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「国連子どもの権利委員会最終所見の生かし方」

カテゴリー:社会

著者   世取山 洋介 、 出版  子どもと教育・文化、道民の会
 国連子どもの権利委員会は2010年6月、日本政府に対して第3回最終所見を出しました。
 日本の子どもたちをめぐって国連がどんなことを言っているのか、どうせたいして分かっていないんだろうなという先入観があって読みはじめたのですがどうしてどうして、思わず居ずまいをただされるような素晴らしい内容でした。
 世取山(よとりやま)洋介・新潟大学教育学部准教授の講演によって、その内容を知ることができましたので、その講演の一部を紹介します。
 1997年に日本のNGOが国連に提出した報告書は「豊かな社会、日本における子ども期の喪失」というタイトルで次のように日本を説明した。
 「豊かであるにもかかわらず、子どもたちは本来保障されるべき子ども時代を喪失している。その原因は、競争主義的な制度が子どもの生活全体を覆い、子どもたちが家庭の中でもその競争に乗るように親からプレッシャーを与えられ、ありのままに受け入れられる人間関係を失っていることにある」
 これを受けて、国連子どもの権利委員会は、次のような最終所見を示した。
 「高度に競争主義的な性格の公教育制度が発達の歪みをもたらしている」ことへの懸念が示された。本来なら子どもの人格の全面的発達を実現するはずの公教育制度が、日本においてはそれとはまったく逆に子どもの発達の歪みをもたらしているという非常に強烈な評価が示されたのである。
 今回(第3回)の最終所見に向けて日本のNGOが出した報告書のタイトルは、「新自由主義社会日本における子どもの期の剥奪」だった。これは、いくらすり寄っても成果を上げなければご褒美がもらえないという新自由主義社会の構造が、家庭や公教育にまで浸透し、新たな困難を子どもに引き起こしていることを告発するものである。
 最終所見は、「本委員会は日本の学校制度が並み外れてすぐれた学力を達成していることを認識しているものの、学校および大学の入学をめぐって、競争する子どもの数が減少してるにもかかわらず、過度な競争への不満が増加していることに留意・懸念している。本委員会は、また、高度に競争主義的な学校環境が就学年齢にある子どもの間のいじめ、精神的障害、不登校・登校拒否、中退および自殺に寄与しうることを懸念する」と指摘している。
  そして、日本のNGOは、この10年間、日本の子どもたちの状況を海外の人に説明する場合に、四つの指標を使った。いじめ、不登校、校内暴力そして、自殺である。これは非常に競争主義的な学校に対して、子どもがとる対応のパターンをうまく表現するものとなっている。いじめはプレッシャーの他人への転嫁。不登校はプレッシャーの忌避。校内暴力はプレッシャーを与える相手の破壊、つまり原因の暴力による除去。そして、自殺はプレッシャーを感じる自分の破壊を意味する。この四つの指標の推移をみていくと、日本の子どもたちが直面している問題がわかる。
 最終所見は伝統的な困難に加えて、新しい困難も懸念として指摘した。パラグラフ60では、「本委員会は驚くべき数の子どもが情緒的幸福度の低さを訴えていることをしめすデータならびに、その決定要因が子どもと親及び子どもと教師の間の貧困さにあることを示すデータに懸念し、留意する」と書かれている。「情緒的幸福度の低さ」とは何か。ユニセフが行った調査で15歳未満の子に「あなたは寂しいですか」と訊いたところ、はいと答えた子供が、OECD諸国の平均値は7パーセントだったのに対して、日本では30パーセントを越えた。すなわち情緒的幸福度の低さとは、子どもが感じている「孤独感」のことなのである。
 子どもは、生まれた時から周りに働きかける能力をもっていて、そこから自分の欲求を満たすものを引き出して、それを内面化して、成長していく。そして、子どもの欲求表明に応答する大人との関係があってはじめて、このような主体性が生きたものになる。つまり、大人に依存して初めて主体的になりうるというのが、子どもの特徴である。
 子どもが事実としてもっている主体性を保障できるような人間関係をきちんと子どもたちにつくることが、子どもの権利の中核とならなくてはいけない。
 大切なことは、子どもの自己決定でもなく子どもを支配することでもなく、子供が主体的でありえるような人間関係をきちんと子どもに保証していく、それにもとづいて子どもの成長発達を、すべてのところで、家庭でも学校での現実しているくということである。
 では、子どもでは子どもの権利が実現されている、というのはどのような形をとっているのか。学校で子供の権利が実現されているかどうかを見極めるには何を見るのが良いのか。授業を始めると流れるような会話が教師と生徒との間で展開しているのかどうかが鍵になる。
 教壇に立って教材を子どもの前に呈示すると、子どもたちから面白い、面白くない、あるいは、わかる、わからないといった反応がすぐさま起き、それに自分が応答すると、次の会話が展開していく。次々と会話が流れ、いつの間にかチャイムがなって「はい終わり」となっているかどうか。
 子どもの自己決定論は基本的に間違いである。子どもが子どもであるということを無視して、子どもが大人と同じであることを強調したところで、日本における子どもの問題は解決しない。
 子どもに、大人がもっている権利―これは一般人権といわれる―子どもに拡大することではなくて、大人にはない子どもの固有の権利を日本社会にきちんと確立するためにこ子どもの権利条約を使うべきである。この条約は子ども固有の権利を軸にして成立していると理解することが正しい。
 自己決定権は、独りぼっちになれる権利である。独りぼっちになって決定を下し、その決定から生まれる事態に対して一人ぼっちで責任をとるということである。
 近代人権のエッセンスである自己決定権と比べたときに子どもの権利条約が画期的なのは、子ども時代は〝自律した個人″である必要はなく、逆に、依存してもかまわないし、依存しているべきなのだということをはっきりさせた、ということにある。
 「指導」という言葉は、日本政府代表が国連子どもの権利委員会による審査でたびたび用いてきた言葉である。「指導」の名の下に、大人が子どもの欲求をありのままに受け入れて、子どもの成長発達を実現するための活動を行っているのではなく、逆に、大人の欲求を子どもに押しつけていることへの懸念が今回の最終所見で示されている。
 自分のなかに、自分のことを肯定する自分、なぜ今のままで良いのか、なぜ変わらなければいけないのかを説明してくれる自分が育っていない。
 大卒資格を得ても、60%くらいの卒業者しか就職できない。つまり、競争の期間が大卒まで続き、しかも、大卒資格も安定した雇用を保障しない、「目当てのない」競争になっている。これを変えるためには、若者の雇用問題にメスを入れて、若者の雇用を拡大するという施策がどうしても不可避になる。
(2011年6月刊。  円+税)

