法律相談センター検索 弁護士検索

鯨人

カテゴリー:生物

著者   石川 梵、 出版   集英社新書
 
 銛(もり)一本で、鯨(くじら)に挑むインドネシアの島民を現地に溶け込んで取材した日々を生き生きと再現した衝撃的な本です。その漁のすさまじさは手に汗を握ります。が、それに至るまでのなんと気の長い日々でしょう・・・。ひたすら鯨の来るのを待つのです。じっとじっと海の上でそして地上で見張るのです。その悠長さには、とてもつきあってはおれません。
 インドネシアは赤道をまたぎ、1万7500ほどの大小さまざまな島からなる人口2億人をこえる海の大国である。沖縄本島ほどの大きさのレンバタ島の南端にラマレラ村がある。ラマは土地、レラは太陽という意味。つまり、太陽の土地だ。ラマレラは人口2000人足らずの小さな鯨漁の村。水道もなければガスもない。調理には山で集めた薪の火を使い、夜になると、村は鯨の脂でランプを灯す。といっても、これは現在のことではありません。著者が泊まり込んでいた1997年当時の話です。
 ジンベイザメを仕留める。ジンベイザメは、プランクを食すおとなしいサメ。天敵もいないので、水面でいつものんびり泳いでいる。全長10メートルをこえるジンベイザメは、船体を水中に引き込む力がある。鯨とちがって水上で呼吸する必要のないサメは、銛を打ち込まれると、どこまでも深く船を海中に引き込む。うへーっ、怖いですね。
 マンタ漁には、鯨漁に匹敵するほどの危険がともなう。マンタの振り回す巨大な翼は危険で、直撃すると人を即死させる破壊力がある。うひゃうひゃ、これまた怖い話です。
 鯨の漁期は、毎年5月から8月。捕れて年に10頭。捕れるときは3、4頭まとめてということもあるので、チャンスは少ない。
長く海を眺めていると、時間の感覚が麻痺していく。鯨人にとっては、それが一生続く。
ラマレラの人々は、海の上で1キロ先のマンタの飛翔も見逃さない。目は、鯨漁に従事するラマファの命だ。鯨の急所は尾ビレの付け根の30センチほどの狭い範囲で、そこに動脈がある。揺れる船の上から最高のタイミングで狭い急所に銛を打ち込まなければいけない。
大型のマッコウクジラの巨大な頭には、2000リットルもの脳油が詰まっている。脳油の融点は29度と低い。この脳油を冷やしたり温めたりして身体の比重を変え、浮上や潜水をする。浮かぶときは、深海の水で冷やされ、固く、高密度になっている脳油を温めるため、脳油器官をめぐる毛細血管に大量の血液を流し込む。鯨の体温は33度なので、脳油は溶け、密度が薄くなる。頭の比重が軽くなったマッコウクジラは、頭を上にするだけで浮上する。海面に出たマッコウクジラは、そこで30分ほど呼吸する。血液により温められた脳油は、このとき液体状だ。潜るときには海水を鼻孔から脳油器官に導く鼻道へ吸い込み、脳油を急速に冷やす。冷たい海水により脳油は固形状になり、密度が上昇する。今度は比重が重くなった頭を下げれば自然に潜水していくという仕組みだ。うむむ、なるほど、うまい仕組みです。
マッコウクジラは、肺や血液だけでなく、筋肉のなかに多量の酸素を貯えられる。だから潜水中でも筋肉に貯えた酸素を体内に供給できるわけだ。しかし、どうして深海3000メートルの水深に鯨の体が耐えられるのか、実はまだ謎だ。
銛を打ち込まれたマッコウクジラは、SOSを発し、必死に仲間を呼んで助けを求める。
鯨一頭捕れたら、村民が2ヶ月しのいでいける。手に入れた肉は、干し肉にして、女たちが市に持っていき、野菜や生活必需品と交換する。残りの肉も乾燥させて保存し、交換する。鯨の解体は時間がかかる。血の一滴、脊髄や歯に至るまで村民に分配される。血は鯨を煮込むときのソースとして、歯は指輪などの装飾品に用いられ、脂身を干したときに出る油は家庭の灯火として利用される。鯨の油はマイナス40度になっても凍らないので、ロケットの潤滑油として今も利用されている。骨を除く鯨のすべてが、くまなく利用される。ところが、ラマレラの民の胃袋に鯨肉はほとんど入らない。たんぱく源というより通貨のようにラマレラの民の生活を支える。
圧巻は、鯨を打ち込まれた鯨の目を写真に撮ろうというシーンです。
鯨の目は赤く血走り、食われてたまるかというように、いきり立っている。鯨の眼から発する炎のような怒りが全身に伝わってきた。すごいですね。同じ哺乳類ですからね・・・。
鯨は本来やさしい動物で、遊泳中にダイバーが視界に入ると、尾ビレがぶつからないように避けてくれる。それなのに、なぜ非情にも殺すのだと怒っているのです。
自分たちは、食うために必死に鯨と戦う。鯨も生きるために必死に抵抗する。どちらが勝つか、それは神様の決めること。鯨は友人なのだ。
今では、このラマレラもかなり変貌したことが「あとがき」で紹介されています。そうなんでしょうね・・・。
(2011年2月刊。780円+税)

