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カテゴリー: 日本史(江戸)

写楽

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:中野三敏、出版社:中公新書
 ご存知、東洲斎写楽は、江戸時代の浮世絵師。寛政6年(1795年)から7年にかけての、わずか10ヶ月ほどに百数十点の役者絵と数枚の相撲絵を残し、忽然と姿を消した。その写楽の正体を追求する本はたくさんありますが、著者は写楽が阿波藩士の斎藤十郎兵衛であることを立証します。
 なるほど、ここまではっきり断言されたら、そうだろうなと思わざるをえません。
 天保15年(1844年)の『浮世絵類考』に「俗称斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者也」とある。さらに、文化・文政期に成立した『江戸方角分』にも写楽が八丁堀地蔵橋住と書かれている。そして、八丁堀切絵図には、阿波藩能役者の斎藤与右衛門がいたことも判明した。そこで、与右衛門と十郎兵衛とが同一人物なのか、そしてその人物が浮世絵師であるのかが問題となる。
 「重修猿楽伝記」と「猿楽分限帳」によると、斎藤家は代々、与右衛門と十郎兵衛とを交互に名乗ってきた家柄であることが分かる。つまり、親が与右衛門なら、子は十郎兵衛であり、孫は与右衛門となる。
 大名抱えの能役者の勤めは、当番と非番が半年か1年交代であり、謎の一つとされた写楽の10ヶ月だけの作画期間は、その非番期間を利用したものとみると納得できる。
 さらに、江戸時代に築地にあった法光寺が、今は埼玉県越谷に移転しており、そこの過去帳に寛政期の斎藤十郎兵衛の没年月日が発見された。そこには、「八丁堀地蔵橋、阿波殿御内、斎藤十郎兵衛、行年58歳」とある。
 「方角分」が写楽の実名を空欄にしたのは、写楽こと斎藤十郎兵衛が、阿波藩お抱えの、たとえ「無足格」という軽輩とは言え、歴とした士分であったことによる。
 役者絵というものは士分の者の関わるべからざる領域であり、たとえ浮世絵師であろうとも、志ある者にとってはそれに関わることを潔しとしないというのが江戸の通年であった。10ヶ月も小屋に入りびたって、役者の生き写しの奇妙な絵を描いている写楽という絵師が、実は五人扶持切米金二枚取りの無足格士分で、阿波藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛であることを知悉していたからこそ、あえて、その実名を記さなかった。
 十郎兵衛自身の口から、我こそは役者絵描きの写楽にて御座候ということは、口が裂けても言えることではなかった。公辺に知れたら、自身の身分を失うだけではすまず、ひいては自らの上役、もしかすると抱え主である藩主にまで、その累が及ぶやもしれない事態であった。なーるほど、そういうことだったんですか・・・。
 ここまで論証されると、写楽とは誰かというのは、今後は単なる暇(ひま)人お遊びにすぎないように思えますが、どうなんでしょうか・・・。

