法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: ヨーロッパ

ワルシャワ蜂起1944 (下)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ノーマン・ディヴィス 、 出版  白水社
1944年8月に始まったワルシャワ蜂起は2ヶ月間続いたわけですが、その間ワルシャワ市内で文化行事が続いていたというのです。信じられません。
 パラデュム映画館では、朗読会、演奏会、演劇が連日開催された。平穏な夕方には、アマチュア劇団が野外劇場で劇を上演した。蜂起の期間中、ラジオ、映画、演劇、写真、マンガ、美術、文学などがワルシャワ市民の文化的生活を支える働きをした。
 詩が奔流のように生まれた。自然発生的に数十人もの新進詩人が現れた。
 西部戦線の英米軍は北西ヨーロッパとイタリア戦線で100万のナチス・ドイツ軍を相手に苦戦していた。東部戦線のソ連軍は200万のナチス・ドイツ国防軍と対峙して圧倒していたが、ベルリンの首相官邸の窓から東をのぞめば、ワルシャワまでわずかな距離でしかない。ワルシャワを手放すわけにはいかない。ソ連軍の到来前に、蜂起軍を粉砕しなければいけなかった。
 イギリスのメディアは、ワルシャワ蜂起について報道しなくなっていった。フランス国内のレジスタンス運動は華々しく報道されているのに、ワルシャワ蜂起の動きについては何も報道されなかった。
 アメリカのルーズヴェルト大統領は、ワルシャワ支援はソ連(スターリン)の協力を前提とするという態度をとった。ソ連はポーランド国内の抵抗運動が絶滅することを、むしろ望んでいた。
 イギリス空軍がワルシャワ蜂起支援のために空中から投下したコンテナ1284個のうち、8割はドイツ軍の支配地区に落下した。
 ソ連軍は蜂起軍を味方と考えていなかった。そして味方のはずの人民軍というのには実体がなかった。ワルシャワにおける共産党系勢力は質量ともに、とるに足りない存在でしかなかった。スターリンが戦前にポーランド共産党の幹部を絶滅していたからです。
 ついに蜂起軍はドイツ国防軍と降伏協定を結ぶことになりました。
 投降する国内軍(蜂起軍)兵士は10月3日、4日、5日の3日間、朝から夕方まで続いた。全部で1万1668人の兵士が降伏した。女性兵士2000人がふくまれていた。兵士は、対戦車ロケット砲、ステンガン、ライフル銃、拳銃をもって行進した。昂然と頭を上げ、誇り高く4列また6列で行進していった。見ていたドイツ軍士官は「あの誇らしげなポーランド人たちを見ろ」と大声で部下に向かって叫んだ。そして、数十万人の市民が歩いてワルシャワ市内を脱出した。
 その中に国内軍の予備司令部の要員もまぎれていたのです。これまたすごいことですね。ポーランド南西部の町に行き、抵抗軍の司令部を再建するという任務をもっていたのです。壊滅したかにみえたポーランドの偉大な抵抗運動は、まだ生き残っていた。
 ワルシャワ蜂起が敗北したあとも、ポーランド国内には20万人を上回る一の国内軍兵士が依然として戦闘態勢を維持し、ドイツ軍を悩ましていた。そして、1945年1月に国内軍は解散した。
 10万人をはるかにこえるワルシャワ市民がドイツ本国に送られ、降伏協定に反して奴隷労働を強制された。
 ヤルタ会談にのぞんだアメリカのルーズヴェルト大統領は死期を間近にしてうつ状態にあった。イギリスのチャーチルはもっとも弱い立場だった。チャーチルとルーズヴェルトは、スターリンによる東ヨーロッパ支配を黙認した。
 ドイツ軍青年士官が親にあって書いた手紙に、ワルシャワ蜂起軍について次のように書いた。
 「蜂起軍は実に英雄的に戦い、降伏に際しても名誉を失わなかった。蜂起軍の戦いぶりはドイツ軍よりも優れていた。学ぶべきところは、
 第一に、こんなかたちで外国を征服しても、何ら意義のある結果は得られないこと。
 第二に、不屈の精神、忠誠心、愛国心、自己犠牲の精神などはドイツの専売特許ではないこと。
 第三に、都市の抵抗は何ヶ月も持ちこたえることができる。攻撃側も重大な損傷を免れない。
