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カテゴリー: 日本史(江戸)

大坂商人旅日記、薩陽紀行

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 高木 善助(東條 広光) 、 出版  鹿児島学術文化出版
江戸時代も末の文政・天保のころ、大阪と鹿児島を10年間のうちに6回も往復した大坂商人がいました。片道20日ほどもかけています。あちこち寄り道して、それを画張にスケッチして残したのです。
ときの薩摩藩主は島津重豪、そして調所広郷が財政改革にとりくんでいた当時です。従来の銀主(大名貸しの商人)たちに見放された薩摩藩は新しい銀主を求めて、著者たちを重用することにしたのでした。
大坂の豪商・平野屋五兵衛の分家筋にあたる著者は、そんなわけで薩摩の現地まで出かけたのでした。当時の大名貸しの平均的な利息は年利9.6%(月利0.8%)だったのに対して、年利2.4%におさえたというのです。
それでも、新しい銀主には、俸禄や資金運用でのメリットがあったのでしょう。
薩摩藩は、紙の原料である楮(こうぞ)の皮を年貢の一つとして領民に納めさせ、地域の紙漉(かみすき)職人に下げ渡して、紙を漉かせて、お金を払って藩に納めさせていた。
この紙をなるべく高く、大坂で売りさばいて収入を得ようというのです。
この著者の旅日記には、当然のことながら、その経済的な仕組みは書かれていません。
著者の描いた絵は島の目で見たような風景画です。よほどの観察眼がなければ描けません。ただ、残念なことに人物はほとんど描かれていません。
したがって、当時の人々の生活を知ることは難しいのですが、江戸時代の風景画としては、感度(構図も写真も)は良好です。
(2016年10月刊。1482円+税)

百姓たちの山争い裁判

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 渡辺 尚志 、 出版  草思社
日本人が昔から裁判を好んでいなかったなんていう俗説はまったく事実に反しています。弁護士生活43年になる私の実感です。
聖徳太子の「和をもって貴しとせよ」というのは、当時、あまりの裁判の多さに呆れて、おまえたち、いい加減にせよと嘆いて言ったというものです(聖徳太子はいなかったという説も有力ですが・・・)。
この本は、江戸時代に日本全国で起きていた山をめぐる裁判のてん末を明らかにしています。なかには、なんと300年続いていた裁判もあるというのですから、驚きです。
江戸時代の裁判は、今と違って手数料(貼用印紙)ゼロです。ただし、交通費や宿泊費は自己負担でしたから、それがバカになりませんでした。そして一審制で、上訴(控訴・上告)はありません。ところが、越訴(おっそ)という非常手段はありました。それをしたからといって、すぐに死罪になるというものでもありませんでした。
林野の多くは、共有地だった。一つの村だけの入会を村中入会(むらじゅういりあい)、複数の村々による入会を村々入会(むらむらいりあい)と呼ぶ。
入会地は村の共有地だったから、村人たちがそこを利用するときは、村で定めた利用規則に従う必要があった。自分勝手な利用は出来なかった。入会山で盗伐した者は、耳をそいで村を追放するとか、米五斗の過料と定められていた。
領主を異にする村同士の争いは、村(百姓)と藩(武士)がペアを組んでたたかうタッグマッチの様相を呈していた。
山争いの功労者は神として祀(まつ)られた。領主が訴訟を受理するのは、領主の義務ではなく、お慈悲だった。ところが、実際には、百姓は武士が辟易(へきえき)するほど頻繁に訴訟を起こした。百姓は、「お上(かみ)の手を煩(わずらわ)すことを恐れはばかってはいなかった。
裁判が始まって、訴えたほうの訴状と、訴えられたほうの返答書は、子どもたちの学習教材として村々に流布していた。
江戸時代の裁判は、純粋に法にのっとって理非を明らかにするというものではなかった。藩の統治の正しさを確認するという政治的意図が明らかに認められた。
村の代表者は、入牢するくらいではへこたれなかった。
百姓のたくましさがここにも見てとれると思いました。面白い本です。日本人は本当に昔から裁判が好きなのです。
(2017年6月刊。1800円+税)

