つがいになった連れあいに対して、人間以上に情が深い。銃で仕留めたメス・オオカミから離れようとしないオス・オオカミを何の苦もなく仕留めたことがあった。
 間近で見る、美しい銀色の毛並みをもったオス・オオカミは獣の王者の風格にあふれていた。後ろ足で立てば、間違いなく、大人の背丈をこえるだろう。虎やライオンとだって遜色のないだろう体軀の銀狼には、犬の親戚などではなく、猛獣そのものの威圧感がある。言葉では尽くせぬ威厳に圧倒される。
 すごい小説です。こんなに迫力のある小説を一度は書いてみたいとモノカキ志向の私は思ったことでした。 
(2010年6月刊。1400円+税)

卵をめぐる祖父の戦争

カテゴリー:ヨーロッパ

 著者 デイヴィッド・ペニオフ、 早川書房 出版 
 
 ナチス・ドイツに包囲され、飢餓にあえぐレニングラード。その戦いの規模は『攻防900日-包囲されたレニングラード』(早川書房)で詳細に紹介されています。この本は、そのレニングラード防衛戦の実情を、ソ連軍からの「脱走兵」とされてしまった二人の若者の奇妙な戦争を通して浮きぼりにします。なるほど、小説って、こうやって悲惨な戦争の実態を読み物にしてしまうのですね・・・・。
 飢えに苦しむレニングラード市民、地雷犬の無残な死など、戦争の悲惨さがリアルに描かれている。ソ連政府の発表でも、100万人もの市民が生命を落としたレニングラード攻防戦。それでも、ナチス・ドイツに征服されることなく、守り抜いた。その陰には、多大の犠牲があった。しかし、レニングラードを防衛する軍の上層部には、娘の結婚式のためにケーキが必要だ、そのために卵を1ダース調達してこいと命令するくらいの余裕はあった。卵1ダースを調達するために、二人の若者が戦場へ生命かけて探しまわる。そんなお話です。なんともまあ、悲惨な状況での、おとぼけた話の展開ではあります。
 戦場の奇妙な現実を、それなりに反映しているのだろうなと思いながら、ついつい引きずりこまれて読了しました。
 
(2010年8月刊。1600円+税)

自衛隊という密室

カテゴリー:社会

著者:三宅勝久、出版社:高文研
 日本の自衛隊は死者を出し続けている。死者数でもっとも深刻なのは自殺である。1994年から2008年までの15年間で、1162人もの隊員が自殺で命を落とした。一般公務員の自殺率の2倍にあたる。
 暴力事件で懲戒処分された隊員は2007年度の一年間で80人をこす。
 脱走や不正外出で処分された隊員は326人、病気で休職している隊員が500人。脱走・不正外出は脱柵(だっさく)という。2007年度の脱柵による処分は272人。ほとんど1日から1ヶ月内に見つかっているが、半年以上も行方が分からずに免職になった隊員も7人いる。
 自衛隊法施行規則57条第6項に、「部下の隊員を虐待してはならない」と定めてある。
 「死にたい奴は死ねばいい。なにがメンタルヘルスだ」
 一佐の年収は1000万円以上、退職金は4000万円。そして納入業者に役員待遇で再就職する。防衛省との契約高15社に在籍しているOBは2006年4月、475人。三菱電機に98人、三菱重工62人、日立製作所59人、川崎重工49人。
 2008年度の1年間で、防衛省と取引のある企業に再就職した制服幹部(一佐以上)は、80人。三菱電機が一番多い。
 三菱重工と防衛省との年間契約高は2700億円。三菱重工ほど、兵器でもうけてきた会社はいない。
 まさに死の商人なんですね。ちっとも、そこにメスが入らないのは不思議です。マスコミよ、しっかりして下さいな。
 日本の自衛隊のいじめ体質は、軍隊のもつ本質でしょうね。かつてのアメリカ映画『フルメタル・ジャケット』を思い出しました。新兵訓練のしごきで、殺人マシーンに仕上げられる様子がまざまざと描かれていました。それに耐えられない、まともな神経の新兵は銃口を口にくわえて、ひっそりと自死してしまうのです。
 それにしても、日本の軍需産業の実態、とりわけ防衛省幹部の天下りがまったく知らされていないのは由々しき問題です。ぜひぜひ、誰かバクロして下さい。そこにこそ壮大なムダづかいが隠されているはずです。
(2009年9月刊。1600円+税)