 第四に、人間は戦闘精神や純粋な勇気があれば、多くを成しとげることができる。しかし、最後には、どんな精神力も物質的優位の前に屈することになる」
 「ぼく自身、もしポーランド人だったら、ドイツの支配下で生きたいとは思わないだろう」
 「降伏の行進のとき、ポーランド蜂起軍の兵士は民族の誇りを失わず、昂然と頭を上げて行進し、絶望の表情を少しも見せなかった。見上げた人々である」
 私は、この手紙を読んで、これだけでも、この書評で紹介する価値があると思いました。ポーランドの底知れぬ力強さ、不屈さには、ただただ圧倒されてしまいます。
 ワルシャワ蜂起の敗北のあとも、ワルシャワに潜伏した人が3000人以上もいたというのですから、これまた驚きです。やがてドイツ軍が去るのを待っていた。彼らの大半は、ユダヤ人であり、国内軍の医療班で働いていたユダヤ人が多かった。そして、映画『戦場のピアニスト』で有名になったシュピルマン(当時33歳)もその一人だった。
 ソ連軍がポーランドを占領すると、ワルシャワ蜂起は否定されます。そして、戦後のポーランド政府も同じでした。ソ連崩壊を待つまで、50年間、否定され、隠されてきたのです。
 下巻も500頁ほどの大作ですが、一心不乱に読み通しました。
 記念すべき歴史書として、一読をおすすめします。
(2012年11月刊。4800円+税)

ワルシャワ蜂起(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ノーマン・デイヴィス 、 出版  白水社
この本を読んで、すっかりポーランドびいきになってしまいました。国民が全体として自由をかちとるためには死をも恐れず、団結していたなんて、心が震えるほどの感動を覚えました。
 ワルシャワ蜂起というと、ナチスに対する無謀なたたかいだったというイメージがあります。また、ワルシャワ市民が決起して何か月も死闘を目の前で繰り広げているのをソ連赤軍は腕を組んで見殺しにしたという暗いイメージがあります。
 蜂起が成功しなかったのはたしかですが、それでもポーランド市民の不屈の勇気は大いなる称賛に値するものと思います。蜂起なんて無謀だった、愚かな過ちだったなどと非難するのは許されないことだと、上巻だけでも550頁もある本書を何日もかけて読んで痛感しました。
 ワルシャワ蜂起が起きたのは1944年8月。6月にノルマンディー上陸作戦があった、連合軍がフランスを経て、ドイツに迫ろうというときです。パリではレジスタンス勢力が蜂起し、ワルシャワとは違って、パリ市内に残ったナチス・ドイツ軍を降伏させることができました。ワルシャワで蜂起した国内軍はパリ蜂起を祝っています。ところが、ナチス・ドイツ軍はワルシャワから撤退するどころか、各地から応援部隊を投入し増強したのです。そして、ソ連赤軍はスターリンの指示によって対岸から動かず、ひたすら情勢の推移を見守るのでした。
 イギリスは、大陸戦を自力で戦う能力をもっていなかった。1939年当時、英国陸軍の地上軍はチェコスロヴァキアよりも小規模だった。そのうえ、イギリスの財政事情は破綻寸前だった。イギリスの厳しい財政状態は、欧州戦争を戦うか、それとも大英帝国を救うかの二者択一を迫っていた。当時、たよりになる唯一の支援国であるアメリカから莫大な財政援助が得られない限り、勝利する可能性はほとんどゼロだった。
 ソ連は政治的粛清と大量処刑の渦中にあり、国家機能をマヒさせるような重大危機が進行していた。そして、赤軍はモンゴルで日本軍と戦争状態にあった。
 ポーランドは、ナチス・ドイツとソ連軍が分割支配した。ソ連のNKVDは、占領の前に占領したあと即刻逮捕すべき者の住所・氏名の膨大なリストを用意していた。そして、ポーランド軍将校と警察部隊の士官2万5千人がNKVDの捕虜となり、数か月間の取り調べの後、冷酷に射殺された(カチンの森事件)。
 1930年代にソ連国内で結成されたポーランド共産党はスターリンによる粛清の対象となり、ほとんど党の全活動家に相当する5000人の男女が、大部分はユダヤ人だったが、スターリンの命令で銃殺された。そのため、開戦当時のポーランドには、組織的な共産主義運動は存在しなかった。
