法律相談センター検索 弁護士検索

人が人を裁くということ

カテゴリー:司法

著者   小坂井 敏晶 、 出版   岩波新書
 司法制度について大変考えさせられる鋭い問題提起にみちた本です。
 日本の制度では職業裁判官の優位が目立つ。海外では、裁判官に権力制限に注意が払われるのに対して、日本では逆に市民への厳罰への暴走が危惧されている。日本の裁判員裁判の合議体構成は、ナチス・ドイツ支配下のヴィシーかいらい政権が厳罰化を目的に導入したフランス参審制と酷似している。フランス近代史上、市民の影響力をもっとも抑えた制度と日本の裁判員制度は同じ構成になっている。英米法における裁判は、真実を究明する場というよりも、紛争を具体的に解決する役割を担う。検察は共同体を代表して犯罪を告発する。英米と異なり、フランスの陪審員は、国民の縮図・サンプルとして裁判に参加するのではない。このように英国法と大陸法とでは、司法哲学が異なっている。
犯罪を裁く主体は誰か、正義を判断する権利は誰にあるのか。これが裁判の根本問題だ。職業裁判官なら誤判がありうる。官僚が間違えても、それは技術的な問題にすぎない。しかし、重罪裁判では、陪審員・参審員を媒介に人民自身が裁きを下す。したがって、人民の決定に対する異議申立は、国民主権の原則からして許されない。これがフランスの考え方。
 英米法では検察官上訴が許されない。有罪判決が出たときは、それに不服な被告人が控訴して再び裁判を受ける権利がある。しかし、無罪のときは、それで確定する。どんなに不条理な判決であろうとも、陪審員が下した無罪判決を裁判官が無効にして審理差し戻しを命じたり、検察が異議を申立して控訴したりは出来ない。
 英米の裁判では、無罪か有罪なの評決結果を陪審員が提示するとき、結論に至った理由は示されない。というのも、歴史的事実として、英米市民のほとんどは文盲だったから。
 判決理由の欠如と、無罪に対する上訴禁止という二つの条件により、英米法では制度上、どんな不可解で不正な無罪判決でも出す能力が陪審員に与えられている。
フランスでは、公判内容の要約が1881年に禁止されて以来、現在に至っている。検察と弁護側の双方の最終弁論が終わると、裁判長は議論終了を宣告する。そのとき、意見を述べることも、議論内容を要約することも許されない。
 また、公判前に準備される供述資料など一切の書類は裁判長だけに閲覧が許される。他の裁判官2人は、市民9人と同じく、白紙の状態で公判にのぞみ、その場で討議された内容だけをもとに判断しなければならない。
 英米では、数百年にわたって、市民だけで重罪裁判の事実認定を行ってきた。全員一致に至るまで議論を続けず、多数決で判決を決めると有罪率が高くなる危険がある。
 全員一致の決定内容は、議論を尽くして最終的に至った解答だ。
 陪審員を減らすと、社会の少数派意見が判決に反映される可能性が近くなる。人間は真空状態で判断しない。どの状況も一定の方向にバイアスがかかった空間であり、中立な状態は存在しない。
 フランスの重罪裁判を務める参審員は、公判前に刑務所を見学させられる。専門家が長年かかって練り上げた取り調べ技術の威力はすさまじい。取り調べ技術を練り上げるのはプロの心理学者だ。
 暴力団員や政治犯が取り調べに落ちにくいのは、彼らを支える組織が外部に存在するからだ。普通の人間では、ひとたまりもない。密室に隔離された状態で脅しを受け、それでも沈黙を守れるほど、人間は強くない。審査官は黙秘権を放棄させる訓練を受ける。
 弁護士が取り調べに立ち会っても、実際にはあまり役に立たない。
 捜査官にとっては、被疑者が犯人に間違いないのである。無実の人間を犯人にしたてあげるという意識はない。だからこそ、問題が深刻なのだ。犯罪を憎み、会社の無念を晴らそうという取調官の気持ちを見落とすと問題の核心を見失う。取調官の真摯な態度を読みとらないと、冤罪を生む仕組みの本当の深刻さと恐ろしさはつかめない。
 被害者は犯人が憎い。はじめは目撃記憶に自信がなくても、警察から示唆されると、しだいに記憶が再構成される。犯人だと判明したと聞いたり、公判前に検察によって何度も証言の練習をさせられると、さらに確信度が高まっていく。
 犯罪捜査から判決に至るまでの一連の過程は一人の個人に任されるのではない。多くの人々が関わって機能する、組織の力学が防ぎ出す集団行為だ。
 人間は組織の論理で動く。問題すべきは、個人の資質ではなく、犯罪捜査というバイアスのかかった磁場の構造である。
 犯罪のない社会は、論理的にありえない、どんなに市民が努力しても、どのような政策や法体系を採用しても、どれだけ警察力を強化していても犯罪はなくならない。
 悪の存在しない社会とは、すべての構成員が同じ価値観に染まって、同じ行動をとる全体主義社会だ。つまり、犯罪のない社会とは、理想郷どころか、人間精神が完全に圧殺される世界にほかならない。
 私よりずいぶん若い学者ですが、さすがは自由の国、フランスで勉強したと思える発想に圧倒される思いで読み通しました。日本の司法界にかかわる人は必読の文献だと思います。
(2011年2月刊。720円+税)

