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カテゴリー: 日本史(戦国)

駆ける

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 稲田 幸久 、 出版 角川春樹事務所
これが新人作家のデビュー作とは…、とても信じられません。ぐいぐい読ませます。
少年騎馬遊撃隊というのがサブタイトルです。舞台は戦国時代。毛利軍と尼子軍との合戦(かっせん)が見事に活写されています。
少年騎馬遊撃隊というから、全員が少年から成るかというと、そうでもありません。馬を扱う能力に長(た)けている少年が毛利軍に引きとられ、そのなかで活躍し、騎馬隊が活躍し、ついに尼子軍を背後の山中から駆け降りて攻撃して打ち倒すというストーリーなのです(すみません、ネタバレでした…)。
毛利軍の大将は毛利輝元。そして、前線では吉川(きっかわ)元春と元長が戦う。そして、尼子軍には山中幸盛と横道政光。山中幸盛とは、かの有名な山中鹿之助のことです。
私は大学受験するとき、机に山中鹿之助の言葉を書き出して、自分への励みにしていました。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という言葉です。ある意味で、山中鹿之助に助けられて今の私があるとさえ思っているほど、感謝しています。
吉川元春の嫡男(ちゃくなん)が吉川元長(23歳)。馬を扱う少年とは小六(ころく)のこと。百姓の子どもで、まだ14歳だ。
永禄9年の月山(がっさん)富田城攻めで、毛利は尼子を降伏させた。出雲は、中国11国を支配した名門尼子家の本拠地。いま、月山富田城には毛利方の兵がたてこもっている。そこを尼子軍が取り囲み、毛利軍を四方八方から攻め入る作戦だ。尼子軍は近くの布部(ふべ)に陣を敷き、毛利軍をおびき寄せて圧勝するつもりでいた。
出雲は尼子の地。三代前の尼子経久の時代から、民と共に出雲を築きあげてきた。
月山富山城に行くためには、まず、布部山を頂上まで登り、尾根伝いに行かねばならない。いわば月山富田城にいる仲間を見殺しにしないために必死だった。
馬と少年の意思疎通、そして戦場での兵士同士、また兵士たちとの約束をたがえるわけにはいかない。その思いがかなうのか…。すごい新人デビュー作でした。
(2021年11月刊。税込1980円)

信長徹底解読

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 堀 新、井上 泰至 、 出版 文学通信
信長が今川義元を討ち取った桶狭間(おけはざま)の戦いの実相が語られています。
この本の結論は、桶狭間での信長の劇的な勝利は、いくつかの偶然と、戦国武将の心性が原因だったというものです。それは、①義元が伊勢・志摩侵攻を目指していたこと、②信長は、今川の尾張素通りに激怒し、軍議もなく、突然に出陣したこと、③思いがけない信長の出陣に、義元は作戦を一時変更して鳴海城方面へ前進したこと、④信長は目前の今川軍を「くたびれた武者」と誤解したまま、家臣の制止をふり切って正面攻撃したこと。
つまり、天候の変化があったとしても、信長に計算された作戦はなく、戦国武将の心性にもとづく軍事行動が勝利を呼んだ。ということになっています。うむむ、そうだったのですか…。
義元は、このとき大高城下に武者千艘を終結させていたというのは初めて知りました。
そして、今川義元が京の貴族が乗るような「塗輿」を持参していたのは事実として認めながらも、それは京都で使うつもりのもので、ふだんの義元は乗馬していたのだろうとしています。なーるほど、です。
長篠の戦いで、信長が鉄砲三千挺を三弾撃ちで待ちかまえていたので、武田軍が惨敗したというのは、今の通説は、これを否定している。ただ、鉄砲勢が三段構えをすること自体はありえたのではないかと今でも主張する人はいますよね…。
この本では、信長も武田軍も、どちらも長篠の戦いで両軍激突というのは考えていなかったとしています。信長は大坂の本願寺との戦いを重視して兵力を温存したかった、というのです。
信長を知るためには、やはり安土城に行くしかありません。私は二度、行きました。ここに400年ほど前に信長が歩いていて、立っていたのかと思うと感慨深いものがありました。
信長の話は尽きません…。
(2020年7月刊。税込2970円)