 1940年7月から10月にかけて続いた英国本土上空の空中戦、バトル・オブ・ブリテンは、英国空軍がゲーリングのドイツ軍に粘り勝ちした。このときイギリスから出撃した英国空軍の操縦士の10%はポーランド人パイロットだった。そして、撃墜した敵機の12%はポーランド人パイロットの功績だった。
 ポーランド空軍飛行中隊の比類ない勇気と目覚ましい戦果がなければ、果たしてイギリスがバトル・オブ・ブリテンに勝利できたかどうか疑わしい。
 これは、イギリス空軍大将の言葉である。そして、連合国空軍によるドイツ爆撃作戦についてもポーランド空軍兵士の貢献には目覚ましいものがあった。
 イタリアを進んでいた連合軍はモンテ・カッシーノ要塞を攻めあぐねた。この攻防戦においてもポーランド軍2個師団の勇敢な兵士たちの活躍は目覚ましかった。
 ワルシャワは、世界でもっともユダヤ人の数が多い都市だった。やがてニューヨークが世界一になるが、そのニューヨークのユダヤ人の多くは、ワルシャワからの移民だった。
1918年、ユダヤ人はワルシャワの全人口の40%をこえ、まもなく過半数を占めると思われていた。ユダヤ人は、少なくとも500年前からワルシャワ住民だった。貴族階級がユダヤ人を保護していた。ワルシャワに住むユダヤ人の大多数は、ポーランド人とまったく同じ権利を持ち、ポーランド人と同じような考え方をしていた。
 あの有名なコルチャック博士も、ポーランドに同化したユダヤ人だった。
 ユダヤ人は、ポーランド全人口の10%でしかなかったが、大学生の比率は、はるかにそれを上回っていた。ワルシャワ大学の法学部と医学部の学生の過半数はユダヤ人だった。
 アドルフ・ヒトラーは、心の底からポーランドを憎悪していた。ポーランドは、スラヴ人とユダヤ人が住む国だったが、ナチスの教義では、その両方ともが人間以下の存在だった。
 ヒトラーは部下たちに対して、ポーランドでは可能な限り残忍に行動するよう命令した。
 ドイツのポーランド占領作戦は、他の西欧諸国に対する占領政策とは大きく異なっていた。総督府の使命は、「あらゆる手段をつかってポーランド人を最終処理する」ことにあった。
 ワルシャワ・ゲットーの人口は、最大時には38人に達した。1939年11月から1943年5月まで存在した。ゲットーの唯一の自衛手段はユーモアだった。誰も彼もが、必至の思いで現実から逃避しようとしていた。
 1943年4月、ゲットー蜂起が始まった。しかし、ゲットーの住民の中にも同胞の苦悩にまったく無関心な富裕層がいた。ゲットーの中でも、少数の金持ちは豊かな生活を送っていた。1943年のゲットー最後の日までダンスとコンサートを欠かさず、外で銃砲が飛びかっているなかでフルコースの料理を楽しむ一家も存在した。
 ええっ、ウソでしょ、そんな・・・と思ってしまいました。
 密使ヤン・カルスキがゲットーの中に立ち入り、イギリスにわたって、報告したことは別の本で紹介しました。
 ゲットー内のユダヤ人警察は、ナチス親衛隊の手先となってユダヤ人を殺害した。そうすることで自分自身が生きのびる期間が見つかると愚かにも信じていたからだ。
 これを愚かと言うには、あまりに残酷すぎますよね・・・。
 コルチャック博士は、自分の孤児院の子どもたちと一緒にゲットーに囲い込まれ、最後は子どもたちの手を引き、歌をうたいつつ、楽しい「ピクニック」へ出かける夢を語りながら絶滅的収容所への道を歩いていった。
 その気高さには、何度も涙が出て止まりませんでした。
 ゲットー蜂起とその失敗を多くのワルシャワ市民は聞いたことがないか、聞きたいとも思わなかった。噂が耳に入っても、どう理解すればよいか分からなかった。
 ポーランド人を奴隷民族にするという目標にあわせて、ナチスは強制労働システムを導入した。
 戦争中に200万人のポーランド人労働者がドイツ本国に強制移送された。
 ウッチ少年収容所に収容されていた1万3000人の子どものうち、1万2000人が収容所内で死んだ。