弁護士から裁判官へ

カテゴリー:司法

大野正男著、2000年6月、岩波書店発行
 司法制度改革から10年が経過し、司法の依って立つ社会基盤の大きな変化もあり、司法制度改革にいろいろ綻びが出ている。しかし、司法制度改革における人的基盤の整備の一環として提唱された弁護士任官制度は、順調に実績を挙げているようである。私も、外から裁判所を眺めるだけで飽き足らなくなり、中から裁判所を見てみようかという気まぐれを起こし、来年の非常勤裁判官に応募した。
 このような身の回りの変化にあって、昨年、弁護士出身の元最高裁判事であった滝井繁男氏の「最高裁判所は変わったか」を読んだことに引き続き、今年は、同じく弁護士出身の元最高裁判事であった著者の書物を読んでみた。最高裁判事を退官して在官中の公私の出来事を振り返ったエッセイ集である点は一緒であるが、滝井氏の著作が2009年の出版であることと比較して、一時代前のものである。10年間の最高裁の変化はいかなるものであったろうか。
 著者は、最高裁に①憲法裁判所としての役割、②事実審の最終審としての役割があることを指摘し、上告事件の激増により、②の負担が過重となり、①の役割が十分ではないことを憂いている。小法廷が「先例の趣旨に徴して明らかである」の論法により憲法判断を回避していると言われる例の問題のことである。この辺りの問題意識は、滝井氏と同一である。そうすると、平成10年の民事訴訟法改正による上告制限の導入は、あまり効果をあげていないということになるのであろうか。以下私見であるが、もし、②の負担を軽減するため、例えば、小法廷を5つ設置するとなれば、大法廷は25人の大人数となり、到底、実のある憲法議論は尽くしがたいであろうなと考えると、制度改革による①の憲法裁判所の復権は決して容易なことではないのであろう。そうすると、最高裁の利用者による上告の自粛が求められてくるが、「まだ最高裁がある」(映画「真昼の暗黒」の言葉)という当事者の最後の希望を摘み取ってしまうこともできまい。こうしていろいろ考えてみると、著者や滝井氏の嘆きは、最高裁の永遠のテーマになりそうな気配である。
 ところで、著者は、マルキドサドの悪徳の栄え事件、砂川事件、全逓東京中郵事件など著名な憲法訴訟に携わった一流の弁護士でありながら(だからこそ上述の憂いが生まれてくるのであろう)、その物言いは柔らかであり、書きっぷりには気取りがない。この著書にも、軽妙で楽しげな語りがある。
 例えば、「最高裁が、原判決を指示し、棄却する場合でも、次のような種類の表現がある。」として、
最も積極的に支持する表現としては、「正当として是認できる」と表現し、
次に単に「是認できる」であり、
理由をやや異にする場合は「この趣旨をいうものとして是認できる」であり、
かなり原判決の理由に疑問を持つ場合には、順に
「この趣旨をいうものとして是認できなくはない」
「違法とは言えない」
であり、最後に最低の合格ラインとしては
「違法とまでは言えない」と表現するのだそうである。
 これは、判決書の言葉遣いとその意味を紹介したものであり、本来おかしむようなものではなが、著者の手にかかると何ともいえぬユーモアが感じられる。この著者の文章に接して弁護士で、にやっとせぬ者はいないであろう。
 さて、著者のような最高裁判事ほどの立場ではないとしても、私も簡易裁判所で民事調停に立ち会うとなれば、事件や法律の見方・考え方が変わり、解決することの苦労を身に染みて感じるのであろう。著者が最高裁判事の苦労を楽しんでいたように(本人がそう述べている)、私も簡裁判事の苦労を楽しむことができようか。

