法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(江戸)

ヤマンタカ、大菩薩峠血風録

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 夢枕 獏 、 出版  角川書店
大菩薩峠というと、赤軍派が軍事演習していて大量検挙されたことをすぐ思い出します。その内幕が小説化されたのが警察官三代の生きざまをたどった警察小説(『警官の血』)です。
この本は、舞台は幕末。机竜之助が登場します。つまり、中里介山(かいざん)の『大菩薩峠』を底本とする全く新しい小説なのです。
『大菩薩峠』は大長編小説です。私は、その長さに恐れをなして、初めから挑戦しようとしたこともありません。著者は3回も挑戦したそうです。だけど、全20巻のうち、2巻目の途中で、いつも挫折したとのこと。やはり文庫本で20冊は長いです。長すぎます。ところが、この本の「あとがき」によると、それでも著者本人が新聞連載のものを3割もカットしているとのこと。すごいですね・・・。
大菩薩峠って、いったいどこにあるのでしょうか・・・。
タイトルの「ヤマンタカ」とは、正しくはヤマーンタカ。頭部が水牛で、身体は人間。仏教の尊神で、日本では大威徳明王。水牛に乗っている明王でもある。
ヤマーンタカのヤマは、夜摩天、つまり地獄の閻魔(えんま)大王のこと。ンタカはアーンタカで、殺す者。したがって、地獄の閻魔を殺す者になる。このヤマーンタカの本地は、文殊(もんじゅ)菩薩という。地獄の閻魔を殺すほどの力をもった尊神の実体が菩薩。最凶にして菩薩。これが机竜之助。剣豪小説です。
大菩薩峠は江戸を西にさる30里、甲州裏街道が甲斐団東山梨郡萩原村に入って、その最も高く、最も険しきところ、上下八里にまたがる難所。青梅から16里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠。
近藤勇、土方歳三、沖田総司も登場してきます。
歳三がねらうのは、相手の頭ではない。腕でもなく、胴でもなく、脚である。
斬るときに相手が踏み出してきた脚を真横から上下に両断する。いや、何も足を両断せずともよい。
ふくらはぎまで斬らず、脛の骨を、その太さの半分も斬り割ればよいのだ。
飼われて訓練された技(わざ)ではない。野良犬の技だ。それで勝負は決することになる。
しかし、こちらから呼吸を計って前に出る技ではない。あくまでも相手が攻撃して踏み込んでくるのを待つ技だ。そのため、頭部を、無防備に相手にさらしているのである。
すさまじいまでの精神力が必要な技だ。相手の動きを瞬時に察して動かなければ、自分が斬られてしまうことになる。
息づまる斬り合いが見事に描かれ、思わず息をのみながら頁をくっていくことになります。その筆力にただただ圧倒されてしまいます。それにしても机竜之助とは不気味な存在です。
(2016年12月刊。1800円+税)

シャクシャインの戦い

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 平山 裕人 、 出版  寿郎社
日本は単一民族ではない。アイヌ人が民族として存在しているというのは歴史的な事実だと私も思います。同じように琉球民族がいたという説もありますが、そちらには私は賛同できません。
そのアイヌ人が江戸幕府側からの迫害に抗して起ちあがったのが1669年のシャクシャインの戦いです。これを「乱」と呼ぶのは、「和人」の側に立つ論法だと私も思います。
アイヌ史上、三つの大きな戦いがある。コシャマインの戦い、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦いである。
1600年が関ヶ原合戦の年ですよね。その1669年6月にシャクシャインの戦いが始まりました。首領のシャクシャインは1669年10月に松前藩によって騙し討ちされて殺害されましたが、戦い自体は3年のあいだ続いています。
このころ、松前は砂金を産出していて、日本中から砂金を求めて人がやってきていた。その数は3万人とも5万人とも言われた。アメリカの西部開拓時代のようなゴールドラッシュが17世紀の北海道にもあっていたのですね・・・。
シャクシャインの戦いのあと、松前藩士が商人に請け負わせ、請け負った商人がアイヌと交易する。藩士は商人から運上金をとるという形態がとられていた。交易の場所を「商場」(あきないば)とか請負場所と呼んでいた。
当時、北海道各地に居住していたアイヌの人々の生活は追い込まれていた。アイヌシモリに金掘りが入り、鷹師が入り、漁師が勝手に魚を獲り、交易は不当なものだった。それで、シャクシャインの呼びかけにアイヌ民族が広範に呼応し、松前藩を攻めた。
松前藩を滅ぼし、自由交易を復活させることが目的だった。しかし、現実には、アイヌ民族も松前藩も、互いを必要とする経済基盤をもっていたから、交易の仕組みが変わることはあっても、どちらかが滅びるしかないということにはならなかった。
シャクシャインの戦いを本格的に論じた貴重な本だと思いました。
(2016年12月刊。2500円+税)