自由を求めて闘う気風はポーランドの長い伝統である。祖国を分割した列強勢力(ロシア、オーストラリア、プロイセン)に対して19世紀に繰り返し発生した武装蜂起は、ポーランドの歴史を語るうえで欠かせない重要事件である。
 決定的に重要な役割を果たしたのは女性だった。ポーランドの女性は、妻として、女として、また祖母として、民族の伝統を受け継ぎ、社会の基本構造を守り、活動家を支え、男たちにその果たすべき役割を教えた。女性がみずから武器をとって戦いの先頭に立つことさえあった。
 ポーランド地下抵抗組織は、誕生の最初の段階から確固たる命令系統と正統な法的枠組みの中で活動する組織だった。抵抗運動の最終目標が占領軍に対する一斉武装蜂起であることは、関係者全員にとって暗黙の了解事項だった。
 ポランド市民がドイツ侵略軍に協力するというのは、例外的な場所を除けば皆無だった。ポーランドのレジスタンスが選んだのは、危険と孤立と犠牲の道だった。
 勝利とは、敗北に耐えること。そして降伏しないことだ。抵抗運動を自発的、本能的に支えるという雰囲気が社会全体にあった。
 1944年7月は、ポーランドの地下国家閣僚会議が成立した。秘密国家は機能していた。地下国家の司法制度は地下の秘密裁判所と国内軍の軍事法廷によって支えられていた。対独協力者は処刑され、判決は公表された。ワルシャワの地下裁判所は220人に対して死刑判決を下した。
 1944年8月に始まった蜂起について、一般市民がこぞって熱狂的に蜂起を支持したというのは単なる伝説だ。正確に言えば、ワルシャワ市民の大多数は蜂起軍に共感していたが、蜂起とは無関係の立場を維持し、ひたすら自分が生き残ることのみを考える市民も多かった。 
 蜂起に対して、ソ連のスターリンは見殺しにし、アメリカも放置し、イギリスのチャーチルのみ空爆その他で援助したようです。
 蜂起したあとの経緯をたどるのは、心苦しいばかりではありますが・・・。下巻に続きます。
(2012年11月刊。4800円+税)

知られざる大英博物館

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  NHKプロジェクト 、 出版  NHK出版
実はイギリスにはまだ行ったことがありません。ヒースロー空港に乗り換えで降りたことはありますが、外には出ませんでした。大英博物館でロゼッタストーンの原物、そして、カール・マルクスが通っていた机と椅子を見てみたと思っているのですが・・・。
ニューヨークにあるメトロポリタン美術館には行ったことがあります。そのエジプトの館に足を踏み入れたときの、膨大な物量に圧倒されると同時に、これってみなエジプトからの略奪品じゃないのかしらんと疑ってしまいました。ヨーロッパの帝国主義列強のアフリカ分割支配の「成果」ではないでしょうか。
 大英博物館にしても、ナポレオンのエジプト遠征の失敗から、イギリスがその成果を横取りしたというものです。それにしても古代エジプトの栄華はすごいものです。しかも、それが何千年も脈々と続いていたというのですからね。
 そして、なんと言っても古代エジプトについて文字があって、それが解読されているため、当時の生活そして社会構造まで分かると言うのがすごいことですし、読んで楽しいのです。
 大英博物館の展示室で公開されているのは膨大な収蔵品のわずか1%のみ。残る99%は人知れず収蔵庫に眠っている。古代エジプトコレクションは15万点、展示室にはそのうち3500点のみ。
 古代エジプトにもパンがあり、給与としてパンが支給されていた。通貨はまだなかった。
 古代エジプトの人々は、死後、再生復活できると固く信じていた。来世には「イアル野」という楽園が待っていて、そこで幸せに暮らせると信じて疑わなかった。そのために必要と考えられていたのがミイラだった。
 ミイラを腐らせるものは、とにかく除去された。内臓は取り出され、死後も来世で必要と考えられていた4つの臓器、つまり肝臓・肺・胃・腸は専門の壺カノポスに入れられ、ミイラとともに埋葬された。体に残された唯一の臓器は心臓だった。心臓は、その人物の人格そのものであり、死後、冥界の神オシリスの前で受ける「最後の審判」を通過するときに必ず必要だった。