胃の病気とピロリ菌

カテゴリー:人間

著者  浅香 正博 、  出版  中公新書 
 
 日本は、先進国のなかでは異例に胃がん発生の多い国である。日本における胃がんの発生件数は男女とも、今も増え続けている。そのなかで、胃がんの発生件数は男性が5万人から7万人へと急激に増えている。2020年ころには、男性の胃がん患者は10万人に達するだろう。日本における胃がんの生存率は著しく改善したが、発生件数は以前とあまり変わっていない。ピロリ菌陰性の人は、ほとんど胃がんを発生しない。
胃における消化作用の主役は、塩酸ではなく、プペシンと呼ばれる消化酵素だ。胃を摘出して自分の胃液に漬けると、他の食物と同じように、見事に消化される。
もはや、胃の病気のほとんどは、ピロリ菌なしには記載できない。ピロリ菌は新しい細菌ではなく、何十万年も前からヒトの胃に住み着き、病気を起こしてきた。ところが、胃の中は塩酸が充満し、細菌が住み着けないという「常識」に支配されてきた。
ピロリ菌は、極端に酸素の少ない環境を好むので、普通の食べ物から感染することは、まずありえない。ピロリ菌がヒトにもっとも感染しやすい時期は、乳幼児期と言われている。そして、ピロリ菌は、いったん感染すると、通常一生の間、ヒトの胃の中に留まっている。
ピロリ菌に感染すると、白血球やリンパ球などが胃粘膜に誘導され、その細胞から活性酸素やサイトカインなど種々の細胞障害物質が放出されて、細胞障害を引き起こす。現在、一種類のみでピロリ菌を完全に除箇できる薬剤は存在しない。中途半端な服薬は除菌を失敗に導くのみでなく、耐性菌の出現頻症を上昇させる。
ピロリ菌は、東アジアのものがもっとも毒性が多い。
 日本では、団塊の世代やそれ以前の世代のピロリ菌の感染率は80%を超えている。そのため、食塩のとりすぎが胃がんの発生を促進する可能性がもっとも大きい。
 胃のなかに胃を入れると溶けてしまう。それほど強力な塩酸を放出しているのに、胃は健全である。その秘密は胃内部の表面粘膜にある。そんな胃のなかに細菌(ピロリ菌)が棲みついて、人間に悪さをしているのです・・・・。
(2010年10月刊。740円+税)

うなドン

カテゴリー:生物

著者  青山 潤、    出版  講談社
 
 『アフリカにょろり旅』の著者がウナギを求めて歩いた苦難の旅を面白おかしく書きつづっていて、とても読ませます。これでも学者なのか、それともルポライター(旅行作家)なのかと疑ってしまうほど抱腹絶倒のウナギ探訪体験記です。すごいものです。若さでしょうね。タヒチ島のジャングルの中まで踏み分け、イタリアのマフィアの別宅に侵入してしまうのですから・・・。苦労、苦難、苦闘の連続の日々なのです。
 ウナギは全世界に18種類しかいない。それを全部集めることが出来たら、それだけで博士号がとれる。そんな話で勇躍、まずはインドネシアに乗り込みます。しかし英語もまともに話せず、ましてやインドネシアの言葉なんかもちろんダメ。そんな日本人青年が、よくぞインドネシアでウナギを探そうと思ったものです。
 現地の若者たちに取り囲まれて絶体絶命の大ピンチになります。そんなときは、カタコト英語ではダメ。威勢よく日本語でタンカを切るのです。
必死の思いで確保した貴重なウナギをどうするか。生のままでは税関ではねられる。やがて思いついたのは塩漬け。5キロの塩を買い込んで塩の中に放り込んだ。なーるほど、ですね。
イスラム教徒のなかで生活しているうちにラマダン期に突入。昼間は水も食料もダメ。著者は夜までダメだと思いこんでついに栄養失調で倒れる寸前となって、その家を脱走。そして、あとになって人々は夜にちゃんと食べているのを知ったのでした。
世界のウナギ18種類のうち、ほとんどは赤道熱帯域に生息し、日本やヨーロッパのような温帯域に棲むのは5種類のみ。熱帯のウナギについては、ほとんど何も分かっていない実情である。
インド洋のウナギを探し出かけるときには海賊に襲われる心配もあったのでした。
いやはや、熱帯のウナギの生まれる場所を突きとめた学者グループの苦労を平和な日本にいながら偲ぶことができる興味深い本です。
(2011年2月刊。1600円+税)

