法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(戦国)

塞王の楯

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 今村 翔吾 、 出版 集英社
戦国時代。絶対に破られない石垣をつくる穴太衆(あのうしゅう)の職人たち。それに対抗するのは、どんな城をも落とす鉄砲衆。
穴太衆。近江国(おうみのくに)穴太に代々根を張り、石垣づくりの特技をもって天下に名を轟(とどろ)かせた。
穴太衆は、石垣づくりの技術において、他の追随を許さなかった。そして、この穴太衆には、20を超える「組」があり、それぞれが屋号をもって独立して動いている。それぞれが諸大名や寺院から造垣づくりの依頼を受け、その他に赴いて石垣をつくる。
穴太衆の技(わざ)は、大きく三つの技によって成り立っている。その一は、山方。石垣の材料となる石を切り出すことを担っている。石には「目」というものがあり、それにそって打ち込む。それに失敗すると、思わぬ形でひびが入ってしまう。その目には熟練の職人でなければ見ることができない。
その二は、荷方。切り出した石を石積みの現場まで迅速に運ぶ役目。これは、石垣づくりの3工程のなかで、もっとも過酷とされる。巨石を運ぶときには安全に相当配慮しなければならない。途中で大惨事が起きないように配慮しつつ、期日までに何としても石を届けるのが荷方の役目だ。
その三は、積方。これをきわめるには、ほかの二組以上の時を要する。石垣の中に詰める「栗石(ぐりいし)」を並べるだけで、少なくとも15年の修行を要する。
穴太衆は、道祖神を信奉し、「塞の神」を祀っている。
穴太衆は、紙に一切の記録を残さない。城の縄張りは重要な機密であるため、穴太衆は紙に一切の記録を残さず、すべて頭の中に図面を引いて行う。それは同じ穴太衆であっても決して外に漏らさない。積み方の技術も同じく一子相伝(いっしそうでん)。しかも、すべて口伝(くでん)。こうやって穴太衆の技術の漏洩を防ぎ、依頼主の信用を勝ちとってきた。
穴太衆では、一つの組・飛田屋を総動員し、空貫で石積することを「懸(かかり)」と呼んだ。
穴太衆であり続けるための二つの条件。その一は、5年に1度は必ず穴太の地を訪れ、自分の技を師匠や後継者に見せること。その二は、技を書き残さないこと。穴太衆の技は口伝のみで受け継がれる。
打込接(うちこみはぎ)と野面積みの二つがある。
打込接は、積み石の接合部分を加工し、石同士の接着面を増やして、より隙間をなくす工法。ところが、この打込接でつくった石垣には、目に見えない弱点があった。水はけが悪く、長石だと、途中ではぜるようにして崩れることがある。
天候に左右されず、数百年もたせようとするなら、野面(のづら)積みのほうが良い。
穴太衆が得意とする積み方は…。それは乱積みであり、布積みであり、あるいはその両方の中間。基本は野面だが、時と場所によっては、打込接も使う。いかに城の護りを厚くするかだけに焦点をしぼり、臨機応変にやっている。
矛(ほこ)と楯(たて)のいずれが勝つかで、泰平の質が変わるだろう。矛が勝ったときは、数少ない兵力でも、良質な武器さえ集めれば天下を覆せると考える者があらわれるだろう。楯が勝ったときには、兵を集められても、城ひとつも容易には落とせない。踏みとどまる者も出てくる。つまり、こんどの決戦は、泰平の形を決めることになる。
国友衆は新しい鉄砲や大筒が実践に投入されるとき、参陣依頼が来て、砲術専門の軍司と同じような役割をつとめる。新式の銃は、雨をものともせずに放てる。
なにしろ、550頁もある大作です。そして似たような名前の人物がたくさん登場しますので、一読してもなかなか簡単には状況が理解できにくいのです。休日の朝から読みはじめて、場所を何回も変えて、夕方になる前に読了しました。550頁というのは、やはり長過ぎですね。直木賞を受賞した作品です。
(2022年1月刊。税込2200円)

