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倭王の軍団

カテゴリー:日本史(古代史)

 著者 西川 寿勝・田中 晋作 、 出版 新泉社
 
 巨大古墳時代の軍事と外交というサブタイトルのついた本です。古墳から出土した、たくさんの武器・武具の写真があります。なるほど、軍団がいて不思議ではないと思わせます。『古事記』『日本書紀』に登場する応神天皇と仁徳天皇については、実は同一人物の伝説とする見方があり、実は両人とも存在していないという有力学説もある。中国の史書に登場する倭の五王についても、讃と珍については、どの天皇とも決めがたいままだし、この五王の陵墓も定まっていない。
 うへーっ、日本の古代って、まだ分からないことだらけ、なのですね・・・・。
 古代日本の軍団については、史料がないため、その実態はほとんど判明していない。石母田正は、律令初期の軍政について、その大きな特徴は伴造軍(ばんぞうぐん)から脱却し、国造軍(こくぞうぐん)としたことにあると強調した。国造軍とは、国司を頂点とする国単位の行政組織に徴兵・編成・運用までの権限が与えられていたこと。伴造軍とは、有力な豪族の私軍のこと。
 遣隋返使は、日本に軍団なしと報告した。
壬申の乱(672年)は、皇族や畿内の有力豪族を二分する政争であったが、その勝敗は国造軍の動向によって決まった。
律令期の軍団の特質は、兵員の入れ替えや補填のシステムを完成させたところにある。国造が戸籍を管理し、平時に役務と訓練をおこない、有事になると必要数に応じた兵士を送り出す組織をつくっていた。
軍団の主力武器は打刀(うちがたな)だったと復元されている。打刀とは、刀を下にして腰に佩帯(はいたい)する大刀(だいとう)で、古墳時代は直刀(ちょくとう)、中世以降は刃反(はぞ)りがつく湾刀(わんとう)だった。反(そ)りのない直刀や剣は衝撃を吸収できない。手をしびれさせず、そぐように斬るには高い習練が必要だった。
しかし、著者は打刀は主力兵器にならないという考えです。
鉄砲の普及以来の主力兵器は、古代にさかのぼっても刀剣ではなく弓矢であり、矢合戦が戦闘の普遍的な姿だった。
疾走する騎馬による投射戦が発達しなかったのは、馬の頭が邪魔になって、正面を狙えないから。下を短く、上を長く傾けずに持つ日本の長弓を馬上で構えたとき、馬の頭をはさんで反対側は常に死角となる。そこで、馬を静止させた騎射では、馬を横向きにして敵と対峙する。
 巨大古墳時代においても、戦争は弓矢による戦いが主流だったと考えるべきである。
 日本列島には、当時の朝鮮半島と違って、堅牢な防禦施設をもった城塞がみられないという特徴がある。
巨大古墳の発掘を宮内庁が許さないというのは本当におかしなことです。一般人の立入はともかくとして学術調査は認めるべきです。古代日本に騎馬民族が中国そして朝鮮半島から渡ってきたのではないかという指摘がかつてありました。それを知って、私など、胸がワクワクしたものです。ロマンを感じました。
もっともっと古代日本のことを知りたくなる本です。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

キャンバスに蘇るシベリアの命

カテゴリー:日本史(戦後)