労役でムショに行ってきた

カテゴリー:司法

著者  森  史之助     、 出版  彩図社   
 
 罰金を支払えないときには労役場で働かされます。その状況をレポートしてくれる本です。著者は酒気帯びでつかまり、罰金25万円を命じられます。1日5000円として50日間の労役場留置です。著者は、川越少年刑務所に収容されました。収容されるとき、タバコや危険物を持ち込もうとしていないか調べるため、お尻の穴を両手で広げて見せなくてはいけません。
ペニスは異物を埋め込んでいないか、埋め込んでいるとしたら何個かを調べる。
刑務官は、労役場留置の人間に対しては、何かと「独房行きだぞ。一人は寂しいぞ」と脅す。それしかない。労役には、そもそも仮釈放という制度がない。相当な規則違反をしても、懲罰を受けたものはいない。
 労役場留置の多数派は、飲酒がらみの道交法違反である。労役受刑者は、寝るのも作業するのも、朝から晩まで24時間を雑居房の中で過ごす。くさいメシといっても、メシ自体は臭くない。そうではなく、臭い場所でメシを食わなければいけないのである。
著者に充てがわれた作業は、紙袋にヒモを通すこと。ショッピングバックの製造の一過程である。ノルマはなく、何かやっていないと6時間がたたないので、ひたすら手を動かす。完全週休2日制。しかし、土日も働いている計算としてカウントされる。これだけでも労役は、軽作業をさせることより留置することに重きを置いていることが分かる。
 
 1日5000円換算の仕事をしているから、何ももらえないかと思うと、1日40円の「給料」をもらえる。1日8時間、ショッピングバック800個にひもを通して40円がもらえる。
 1日5000円の罰金を免除してもらって、3食付で、40円がもらえる。では、ここにまた入りたいと思うかというと、みんなNOという。そりゃあ、そうですね。自由がありませんからね。
 土日の休みの日(免業日)は、昼食を終えると(午睡)の時間がある。夕食まで横になっていい。著者は免業日には、合わせて16時間も布団に入って、なかで過ごしたといいます。
雑居房には時計がない。労役受刑者は、一日の行程のすべてが時間によって管理されているのに、時計を見ることができない。その必要もないからだ。
労役場留置の貴重な体験記として一読をおすすめします。
 
(2011年1月刊。619円+税)

毛沢東、最後の革命(上)

