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カテゴリー: 中国

13・67

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 陳 浩基 、 出版  文芸春秋
妙ちきりんなタイトルの本です。13とは2013年のこと。香港の雨傘革命前夜です。67は1967年、香港で反中ではなく反英暴動が勃発した年です。関係ないけど、私が大学に入った年でもあります。
いわゆる警察小説です。腐敗した警察官を内部にかかえる香港警察のなかにいて、事件の犯人を推理していくところは本格派の推理小説です。したがって、グリコのように一粒が二度おいしい本になっています。
どんな悪事でも、賄賂さえ払えば、警察官は片目をつぶった。非合法の賭場や売春、薬物販売などを警察が捜査・摘発したときも、それは悪を一掃するためではなく、マフィアから金を得るためだった。警察にお金を払えば、期限付き許可証を買ったも同然で、しばらくは警察が邪魔することはないという仕掛けだ。
犯罪者は、買収した捜査員が上司に顔向けできるように刑務所に行ってもよいという仲間を定期的に差し出し、身代わりにする。こうやって暴かれる麻薬取引や賭博行為が実際に行われているものの氷山の一角なのは言うまでもない。
最前線の取締りが出来レースなのだから、警察上層部はまったく目隠しされた状態で治安が悪化しているなど、つゆ知らず、むしろ部下たちががんばって犯人をひとり挙げたと喜ぶ始末だ。警察に入れば、その一員となる、すると、どんな真正直な人間でも、まっすぐ胸をはって生きていくことはできない。
どんなに自分の力を買いかぶった自信家であろうと、いったん「船」を押しとどめようとすると、あっという間にいびられ、爪はじきにされ、警察組織で孤立無援となって、その先に出世のチャンスはない。
あまりに面白くて、車中で夢中になって読みふけってしまいました。
(2017年9月刊。1850円+税)

1967、中国文化大革命

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 荒牧 万佐行 、 出版  集広舎
私が東京で大学生になった年(1967年)の2月、中国各地の状況を活写した貴重な写真集です。2月ですから、私は大学受験の直前ということになります。中国で大変なことが起きているという報道はありましたが、その実態は紹介されませんでしたし、解説記事もほとんどありませんでした。なにしろ竹のカーテンのなかで何が起きているのか、情報が伝わってこなかったのです。
この本で紹介されている写真を眺めると、北京でも上海でも、どこでも中国の各地で大勢の人々が路上にあふれ出てきていて、口々に何かを叫んでいます。
今では、文化大革命とは、文化革命なる美名をかりた毛沢東による権力転覆策動、独裁者としての自らの復権運動を本質とする権力闘争であることが歴史的にはっきりしています。しかし、この文化大革命のなかで三角帽子をかぶらされて街頭をひきずりまわされた多くの人々が無惨な死に追い込まれてしまいました。文化大革命終結後になんとか復権できた人は少ないし、きわめて幸運だったのです。
それにしても、街頭の壁一面に貼り出された壁新聞のボリュームには圧倒されてしまいます。人々が必死に手書きで壁新聞(大字報)を書いて貼り出したのです。そして、人々はそこに何が書かれているのかを読んで時勢(時流)を感じとっていました。
毛沢東語録をかかげながら、ふたてに分かれて激しく武力抗争するという事態が中国全土で進行していきました。やがて、それは毛沢東支配そのものをも脅かすほどになり、毛沢東自身がブレーキをかけ始めたのです。
このころ、日本にも文化大革命を礼賛する人が多数うまれました。毛沢東主義者と呼ばれる人たちです。その人たちは日本でも暴力を賛美して、社会を混乱させました。
やっぱり暴力からは、決して、まともな文化は生まれません。つくづく私はそう思います。貴重な写真集の頁をめくりながら改めて中国の文化大革命の悲惨さを実感しました。
(2017年11月刊。2500円+税)

出土遺物から見た中国の文明

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 稲畑 耕一郎 、 出版  潮新書
中国の古代文明が次々に地下から発掘されていて、その素晴らしさに圧倒されてしまいます。この本で紹介されている、いくつかは幸いなことに私は現地で拝観させてもらいました。
なんといっても、第一番にあげるべきなのは、秦の始皇帝の兵馬俑です。福岡市の博物館などの特設展で見たこともありますが、現地に行けば、口を開くことができないほど、(いえ、開けた口を閉じることを忘れるほど)圧倒され、感嘆のきわみに陥ってしまいます。なにしろ想像を絶するスケールです。東西230メートル、南北62メートル、6000体の実物大の将兵が地下で並び立っているのです。
日本ファーストなんて馬鹿げたことを言っている日本人は、これを現地で見てから死んでほしいものです(日光を見ないで死ねないのモジリです)。
曾候乙墓(そうこういつぼ)も、信じられないほどの見事さです。古代中国の音楽そして舞踏が、いかに発達していたかを十分しのばせてくれます。武漢の北側の湖北省から出土しました。紀元前433年ころに亡くなった曾国の君主の墓から出土した巨大な楽器です。長さ7.48メートル、高さ2.65メートル、総重量5トンというものです。
我が家には、感動のあまり現地で買い求めたミニチュアの楽器が今も飾られています。
四川省広漢市で発掘された三星堆(さんせいたい)は、残念ながら現地で拝んでいませんが、まことに奇妙な顔と眼をした青銅製の仮面です。黄金のマスクをした青銅の人頭像は、まるでピカソの抽象画を形にしたかのようです。
中国では、地下に埋もれている遺跡を慎重に発掘し続けているようです。現代人の好奇心を満足させるために掘りあげるだけなら簡単なことだけど、その科学的分析ときちんと永久保存するためには、最適の環境を保証する場所と最新の技術が必要だというのです。なるほど、と思います。
日本でも高松塚古墳などの保存には苦労しているわけですし、なにより「天皇陵」の発掘を少しずつ慎重にすすめていくべきだと思います。「日本民族」のルーツを探るのは国家の使命の一つなのではないでしょうか。いつまでも「タブー」であってはなりません。
(2017年11月刊。899円+税)