医者は現場でどう考えるのか

カテゴリー:アメリカ

著者   ジェローム・グループマン 、 出版   石風社
 医師は年齢(とし)をとるにつれ、新しい世代の若い医師が、自分たちに比べて洞察力がないとか、能力がないと嘆くのが常である。
 うひゃあ、これって弁護士の世界でも同じことが言えますよ。
すべての治療法の決定を、統計学的に立証されたデータのみにもとづいて行うという傾向が進んでいる。
 医師が常に正しい判断をするとは、誰も期待できない。医学は基本的に不確実な科学である。医師は誰でも診断と治療を間違えることがある。
 医師の目前にある医学的な謎を解くには、患者が自由に話すことが必要である。患者が怯えていたり、話を途中で切られたり、偏った方向に会話が仕向けられると、医師には重要なことが伝わらないかもしれない。
 患者である自分のいうことに医師は本当に関心があると患者に感じさせる必要がある。自分の物語を伝えるとき、患者は医師が思いつかないようなことに関するヒントを提供する。
医師は、日常用語をつかって患者を枠にはめる。多くの場合、医師は正しい枠を選び、臨床データはきちんとその枠にはまる。しかし、認識力の高い医師なら、疑わずに枠にはめ込むことは、深刻な間違いにつながりうることを知っている。
誤診は、医師の思考が見える窓といえる。それが喚起するのは、医師はなぜ固定概念を疑問視しないのか、なぜ思考が閉鎖的で偏っているのか、意識の欠落をなぜ見逃すのか、といった問題である。
 患者のケア(治療)の秘訣は、患者のケア(思いやり)にある。
 感情に対して免疫ができてしまうと、医師はヒーラー(いやす人)としての役割をまっとうすることができず、策を講じる人という一元的な役割しか果たせなくなる。
 患者の心を見失わないためには感情は重要だが、感情によって患者の病気を見失う危険もある。
 患者が救急医に訊いてもいいのは、「私の病気は、最悪の場合は何ですか?」という質問である。患者が医師の注意力を喚起できるもう一つの方法は、「症状が起きているこの患部のまわりには、他にどんな臓器があるのですか?」と訊くことである。
 良い医師は、時間の管理法を知っている。自明な症状なら、20分の外来時間内に患者と家族に明瞭な、分かりやすい言葉で説明できる。しかし、正解を見つけるには時間がかかることが多い。急いでは認識を仕損じる。
 CTスキャン、MRIなど、多量の画像データが医師の疲労と不満を増幅させ、エラー発生の確率を上げている可能性がある。
不毛な治療の苦痛にさらされないこと、これが患者にしてあげられるもっとも大切なこと。本当は無意味なのに、毒性の強い治療を継続させることを、患者をむち打つとも言う。
 抗がん剤治療のとき、これが言えるようです。
 医師は、医学部においても研究中においても、思考を節約するため、患者の複数の症状に対して一つの回答を求めることを教えられる。たいていそれは正しいが、いつもそうなるとは限らない。自分の症状には複数の原因があるかもしれないという患者の質問は、医師にさらなる思考を促すことになるだろう。
 医師の現場について知ると同時に、同じ職業人としての弁護士に通じるところの多い本でした。
(2011年12月刊。2800円+税)