今、ここに神はいない

カテゴリー:アメリカ

著者:リチャード・ユージン・オバートン、出版社:梧桐書院
 1945年2月19日、硫黄島。南海の孤島は地獄と化した。散乱する肉塊、死にゆく戦友、肌にしみこむ血の匂い。「地獄の橋頭堡」の生き残り兵が戦後40年を経て初めて明らかにした衝撃の記録。
 これはオビにある言葉です。戦後40年たって初めて書いたというには、あまりも生々しく迫真的で詳細です。本人はメモを書いていたようです。
 アメリカ軍は開戦前、数日で制圧できると楽観視していたが、予想に反して太平洋戦争での最激戦地となった。日本軍は2万人の守備兵がほぼ全滅(戦後、捕虜となった元日本兵は1000人あまり)。アメリカ軍は、それを上回る2万8000人もの戦死傷者を出した。アメリカ軍の損害が日本軍を上回った稀有な戦いだった。
 2月19日に始まった戦闘は、3月17日、日本軍の硫黄島守備は大本営に訣別を打電した。著者は海兵隊第2大隊に配属された海軍衛生兵、19歳であった。
 戦闘部隊員は、顔面に毛をはやすことは許されない。それは、顔面の傷治療の妨げになるからだ。毛が傷に入ってしまうと、感染症を引き起こす。
 上陸する前、隊員の態度に変化がおきた。隊員は静かで瞑想的になり、海を眺めたり、残してきた家族に手紙を書いたりして過ごした。会話もほとんどなく、めいめいが個人的な思いに沈んでいた。あるいは、これが最期の時かもしれないと・・・。
 上陸した直後の海岸はひどい混乱状態にあり、地獄のようだった。そうとしか言いようがなかった。浜辺全体が多数の火を吹くような爆発に見舞われ、地面が膨れて濃い灰色の砂山となり、それが散って灰色のすすけた煙の噴出となるのだった。
 人体、隊員が運んできたヘルメット、ライフル、その他の装備は、浜辺で吹き飛ばされていた。隊員たちは地面に倒れ、動いている者もいれば、じっとしている者、あるいは服から煙が上がっていたり、燃えたりしている者もいた。服に燃えている鉄片が刺さっていたのだ。第26連隊が上陸した区画は400メートルの幅があった。そこは隊員と装備でいっぱいだった。
 日本軍迫撃砲手は、見事な腕前だった。彼らは摺鉢山で、アメリカ兵より高いところで北の方角から撃ってきた。
 乱戦のなか、日本軍が海兵隊員の死体から制服と装備を奪い、制服を着て、海兵隊の防衛線の中に入り込んできた。そして、完璧な英語を話した。
 ええーっ、これって本当のことでしょうか・・・?でも、死んだ日本兵がテキサスの短大で発行された写真つきの学生証をもっていたとありますから、本当だったのでしょうね。
 海兵隊と日本兵は近接して入り乱れながらの接近戦を展開していたようです。著者も、そのなかで2時間半近くも気絶していたことがありました。九死に一生を得たのです。
 重傷を負った隊員が叫んだ。
 「神よ、なぜ、こんなことをお許しになるのですか?」
 著者は答えた。
 「神は今ここにいらっしゃらないんだ!」
 2月23日、上陸5日目にして摺鉢山に星条旗がはためいた。しかし、現実には戦いは始まったばかりだった。
 人により、自分の体の一番守りたいところは違ってくるのに気がついた。ある者は顔が大事、他の者は下肢、陰部、手だった。著者は手を胸の下に置いたり顔の下に置いたりして、手を大事にしたいと思った。死が一番恐ろしかったのではなかった。手足がバラバラになるのが怖かった。
 このような脅威に常にさらされていると、心は体とつながりがなくなっていくように感じた。まず最初にアドレナリンが血中に入り、興奮するが、次に恐怖が来る。このような刺激が続くと、感覚が鈍ってくる。心が次第に機能しなくなり、体が動かなくなる。
 自分の考えをコントロールすることができなくなり、まとめることもできなくなった。手で顔を触ることができるが、感じることができなかった。
 戦友のあごが緩み、口が開き、唾液が口角からあごに流れ落ちている。目に感情の色を失い、見ているものが脳に認知されていないことは明らかだった。
 砲撃を受けたあと、一度ならず泣いている兵隊、ヒステリックに泣きじゃくる隊員を見た。目の刺激に反応しない。命令や質問に応ずるのも、非常にゆっくりだ。
 上陸して3日間は、ほとんど眠れなかった。ベンゼドリンの錠剤をたくさん服用したが、目をつぶることさえできなかった。まぶたを閉じようとしたが、まぶたを閉じる筋肉が動かなかった。
 慣れることのできなかった恐ろしい光景の一つが、降伏を拒み掩蔽壕や洞窟から出てこない日本軍に対して火炎放射器が使われたこと。中にいた日本兵はゼリー状の火炎を浴びて、焼け焦げていく。外に走り出て、体を包んでいる炎から逃れようとする。生きながら燃えている人間の光景と音は、えもいわれぬ嫌なものである。
 硫黄島で死んでいった2万人もの日本兵を心より哀悼したいという気になりました。もちろん、海兵隊の死傷者と同じように、という意味です。残酷な戦場がまざまざと迫ってくる迫真の体験記です。クリント・イーストウッド監督の映画二部作もすごかったのですが、この本も期待以上の内容でした。当時、わずか19歳だった著者が40年後に書いたとはとても思えない内容です。
(2010年7月刊。2500円+税)

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