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カテゴリー: 日本史(戦前)

ビルマ、絶望の戦場

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 NHKスペシャル取材班 、 出版 岩波書店
 史上最悪の無謀な作戦と言われているインパール作戦をふくむビルマ戦における日本軍の死者16万7000人の8割は、インパール作戦が中止された1944年7月以降に命を落としていた。
 ところが、将兵を残して日本軍の最高幹部たちはいち早く飛行機に分乗してタイへ逃れていたのです。しかも、インパール作戦遂行にあたって強硬に作戦遂行を主張した張本人の田中新一ビルマ方面軍参謀長(中将)は、日本国内にまで無事帰還し、戦後も生き永らえて83歳で亡くなったのでした。こんなことって許されていいのでしょうか。疑問です。
 イギリス軍は日本軍の指導者について、次のように的確に評価しました。
「日本軍の指導者の根本的な欠陥は、肉体的勇気とは異なる、道徳的勇気の欠如にある。彼らは、自分たちが間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がない」
いやはや、まったく図星ですよね。これって…。
田中参謀長は「強気一点張り」の観念偏を振りかざし、図上作戦を強行させた。「放漫非常識」な作戦だった。
「わしが全責任をもってやる、という能力と気迫」で押し切った。
作戦に不満を表明した師団長や参謀は次々に更迭(こうてつ)された。こんなに上層部が混乱していたら、勝てるものも勝てなくなりますよね。「気迫」の前に装備がまったく欠如していた。ですから、ひどすぎます。
さらにイギリス軍による日本軍の評価を紹介します。
「日本軍の強さは、個々の日本兵の精神にあった。日本兵は死ぬまで戦い続け、行進し続けた」
「日本軍は、計画がうまくいっている間は、アリのように非常で大胆。しかし、計画が狂うと、アリのように混乱し、立て直しに手間どって、元の計画にいつまでもしがみつくのが常だった」
久留米にいまもある高級料亭「萃香園(すいこうえん)」がビルマのラングーンに出店し、ビルマにいた日本軍の高級将校たち専用の娯楽施設になっていたというのは初耳でした。彼らは、この萃香園で「女と酒の逸楽」に浸っていたのです。「萃香園参謀」とまで呼ばれていたそうですから、勇ましく偉そうなのは口先だけだったわけです。
「久留米から100名、大牟田と福岡を合わせて約30名の芸者がビルマへと行った」「その芸者たちのほとんどは借金をかかえていた」
ビルマ方面軍の司令官だった木村兵太郎司令官は「東条の茶坊主」と陰口された将軍。東条が失脚したので、東京からビルマ方面軍にまわされたそうです。
日本軍とは何か、何だったのか、「皇軍」の実態を改めて問い直させてくる本です。一読をおすすめします。
(2023年7月刊。2200円+税)