バターン、死の行進

カテゴリー:日本史

著者   マイケル・ノーマンほか 、 出版   河出書房新社
 日本軍がフィリピンを占領したとき、アメリカ・フィリピン軍の捕虜7万6000人を中部にある収容所まで炎天下100キロ行進させ、1万人近くが亡くなったというバターン死の行進を日米双方の資料をもとに明らかにしています。
日本軍の最高責任者(司令官)だった本間雅晴中将は戦後、戦犯となって死刑になりました。これは、実はマッカーサー将軍が日本軍によってフィリピンから敗退させられたことへの報復惜置だったのではないかという見方があります。
 この本を読んで、マッカーサーが日本軍が攻めてくる前に根拠のない楽観論を振りまいていて、無策のうちに日本軍のフィリピン上陸そして占領を許してしまったという事実を知りました。マッカーサーって、戦前の日本軍の典型的な将軍と同じような観念論者だったようです。
 1941年7月、ルーズベルト大統領はマッカーサーをアメリカ極東陸軍司令官に任命した。8月、マッカーサーは、フィリピン防衛計画が完成に近づいたと米国戦争省に断言した。10月、まもなく20万人の軍隊が用意できるとマッカーサーは報告した。これによって、アメリカ政府はマニラの軍隊がいかなる事態にも対応できると信じた。
 実際に7週間後に戦争が始まったとき、マッカーサーは約束した兵力の半分しかもっていなかった。アメリカ兵1万2000人は、その実戦部隊は実際に敵と戦ったことはなかった。フィリピン兵6万8000人は、テニスシューズをはき、ココナツの殻のヘルメットをかぶって戦うことになった。
 マッカーサーは、開戦前に次のような命令を発した。
 「敵は海岸で迎え撃つ。何があろうと食い止める。撤退はしない」
 ところが、日本軍は12日間でマニラを攻略した。あとは奥地の残敵を掃討するだけだった。米比軍の大半はバターン半島に退却した。バターン半島は、戦場としてはきわめて苛酷な場所だった。
日本軍は敵の兵力について見誤っていた。日本軍の兵力は、米比軍の3分の1にすぎなかった。日本軍の第一次バターン攻略作戦はうまくいかなかった。50日でフィリピンを占領することはできなかった。
本間中将は、戦場だけでなく、祖国日本でも政敵に攻め立てられ窮地におちいっていた。東条英機首相兼陸軍大臣(大将)は本間の古くからの敵対者だった。
 本間は指揮下の兵力の半分2万4000人以上を失っていた。アメリカは、マッカーサーを脱出させる方法を話し合っていた。陸軍最高位の将軍であるマッカーサー大将が敵に捕まえられでもしたら、そのニュースがアメリカに大打撃をもたらすという考えによる。
 1942年3月10日、闇夜にマッカーサーは家族と身近な参謀の数人でフィリピンを脱出した。このときのマッカーサーの言葉は有名です。
「私は戻ってくる」(アイ シャル リターン)
 これは、我々は必ず戻ってくるというのではありません。普通なら、ウィー シャル リターン)ですよね。そこを我々ではなく、私というところが、いかにも独善的です。
 1942年3月、本間中将は3万9000人の将兵で第二次バターン攻撃に移った。
 4月9日、バターン半島の米比軍は日本軍に降伏した。7万6000人をかかえるアメリカ軍の部隊が降伏したのは歴史上初めてのことだった。捕虜の人数は日本軍司令部の推定の2倍以上になった。将兵7万6000人、民間人2万6000人である。
 日本軍の兵卒は捕虜をひどく残忍に殴りつけた。だが、日本軍では、上官の軍曹や少尉にしても、部下の兵卒を殴る際には同じように残忍だった。
