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大切な人のためにできること

カテゴリー:人間

著者    清宮 礼子  、 出版   文芸社
 父親が突然、末期の肺がんと宣告されたとき、本人とそして家族がどう対応したのか、娘による心打つ記録集になっています。
 父親は、私とほとんど同じ世代です。大病したこともないし、なんだか調子が悪いと思いながら放っておいて、あるとき思い切って病院に行ったら、医師から即入院を命じられたのでした。どんなにかショックだったことでしょう・・・。
コホンコホンと変な咳をして、最近ひどく疲れるんだよなー、若いころに空気で鍛えたことで気力と体力には自信を持っていた・・・。
 がんは、早期発見したら打つ手はあるし、10年も20年も立派に生存できるが、末期のがんだと診断されたときの治療法は何にもない。
抗がん剤による治療の大変さも描かれています。
 61歳の若さで、まだまだこれからというとき、もしがんが告知されたら、無念さのなかで想像もでないほどとてつもなく酷なたたかいを強いられる。自分のために、家族のために、残された期のなかで、すべきことに命をかけて勇敢に立ち向かってくれる覚悟と精神力のある人だった。
 がん治療の選択は情報が命である。もっとも重要なのは、信頼できる主治医に担当になってもらえるかどうかである。ただし、これは、めぐりあわせが大きい。
 現在のがん治療は早期発見だと比較的完治しやすい。ステージが上がるにつれ、治療による奏効率は低くなり、これをすれば治るという正解がない。がんと共存しながら、少しでも長く、少しでも豊かに生きていく、という目的に向かった選択肢しか現実には残されない場合も多い。
 がん治療の選択は、患者と家族の生き方の選択である。がん患者のとって一番の大敵は、悲しい気持ち、不安な気持ちなど、マイナスの気持ちから発生する精神的ストレスである。だから、娘である著者は太陽のような笑顔で父親に接していた。
 なかなか出来ることではありませんね・・・。映画『おくりびと』のプロモーター(宣伝担当者)である著者による痛ましいけれど、心あたたまる本です。がんになったときの予習と思って読みました。
(2011年6月刊。1200円+税)

チルドレン・オブ・ザ・レインボー

カテゴリー:アメリカ

著者  高砂 淳二    、 出版  小学館 
 ハワイをめぐる素敵な写真集です。ともかく色がいいのです。みるみる眼と心が惹きつけられます。豊かな色彩のなか、動物も植物も、そして空と海までが生き生きと表現されています。
 残念ながらハワイ島には行ったことがありません。でもこんな豊かな大自然の真っ只中に自らの身を置いてみたいと思わせる躍動感あふれる写真集なのです。
 カラフルなヤモリの写真があります。ヤモリなら、我が家にも夜になると、台所の窓にいつもへばりついています。ハワイのヤモリは舌を出して、おどけてみせています。その愛らしさはたとえようもありません。
 小鳥たちもいます。ペットの小鳥たちが野生化したようです。仲むつまじいブンチョウのカップルは枝で身を寄せあっています。ほのぼのと心温まる情景です。
 海に行くと、巨大なマンタが悠然と海中を泳いで通り過ぎていきます。大きなクジラが海面に頭を出して、思い切り息を吐き出します。遊び好きのイルカは、ヤシの実をつかまえてキャッチボールをします。若いザトウクジラが寄ってきて、あんた、だーれと問いかけます。
日頃つい忘れかけていますが、私たちだって大自然の中にいきていることを実感させられる写真集です。
(2011年5月刊。2500円+税)