暴力団

カテゴリー:社会

著者   溝口 敦 、 出版   新潮新書
 私の住む町では、暴力団員のことをヨゴレとも言います。まさに、社会の汚れた部分です。でも、大企業を先頭として、日本人は暴力団をすぐに「利用」したがります。もちろん、財界だけではありません。政治家も芸能界も暴力団との結びつき(汚染度)はとても濃厚です。ゼネコンは暴力団抜きには存在自体がないのではないかと思えるほどです。
 日本社会の暴力団とアメリカ社会のマフィアとの最大の違いは、公然性と非公然性にある。アメリカの組織犯罪は、まさしく徹底した秘密組織である。ところが、日本では、暴力団が事務所を町の一等地に堂々と開設している。
 アメリカのことは知りませんが、日本では暴力団事務所は町なかに堂々オープンしています。神戸にある山口組本部の事務所は神戸地裁のすぐ近くにあるようですね。
 私の住んでいる町でも、天下の大企業が戦前より一貫して暴力団を養ってきたことで有名です。労働争議の起きたときには、子飼いの組員がドスを持って労働者を脅しまわり、ついには殺傷事件まで起こしました。
 この本にも指摘されていますが、公共事業の結合も暴力団が裏で取り仕切っているのが実態です。市長と市議会議長そして警察署長が肩を並べて暴力追放パレードを時折していますが、ほんの形ばかりです。決して本気で談合を取り締まったり、暴力団を壊滅させようとはしていません。残念です。
 暴力団が強いのは、なんといってもお金を持っているからです。この本は、暴力団は今や青息吐息としていますが、不景気の続く私の町でも暴力団だけは、なぜか依然として金まわりが良いのです。覚醒剤だけでなく、みかじめ料そしてヤミ金などのあがりがあって、さらに夜の街を支配しているからなのでしょう。
 この本によると、産業処理業も、うまい事業のようです。
暴力団員は長生きできない。たとえば、刺青を入れると、そのためC型肝炎に感染することが多い。針やインクを使い回すからだ。肝臓病や糖尿病も多い。
 暴力団は辞めたい、抜けたいという者をあっさりとは認めない。脅し、難題を吹っかけて、お金を巻きあげようとする。組員の暴力団からの離脱は、脱サラの何倍も困難だ。
 組長でさえ、なかなか引退せず、組を抜けたがらないのは、実は抜けるのが恐ろしいから。組を抜けるともとの若い衆は寄りつかないどころか、逆に元の親分からお金をむしり取ろうとする。元組長は、お金をよほど巧妙に隠していないと、元子分の若い者に食われ、丸裸にされてしまう。
 組を辞めた者に対しては徹底的に踏みつけにして、びた一文残さないほど、むしり取る。これが日本の暴力団の流儀である。やめた者は裏切り者だという認識がある。うへーっ、これって怖いですね。元組長って、安穏と隠退生活を楽しんでいるものとばかり思っていました。
 日本の暴力団対策法は、暴力団と警察が共存共栄を図る法律ではないのか。なぜ、暴力団は違法だと国会は頭から決めつけなかったのか・・・?
 暴力団という組織犯罪集団の存在を認める法律を持っているのは、世界広しといえども日本だけである。
 うむむ、暴対法って、やっぱり暴力団の存在を前提とした法律なのですね。おかしなことですね。暴力団とは関わりたくはありませんが、仕事上で、どうしても時折、接触せざるをえません。チンピラのすご味もそこそこ脅威です。暴力団の実態を知る手引書として一読の価値があります。
(2011年6月刊。760円+税)