カテゴリー:中国

著者  ロデリック・マクファーカー   、 出版   青灯社   
 
 毛沢東が文化大革命を始めたのは1965年2月のこと。そのころ私は高校生でした。
妻の江青(こうせい)に秘密任務を託し、上海に派遣した。毛が、自分の途方もない計画を全面的に支えてくれる人物として頼りにしたのは、上海市党委の左派リーダーの柯慶施(かけいし)だった。柯慶施は、江青が毛沢東の意を受けて動いていることを知っていたので、なんのためらいもなく江青の助手として二人の宣伝マン、張春橋と姚文元をつけてやった。しかし、柯慶施自身は肺癌のため同年4月に急死した。張春橋より年下の姚文元は、当時まだ33歳で、鋭い舌鋒で毛沢東の信頼を勝ちえていた。
 姚文元の書いた論文は、極秘扱いのまま、毛沢東との間を往復した。上海市党委の上層部は不意をつかれた。そして、北京市党委の彭真をだました。
 1966年3月、毛沢東は北京の党組織への最終攻撃を開始した。5月、彭真は粛清された。それに連座して解任された人々は多かった。そのような運命を受けいれるのを拒否して自殺を選ぶ人々が日ごとに増えていった。
 党幹部が疑いを口にする一方で、知識人や党外の名士はパニックを起こしていた。そのとき、毛沢東は軍事クーデターを心配していた。パラノイア(妄想症)とすら言える毛沢東は用心深く、首都工作組と呼ばれる特別タスクフォースを発足させた。北京衛戌区には新たに10人をこす将軍と家族から成る優秀な増強部隊が投入された。そして、中南海に棲んでいた幹部の多くが別の地区へ転出させられた。
1966年6月、全国の大学と学校の授業が停止させられた。学生たちは突然、「自由」になり、教室を離れて文革と「階級闘争」に投入していった。この事態に劉少奇は、苛立つ以上に、平然としていた。
 1966年夏に起きた混乱について毛沢東はすべてを熟知していた。毛沢東が北京にいないときにも、中央弁公庁は毎日、専用機を飛ばして、情報を届けていた。
 毛沢東は7月、「いっさいの束縛を粉砕しなければならない。大衆を束縛してはならない」と持ち上げた。また、反動派に対して「造反することには理がある」とぶち上げた。これが有名な「造反有理」の始まりでした。このころは、まだ劉少奇も乗り遅れまいと懸命の努力を続けていた。「四旧打破」運動として、紅衛兵は、「悪い」階級出身の家庭への家捜し、家財の押収・破壊を始めていた。北京での差し押さえ資産は、1ヶ月で5.7トンの金など莫大な収穫をあげた。
文革のあと、全国85校のエリート大学・中学・小学校を調査したところ、すべての学校で教師が生徒に拷問され、多くの学校で教師が殴り殺された。「幸運」な教師は便所掃除などの屈辱的任務を課された。
1980年代の公式マニュアルによると、文化大革命のとき18歳以下であれば、集団殴打に加わって人を死に至らしめても、のちに自分の誤りに気づいてそれを認め、現在も素行の良い者は、責任を問わないとした。毛沢東にとって恐怖支配は納得づくだった。中国の若者は、暴力の文化の中で育った。それまで党の暴力は慎重に制御され、調整されてきたが、そのタガが外された。大学生たちは、自分たちの革命的貢献を証明したくてうずうずしているから、騙されやすく、喜んで党中央の使い走りをした。
劉少奇が辞任して田舎にこもり、畑でも耕して暮らしたいと許可を求めても、毛沢東は許さなかった。
 中国を動乱から救うのは、もとより毛沢東の望むところではなかった。1966年12月、毛沢東は自分の73歳の誕生日のとき、全国的、全面的な内戦の展開のためにと乾杯の音頭をとった。
 毛沢東は、解放軍の制度については無傷のまま保つことに留意したが、党機構については、そのような配慮をしなかった。1968年から、大半の部局で職員の7~9割が「五七幹校」へ「下放」された。政府が崩壊すると、各部を動かしていた党組織に代わって解放軍が権力を握った。このせいで軍が腐敗した。たくさんの軍関係者が昇進して、大もうけした。
 それまでの指導部で大きな恩恵を受けている正規労働者は、政治の現状維持に与した。毛沢東は、民間の混乱状態から解放軍が部分的に隔離されるのに反対ではなかった。解放軍は、毛沢東の依って立つ制度的な基盤でもあった。
 文革中に、毛沢東が高級幹部の殺害を命じた形跡はない。スターリンと違って、毛沢東は、そんな最終的解決で自身を守る必要を感じなかった。その代わり、かつての戦友たちの運命は、中央文革小組や紅衛兵の手にゆだねられ、なすがままに放置された。
 毛沢東は、かつての盟友が辱められようが、拷問されようが、傷つこうが、ついには死に至らしめられようが意に介さなかった。スターリンほどではありませんが、毛沢東も冷徹一本槍ではなかったようです。
 周恩来は、国務院と解放軍の戦友を支持しなかった。これは間違いだった。もし、周恩来が、老幹部の団結という希有の機会をとらえて元帥や副総理たちに味方し、文革の恐怖と混乱を取り去るべく、いろんな提案をして毛沢東に圧力をかければ、大きな影響を発揮できた。しかし、周恩来は、その労をとるリスクを避けた。
1967年夏、中国は毛沢東のいう「全面内戦」状態に陥った。文化大革命は武化大革命になった。
 7月の武漢事件において、毛沢東は兵士暴徒や党幹部から安全を脅かされた。1967年夏に労働者のあいだで暴力事件が増加したのは、江青の挑発的発言に原因がある。
「武で防衛せよと江青同志が言った」というもの。重慶地区には、兵器工場が集中していて、武闘派に対するほぼ無制限といえる武器の供給源となっていた。
 以上が上巻です。とても読みごたえのある本でした。
(2010年11月刊。3800円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.