までいの力

カテゴリー:社会

著者  までい・特別編成チーム    、 出版  シーズ出版 
 福島県飯舘村の豊かな日常生活が紹介されている写真集です。あの3.11東日本大震災がなければ私などが目にすることもなかったでしょう。
 3.11のあと、この飯舘村は福島第一原発事故の放射能によって全村退避となっています。そのため、この写真にある村民の日常生活はあくまでも過去のものでしかありません。将来、再開できるのか、それはいつなのか、何年後か、いや何十年後なのか、まったくありえないのか・・・・、放射能被害とは、かくも恐ろしいものだと改めて実感させられます。そんな事態をまったく予測させない、平和で、のどかな、どこにでもあるような日本の農村風景が写真とともに紹介されています。
 私は飯舘村に行ったことはありませんが、福島の山のなかには弁護士になりたてのころに行ったことがあります。東京に出稼ぎに行った人が労災事故にあって、その企業の責任を追及する裁判を担当した縁でした。
 飯舘村に行くには、新幹線で福島駅に降りて、そこから車で1時間。ひと山、ふた山・・・いくつか越えて、激しいワインディングロードを上がりきると、高原にたどり着く。そこが高言の美しい村、飯舘村だ!
 飯舘村には、忘れられた日本の美しい風景が村のそこここに残っている。しかし、何よりの美しさは風景そのものではなく、そこに住む一人ひとりの村人の心の中にある。
 飯舘村の人口6000人。そのうち3人に1人はお年寄り。飯舘村は周辺の町村と合併しないで、「自主自立のむらづくり」を選択した。
「までい」とは、真手(まて)という古語が語源で、左右そろった手、両手の意味。それが転じて、手間ひま惜しまず、丁寧に心をこめてつつましくという方言になった。今風にいうと、エコ、もったいない、節約、思いやりの心、人へのやさしさである。そんな飯舘流スローライフを、までいライフとよんでいる。なーるほど、ですね。
 村には、1軒も書店がなく、図書館もなかった。そこで、全国的にも珍しい、村営の村屋が誕生。店のレジカウンターには、ご自由にと、いろんなアメ玉が置いてある。店内は立ち読みならぬ座り読みも大歓迎ということで、テーブルとイスが置かれている。読まなくなった絵本を飯舘村の子どもたちへ寄贈してくださいと呼びかけたら、なんと、10日間で1万冊の絵本が村に届いた。これって、すごいですよね。
 2010年夏、村では初めて村内産食材100%給食にチャレンジした。牛乳からみそ汁の味噌に至るまでのすべてを村内で生産されたものでまかなった。村産物の直送所は、村内に7ヶ所ある。
 こんなに工夫と苦労していた村が一瞬のうちに無住村になり、いつ戻れるかわからないという状況です。原発の恐ろしさを違った角度から、写真を眺めつつひしひしと実感させられました。飯舘村の皆さん、それにしてもお元気にお過ごしくださいね。
(2011年6月刊。2381円+税)

フィデル・カストロ(下)

カテゴリー:アメリカ

フィデル・カストロ(下)
著者    イグナシオ・ラモネ  、 出版   岩波新書
 キューバから27万人がアメリカに向けて脱出していった。1959年から62年にかけてのこと。これには医師、技術者などの知識人が数多くふくまれていた。その結果、キューバは専門職の欠乏に直面し、それに耐えた。彼らは、20倍も多い給料や物質的価値を求めてアメリカへ行った。キューバ政府は、教育面で甚大な努力を払うことによって専門職の欠乏に耐え、しのぐことが出来た。
 アメリカは、キューバからの不法移民を促進する法律をつくった。船や飛行機を乗っ取ってアメリカへ脱出しようとする者に、アメリカはあらゆる権利を認めている。これは犯罪を奨励しているようなものだ。逆に、アメリカ人がキューバを許可なく訪問したりすると、最高25万ドルの罰金が科せられる。それに企業がからむと、罰金は最高100万ドルにもなる。
 キューバ高官が汚職・腐敗で逮捕され、死刑に処せられた事件がありました(1989年)。そのことについて、カストロは次のように語っています。
 権力は権力だ。権力をもつものにとって、もっとも重要なたたかいはたぶん己とのたたかい、自分自身を統御するたたかいだろう。それは、恐らく、たたかいのもっとも難しい部類に属す。その高官たちは麻薬密輸業者と取引していた。コロンビアのエスコバルから海上で6トンもの麻薬を受けとってアメリカに運ぶという話だった。そして、彼らは、それがキューバに役立つと信じていた。
 この事件では高官たち4人が反逆罪で有罪となり、銃殺刑に処せられたのでした。
カーターは、カストロの知るもっとも良いアメリカ大統領だったと高く評価されています。そして、エドワード・ケネディについても、文句なしに才能のある人物だとされています。
 キューバには政党が一つしかなく、反体制派がいて、政治囚がいるという批判に対して、カストロは次のように弁明しています。
 我々は唯一の政党ではなく、世界で一党制を維持している唯一の国でもない。
チリのアジェンデとベネズエラのチャベスについて、クーデターに対する対処法のアドバイスが違っていたとカストロは語ります。
アジェンデには兵士が一人もいなかった。チャベスは陸軍の兵士と士官の大部分、とりわけ若い兵士をあてにすることが出来た。だから、カストロは、辞任するな、辞めてはならないと伝えた。
これに対して、アジェンデに対しては抵抗するよう伝えた。アジェンデは誓ったとおり、英雄的に死んでいった。
キューバには、現在、1959年当時に残っていた医師の15倍もの医師がいる。このほか、何万人もの医師が世界40ヶ国で無料で働いている。キューバ人医師は7万人いて、医学生は2万5000人いる。医学関係の学生総数は9万人にもなる。今、キューバは世界一の医療資本を築こうとしている。
 幼稚園から、9学年までの通学率は99%。生徒一人あたり教師の多さと一学級平均の生徒数の少なさは世界一だ。国が報酬を与えながら教育する制度が17歳から30歳まである。博士課程まで、誰でも一銭も払わずに教育を受けられる。革命前の30倍もの大学卒業者、知識人、職業芸術家がいる。芸術学校で2万人の若者が学んでいる。
キューバ人民の85%は住宅の所有者で、住宅に関連する税金はタダ。残り15%は、月給の10%の格安賃料を支払うだけでよい。
 キューバに行ったことはありませんが、アメリカのマイケル・ムーア監督の映画『シッコ』にも出てきましたが、キューバの医療水準は高くて無料だというのですから、日本人からすると夢のような話です。国家経済は大変ですし、決して豊かな生活を人々を過ごしているということでもないようですが、安定した生活が続いていることは間違いないところでしょう。
 キューバのカストロの話を一度聞いてみるのもいいことだと思い、紹介しました。
(2011年2月刊。3200円+税)