タネが危ない

カテゴリー:生物

著者   野口 勲 、 出版   日本経済新聞出版社
 タネは野菜の種のことです。そのタネが危ないという本なのですが、実は動物というか、人間の生存そのものが危なくなっているのではないかと問いかける衝撃的な内容です。
昔は、世界中の農民が自家採取していた。よくできた野菜を選抜し、タネ採りを続けると、3年たつとその土地やその人の栽培方法にあった野菜に変化していく。
 長野の野沢菜の先祖は大阪の天王寺かぶであり、新潟のヤキナスのもとは宮崎の佐土原ナス。
日本のタネ屋の発祥は江戸時代で、栽培した野菜の中で一番よくできたものはタネ用に残し、二番目を家族で食べ、三番目以下を市場に出していた。
 江戸に種苗店が2件誕生したのは天禄年間(1688~1704年)のこと、フランスで種苗商会が創業したのも同じころ(1742年)。
東京オリンピックを契機にした高度成長時代以後、日本中の野菜の種が自家採取できず、毎年、種苗会社から買うしかないF1タネに変わってしまった。
F1は均一で揃いが良いから、指定産地の共選でで秀品率が高く、歩留まりがいい。固定種の多様性・個性は、販売するには邪魔になる。たとえば、固定種大根は収穫まで4ヵ月かかるのに対し、F1大根なら2ヵ月半でできる。
F1(一代雑種)タネの野菜からタネを採っても親と同じ野菜はできない。姿形がメチャクチャな異品種ばかりになる。
 F1種は、現在、雄性不稔(ゆうせいふねん)という花粉のできない突然変異の個体から作られることが多い。子孫を残せないミトコンドリア以上の植物ばかりになって、世界中の人々がこれを食べている。子孫を作れない植物ばかり食べ続けていて、動物に異常が現れないという保障はない・・・。
 F1は一代限りなので、毎年、交配された新しい種を買わなくてはいけない。種苗会社の大きな利益になる。
 F1種がどのように作られるか、その過程はブラックボックスになっている。種苗メーカーは製造過程の秘密を決して明かさない。タネの小売店にも明かしていない。
 ミツバチが消えていること、人間の男性の精子が減っていることと雄性不稔の関係を、誰かが証明したら、大騒ぎになるのは間違いない。野ネズミや野生のサルはF1野菜を食べないそうです。今のままF1野菜ばかりでいいのか、大いに心配になりました。
(2011年9月刊。1600円+税)

蜩の記

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   葉室 麟 、 出版   祥伝社
 ひぐらしのき。このように読みます。しっとり味わい深い、江戸時代の武士を描いた小説です。休日、コーヒーショップをハシゴしながら読みふけりました。
 戸田秋谷(しゅうこく)は、かつて郡奉行(こおりぶぎょう)まで勤めていた。若い頃から文武に優れている。江戸表の中老格要人にまで出世したが、今では山村に幽閉され、藩史の編纂にあたらされている。10年内に完成した時点で切腹という処分を受けている。
話は秋谷が切腹を免れることになるかどうか、なぜ切腹される事件を起こしたのか、その真相は何か・・・。スリルにみちた展開なので、片時も目が離せません。そこで、寸暇を見つけてコーヒーショップに入りこんで読みすすめ、一気に読了することが出来たのでした。この作者の筆力は、いつもながら、たいしたものです。
 藤沢周平は東北の架空の海坂(うなさか)藩を舞台にしてますが、こちらは、福岡藩に近い羽根(うね)藩ということですので、秋月藩あたりを想定しているのかなと思って読みすすめました。
 子どもたちが登場し、恋人を大切にする女性もいて、いろどりあざやか、すっきりした読後感の一冊です。
(2011年11月刊。1600円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.