戦国佐竹氏研究の最前線

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 佐々木 倫朗、 千葉 篤志 、 出版 山川出版社
江戸時代には秋田藩を治めた佐竹氏は、今もその末裔が県知事ですよね。ところが、戦国時代には関東にあって、小田原北条氏と対抗していました。
さらに、伊達氏の関東進攻を阻み、豊臣政権の下で54万国の大々名となった佐竹氏。
佐竹氏は常陸北部から起き上がった。そして佐竹義重は北条や伊達と戦った。
感状(かんじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して出す書状。官途状(かんとじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して、特定の官位を私称することを許す書状のこと。
陣城(じんじろ)とは、合戦(かっせん)のとき臨時に築かれた城のこと。
「洞」(うつろ)という耳慣れない目新しい言葉が出てきます。洞とは、濃厚な一族意識を含む、血縁関係にある一族を中心として、地縁などの関係をもつ者を擬制的な血縁関係に位置づけて包摂する共同体、またはそのような結合原理を示している。佐竹氏による権力編成の方法そして、血縁以外には、官途、受領(ずりょう)、偏諱(へんき)の授与、家臣の田の取立があげられる。
洞とは、血縁関係にある一族を中心として、それに非血縁者を擬制的に結合させた地縁共同体あるいはそのような結合原理。洞は、それぞれの階層に個別に存在し、大名クラス。勢力が構成する「洞」には、周辺の国人(在地領主や地侍)や大豪クラスのつくる「洞」が包摂され、包摂された国人クラスの洞のなかに、さらに下の階層の「洞」が包摂されるという、重層的な構造で成り立っていた。
関ヶ原の戦いのころ、佐竹氏は戦局に影響を支えるだけの軍事力をもち、実際、東西両軍にその存在を強く意識されていた。しかし、佐竹氏は軍事行動を起こして、その旗幟(きし)を対外的に鮮明にすることはなかった。なぜなのか…。
佐竹氏の内部では、積極的に西軍に加担しようという空気は醸成されておらず、上杉氏との協定も東軍による佐竹氏領国への侵攻を心配した佐竹義宣の焦りから、内部の意思統一が図られないまま、性急に結ばれたものだったと解するほかはない。
佐竹氏のもとでも鉄砲が大量に使われていたというのには驚きました。戦国大名の実情を知ることのできる本です。
(2021年3月刊。税込1980円)