戦後日本の防衛と政治

カテゴリー:社会

著者    佐道 明広  、 出版   吉川弘文館
 戦後の日本には、自主防衛論対日米安保中心論の対立があった。それは中曽根内閣の成立したあと、安保中心主義で定着した。日本の場合は、政軍関係というより、むしろ政官軍関係と呼ぶべきである。政治家と官僚と制服である。
 航空自衛隊は、過去とのつながりはほとんどなく、防衛政策への影響も少ない。文官優位システムは日本独自のものであり、それが固定化していった。それは、同時に、日米安保中心主義が日本の防衛政策の基本方針となり、制服組の意見も封印されていく過程だった。
岸信介は、他国の軍隊を国内に駐屯せしめて、その力によって独立を維持するというのは真の独立国の姿ではないと言った(1954年)。改進党は、在日米軍を撤退させるためにも自主防衛を主張した。自由党も、在日米軍の撤退を視野に入れた防衛構想をつくらざるをえなかった。
海上保安庁が発足するとき、旧海軍の士官1000人、下士官・兵2000人の計3000人が採用された。海上保安活動には高度の専門知識と技術が必要なため、GHQも旧軍人の採用を許可せざるをえなかった。このときの旧海軍軍人グループが海上自衛隊の創設にあたっても大きな役割をはたした。
 戦後の旧陸軍軍人の動向と比較して、旧海軍軍人グループの顕著な特徴は、野村や保科を中心に非常にまとまりが良かったことにある。彼らは対米関係を非常に重視していた。旧海軍グループは、国会議員となって、自民党組織の内部に勢力を築きあげていった。戦前との連続性の点では、海軍のそれは陸軍に比べて圧倒的に大きい。
陸上自衛隊のなかで、服部グループの影響力はなきに等しかった。警察庁予備隊の創設以来、新組織の中核に座ったのは、旧内務省の警察官僚だった。内局の人事権は、長官官房が握っていて、制服組から内局幹部職員が任用されることはなかった。
 防衛庁長官や国務大臣といえども、専門性の高い防衛問題については内局官僚に全面的に依拠せざるをえない。防衛政策の作成における内局文官の優位性が一層高まった。
 60年安保騒動における自衛隊出動には、3つの重要な問題があった。第一は、政治家の方に出動論が強かった。第二に、これ以降、陸上自衛隊の中心課題に治安維持対処が置かれるようになった。第三に、その一方で、治安対策の中心は警察となった。
 1960年7月、「防衛庁の広報活動に関する訓令」が定められ、これを契機に防衛庁の広報活動が活発に行われるようになっていく。防衛庁の広報活動は、自衛隊に対する管理と並んで重要な仕事になった。このような活動によって、1960年代に自衛隊は国民の間に定着していった。
 1960年代に防衛問題で中心的な存在であった保科善四郎と船田中は、いずれも防衛産業と密接な関係をもっていた。長い議員歴をもち、防衛庁長官にもなった経歴の船田と、元海軍中将という軍事専門家であり国防部会の中心的存在である保科の組み合わせを基軸に、自民党国防族は防衛産業と防衛関係省庁のパイプの役割を果たしていく。自主防衛の内容は、実は防衛装備の国産化を意味していた。防衛装備国産化の推進は、防衛産業の強い要請であり、自民党国防族もこれを熱心に主張していた。
 防衛庁は、二次防策定後、自衛隊に対する管理官庁としての性格を強めていた。それに対して、本来なら財政の面から防衛予算の策定に携わる大蔵省が防衛政策の基本問題を議論するという、防衛庁と大蔵省の逆転現象が起きていた。