天草島原の乱とその前後

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:鶴田倉造、出版社:上天草市
 日本にキリスト教が伝えられたのは天文18年(1549年)、天草に伝えられたのは永禄9年(1566年)、さらに大矢野に伝えられたのは21年後の天正15年(1587年)のこと。すでに40年ほどたっており、早いほうではない。
 天草四郎は大矢野関係の人物であり、乱を企画し推進したとされる浪人たちも大矢野の千束(せんぞく)島に住んでいた。
 天草島原の乱の直接のきっかけは、口之津で信者が唱えごとをしていたときに、代官の林兵左衛門が御影を引き裂いたことにある。
 天草島原の乱に、小西・有馬・天草5人衆などの関係遺臣が多数いたのは紛れもない事実である。
 当時は数年にわたって天候異変が続いて連年の凶作だった。この異常気象は寛永9年ころから続いていた。寛永14年(1637年)にも異変が続いている。夏には干魃で、不作。5月に火の玉が天空を飛行、7月には江戸で激しい雷雨と地震、9月に高野山で火事、9月から10月にかけて連日、雲が真っ赤に焼けた。将軍家光は病気。人々は異常心理に陥った。
 このように地獄のような社会になったのは、先のキリシタン改めで自分たちが転んだために、天国の神様が怒っておられるせいだ。そのつぐないのためにキリシタンに復宗する必要がある。人々は浪人たちの策動に乗せられた。
 島原半島の各地では、主として領主の苛政に対する反抗が強かった。四郎を中心とする天草地方では、キリシタンの立場から、その救済のために立ち上がった。
 天草四郎の父は益田甚兵衛(ペイトロ)という長崎浪人で、乱の当時、宇土の江部村の庄屋次兵衛の脇屋に住んでいた。年齢は56歳。四郎の母は50歳で、マルタという。日本名は不明。四郎は長崎に生まれた。乱の当時、15歳か16歳。父も母も大矢野の出身で、親族も多かった。四郎が長崎で出生したのは、当時、長崎は各地で迫害にあったキリシタンたちの避難地になっていたからである。
 天草四郎と対面した久留米の商人がいる。その名を与四右衛門という。
 四郎のいでたちは、常の着物の上に白い袴をつけ、たっ付け袴をはき、頭には苧(からむし)を三つ組にして緒(お)をつけ、喉の下で結び、額には小さい十字「クルス」を立て、手には御幣をもっていた。
 幕府軍の一員として原城を攻めていた武士による天草四郎の姿は次のとおり。これは大坂から鉄炮奉行として松平信綱に従っていた鈴木重成が大坂へ送った書状にある。
 天草四郎は年齢15、6歳という。原城にいる者はあがめており、六条の門跡(もんぜき)よりも上という。下々の者は頭を上げて見ることもできないほど恐れている。
 籠城中の原城に対して、松平信綱は降伏をうながす矢文を送った。それに対して城内から次のような返事があった。
 城を出たら家や田畑をくれるというけれど、我々には広大無辺の楽土が約束されているので、そんなものは必要ない。まして、江戸や京都の栄華・悦楽は、かえって業障の障りになる。
 ともすれば恨み言の一つも並べたくなるような切迫した状況におかれながら、宗教の神髄を会得し達観していたと思われる矢文の返事である。
 ただし、原城内には、このようにキリシタンの作法に従って、すべてを許し喜んで死んでいこうとする者と、せめて領主の長門守に一矢を報いようとする者の両派があった。城内は、一枚岩ではなかった。城からの落人も、城内には3人の頭(かしら)がいて、争いが絶えないと証言した。
 天草四郎は総攻撃のあった2月27日の翌早朝に幕府軍に討ち取られた。四郎の首は「カネを入れた色白の綺麗な首」だったと書かれている。カネを入れるとは、鉄漿(おはぐろ)のことで、当時は、高貴の人は男もカネを入れていた。
 天草四郎の首は上使の実見の後、原城外に札をつけて晒(さら)され、のちにさらに四郎の生まれた長崎に移して1週間晒された。3月6日、四郎の母や姉らが処刑された。
 天草四郎の島原の乱について、上天草市が市史としてまとめた本です。島原の乱について、いろいろ勉強になりました。