駆ける

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 稲田 幸久 、 出版 角川春樹事務所
これが新人作家のデビュー作とは…、とても信じられません。ぐいぐい読ませます。
少年騎馬遊撃隊というのがサブタイトルです。舞台は戦国時代。毛利軍と尼子軍との合戦(かっせん)が見事に活写されています。
少年騎馬遊撃隊というから、全員が少年から成るかというと、そうでもありません。馬を扱う能力に長(た)けている少年が毛利軍に引きとられ、そのなかで活躍し、騎馬隊が活躍し、ついに尼子軍を背後の山中から駆け降りて攻撃して打ち倒すというストーリーなのです(すみません、ネタバレでした…)。
毛利軍の大将は毛利輝元。そして、前線では吉川(きっかわ)元春と元長が戦う。そして、尼子軍には山中幸盛と横道政光。山中幸盛とは、かの有名な山中鹿之助のことです。
私は大学受験するとき、机に山中鹿之助の言葉を書き出して、自分への励みにしていました。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という言葉です。ある意味で、山中鹿之助に助けられて今の私があるとさえ思っているほど、感謝しています。
吉川元春の嫡男(ちゃくなん)が吉川元長(23歳)。馬を扱う少年とは小六(ころく)のこと。百姓の子どもで、まだ14歳だ。
永禄9年の月山(がっさん)富田城攻めで、毛利は尼子を降伏させた。出雲は、中国11国を支配した名門尼子家の本拠地。いま、月山富田城には毛利方の兵がたてこもっている。そこを尼子軍が取り囲み、毛利軍を四方八方から攻め入る作戦だ。尼子軍は近くの布部(ふべ)に陣を敷き、毛利軍をおびき寄せて圧勝するつもりでいた。
出雲は尼子の地。三代前の尼子経久の時代から、民と共に出雲を築きあげてきた。
月山富山城に行くためには、まず、布部山を頂上まで登り、尾根伝いに行かねばならない。いわば月山富田城にいる仲間を見殺しにしないために必死だった。
馬と少年の意思疎通、そして戦場での兵士同士、また兵士たちとの約束をたがえるわけにはいかない。その思いがかなうのか…。すごい新人デビュー作でした。
(2021年11月刊。税込1980円)

信長徹底解読

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 堀 新、井上 泰至 、 出版 文学通信
信長が今川義元を討ち取った桶狭間(おけはざま)の戦いの実相が語られています。
この本の結論は、桶狭間での信長の劇的な勝利は、いくつかの偶然と、戦国武将の心性が原因だったというものです。それは、①義元が伊勢・志摩侵攻を目指していたこと、②信長は、今川の尾張素通りに激怒し、軍議もなく、突然に出陣したこと、③思いがけない信長の出陣に、義元は作戦を一時変更して鳴海城方面へ前進したこと、④信長は目前の今川軍を「くたびれた武者」と誤解したまま、家臣の制止をふり切って正面攻撃したこと。
つまり、天候の変化があったとしても、信長に計算された作戦はなく、戦国武将の心性にもとづく軍事行動が勝利を呼んだ。ということになっています。うむむ、そうだったのですか…。
義元は、このとき大高城下に武者千艘を終結させていたというのは初めて知りました。
そして、今川義元が京の貴族が乗るような「塗輿」を持参していたのは事実として認めながらも、それは京都で使うつもりのもので、ふだんの義元は乗馬していたのだろうとしています。なーるほど、です。
長篠の戦いで、信長が鉄砲三千挺を三弾撃ちで待ちかまえていたので、武田軍が惨敗したというのは、今の通説は、これを否定している。ただ、鉄砲勢が三段構えをすること自体はありえたのではないかと今でも主張する人はいますよね…。
この本では、信長も武田軍も、どちらも長篠の戦いで両軍激突というのは考えていなかったとしています。信長は大坂の本願寺との戦いを重視して兵力を温存したかった、というのです。
信長を知るためには、やはり安土城に行くしかありません。私は二度、行きました。ここに400年ほど前に信長が歩いていて、立っていたのかと思うと感慨深いものがありました。
信長の話は尽きません…。
(2020年7月刊。税込2970円)