カロライン・フート号が来た

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 山本 有造 、 出版  風媒社
1855年(安政2年)3月15日(日本暦1月27日)にアメリカ商船カロライン・E・フート号が下田港に入って来た。ペリー艦隊が既に来て、次いでロシアのプチャーチン使節団が来たあと、アメリカ人が商売にやってきたのだ。
6人の平服の紳士が3人の妙齢の婦人を伴い、さらに2人の幼い子どもを連れてきた。そして、2ヶ月半も下田に留まった。西洋人の女性が日本に上陸したのは文化14年(1817年)の長崎以来の、50年ぶりのこと。
3組の夫婦が子ども連れで町を練り歩いたことから、一大センセーションを巻き起こした。子どもは、9歳の男の子と5歳の女の子だった。彼らは、子どものペットとして犬二匹のほかに鹿まで連れていた。鹿の絵が描かれているので間違いない。
なかでも、ドーティー夫人は「容顔美麗、丹花の唇、白雪の膚」で「衆人の眼を驚かせ、魂を飛ば」せた。なにしろ芳紀22歳。目の覚めるような美女だったようです。
これらのアメリカ人は日本へ何をしにやって来たのか・・・。
彼らは、日本に住み込んで、商売をしようという商人パイオニアだった。実際には、日本に住み込むことは出来ませんでしたが、日本の目ぼしい品物を大量に買い込んでアメリカ本国で売り出して、大もうけしたのです。
日本の工芸品や骨董品を7400ドルで買い込み、それをサンフランシスコで売り出したところ、売上額2万3000ドルになった。大もうけしたわけです。
そこで、日本物産を輸入してひともうけしようという冒険商人が次々に日本を目ざした。
自由闊達にふるまった三人の女性と二人の子どもについて、接触した日本人のほとんどが魅了された。アメリカは美女の多い国であり、子どももきれいだ。それで、彼女らを描いた絵がたくさん残されている。
ただし、アメリカは、やがて南北戦争が激しくなり、しばらくは日本どころではなくなった。
幕末の日本にアメリカの若き女性を連れた商人たちが押しかけていた事実をその絵(もちろんカラー)とともに知ることができました。
(2017年2月刊。2000円+税)

幻の料亭・日本橋「百川」

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 小泉 武夫 、 出版  新潮社
江戸時代の高級料亭としては「八百善(やおぜん)」が有名ですが、日本橋にあった料亭「百川(ももかわ)」も、それに続いていました。
なにしろ、お値段が高い。最低でも1万6700円はしました。その上は2万5000円、最高は3万3400円です。「八百善」は、さらに高額です。
江戸番付三大料亭は、「八百善」のほか、深川の「平清(ひらせい)」、檜物町の「嶋村」。「百川」は、それらに次第に肩を並べるようになっていった。
江戸時代の一流の料理屋は、食事の前に、まず風呂に入っていたのだそうです。汗を流して、さっぱりした気分で美味しい料理をいただいたのですね。今でも合宿したときなどには、宴会の前に一風呂あびることがありますが、それと同じです。
「百川」には、当代きっての文人墨客が頻繁に出入りしていた。その中心的存在は大田南畝。
「百川」は真夏に「霰(あられ)酒」を供した。極上の酒に氷を砕き入れたもの。冷蔵庫のない江戸時代なのに、真夏にオンザロックで酒を飲んでいた。山に氷室を備えていた。
「百川」の厨房は、カマドの火力が強く、煙突は高くして煙は強制的に外へ吐き出すようにしていた。常に新鮮な水が井戸から汲み上げられていた。
江戸っ子は、魚は白身を食べていた。マグロは下魚として敬遠された。
日本橋の魚河岸に隣接して、幕府のつかう魚を確保するための「活鯛(いけだい)屋敷」が設けられていた。「肴役所」(さかなやくしょ)とも呼ばれた。
幕末のペリー来航のとき、「百川」が活躍したのだそうです。初めて知りました。1853年7月のことです。ペリー58歳。「百川」の主人・茂左衛門は72歳。このとき、幕府はペリー一行をもてなすため、アメリカ側300人、接待する日本側200人の合計500人分の料理を「百川」に請け負わせた。
これはすごいですね。冷蔵庫のない時代の500人の宴会料理って、いったい、どうやってつくって、また運んだのでしょうか。
一人前3両、つまり30万円、500人分だと1億5000万円の大饗宴です。
ところが、魚主体で、微妙な味わいを誇る日本料理は、ペリー側を満足させるものではなかったようです。肉や乳製品に食べ慣れている口には、きっと物足りなかったのでしょう。
ただ、デザートのカステラは好評だったとのこと。
ところが、この「百川」は明治になったとたんに姿を消してしまうのです。不思議です。
そんな「百川」の粋を尽くした料理を味わった江戸の人々は幸せでした。さすがに料理の大家が発掘した話ですから、味わい深い内容の本になっています。
(2016年10月刊。1300円+税)