真説・阿部一族

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:升本喜年、出版社:新人物往来社
 森鴎外の『阿部一族』は読みましたが、もう何十年も前のことですので、『五重塔』は最近再読しましたから記憶に新しいのですが、ちっとも覚えていません。ただ、同じ肥後藩士の阿部一族に襲いかかった苛酷な運命を描いたというので読んでみました。武士の世界も大変なんだとつくづく思いました。山田洋次監督の武士三部作映画「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」「武士の一分」を思い出します。ああ無情という感じです。
 時代は江戸時代初期。寛永14年(1637年)、島原の乱が始まった。肥後熊本藩の細川軍は攻撃軍のなかで最大の損失を蒙った。戦死者270人あまり、戦傷者1800人。
 阿部一族の当主、阿部弥一右衛門は、豊前国宇佐に土着し、勢力をはる豪族だった。細川忠利の父・細川忠興が慶長5年、豊前の領主に封じられた。領内の土豪たちの強大な存在をみて、逆利用することにした。
 その後、細川忠利は肥後に封じられ、阿部も一緒に豊前から移った。このとき知行100石(すぐ300石)の武士となった。肥後は、秀吉でさえ「難治の国」といったほどの大国である。幕府は忠利の肥後入国にあたり、小倉城から武具や玉薬の一切を持ち出すことを許しただけでなく、大阪城から石火矢3、大筒10、小筒1000、玉薬2万を出した。肥後は「一揆どころ」といわれるほど一揆の多い国として知られた。惣庄屋だけでも100人以上いる。土豪あがりのほか、大友、小西、加藤の遺臣もいる。細川氏に反発し、簡単に心を評するとは思われない。そこを忠利は治めた。阿部も力を尽くした。
 その殿様・忠利が病死した。その直前、殉死を禁ずると言い渡していた。だから、阿部も殉死する気はなかった。それに忠利の子・光尚は殉死を禁じた。
 忠利亡きあと、阿部のように忠利に眼をかけられて取立られていた者と細川藩譜代の者たちの対立が目立ってきた。ところが、忠利は実力第一主義で、実力のある者なら、家柄や血統などに関係なく眼をかけ、思い切って仕事をやらせ、大胆な抜擢も断行するし、十分の待遇も惜しまない。多少、性格に欠陥があったり、悪い前歴が多少あったりす者でも、能力があり、ひたむきに働く者であれば、その者を認め、眼をかけた。反面、肩書きだけで実力のない者や積極性のない者は極端に無視し、冷遇した。だから、無視された方には、嫉妬と怨念が蓄積する。反動が来るのも当然だ。
 阿部弥一右衛門が忠利の遺訓を守って切腹しないことに対して、怨みをもつ者たちが嘲笑しはじめた。「卑怯者」「臆病者」「あれは百姓だ」と・・・。さすがの弥一右衛門も耐えきれない。
 光尚は熊本城に初登城したその日に、弥一右衛門が殉死したとの報告を受けた。なんたること、言語道断。家臣としてあるまじきこと。怒りを抑えきれない。
 殉死者19人の相続人全員が登城して、相続を許された御礼を光尚に言上した。跡式相続が内定してから、もう二ヶ月目に入っているが、このお目見えがあって、はじめて相続の正式決定となる慣わしだ。阿部権兵衛は、このとき、相続人代表として言わずもがなのことを光尚に申し立てた。
 光尚の下で権勢を誇る林外記にとって、今や阿部一族は邪魔者としかうつらない。これをたたきつぶせば、他の者への見せしめになる。ついに阿部一族みな殺しが決まった。討手総数17人が選ばれた。
 夜明け前からの討ち入りが終わったのは午後3時過ぎ。阿部一族全員が殺された。その討ち入りの凄惨な情景が活写されています。映画でも見ているような感じです。
 ところが、まもなく光利が31歳の若さで倒れた。阿部一族が誅伐されて6年目のこと。林外記は無用の邪魔者となった。そして、早朝、四人組に襲われて、林外記は討ち果たされてしまった。
 阿部一族の忠実をふまえた小説です。なかなか迫力がありました。因果はめぐるという話になっています。森鴎外の小説は忠実と違うところがあるという指摘もあります。

遙かなる江戸への旅

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:永井哲雄、出版社:みやざき文庫
 江戸時代、参勤交代は250年ものあいだ厳しく守られてきた。日向国にある四つの藩から江戸まで350里(1400キロ)を、毎年、200人以上の集団で、片道1ヶ月以上もかかる陸と海の旅を休むことなく往来した。
 この本は、その実情を当時の記録をもとに探っています。 寛永12年の武家諸法度以後、参勤交代は江戸到着日が決まっていたので、出立日は、それから逆算してきめられていた。飫肥藩は3月1日、佐土原藩も同じ。日向路は陸路、細島から船で大坂まで行き、大坂から大坂から東海道を陸路で江戸へ向かう。江戸に着くと、1年の在府。
 翌年の4月から5月に帰国の旅につく。真夏に辛い旅をする。国元には約10ヶ月しかおれない。
 役にある限り、生涯歩き続けるのが江戸時代の大名領下の役人である。幕末の飫肥藩の上士川崎一学は、55年間になんと14度の江戸御供をしている。人生の半分を旅に過ごしたことになる。
 参勤交代を守らないときには、大名改易の理由となった。
 大名が参勤交代の往返に耐えることができなくなったら、家督を譲る理由となる。
 大名の妻のうち、正室は幕府に認められた婚姻を結んだもの。夫がまだ家督をついでいないときには御新造様、当主になると御奥様、当主が隠居すると大御奥様、夫が死去すると院と呼ばれる。側室については、さまざまに呼ばれる。御部屋様、御召仕、奥御女中、御妾、奥御奉公人。
 正室と嫡男の江戸と国許の往来は厳しく禁ぜられているが、側室の方は往来自由となっていた。江戸藩邸は、上屋敷であれ、中屋敷、下屋敷であれ、藩主の私有物ではない。幕府からの貸与物である。いつ屋敷交替を命ぜられるも分からない。
 高鍋藩の場合、江戸藩邸詰の人数は、徒士(かち)以上は家老・用人・留守居各1人、者頭6人、給人・家嫡25人、中小姓24人、徒士52人、医師など3人、合計113人。このほかに足軽から小人(こもの)まで同数がいた。そのとき、国許には、徒士以上は  220人いた。
 つまり、藩主が江戸にいるときには、上、中家士のうち3分の1が江戸に詰め、残り3分の2が国許で城を守り、治世にあたっていた。
 高鍋藩の参勤交代の絵がある。1月前に先触れが通過する諸大名や幕府御料所に挨拶のため先行する。前日には、宿割りの一行が先行して、休憩・宿泊の準備をする。絵図に百数十人が描かれているが、実際には、これよりかなり多くなる。これが公高3万石前後の大名の供揃えである。大変な旅行だったんですね。