殿様の通信簿

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 磯田 道史 、 出版  新潮文庫
「土芥(どかい)冠讎(こうしゅう)記」という元禄期の本があるそうです。
著者は、この本のなかから、現代に生きる私たちに、江戸時代の殿様の生々(なまなま)しい生活の実情を教えてくれます。この本は、隠密(おんみつ)の探索の結果にもつづいて、幕府高官が書いたもののようです。殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を仇(かたき)のようにみる、という意味の言葉です。
水戸黄門とも呼ばれた徳川光圀の素行調査もされている。
それによると、とても品行(ひんこう)方正(ほうせい)とは言えない。江戸時代の大名のなかでも、光圀はズバ抜けて好奇心の強い人物だった。現実の光圀は、諸国漫遊こそしなかったが、その存在は、当時の人々にとって、衝撃的だった。家康の孫という高貴な人物が、好奇心にかられて、色街に出没する。その噂だけでも、当時の人々の心は十分に浮き立った。浅野内匠頭(たくみのかみ)は、無類の「女好き」であり、さらには、「ひき込もり」行動がみられた。そして、地元の家老の仕置も、心もとない。若年の主君が色にふけるのをいさめないほどの「不忠の臣」だから、おぼつかない。
前田利家は、体が大きく、身長も高く、180センチもあった。
江戸時代は270年も続いた。人間の一世代を30年前後とすると、約10世代になる。
江戸時代は250の藩があり、それぞれ一つの大名がいた。だから、少くなくとも250人の大名がいた。
江戸城では、大名の席順は、石高ではなく、官位で決まる。そのため、「官位」は、大名の最大の関心事になっている。
この本を読むと、殿様は決して気楽な稼業とは言えなかったようです。
(2017年6月刊。520円+税)

忍者の末裔

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 高尾 善希 、 出版  角川書店
「江戸城に勤めた伊賀者たち」というサブタイトルがついた本です。甲賀・伊賀というと、忍者集団が活躍したと連想しますが、平和な江戸時代には、あまり忍者が活躍できたとも思えません。
この本によると、本能寺の変のあと徳川家康が伊賀忍者の助けを借りてなんとか山越して江戸に帰りついたというのは、必ずしも史実ではないということです。もし、そうだったとしたら、もう少し重用されていただろうというのです。なるほど、と思いました。
この本は、伊賀忍者の子孫を名乗る人の家にあった古文書を解読した結果をもとにしていますので、まさしく新発見史料によって江戸時代の下級武士の生活が判明し、紹介されています。
伊賀者の家禄は高30俵二人扶持が多かった。これは、現代の年収でみると100万円から200万円までとなる。これでは、生活は成り立たない。松下家は、さらに少なく、家禄はわずか高20俵2斗6升2合勺、二人半扶持でしかなかった。
徳川時代の泰平の世においては、伊賀者は忍者としての特殊な役割はあまり要求されていなかった。
徳川幕府の「伊賀者」は単に職名にすぎないので、伊賀国出身の家系をもたないものも伊賀者に属することがあった。「紀州系伊賀者」は、やがて分派した御庭番となり、幕府の諜報活動に従事するようになった。
吉宗将軍は、全国の薬草の採集のため「伊賀者」をつかって全国をまわらせていた。
旗本と御家人とでは、家格が大きく異なっていた。御目見以上の旗本であれば殿様そして奥様と呼ばれたのに対して、御家人は、どんなに裕福であっても、殿様とも奥様とも呼ばれず、旦那様、御新造様と呼んだ。
古文書に書かれている文字は、「御家流」のくずし字であることがほとんど。私も、このくずし字を読めたらどんなにかいいことかと思いますが、語学はフランス語だけで手一杯なので、古文のくずし字にまでは残念ながら手がまわりません。
江戸時代の下級武士の生活が、戦災にあわず残っていた家伝の古文書にもとづいて明らかになったというのです。すばらしいことです。しかも、最近の発掘調査で、胞衣皿が見つかったといいます。恐るべき偶然です。
(2017年1月刊。1700円+税)
日曜日の午後、ジャガイモを掘りあげました。地上部分の茎が茶色になって枯れはじめていました。あれっ、どうしたんだろう。6月になったら掘りあげようと思っているのに、今年は失敗してしまったのかな・・・。心配して、そっと一本の茎を引っぱってみました。すると、いい形をしたジャガイモが姿をあらわしたのです。そこで、スコップをもって、掘り下げてみました。すると、次々に見事なジャガイモたちが出てくるわ、出てくるわ・・・。メイクイーンと男爵とキタアカリの3種類です。3列を1列ずつ植込んでいましたが、その全部から収穫できました。早速、夕食のとき、ゆでてバターをつけていただきました。とても味が良く、大満足でした。
ジャガイモを全部掘りあげたあとは、大きめの穴を掘って、コンポストに入れておいた枯れ枝などを投げ込み、生ゴミも投下しました。この作業の途中、小ヘビの死骸を見つけてしまいました。ハエがたかっていたのです。どうして死んだのか不思議です。長さは15センチほど、黒と白のだんだら縞がありました。まさかマムシじゃないでしょうね。アオダイショウではないでしょう。我が家の庭には昔からヘビが棲みついているのです。小ヘビの死骸も生ごみと一緒に埋めてやりました。
初夏の到来を告げる黄色いカンナの花が咲いているのに気がつきました。
夕食後、うす暗くなってホタルを見に出かけました。我が家から歩いて5分のところに「ホタルの里」があります。そこにたどり着く前から小川の周囲にホタルが明滅しています。道端を飛ぶホタルを両手で包み込みんでみました。重さは感じません。ふっと息を吹きかけると、慌てて飛んでいきます。たくさんのホタルの飛びかう様子は、毎年見ていますが、いつもたちまち童心に戻ります。幽玄境に遊ぶ境地です。といっても、実は道の舗装部分の段差につまづいて、危く小川に飛び込んでしまうところでした。おたがい暗い夜道と甘い言葉には気をつけましょうね。たちまち現実に引き戻されてしまいました。