戦国佐竹氏研究の最前線

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 佐々木 倫朗、 千葉 篤志 、 出版 山川出版社
江戸時代には秋田藩を治めた佐竹氏は、今もその末裔が県知事ですよね。ところが、戦国時代には関東にあって、小田原北条氏と対抗していました。
さらに、伊達氏の関東進攻を阻み、豊臣政権の下で54万国の大々名となった佐竹氏。
佐竹氏は常陸北部から起き上がった。そして佐竹義重は北条や伊達と戦った。
感状(かんじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して出す書状。官途状(かんとじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して、特定の官位を私称することを許す書状のこと。
陣城(じんじろ)とは、合戦(かっせん)のとき臨時に築かれた城のこと。
「洞」(うつろ)という耳慣れない目新しい言葉が出てきます。洞とは、濃厚な一族意識を含む、血縁関係にある一族を中心として、地縁などの関係をもつ者を擬制的な血縁関係に位置づけて包摂する共同体、またはそのような結合原理を示している。佐竹氏による権力編成の方法そして、血縁以外には、官途、受領(ずりょう)、偏諱(へんき)の授与、家臣の田の取立があげられる。
洞とは、血縁関係にある一族を中心として、それに非血縁者を擬制的に結合させた地縁共同体あるいはそのような結合原理。洞は、それぞれの階層に個別に存在し、大名クラス。勢力が構成する「洞」には、周辺の国人(在地領主や地侍)や大豪クラスのつくる「洞」が包摂され、包摂された国人クラスの洞のなかに、さらに下の階層の「洞」が包摂されるという、重層的な構造で成り立っていた。
関ヶ原の戦いのころ、佐竹氏は戦局に影響を支えるだけの軍事力をもち、実際、東西両軍にその存在を強く意識されていた。しかし、佐竹氏は軍事行動を起こして、その旗幟(きし)を対外的に鮮明にすることはなかった。なぜなのか…。
佐竹氏の内部では、積極的に西軍に加担しようという空気は醸成されておらず、上杉氏との協定も東軍による佐竹氏領国への侵攻を心配した佐竹義宣の焦りから、内部の意思統一が図られないまま、性急に結ばれたものだったと解するほかはない。
佐竹氏のもとでも鉄砲が大量に使われていたというのには驚きました。戦国大名の実情を知ることのできる本です。
(2021年3月刊。税込1980円)

図解・武器と甲冑

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 樋口 隆晴 、 渡辺 信吾  、 出版 ワン・パブリッシング
この本を読んで、前から疑問だったことの一つが解き明かされました。馬のことです。
日本古来の馬(在来馬)はポニーくらいの小さな馬なので、戦闘用の乗馬に適さないとされてきた。今の競馬場で走るサラブレッドのように馬高が高くないからだ。しかし、今では、それは否定されている。日本在来馬は、疾走時の速力こそ低いが、持久力に富み、その環境にあわせて山地踏破性に優れていた。
そして、日本には蹄鉄(ていてつ)の技術がないため、長距離を走れない、去勢しないので、密集して行動できないとされてきた。しかし、日本在来馬は、蹄(ひづめ)が固いのが特徴で、アジア・ヨーロッパよりも戦場の空間が狭く、長距離を疾走する必要がない。むしろ、どのタイミングで馬に全力疾走させるのかが武士に求められる技量だった。
武士たちは扱いに困難を覚えても、戦闘のために気性の激しい、去勢していない牡馬(オスウマ)を好んでいた。そして敵も味方も、日本の馬しか知らないので、日本の馬が劣っているとは考えていなかった。
日本在来馬は、大陸から輸入した大型馬との交配によって日本馬の体格は向上していた。当時の日本馬は、西洋馬と比較すると頭が大きく、胴長・短足を特徴とした。現代の目からすると小型に思えるが、アジアの草原地帯の馬としては平均的な体格。
成人男性が大鎧(よろい)と武具一式を身につけると、およそ90キログラムにもなる。馬は、それに耐えなければならない。と同時に軍馬として、気性の激しさが求められていた。そうすると、去勢術を知らなかったのではなくて、気性の激しさを求めて去勢しなかったということなんですね…。
この本は、日本古来の戦いから戦国時代までの戦闘場面が図解され、また戦闘服と武器も図示されているので、大変よくイメージがつかめます。
武田(信玄)家には、部隊指揮官として、「一手役人」と呼ばれる役職が存在した。手にもつ武器は長刀(なぎなた)。隊列のうしろで目を光らせ、敵前逃亡者を処罰するのが役目。逃亡者は長刀で切り捨てる。
独ソ戦のとき、スターリンが最前線の軍隊のうしろに、このような部隊を配置していたことは有名です。兵士は前方の敵と戦いつつ、うしろから撃たれないようにもする必要がありました。
日本で使用された火縄銃は、ヨーロッパでは狩猟用、または船載用だった。このため、地上で使用される軍用銃より軽量で、狩猟用なので、命中率に優れていた。そして、この火縄銃には黒色火薬が使われていて、射撃すると、銃口と火辺の双方から大量の白煙が噴き出した。
大変わかりやすく、イラストたっぷりで、とても勉強になる本でした。
(2020年9月刊。税込2420円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.