徳川光圀

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著者:鈴木暎一、出版社:吉川弘文館
 有名な「水戸黄門」の主人公の素顔を追求した本です。葵の印籠ですべてが解決するなんて、映画(ビデオ)のなかだったらいいのですが、現実にそんなものがあったら困りますよね。文句があっても、権力者の言いなりになれっていうことですからね。
 光圀は光国だったこと、少年時代はほとんど非行少年だったこと、隠居したあと側近を自ら手討ちした(殺した)ことなどを知りました。人生いろいろあるものなんですね。
 光圀は徳川家康の孫なんですね。知りませんでした。父の頼房は、家康の末子(11男)だったのです。父頼房も、壮年期になるまでは、豪気というより奔放・無軌道の一面があった。まだ戦国時代の風潮が残っていた。
 父頼房は光圀を世継ぎ(世子)と定め、気骨ある武人、武将に育てあげることに心を砕いた。しかし、光圀は勝ち気で強情な少年だった。馬術とともに水泳を得意とした。光圀は、17歳ころまで、父の期待を裏切ること甚だしい品行不良の少年だった。
 言語道断の歌舞伎人と評された。
 脇差しは前へ突出して差し、挨拶の仕方や殿中を歩く姿は軽薄・異様。着物はいろいろ伊達に染めさせ、びろうどのえりを巻き、長屋へ単身出かけて厩(うまや)番や草履取りとも気軽に色好みの話をし、三味線を弾いている。
 なーるほど、かなりの不良青年だったようですね。光圀が遊里から朝帰りするとき、酔っぱらいが刀をふりまわしているのにぶつかった。水戸家出入りの旗本の子だったので、一喝しておさめた。こんなエピソードも紹介されています。
 18歳になって、光圀はすっかり反省し、行状を改めました。それからは学問に精励したのです。
 光圀はなかなかの美男子で、もてたとのこと。色白にして面長、額ひろく切れ長の眼で鼻梁の高い美男だった。登城の日、その姿を見ようと大勢の人が押しかけ、人垣が崩れかかって騒動になったこともあるそうです。
 光圀はずっと江戸に住んでいた。36歳のときに初めて水戸へ下った。以後、10回、藩主として水戸に下っている。えーっ、そんなに少ないのですかー・・・。驚きました。
 光圀は生涯ほとんど旅行らしいものをしていない。水戸から鎌倉・江ノ島そして江戸へ17日間かけて旅行したのが、生涯唯一の旅らしい旅だった。要するに、「水戸黄門漫遊記」なるものは、まったく架空の話なのです。
 光圀はずっと光国でした。この圀という字は、唐の則天武后がつくった則天文字の一つです。ほかの字は廃されたのに、なぜか、この圀の字だけ日本に生き残ったのです。
 光国が光圀としたのは、56歳のときのこと。
 光圀は蝦夷地探検を試みた。苦しい藩財政に利益をもたらす目論見があったようだ。探検のため性能のよい大船(快風丸)を建造した。全長27間、幅9間。千石船をはるかにしのぐ規模の巨船だった。
 光圀67歳のとき、小石川の藩邸で能興行中に、腹心を手討ち(刺殺)した。かねがね、その高慢ぶりに注意を与えていたが、問答の末、もう堪忍なりがたく成敗した、というのです。やっぱり、殿様って怖いですね。
 光圀が大日本史の編纂にとりかかったのは30歳のとき。73歳で死んだときも、まだ完成はしていませんでした。歴史を書くというのは、すごく息の長い事業なんですね。

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