ヤマンタカ、大菩薩峠血風録

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 夢枕 獏 、 出版  角川書店
大菩薩峠というと、赤軍派が軍事演習していて大量検挙されたことをすぐ思い出します。その内幕が小説化されたのが警察官三代の生きざまをたどった警察小説(『警官の血』)です。
この本は、舞台は幕末。机竜之助が登場します。つまり、中里介山(かいざん)の『大菩薩峠』を底本とする全く新しい小説なのです。
『大菩薩峠』は大長編小説です。私は、その長さに恐れをなして、初めから挑戦しようとしたこともありません。著者は3回も挑戦したそうです。だけど、全20巻のうち、2巻目の途中で、いつも挫折したとのこと。やはり文庫本で20冊は長いです。長すぎます。ところが、この本の「あとがき」によると、それでも著者本人が新聞連載のものを3割もカットしているとのこと。すごいですね・・・。
大菩薩峠って、いったいどこにあるのでしょうか・・・。
タイトルの「ヤマンタカ」とは、正しくはヤマーンタカ。頭部が水牛で、身体は人間。仏教の尊神で、日本では大威徳明王。水牛に乗っている明王でもある。
ヤマーンタカのヤマは、夜摩天、つまり地獄の閻魔(えんま)大王のこと。ンタカはアーンタカで、殺す者。したがって、地獄の閻魔を殺す者になる。このヤマーンタカの本地は、文殊(もんじゅ)菩薩という。地獄の閻魔を殺すほどの力をもった尊神の実体が菩薩。最凶にして菩薩。これが机竜之助。剣豪小説です。
大菩薩峠は江戸を西にさる30里、甲州裏街道が甲斐団東山梨郡萩原村に入って、その最も高く、最も険しきところ、上下八里にまたがる難所。青梅から16里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠。
近藤勇、土方歳三、沖田総司も登場してきます。
歳三がねらうのは、相手の頭ではない。腕でもなく、胴でもなく、脚である。
斬るときに相手が踏み出してきた脚を真横から上下に両断する。いや、何も足を両断せずともよい。
ふくらはぎまで斬らず、脛の骨を、その太さの半分も斬り割ればよいのだ。
飼われて訓練された技(わざ)ではない。野良犬の技だ。それで勝負は決することになる。
しかし、こちらから呼吸を計って前に出る技ではない。あくまでも相手が攻撃して踏み込んでくるのを待つ技だ。そのため、頭部を、無防備に相手にさらしているのである。
すさまじいまでの精神力が必要な技だ。相手の動きを瞬時に察して動かなければ、自分が斬られてしまうことになる。
息づまる斬り合いが見事に描かれ、思わず息をのみながら頁をくっていくことになります。その筆力にただただ圧倒されてしまいます。それにしても机竜之助とは不気味な存在です。
(2016年12月刊。1800円+税)

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