最後の「天朝」(下)

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者  沈 志華 、 出版  岩波書店
 北朝鮮で金日成が党内で静粛を強めて絶対的独裁体制をうちたてることができたのは、毛沢東が金日成への懐柔政策をとったことにも起因している。なるほど、そういうことだったんですね。
 北朝鮮内の中国派は毛沢東のうしろだてをあてに出来なくなった。かつて延安で中国共産党と肩を並べて戦い、その後、逆境のなかで中国に亡命した数多くの朝鮮人幹部は、中韓関係改善の犠牲になった。これを背景として、中国義勇軍は朝鮮から撤収していった。
 1953年7月に朝鮮戦争が休戦したとき、中国義勇軍は北朝鮮内に120万人いた。1957年末でも30万人いた。1958年に中国義勇軍が完全撤収したが、その最大の恩恵を受けたのは金日成だった。金日成は党内のライバルの一掃に成功し、10万人の「敵対・反動分子」を追放した。そして、金日成に対する個人崇拝が復活した。
中国で毛沢東が大躍進をうたったとき、金日成は朝鮮で「千里馬」運動を打ち出した。1958年のこと。毛沢東は、「大躍進」を金日成から絶賛され、全力で追随されたことから、他の諸国からの反響が乏しかったこともあって、金日成を完全に見直した。それで、北朝鮮の「千里馬」を支援した。
「大躍進」の実体はひどいものだったので、彭徳壊が批判したところ、毛沢東は激怒した。
中国とソ連が対立するなかで金日成をどちらが取り込むか、また、金日成はどちらにつくかという問題が起きた。フルシチョフは、毛沢東が金日成を批判した会談記録を金日成に見せた。その結果、金日成は、もう二度と中国人を信用せず、再び中国に行くことはないと断言した。北朝鮮を一段と抱き込むため、フルシチョフは金日成からの経済要求の大半を受け入れた。1960年6月、中ソ論争がピークに達したとき、フルシチョフは、中国共産党を孤立させるため、金日成をモスクワに招いた。
中国にとって、1960年から62年はもっとも苦しい時期だった。ベトナムへのアメリカの侵略がエスカレートしていて、ソ連との関係は悪化し、国内の経済生活はどん底の状態にあった。そのなかでも北朝鮮には援助を与えていた。
毛沢東は北朝鮮に対して領土面でも譲歩した。北朝鮮では、金日成の息子である金正日は白頭山の密営で生まれたとされてきた。真実はソ連領内で出生したのだが、あくまで白頭山神話が必要だった。このとき、毛沢東は、金日成に大きく譲歩した。毛沢東は、当時の中国が経済的な苦境にあったことから、世界の社会主義陣営のなかで孤立しないよう朝鮮の支持を取りつけたからである。
中国で毛沢東が文化大革命を発動すると、金日成も、それをまねて、金日成に対する大規模な個人崇拝運動をすすめた。ところが、金日成は、文化大革命そのものには抵抗し、批判するようになった。
1971年7月、ニクソン大統領の特使としてキッシンジャーが極秘に中国を訪問した。米中接近は北朝鮮にとって大変なショックだった。金日成は、ニクソンの訪中は勝利者の前進ではなく、敗北者の細道だと評した。アメリカ帝国主義が泥沼にはまって、哀れだというのである。
毛沢東と金日成という二人の独裁者の駆け引きの過程が生き生きと分析されている本格的な研究書です。
(2016年12月刊。5800円+税)

興隆の旅

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者  中国・山地の人々と交流する会 、 出版  花伝社
 日本軍・三光作戦の被害にあった中国の村を日本人一行が訪れた記録集です。
 中国河北省興隆県は北京市の北東に位置し、三方を長城で囲まれた山深い地域。1933年の日本軍による熱河作戦によって満州国に組み込まれた。それ以降、抗日軍と日本軍の激しい攻防が繰り返された。
 興隆県は1996年まで外国人に対して未開放区だった。そこへ、1997年8月、日本の小中高校の教師集団が訪問したのです。
ここには、人圏があった。人を集中させて、八路軍を人民から隔絶させ餓死させようと考えて日本軍がったこと。人々は、着るものも食べるものもなく、すべて日本軍に奪いとられた。
 日本人訪問団は日本から持っていった算数セットをつかって算数の授業をした。授業が終わると、校庭で教材贈呈式。そのあとは子どもたちとフォークダンス。宿泊は、村内の農家に25人が分宿。ホテルも宿泊施設もない村で、25人もの訪問団を泊めるのは、村にとって一大事件だった。
日本軍の蛮行で被害にあった体験を村人が語りはじめます。本当は、今日、ここに来たくはなかった。日本人を恐れていた。でも、今日来ている日本人は前に来た日本人とは違うと言われてやってきた。
日本軍の憲兵は、中国人を捕まえて投降させ、スパイにて中国人を殺させた。男たちは全部捕えられ、女と子どもしか残らなかったので、ここは「寡婦村」と呼ばれるようになった。無人区で中国人を見つけたら、一人残らず殺す。それが当時の日本軍のやり方だった。
2010年8月まで、11回も続いた日中交流の旅でした。日本人のゆがんだ歴史認識は、その加害の真実を知らない、知らされていないことにもよると思います。私自身もそうでした。しっかり歴史の真実を知ることは、真の日中友好の基礎ではないかと思います。日中友好の旅の貴重な記録集です。
(2017年3月刊。1600円+税)

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