図解・武器と甲冑

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 樋口 隆晴 、 渡辺 信吾  、 出版 ワン・パブリッシング
この本を読んで、前から疑問だったことの一つが解き明かされました。馬のことです。
日本古来の馬(在来馬)はポニーくらいの小さな馬なので、戦闘用の乗馬に適さないとされてきた。今の競馬場で走るサラブレッドのように馬高が高くないからだ。しかし、今では、それは否定されている。日本在来馬は、疾走時の速力こそ低いが、持久力に富み、その環境にあわせて山地踏破性に優れていた。
そして、日本には蹄鉄(ていてつ)の技術がないため、長距離を走れない、去勢しないので、密集して行動できないとされてきた。しかし、日本在来馬は、蹄(ひづめ)が固いのが特徴で、アジア・ヨーロッパよりも戦場の空間が狭く、長距離を疾走する必要がない。むしろ、どのタイミングで馬に全力疾走させるのかが武士に求められる技量だった。
武士たちは扱いに困難を覚えても、戦闘のために気性の激しい、去勢していない牡馬(オスウマ)を好んでいた。そして敵も味方も、日本の馬しか知らないので、日本の馬が劣っているとは考えていなかった。
日本在来馬は、大陸から輸入した大型馬との交配によって日本馬の体格は向上していた。当時の日本馬は、西洋馬と比較すると頭が大きく、胴長・短足を特徴とした。現代の目からすると小型に思えるが、アジアの草原地帯の馬としては平均的な体格。
成人男性が大鎧(よろい)と武具一式を身につけると、およそ90キログラムにもなる。馬は、それに耐えなければならない。と同時に軍馬として、気性の激しさが求められていた。そうすると、去勢術を知らなかったのではなくて、気性の激しさを求めて去勢しなかったということなんですね…。
この本は、日本古来の戦いから戦国時代までの戦闘場面が図解され、また戦闘服と武器も図示されているので、大変よくイメージがつかめます。
武田(信玄)家には、部隊指揮官として、「一手役人」と呼ばれる役職が存在した。手にもつ武器は長刀(なぎなた)。隊列のうしろで目を光らせ、敵前逃亡者を処罰するのが役目。逃亡者は長刀で切り捨てる。
独ソ戦のとき、スターリンが最前線の軍隊のうしろに、このような部隊を配置していたことは有名です。兵士は前方の敵と戦いつつ、うしろから撃たれないようにもする必要がありました。
日本で使用された火縄銃は、ヨーロッパでは狩猟用、または船載用だった。このため、地上で使用される軍用銃より軽量で、狩猟用なので、命中率に優れていた。そして、この火縄銃には黒色火薬が使われていて、射撃すると、銃口と火辺の双方から大量の白煙が噴き出した。
大変わかりやすく、イラストたっぷりで、とても勉強になる本でした。
(2020年9月刊。税込2420円)

城郭考古学の冒険

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 千田 嘉博 、 出版 幻冬舎新書
かつて日本列島には3万もの城があった。北海道にはアイヌの人々が築いたチャシがあり、沖縄には琉球王国のグスクがあった。江戸時代に、城は集約され300城ほどとなり、巨大化した。京都府だけでも1200もの城があった。
「天守閣」というのは近代以降の呼び方であって、正しくは「天守」あるいは「天主」である。「閣」はつけない。
江戸時代に建てた本物の天守が残るのは全国に12だけ。熊本の天守も残念ながら違いますよね…。
織田信長の安土城跡には2回行きました。山城です。天守跡に立ち、なんだか信長になったかのような気分をほんの少しだけ味わうことができました。なるほど、いかにも信長が君臨するにふさわしい城郭構造になっています。
著者は吉野ケ里遺跡の柵と塀の復元は完全に間違っていると厳しく指摘しています。「すき間のない板塀」はありえないというのです。なるほど、と思いました。
姫路城は天守や櫓(やぐら)を白漆喰(しっくい)で覆っているが、これは当時の最高の防災対策だった。
肥前名護屋城跡にも私は2回行きました。すぐ近くに立派な博物館もあり、秀吉の朝鮮出兵の無謀さを実感することもできます。近くに呼子(よぶこ)の美味しいイカ料理店もあり、ぜひまた行きたいところです。
信長の岐阜城にも行ったことがありますが、ここは典型的な山城です。ふもとにも信長の御殿があり、宣教師のルイズ・フロイスはふもとの御殿で信長と面会したあと、翌日、山城の御殿でも信長と面会したと書いています。
山城の御殿は、信長と家族が日常的に居住した常御殿としての機能を中心とし、人格的な関係を醸成した会所的建物を持っている。
安土城内に天正8年まで信忠や信雄の屋敷がなかったことは、安土城は信長と、信長に仕えた家臣たちの城であって、織田政権全体をまとめる城として、もともと意図していなかったろう…。
安土城は、あくまで信長の城であり、信忠は岐阜城、信雄の田丸城といって、織田政権にとっての要(かなめ)の城だった。
安土城の内覧は、圧倒的な上位者としての権威を見せつける意図があった。
豊臣政権の本拠は、実は大城城ではなく、聚楽第または伏見城だった。大城城は豊臣家の「私」の城だった。
日本の城についての詳しい知見を深めることができました。
(2021年3月刊。税込1034円)

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