 逆に、脳は「鼻水」だと勘違いしていて、鼻の骨を砕いて、そこから特殊な棒ですべてをかき出していた。
そうなんですか・・・。頭の脳を大切なものと思わなかったというのは、不思議です。
古代エジプトでもワインが飲まれていた。ただし、ファラオ(王)や貴族など、裕福な人々の飲み物だった。庶民は主にビールを飲んでいた。
今から3200年前、古代エジプトに生きた「ケンヘルケプシェフ」という名前の書記は、手紙、教科書、会計簿などのパピルスを集めていた。
 子どものころは、とにかく勉強させ代、そうしないとダメな大人になってしまうぞ、お前が学問に通じていれば、人々は皆お前の言葉を信用するだろう。
 これは、「アニの教訓」と呼ばれているものです。
 古代エジプト社会では、文字が書けることは、想像する以上に重要なことだった。人々は書記になることを望み、そのための教育を受けることを切望した。
 パピルスのなかにはラブレターもある。男女が交互に語りあうかたちで、17篇の愛の詩が書かれている。
 古代エジプトでは、結婚は夫婦間の契約を結ぶ意味もあった。結婚すると、夫婦の財産の3分の1の権利を得ることができた。また、夫が死んだときには、遺産の3分の1が妻のものとなり、残りの3分の2は継承者のものとなった。その継承者のなかにも妻がふくまれていて、子どもたちと財産を分けることになっていた。
 さらに、離婚する権利は男女双方が持っていた。古代エジプトは、女性の権利も認められた、男女平等の社会だった。
王墓はファラオの罪名中に造り終えることが求められた。もし、建設途中でファラオが亡くなってしまえば、その時点で作業は中止された。
 パピルスにはピラミッドのつくり方を解説し、その計算問題などまであるというのには、驚きました。しかも、かなり高度な数式が使われているのです。
パピルスには、ファラオから支払われる給料の遅延に抗議してストライキが発生したことまで記録があるとのこと、これには腰を抜かしそうになりました。
知られざる古代エジプトのいくつかを知ることのできる本でした。
(2012年6月刊。1800円+税)

愛と欲望のナチズム

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  田野 大輔 、 出版  講談社選書メチエ
ヒトラーがなぜ独身だったのか、自殺する寸前に愛人のエヴァ・ブラウンと結婚したのはなぜなのか。そして、ナチス・ドイツは禁欲的生活を国民に強いていたのか・・・。いろんな疑問を次々に解明していく本です。
 ヒトラーは、女性について慰みもの以上の価値を認めていなかった。そして、恋愛や結婚も印象操作の道具程度のものと考えていた。
 多くの女性が私(ヒトラー)に好意を寄せているのは、私が結婚していないからだ。闘争期には、これが重要だった。映画俳優と同じだ。彼に憧れる女たちは、彼が結婚したら何かを失ってしまい、もはや彼は偶像ではなくなる。
 ヒトラーは、総統が民族に貢献する私心なき指導者であるというイメージを守るため、若い愛人の存在を国民の目から隠し続けた。
 ヒトラーは、高潔さを装う偽善的な姿勢をとり続けた。ナチス・突撃隊の幹部が粛清された1934年6月30日の「長いナイフの夜」は、隊長のエルンスト・レームが同性愛者であることは周知の事実で、ヒトラーもそれをながく黙認していた。しかし、突撃隊と国防軍の対立が表面化したとき、ヒトラーは政治的理由からレームを切り捨て、道徳的純潔の擁護者になりすました。
「健全なる民族感情」の代弁者をもって自認したナチズムは、疑いなくヌードの氾濫を黙認し、奨励すらしていた。ナチズムは、社会生活にはびこるエロティズムをユダヤ人の責任に帰することで、ナチス自身がそれを促進していた事実を曖昧にしていた。