 日本兵にとって捕虜を殴ることは義務だったが、一部のものには娯楽だった。故国で教練所を虐待所に変えたサディストたちが、いまや何の力もない捕虜の列の間を歩き回り、彼らに日本語で罵声を浴びせ、命令し、理解できなければ馬鹿だと言って殴り飛ばした。
 4月10日、米比軍の降伏の翌日、日本軍は徒歩による捕虜の移送を開始した。
 日によって15キロすすむ日もあれば、20キロ、あるいは30キロ以上進む日もあった。
 年間でもっとも乾燥する時期だった。太陽が容赦なく照りつけ、地上のあらゆるものを焼き焦がした。昼すぐには大気が熱せられてオーブンのような状態になった。地盤は焼き上がったばかりの煉瓦のようだった。監視兵は、捕虜を常に前進させるよう命じられていた。
 捕虜の中には脱水症状がひどくなり、脳の神経伝達物質がうまく機能しなくなるものもいた。脱水症状の一つの機能障害に陥ったのだ。幻覚をみる者もあらわれた。日本人にしてみれば、捕虜は「敵国人」であり、憎むべき対象だった。フィリピン軍の志願斥候兵は日本軍を手こずらせていたのでとりわけつらくあたった。
 米国兵ばかりの隊列には、40代、50代の士官が何人もいた。参謀をつとめていた、ふっくらと肉づきのいい佐官は、途中で倒れたり、徐々に遅れをとったりして、後方で待ちかまえるハゲタカ部隊の標的になった。
 慢性的な物資不足と常習的な準備不足のせいで、不倶戴点の敵である捕虜を困窮させても、日本兵は何とも思わなかった。捕虜に満足に食べさせる余裕もなければ、そうする意思もなかった。
 行進して5日間、日本軍は当初の計画を捨て、場当たり的なことをはじめた。監視兵の多くは混乱していた。なんといっても捕虜の数が多すぎた。
赤痢にかかっている者は非常に多く、座ったり横になったりする待機所には糞尿、分泌物、血液がそのまま垂れ流された。多くの待機所では死体が放置され、やがて腐敗しはじめた。次の捕虜の集団がそれぞれの待機所に着くころには、腐った死体の悪臭と、汚物のあふれる便所の悪臭とが合わさって、耐えがたいものになっていた。
 捕虜たちは常に北を目ざした。時間や場所の感覚も、目的意識もなかった。行進中に大事なのは歩き続けることだった。道中、日本軍はだいたいにおいて避難民にかまわなかった。
 降伏から一日もたたないうちに、ルソン島の各地に噂が広まった。さまざまな州からフィリピン兵の家族や親類がバターンに集まり、身内の姿を一目見るよう、機会があれば言葉をかわそうと、国道ぞいに並んで待ちかまえた。
 オドネル収容所は、もともとフィリピン軍の兵員2万の師団用の兵舎だった。その狭苦しい敷地に、4月1日以降日本軍はアメリカ兵9270人、フィリピン兵4万7000人、計5万
6000人を詰めこんだ。
 1942年5月5日、本間中将はコレヒドール島を攻撃し、5月6日、守備していた米比軍1万1000人は降伏した。
 1942年9月、フィリピンからアメリカ人捕虜500人が日本に輸送された。日本の国内労働不足をカバーするためである。連合軍捕虜と現地労働者12万6000人が日本への船旅をしたが、そのうち2万1000人は船とともに死んだ。
 この本には、筑豊の炭鉱で働かされた人の体験が紹介されています。そして、戦後、本間中将は戦犯として裁判にかけられ死刑に処されるのでした。日本軍のバターン攻略により、一次フィリピンを脱出してオーストラリアに逃れざるをえなかったマッカーサーは、自分の輝かしい軍歴を傷つけた本間中将が許せなかった。
 悲惨な戦争の実情がよく伝わってくる本です。
(2011年4月刊。3800円+税)