B-29の昭和史

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 若林 宣 、 出版 ちくま新書
 第二次大戦の末期、日本全土を焼け野原にしたのは、アメリカ軍による空襲です。そのときの爆撃機がB-29。日本を石器時代に戻してやると豪語していたカーチス・ルメイ将軍は、戦後、その「功績」を認められて、天皇から勲一等を授与してもらいました。当時も今も、アメリカのやることには一切タテつかない(つけない)という卑屈すぎる日本政府当局者の姿勢は不動です。
 パレスチナにイスラエルが大々的に空襲をかけ、地上軍を侵攻させても、日本政府はアメリカの顔色をうかがうばかりで、イスラエルは戦争やめろという国連の決議に棄権してしまいました。涙が出るほど、情けないです。
 B-29の開発は1940年初めに始まった。当初、B-29はトラブルの多発に悩まされた。とりわけ深刻だったのはエンジン。しばしば離陸時に火災を起こした。
 1944年に入っても、作戦可能なB-29はそろわなかった。
 B-29は全身30メートル、全幅43メートル、自重30トンという大きな機体。機内は高々度に備えて与圧される。機内の空気はエンジンの熱を利用して暖房できた。乗員は11人。爆撃搭載量は9トン。航続距離は5000キロメートルという超重爆撃機。
 B-29の生産は、ボーイング社だけでなく、ベル社もマーチン社でもおこなわれた。その部品製造には自動車産業も加わり、アメリカ工業界あげての生産体制だった。
 B-29の日本爆撃の初回は、1944年6月15日から16日の八幡製鉄所を目標とする北九州爆撃だ。アメリカ軍による日本東土空襲の始まりは1942(昭和17)年4月18日の「ドゥーリットル空襲」。このときは、B-29ではなく、B-25爆撃機。このとき、B-25が16機やってきて、空襲によって日本人50人以上が死亡している。
 高々度を飛んでくるB-29に対して、日本軍の戦闘機はまるで歯が立たなかった。
 1945年8月15日、日本が敗戦したことを告げた直後、大阪と福岡では捕虜殺害が始まった。
 1945年8月10日、福岡市内の油山で逃げなかった捕虜8人を処刑した。うち5人は斬首により、残る2人も空手の技を試されたあと、斬首。そして、8月15日の午後、玉音遊送のあと、捕虜17人の残りを油山で処刑した。
 1950年代に入ると、さしものB-29は次第に旧式化した。
 当時3歳くらいだった姉は夜にB-29が焼い弾を投下するのを見上げて「きれいかねー」と叫んだといいます。夜空の花火ならいいのですが…。
 B-29は、まさしく「空の要塞」であり、日本全土を焼き尽くしていったのでした。
 今、ガザ地区はどうなっているのでしょうか。毎日、心が痛みます。
(2023年6月刊。980円+税)

飴売り具学永

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 キム・ジョンス(文)、ハン・ジョン(絵) 、 出版 展望社
 関東大震災で日本人民衆に虐殺された朝鮮人青年の物語です。このとき数千人の朝鮮人が虐殺されましたが、この具学永(ク・ハギョン)は名前と年齢が判明していて、虐殺されたあとまもなく日本人によって墓も建立されたのでした。
 そんな例は他になく、唯一人のようです。
 事件発生から80年後、今から20年前、2003年、日弁連(日本弁護士連合会)は日本政府に次のとおり勧告した。
 「国は、関東大震災直後の朝鮮人・中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者・遺族および虚偽の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者・遺族に対し、その責任を認め、謝罪すべきである」
 残念なことに、日本政府は責任を認めることも謝罪することもありませんでした。それどころか、松野官房長官は確認できる記録がないなどと平然とウソの答弁をして開き直りました。東京都の小池都知事も同じです。自分に都合の悪い事実は認めず、シラを切って通そうとするのが、この国のトップ政治家です。ある意味で、戦前の大本営発表と共通していて、怖いと思います。
 大震災のあと、恐ろしい内容の流言飛語(デマ)を飛ばしたのは、ほかならぬ政府当局でした。9月3日、大震災の2日後のことです。東京の内務省から埼玉県に電報が届きました。
 「東京で不逞(ふてい)鮮人の不穏な動きがある。当局者は非常事態に際して適切な方策を講ぜよ」
 こんな内容です。政府が公文書で指示するのですから、多くの日本人が信じたのは無理がありません。すぐに自警団が組織され、検問が始まります。「15円50銭」と言わせて、発音がおかしいと朝鮮人だとして、警察署に収容されました。
 警察署長が、「不逞鮮人ではない」と言っても、300人近くにふくれあがった日本人の自警団員たちは警察署の中に押し入り、留置場にいたク・ハギョンを竹槍と日本刀で襲いかかって惨殺してしまったのでした。
 ク・ハギョンの体には62ヶ所もの刺傷がありました。ひどいものです。いくら狂気の集団とはいえ、ひどすぎます。何の罪もない、無抵抗の人をよってたかって刺殺してしまうとは…。
 ク・ハギョンと仲の良かった日本人青年(宮沢菊次郎)がお寺に墓碑を建ててくれるように頼んだのです。墓碑には、ク・ハギョンの故郷の住所、殺害された年月日と、28歳という年齢も刻まれ、今も埼玉の正樹院にあります。
 わずか110頁の本です。よく出来た絵によって、視覚的にも分かりやすくなっています。ぜひ、あなたも手にとって読んでみてください。
(2022年4月刊。1650円)