本当はブラックな江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  永井 義男 、 出版  辰巳出版
 江戸時代をあまり美化しすぎるのはよくないと強調している本です。
私も、なるほどと思います。なにしろ、病気になったときの対応が違います。病院が身近にあり、よく効く薬が簡単に手に入る現代社会のほうが確かに安全・快適なことは間違いないところだと私も思います。
 私は、恥ずかしながら、この本を読んで初めて江戸時代の遊女が長生きできない理由を認識しました。遊女はコンドームなしで10年ものあいだ不特定多数の男と性行為をしていたわけですから、梅毒や淋病などの性病にかからないほうが不思議です。そのうえ不健康な生活と過労、質素な食事による栄養不良、集団生活にともなう感染症のため、多くの遊女が10年の年季の途中、20代で病死したと見られている。
ああ、そういうことだったのか、初めて理解しました。哀れですよね。それでも、メシが食べられるだけ良かったという現実もあったようです。極貧の生活のなかで、親から売られてきた少女たちが大勢いたわけです・・・。
吉原の花魁(おいらん)が人々(男女とも)のあこがれの的(まと)だったのは事実である。
しかし、そんな僥倖(ぎょうこう)を得たのは、ほんのひとにぎりの遊女でしかなかった。
なるほど、ですね。
江戸の人が毎日お風呂に入っていたと私はなんとなく思っていましたが、そんなことはなかったといいます。自宅に風呂がある家は珍しかったのですから、これまた言われてみれば当然です。
 滝沢馬琴は、8ヶ月のあいだに湯屋(銭湯のことです)に行ったのは10回にすぎない。20日に1回という割合だ。長屋に住む下級藩士の日記によると、夏は行水ですませ、風呂にはいるのは6日に1回の割合だった。
 江戸時代の日本人の識字率が世界一だというのも怪しい。たしかに寺子屋があり、いろんな塾があった。しかし、子どもたちの大半は3年未満でやめている。だから、簡単な読み書きはできたかもしれないが、それくらいだった。
 役付の武士のなかにも文盲がいた。文も武もダメな武士は多かった。
バカ殿様が多かったのは家臣たちが、利口な殿さまを嫌っていたから。家臣たちからすると、独裁者になって藩政改革なんて始められたら困る。政治に興味のない殿さまのほうがよい。殿さまは飾り物になっておけばよいのだ。
 アーネスト・サトウは、日本の殿さまが馬鹿なのは、わざわざ馬鹿になるように教育されてきたのだから、本人を責めるのは気の毒だ、無理があると本に書いている。
 ふむふむ、なるほど、そういうことだったのですか・・・。
 馬鹿になるような教育を殿さまにしていたって、実際には、何をどうしていたのでしょうか・・・。
 江戸時代をありのままに見ることの意義を改めて認識しました。江戸時代に少しでも関心のある人にはぜひ一読をおすすめしたいと思った本です。
(2016年11月刊。1400円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.