 ナチス・ドイツでは婚前・婚外交渉が一般化していた。ナチ党が権力を掌握してから、警察は、街娼の摘発・逮捕を通じて「街頭の浄化」を進める一方、売春宿の営業を監視・規制することこそ警察の義務だとした。市当局も売春の存続に関心を払っていた。国防軍も売春宿を必要と認め、売春婦の逮捕は控え目にするよう求めた。
戦争が始まると、政府はただちに政令を出して売春の管理を強化した。国防軍は政令にもとづき、帝国全土および占領地域で軍用売春宿を次々に設立した。
 「公的な不道徳」の撲滅を唱えて売春の一掃に乗り出すかに見えたナチズムが、結局のところ売春の封じ込めと組織化に舵を切った経緯は、道徳的に純潔な体制という外観を守りつつ、実際には性欲の充足を奨励して、これを国家目的に動員しようとする狙いを照らし出している。
 ナチス・ドイツの支配の本質をえぐり出した本だと思いました。
(2012年9月刊。1800円+税)

私はホロコーストを見た(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ヤン・カルスキ 、 出版  白水社
『ワルシャワ蜂起』を読んで、ポーランド国民の不屈の伝統を知り、大いに見直したばかりです。
 この本は、元ポーランド・レジスタンス機関の密使カルスキが語ったものです。そのすさまじさに圧倒されます。ところが、ヤン・カルスキは自分の任務は失敗したと思い、1945年以来、ずっと沈黙していたのでした。1981年10月になって忘却のなかに埋もれていたヤン・カルスキは再登場したのです。
 1942年夏、トレブリンカ絶滅収容所への大量移送後もまだワルシャワで生きのびていたユダヤ人ゲットー代表者からの要請を受け、カルスキは自分が目撃したユダヤ民族絶滅作戦の実態を連合国首脳に伝えようと、1942年11月末、ワルシャワからロンドンに到着するなり必死に動いた。
 ヤン・カルスキはユダヤ人ではないが、周囲にはユダヤ人家族が多かった。カルスキは予備士官学校に入って、そこを首席で卒業し、外務省に入った。1940年2月、陸軍少尉として初めて密使としてパリへ行った。そのたぐいまれなる記憶力、緻密さ、分析力は、「逸品」と評された。
 1942年10月に密使として出発するときには、カトリックの聖体とともに致死量の青酸カリも手渡された。
 ワルシャワ・ゲットーに対するナチスの「大作戦」と、トレブリンカ、ベウジェツ、ソビボルという名に象徴される絶滅作戦に関するすべての報告書をポーランド地下の国内軍(AK)情報部はマイクロフィルムにおさめていた。それをカルスキはカギの中に隠してパリまで運んだ。そのあと、ロンドンに届けられた。
 1942年12月、カルスキはロンドンでイギリス政府およびユダヤ人代表に口頭で報告した。さらに、1943年7月、アメリカでカルスキはルーズヴェルト大統領に直接報告した。
 つまり、アメリカもイギリスも、その最高首脳部はナチス・ドイツのユダヤ人絶滅作戦が進行中であることを直接きいていたのです。それでも、彼らはユダヤ人救出作戦を発動することはありませんでした。自国の都合を優先させたのです。アメリカ国内のユダヤ人勢力も、その点では似たようなものでした。結局、同朋を見殺しにしてしまったのです。
 ヤン・カルスキは、密使としてワルシャワからパリに行く途中でゲシンタポに捕まり、ひどい拷問を受けます。そして、自殺を図って病院に運び込まれるのでした。その病院は全体がレジスタンスに組み込まれていて、ついにカルスキは救出されました。
 何とも感動的な話です。下巻に続きます。
(2012年9月刊。2800円+税)
 本年もお読みいただきありがとうございました。
 今年よんだ本は560冊ほどです。弁護士会の用事が増えて出張が多くなると、読書タイムがそれだけ増えますので、うれしい面もあります。
 といっても、弁護士会の用事が増えたというのは、自民党が「大勝」して憲法改正の気運が強まっていることによりますので、本当は困ったことだと考えています。
 それはともかく、新年も引き続いて書評を書き続けますので、ご愛読をお願いします。

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.