関東大震災と民衆犯罪

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 佐藤 冬樹 、 出版 筑摩選書
 関東大震災のあと、官製のデマ(内務省つまり国が意図的に嘘と分かってデマを大々的に流しました)に踊らされた日本人民衆が無差別に朝鮮人など(中国人もいて、日本人の社会主義者なども含まれます)を大虐殺していった大惨事の内情を明らかにした本です。
 官製デマを発信した国の責任、そして、それを無批判に受け入れてタレ流したマスコミの責任を鋭く告発していますが、同時に、それに乗って狂気の無差別大量殺人を敢行した日本人民衆の責任も追及している本でもあります。
 この大虐殺事件について、殺人罪などで640人の日本人が起訴され、ほとんどが有罪となった。その被害者は「400人」以上。しかし、司法当局は大量殺人事件なのに、その捜査に熱心ではなかったし、犯人全員を検挙したわけでもない。民衆を刺激したくなかったからだ。
数百いや数千人の日本人民衆が警察署に押しかけ(30件)、そのうち11件では警察署内に乱入してまで留置場内に保護されていた朝鮮人を虐殺(竹槍や日本刀でなぶり殺し)した。
 朝鮮人虐殺を生み出したのは、警察だと名乗る自動車が「朝鮮人200名が押しかけてきて町を焼き払おうとしているから、それに備え、警戒しろ」と呼びかけたことにある。
 警察(正力松太郎)は、そんな事実はないことを確かめたうえで、このデマを「あっちこっちで触れてくれ」と新聞記者に頼んでまわった。デマと虐殺の拡散において、警察と新聞各社は共犯関係にある。恐怖と不安に取りつかれた民衆は男も女も凶暴そのものと化した。
 警察がデマを承知で広めたのは、このころ朝鮮独立運動が活発になって、日本が朝鮮を植民地としての支配を続けられるのか心配していたから。
 朝鮮人虐殺を敢行した日本人民衆は、「善良な国民(日本人)」だった。その職業は多種多校であって、下層民衆ではなかった。中間層か、それ以上の階層の人々も少なくなかった。
 民衆による朝鮮人大虐殺が進行するなか、9月6日、治安当局は、ようやく朝鮮人の殺害を犯罪だと明言した。
 そして、あとでは、民衆による虐殺はあったし、それは逮捕・起訴して、刑事上の責任は裁判と対象となった(ほとんどが有罪となったものの、早々に刑務所から釈放された)。
関東周辺で結成された自警団は、3700団、平均人数65人だったので、少なくとも70万人の武装民兵が組織された。自警団の中核は消防団員だった。関東の自警団員の6割以上は、消防団員だった。自警団は、人事前でも経営面でも公営団体だ。
 自警団による朝鮮人虐殺(犯罪)の4つの特徴…。
その1は、徹底した攻撃性。武器を何一つ持たず、無抵抗の人々を殺し続けた。
その2は、性別も年齢も問わず、朝鮮人すべてを襲撃した無差別性。乳幼児や妊娠中の女性さえ惨殺した。
その3は、警察への反発。警察署まで襲撃した。
その4は、群衆による犯罪。
自警団にとって、朝鮮人は、震火災にともなう、あらゆる災厄の源だった。
日本人が自警団によって殺害されたのは、無差別殺人にともなう、必然だった。
警察、そして国は、朝鮮人虐殺事件の責任一切を住民と自警団に押しつけた。マスコミも、それを受け入れて大々的に報道した。
日本人被害者の7割は、工場や会社、警察、軍隊に属する人々だった。農民や漁民はまったくいない。
善良な民衆が、ある日突然、凶暴な犯罪集団と化し、そのおかした犯罪について弁解し、合理化し、隠匿し、ひいてはそんなものはなかったとまで開き直ってしまったのです。デマって、本当に恐いですよね。
 