原発推進者の無念

カテゴリー:社会

著者   北村 俊郎 、 出版   平凡社新書
 原子力をやってきた人間が原発の立地地域に棲まないでどうするんだという気持ちから、福島第一原発から7キロの富岡町に住んでいた著者の避難体験記です。本当に悲惨な体験で、読んでいて、その無念さが伝わってきて涙が出そうになりました。
 3.11によって、著者は人生観、世界観を変えられた。今まで原子力を推進してきた者として、無念さを感じるとともに、大いなる反省をせざるをえなかった。
 著者は技術者ではありません。経済学部を卒業して、日本原子力発電に入社し、管理部門を歴任してきたのです。
 7月に著者は一時帰宅したのですが、このとき、被曝線量は1時間あたり4マイクロシーベルト。もし、そのまま居住していたとすると、1年間に44ミリシーベルトの被曝を覚悟しなければならない。これは一般人の年間許容線量である1ミリシーベルトの44倍である。原発作業員の許容線量年間50ミリシーベルトと同じくらいになる。恐ろしいほどの線量ですね、これって・・・。
 富岡町と内村の人口をあわせると2万人。避難所に入っている人は、その2割程度。あとの8割は、親戚・知人を頼って各地に移り住んでいるということになる。
日本の原子力界は「原子カムラ」と呼ばれ、閉鎖的だとされているが、世界の原子力界も閉鎖的な傾向がある。30年間も原発を建設していないアメリカでは、多くの企業が原子力から撤退した結果、人材が枯渇し、原子力界は最盛期から何十年も原子力に関わってきた一部の人たちにより維持されている。どの国も原子力にかかわるメンバーが固定化する傾向にある。
 今回の原子力災害は、著者をいきなり避難者の立場にした。その立場で考えると原子力関係者が、いかに視野が狭く、現実的な視点が欠けていて、形式主義だったことが分かった。これが事故原因にも、避難の際の混乱にもつながる。異端を排除し、事なかれ主義が横行していては、原子力の安全は覚束ない。
 原発の是非には対する世論は原発のメリットと危険性を天秤にかけるという終わりのない論議から、安心して暮らせる社会はいかにあるべきかの方向に移行しつつある。世間に「原発は時代遅れのものだ」と烙印を押されることが、原発廃止の最大の決め手になる可能性がある。
 私は、九州でいうと玄海原発そして川内原発を直ちに廃炉にすべきだと考えています。といっても、運転停止をしても放射性物質をいったいどこへ持っていくのかという厄介な問題があります。九電は安全だと主張しているわけですから、九電本社のある電気ビルの地下に収納してもらえるのなら、それが一番いいと思うのですが、周囲がそれを許さないでしょう。では、いったいどこへ持っていったらいいのでしょうか・・・。九電の首脳部に答えてほしい問題です。
(2011年10月刊。780円+税)

平清盛の闘い

カテゴリー:日本史(平安)