 著者 勇崎 作衛、 集英社 出版 
 
 終戦後、多くの日本軍将兵がソ連軍によって中国からシベリアに強制連行され、抑留されて働かされました。
 著者は、中国で病院の衛生兵として働いていて、22歳でシベリアに送られました。幸い3年後に無事に日本へ帰国できたのですが、その3年間の苛酷な生活を、なんと65歳になってから油絵を始めて絵描きだしたのです。87枚の絵は酷寒のシベリアでの労働の苛酷さ、非人間的状況を如実にうつしとっています。
 寒冷期になると、収容所の周囲は雪だけで食べるものがなくなる。監視のソ連兵の残飯捨て場に出かけてガラの骨、キャベツの芯、芋の皮などを一所懸命に探してスープにして食べた。支給される食事で足りない分のカロリーをこうやって補った。
 日本兵は、ひどい消化不良と衰弱に加え、寒さのため身体は冷えきって全員が下痢を患っていた。ところが我慢できずに排便しようとして隊列を乱すと、ソ連兵がムチを鳴らして追い立てるのだ。
 冬のシベリアは零下40度。冷蔵庫の製氷室よりも寒い。外での作業で本気を出したら、生きて日本に還ることは出来なかった。
 日本兵の体力検査は、ソ連の女軍医が尻の皮をつまんで引っぱることで決まった。皮下脂肪の厚さで、重労働、軽作業の等級が決まった。シベリア抑留生活のむごさを描いた絵画集は前にも紹介しましたが、こうやってビジュアルになると、その苦労が視覚的にもよく伝わってきます。
 『夢顔さん、よろしく』という本に出てきた近衛首相の息子がシベリアで死んでいったことも改めて実感できました。後世に語り伝えられるべき悲惨な歴史的な事実です。
 
(2010年8月刊。2400円+税)

平安朝の父と子

カテゴリー:日本史(平安)

 著者 服藤 早苗、 中公新書 出版 
 
 まず第一番に驚いたのは、平安朝の貴族の男性は料理が出来たということです。とりわけ、魚や鳥などの動物性食料は、男性が料理するのが古来からの日本の伝統であった。
そして、蔵人の頭(くろうどのとう)は妻が出産するについて、産休をしっかりとっていた。
 うひゃあ、本当でしょうか・・・・。驚きです。
 平安時代には、妹のことを「弟」と書くのは少なくなかった。「オト」と読み、本来なら男女関係なく年下のキョウダイのこと。なんだか間違いますね。
平安初期、9世紀のころには、天皇のキサキは、摂関期に比べて、はるかに多かった。嵯峨天皇のキサキ数は20数人、子どもは50人もいた。
父親が幼児期のときから子育てに参加すると、子どもの知能指数は5以上あがるという研究成果がある。
 10世紀中ごろ、女御や更衣の生んだ子どもたちは7歳まで父の天皇に会うころはなかった。
平安中期、貴族の子息は12~16歳で元服という成人式を迎える。平安前期の9世紀は、上層貴族から庶民層まで16歳が元服年齢だった。その後、天皇から次第に元服年齢が若くなり、上層貴族にも浸透していく。
 男子は、大人になれない下人的隷属者をのぞいて、どんな庶民でも一般的に大人名を付けてもらえるのに対し、女子は朝廷と正式に関係を持つ者しか大人名前は付けられなかった。そして、父の存在が大変に重要だった。
 菅原道真は、突如として大宰府に左遷された(901年)。大宰府の配所に同行したのは男女児二人。成人していた長男は土佐に、次男は駿河に、三男は飛騨に、四男は播磨に流された。妻と成人女子は都に残され、幼少二人の同行が許された。そして、男児は配所で亡くなったが、栄養失調ではないかとされている。道真本人も配流後2年で亡くなる。これも、やはり栄養失調だったのであろうか・・・・。
一夫多妻妾を認める平安中期の貴族層にあっては、妾や数度の関係しかもたなかった女性が出産したとき、女性が強い意志表示をしないかぎり、男性は父としての自覚をもたず、認知さえしなかった。
父の認知がない子どもは、「落胤」(らくいん)と呼ばれた。身分秩序の固定化と、いまだ母の出自・血統を重視する双系的意識のもと、父は子を認知することさえ不可能の場合があった。
父に認知されない「落胤」者は、貴族層にとってさげすみの対象だった。天皇の孫でも、母の出自・血統が低いと、貴族の正式の妻になることさえ難しかった。父の認知によって子は父の血統や身分的特権を継承できるが、母の出自・身分の格差が大きいと、認知さえもらえなかった。
しかし、院政期になると、父系制が定着し、母の出自はあまり問題にならなくなる。
『今昔物語集』では、親が子を「不孝」するとあり、父母が子を義絶することを「不孝」といった。現在の勘当と相違し、さらに「ふきょう」という語は現代では使用されていないようである。貴族の日記類では、「不孝」は、文字どおり親に子が孝養を尽くさない意である。
平安時代の父と子の関係については、知らないことも多く、大変勉強になりました。
 