(2023年8月刊。1800円+税)
 晩秋の候となり、紅葉が美しく見頃です。先日、上京したとき日比谷公園のイチョウが実に見事なので、つい見とれてしまいました。
 庭にフジバカマを追加して植えました。アサギマダラが来てくれることをひたすら願っています。
 庭で掘り上げたサツマイモを2週間たったので、オーブンで焼いて食べました。小ぶりなのですが、ほどよい甘さのものもあり、法律事務所に持参して、所員のみなさんに持って帰ってもらうことにしました。
報道によると熊本に新しく立地する台湾の半導体メーカーに国は1兆円も投下するそうです。でも、肝心な部品の生産は台湾でするので、日本へ技術移転することはないそうです。日本の司法予算は3222億円なのです。その3倍も民間企業にくれてやるとは…。地下水汚染も心配です。

森と魚と激戦地

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 清水 靖子 、 出版 三省堂書店
 太平洋の島々で、日本軍がとても非道な残虐行為を繰り返していたことを知り、身震いする思いでした。
 1943年10月28日、ブーゲンビル島ブインの第8艦隊司令部は436人もの捕虜を銃殺してしまった。これを目撃した日本人兵士(福山孝之氏)が、戦後、戦火のなかでつけていた日記をもとに『ソロモン戦記』を出版して明らかにしている。
同じ1943年10月には、ウェーク島でも日本軍はアメリカ軍の来襲を受けたとき、民間人捕虜98人を銃殺した。
 1945年8月15日の日本敗戦のあと、8月17日、日本軍はオーシャン(バナバ)島でバナバ人160人を全員殺害した。
 1943年3月、トラック諸島のデュフロン島で、アメリカ軍の潜水艦の乗組員たち50人ほどを捕虜とし、生体実験の対象とした。第4海軍病院で、病院長の岩波浩軍医大佐の主導する生体実験だった。銃剣で突き刺し、最後に日本刀で斬首させた。この事件では、グアム戦犯裁判で岩波病院長には死刑が宣告され、1949年1月に絞首刑が執行された。
 1943年3月、ニューアイルランド島ケビアン沖の駆逐艦「秋風」船上でドイツ人宣教師など62人を日本軍は集団処刑した(秋風事件)。この事件は、戦後、横浜での軍事法廷にかけられたが、「秋風」が南東方面艦隊の指揮下にあったことが明らかとなって、「無罪」とされた。極東軍事法廷も十分な審理を尽くせなかったようですが、その有力な要因は、日本の復員局が裁判対策を尽くしていたからとのこと。
 1944年7月14日、ニューギニア本島のティンブンケ村で男性99人、女性1人の村民が集団虐殺された。
 日本軍はラバウルを10万人もの兵(海軍3万、陸軍7万)で占領していた。このとき、日本軍は各地に「慰安所」を設立した。陸軍省はコンドームを1941年だけで第17軍に334万個、南海支隊に4万個を配布した。修道院も慰安所として使った。朝鮮人女性が200人から300人もすし詰めに入れられていた。日本人女性も1棟に20人ほどで8棟あった。
 軍医が検査すると、90%の女性が性病をもっていた。女性は1人あたり1日平均で40人の兵士の相手をさせられた。1日で80人から90人という女性までいた。兵士たちは、上官から「死ぬ前に慰安所に行っとけ」と命令されていた。
この本には、戦後の日本が日商岩井などの総合商社によってパプアニューギニアの豊かな森を大々的な伐採によって荒廃させていった事実も告発しています。
 気の滅入る話が綿々と続くので、読み終えたとき、たまらない疲労感がありました。
(2023年6月刊。2970円)

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