 二次防との最大の相違点は、三次防が海上防衛力について大幅な増強を認めているという点であった。日本の防衛力整備は、三次防において、治安・本土防衛中心部隊から日米共同作戦実施の可能性をもつものに変化した。このような防衛力整備方針の変質を象徴する出来事が「海原天皇」とまで言われていた防衛庁きっての実力者であった海原治の失脚だった。海原の国防会議への転出は、防衛庁内局の中心が、旧内務省出身で旧軍勢力の復活を危惧して制服組の権限をなるべく抑制しようとし、結果として防衛庁の管理官庁化をもたらした防衛官僚第一世代というべき存在から、自衛隊の役割を広い視野から考えるとともに主体的に防衛政策を立案しようとする次の世代に移行しつつあることを象徴する出来事であった。
 1960年代は、一貫して陸上自衛隊の基本的方針は間接侵略対処であった。海上防衛論を唱えた者も間接侵略への対処を基本に置いていた。冷戦下で核による恐怖の均衡が成立しており、全面戦争の緊張は緩和されているとみた。この傾向は70年代に入っても変わらなかった。
 中曽根は自衛力整備による在日米軍の撤退を主張した代表的な論者の一人であった。ナショナリズムのシンボルとしての基地問題は、中曽根にとって一貫して重要な問題であった。しかし、結果として中曽根構想は挫折した。
日本全体(ただし、沖縄は除く)で大幅な基地の整理縮小が1970年代末までに実現した。これによって、それまで反米ナショナリズムの象徴となった基地問題は(本土では)ほとんど解消した。このこと意味は大きい。
四次防再検討の主導権を海原治が掌握したことで、「国防の基本方針」にのっとって日米安保制を基軸にしたものとなり、中曽根構想にあった自主性追求の部分は、ほとんど姿を消した。実質的に三次防の延長としての整備計画となった。自主か安保かといった日本の防衛政策の基本方針をめぐる議論は、ここで再度封印されてしまった。
 「防衛計画の大網」(旧大網)の策定にあたって、もっとも大きな役割を果たしたのは久保卓也だった。久保理論においては、基盤的防衛力構想は、きわめて重要な位置を占めている。我が国に対して差し迫った脅威があるとは考えられないが、潜在的な脅威に備える必要があるというものである。基盤的防衛力構想は、「抑制力あるいは規制力」という概念とともに語られる。日本自身の防衛力の前提となる防衛の対象が限定局地戦であった。この限定局地戦に対応した防衛力整備の基本方針が基盤的防衛力構想であった。基盤的防衛力の構想は日米安保体制による抑止が継続するという発想に立っている。田中角栄は防衛力の増強は、四次防で打ち止めにしたいという意向を示した。
 1970年代半ばから、自衛隊OBの対照的発言がさかんになっている。これは坂田防衛庁長官が自衛隊員が積極的に発言することを奨励した結果である。
 ガイドラインの中身を決める作業に制服組が参画した。政治家による防衛論議が極度に減少したのをはじめ、防衛庁のなかでも制服組の立場が上昇した。もはや、1950年代や60年代のように、文官が制服を押さえ込んで文官だけですべてを決めることはできなくなった。
 日本の戦後の防衛政策の変遷を正面から分析した貴重な本だと思い、十分に理解は出来ませんでしたが、ここに紹介します。
(2003年11月刊。9000円+税)

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