著者  元木 泰雄 、 出版   角川ソフィア文庫
 平安末期の貴族と武士たちの動きをダイナミックに描いている本です。なるほど、そういうことだったのかと思わず唸ってしまいました。小説以上に面白い歴史の本です。
 平清盛は幸運に恵まれましたが、そのうえ実力を思う存分に発揮して情勢を切り拓いていったのでした。中国との貿易も積極的にすすめ、福原遷都もそれを念頭に置いていたというのです。平清盛がもっと長生きしていれば、強大な平氏政権が誕生していたのではないでしょうか。
 私は中学生のころより、なんとなく平清盛に魅力を感じていました。源頼朝には、いささか距離感があったのです。その理由は自分でもよく分かりません。
 この本に市川雷蔵が若き日の平清盛を演じる映画(『新平家物語』)のあったことが紹介されています。一度見てみたいと思いました。
 平治の乱のあと、13歳の源頼朝のみは池禅尼(いけのぜんに)の嘆願で助命され、伊豆に配流された。自力枚済が貫かれていた武士の社会では、少年とはいえ戦闘員である以上、仇討ち(あだうち)などの報復を防ぐために処刑するのが当然とされた。ところが、平清盛は、その原則を破ってしまった。しかし、頼朝の助命は単なる池禅尼の仏心と、平清盛の油断の所産ではなかった。
 まず、池禅尼は家長として強い発言力をもっていた。さらに、池禅尼の助命要請の背景には、院近臣家出身の池禅尼を通した、後白河上皇や女院からの働きかけが存在したものと考えられる。
 永治元年(1165年)、新政をはじめていた二条天皇が23歳の若さで死去した。
 当時の王権は、王家の家長である治天の君と天皇が一体となって構成されていた。正当な天皇とは、治天の君が即位を希望した天皇にほかならない。その意味で正統に位置した二条が死去し、逆に治天の君となった後白河自身が、偶発的に即位し、正当性に疑問を抱かれる存在であったことから、皇統をめぐる対立は混迷を深めた。平清盛と後白河上皇とは、高倉天皇の即位という共通の目的に向かって提携した。
 仁安元年(1166年)、平清盛は内大臣に昇進を遂げた。権大納言に昇進してからわずか1年あまり、公郷の仲間入りをしてから6年しかたたないうちに、居並ぶ上臈公卿を超越してしまった。院近臣伊勢平氏出身の平清盛の内大臣昇進は、破格の人事であった。
 当時の人々に、平清盛は皇胤と信じられていた。それ以外に大政大臣まで上り詰めることのできた理由は考えられない。しかし、平清盛は、わずか3ヵ月後に辞任した。短期間で辞任した原因は、高い権威をもつ反面で、大政大臣が名誉職だったためと考えられる。そして、平清盛は、院やかつての信西らと同じように、自由な立場で政治的な活動をしようと考えていたのではないか。
 中国(宋)との日宋貿易は、平清盛と後白河上皇という、王朝の制法や因習を無視する大胆な個性の結合によって軌道に乗っていた。
 平清盛は、仁安3年(1168年)に出家して福原に引退するまで、除目(じもく)に大きな発言力をもっていた。平清盛は後白河院の中心的権限である人事権を規制し、その専制を阻止していた。表面では二人は協調関係にあったが、その裏側では後白河院政が確立したあと、当初から両者は常に緊張関係にあり、平清盛は後白河院や院近臣に反発していた。
 天皇こそが正統な君主であり、天皇と対立すれば父院といえども政治的に後退を余儀なくされた。このため、嘉承2年(1107年)に堀河天皇が死去して後白河院政が確立したあとは、原則として天皇が成人を迎えると退位させることが原則化していた。
 うひゃあ、20歳になったら即位して天皇でなくなるなんて、信じられませんよね。
治天の君は、王家の家長として自身が擁立した天皇に対する人事権を有しており、それを行使することで譲位を強制できた。意のままになる幼主を擁立した院は、院近臣とともに専制政治を行った。
院政というのは、こんなシステムだったのですね。ちっとも知りませんでした。
 後白河院を停止したとき、その代わりとなる院がいないという問題があった。当時の王権は、院と天皇の二元権力によって構成されており、治天の君である父院の皇位に対する保障が必要だった。強い不信感によって後白河院の退位を目ざす平清盛と王権の確立を目ざす後白河院の対立はきわめて鋭く、間に立つはずの平重盛の立場は厳しいものとなった。
 治承3年(1179年)、平清盛は数千騎にのぼる軍勢を率いて福原から京都に入った。平清盛は、直ちに基房と師家を解職した。いかに摂関家が優勢にあるとはいえ、摂関の解任は前代未聞の大事件であった。そして、治天の君が臣家によって院政を停止され幽閉されるという重大な事態となった。
福原遷都の直接的な理由は、軍事的見地から求められる。興福寺、圓城寺や延暦寺の一部など、権門寺院の悪僧の多くが以仁王(もちひとおう)挙兵に与同しており、彼らに包囲された平安京はきわめて危険な宮都となっていた。それと対照的に、福原周辺は平氏の勢力に固められていた。すなわち、平清盛は、桓武天皇の例にならって新王朝の宮都の新規造営を目ざした。平清盛の長年の根拠地として、そして、軍事拠点であるとともに、日宋貿易の舞台として宋にもつながる国際都市福原以外には考えられない。
平清盛は発病から1週間で急死した(64歳)。インフルエンザからの肺炎の可能性もあるが、あまりに繁忙で重圧を受けた生活を送っていたことが健康を害したことは疑いない。
 平清盛は生涯たたかう人であったようです。
(2011年11月刊。667円+税)

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