(2010年2月刊。760円+税)

豊かさの向こうに

カテゴリー:アメリカ

 著者 V.A.ギャラガー、 出版、連合出版  
 
 著者は、アメリカ人はマフィアの妻のようなものだと言います。
アメリカ人の多くは、極貧にあえぐ人々がいる一方で、自分たちがたくさんの物を持っていることがどんなことかを本当は知りたくない。そしてメディアが偏っていて、簡単な真実すら伝えていないことも信じたくない。
 ハイチで人々に正当に選ばれた大統領のアリスティド政権を崩壊させるため、アメリカとカナダとフランスは巧妙に工作した。アメリカに誘拐され、フランスに連れて来られたアリスティドは、マスコミからなぜかと問われたとき、三つの理由があると答えた。
民営化、民営化、そして民営化。民営化とは、政府が所有する企業を資本家に売ることである。
郵政民営化の嵐を経験した私たち日本人にとって、この指摘はとても重要だと思います。アメリカの言いなりになって、なんでも民営化していったら、権力を持たない貧しい人々は大変な痛い目にあうということです。
 ユニセフは、今こそ深刻な貧困に終止符をうつための絶好の機会だとする。なぜなら、世界の繁栄は、史上かつてないレベルにまで達している。ところが、今日、全世界で5億人もの子どもが、これは発展途上国の子どもの実に40%に相当する、毎日1ドル以下で生き延びようとしている。貧困のせいで、助かるはずの子どもが毎年、何百万人も亡くなっている。そして、何千万人もの子どもが飢えに苦しみ、学校に行くことも出来ず、危険な児童労働の搾取を受けている。すべての子どもが最低生活水準を達成するために必要な金額は年800億ドル。これは全世界の収入の0.3%にも満たない。
 IMF(国際通貨基金)の構造調整政策は、国際的な危機や根強い不均衡に各国が対応するために作られた政策である。だが、この政策は、多くの国々での飢餓や暴動を引き起こすきっかけとなった。その恩恵は富裕層に偏り、底辺の人々はかえって貧しくなった。
 ウォルマートなどの大規模小売業者の自由な出店を認めるNAFTAの条項により、メキシコの2万8千もの中小企業が倒産した。NAFTA以降、アメリカでは3万8千人以上の小規模農業経営者が破産ないし廃業した。また、アメリカ国内の繊維アパレル産業において78万人分の雇用が失われた。
 アメリカは、1946年に陸軍米州学校(SOA)を設立した。今、フォート・ベニングにある米州学校は、ラテンアメリカ22ヶ国の5万5千人以上の士官、士官候補生、下士官、政府職員を訓練してきた。その卒業生は、暗殺、拷問、虐殺を指示したり、関与してきた。
 ラテンアメリカでの主要な残虐行為にかかわった66人の将校のうち46人が米州学校で訓練をうけていたことが判明している。
 囚人の恐怖や弱みを観察しろ。囚人をたたせ、眠らせず、孤独にして、裸のままにし、ネズミやゴキブリを独房に入れ、粗末な食べ物を与え、死んだ動物を食べさせ、水をかけ、温度を変えろ。
 これが拷問マニュアルの一端です。いやはや、アメリカって、とんだ文明国ですね。
 この本は、訳者の一人である川人博弁護士から贈呈を受けました。世界の現実、そのなかで果たしているアメリカの負の役割が如実に描かれています。あまり知りたくはないけれど、知らなければいけない現実です。
 
(2010年9月刊。2200円+税)

中国河北省における三光作戦

カテゴリー:中国

 著者 松井 繁明・田中 隆 ほか、 大月書店 出版 
 
 日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動の一つを現代日本の弁護士たちが現地調査をして解明した労作です。
 1942年5月、日本軍の北支那方面軍の第110師団163歩兵連隊第一大隊が一つの村を包囲して奇襲攻撃し、民兵や村人が逃げ込んだ地下の坑道に毒ガスを投入して
1000人を殺戮した。これは日本軍による三光作戦、粛正掃蕩作戦の典型的な事例である。
 1942年5月1日から6月20日までの日本軍の「掃蕩」作戦によって、冀中区全体で八路軍1万6000人が犠牲になった。主力部隊は35%減少(3分の2になった)、兵員は半数近くに減少した。区以上の幹部の3分の1が犠牲となり、死傷した人民は5万人に達した。このように中国側の被害が大きかったのは、日本軍の作戦規模が大きかったというだけでなく、中国側が「掃蕩」を事前に十分予期していなかったからでもある。
 1941年12月に太平洋戦争が始まり、日本軍の抗日根拠地に対する大規模な「掃蕩」の可能性は減ったという判断が中国側に生まれていた。
日本軍の「掃蕩」作戦は、それまで八路軍に協力的でなかった地主層の態度さえ変化させた。日本の掠奪・暴行は地主に対しても例外ではなかったので、その差益は大いに損なわれた。そして、その後には、日本軍による重い税負担が待っていた。
人々は、八路がいれば八路を恨み、八路がいなければ八路を想う」と皮肉をこめて言っていた。
結局、日本軍の「掃蕩」は表面的には抗日根拠地に打撃を与えることは出来たが、中国民衆の心をとらえることは決して出来ず、むしろ反対の効果をもたらした。
 1940年8月、八路軍は華北一帯で日本軍の根拠地や鉄道線などを攻撃する大規模な攻勢を展開した(百団大戦)。朱徳の総指揮のもとで40万人を動員したこの攻勢によって、日本軍は多大の損害を蒙った。この百団大戦によって、北支那方面軍の八路軍認識は一変した。それまでの八路軍軽視から、八路軍を主敵とする抗日根拠地への粛正掃蕩作戦を前面化するに至った。村民を無理やり従わせている軍隊なら、追い払えばことがすむが、村民と深く結びついている軍隊となると、村そのものを掃蕩の対象とするしかない。北支那方面軍の思考はこのように転換した。なるほどそうだったんですか。偶発的な虐殺ではなく、意図的だったのですね。
2001年9月末、小野寺利孝・松井繁明・田中隆など弁護士6人のほか日本人研究者たちが三光作戦の現地に出向き、被害者らから聞き取り調査を行いました。被害にあった村には、地下道がはりめぐらされていたのです。幅1メートル、高さは人の背丈ほど。地下道は、それぞれの民家とつながっていたし、隣村の地下道ともつながっていました。
 八路軍は、この地下道による戦い、地道戦というそうです、初めは否定的にみていたようですが、あとで有効なものと認めて戦略的な地位を与えています。その地下道の構造が図解されています。ベトナムのクチにある地下道に潜ったことがありますが、それと同じようなものです。
 三光作戦とは、日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動をいいます。やきつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(搶光)という言葉によります。これは、北支那方面軍の司令官であった岡村大将が、焼くな、犯すな、殺すなという「三戒」を非難をこめてもじってつくった言葉だといいます。そして、この日本軍による三光作戦は、中国の民衆に莫大な被害をもたらしました。にもかかわらず、その実態を多くの日本国民は知りません。知らされていないのです。そんな状況で、日本の弁護士たちが減知に出かけて日本軍の残虐な行為による被害にあった人々から聞き取り調査をしたというのは、大変意義深いものがあります。少し古い本ではありますが、百団大戦などに関心をもっていたので、積ん読になっていて、未読だった本書を引っぱり出して読んだのでした。現地にまで出かけた日本の弁護士と学者の労苦に少しはこたえたいと思いました。 
(2003年7月刊。3400円+税)

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