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カテゴリー: ヨーロッパ

幸せな子

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:トーマス・バーゲンソール、 発行:朝日新聞出版
 現職は国際司法裁判所の判事である著者は、ユダヤ人として、あのアウシュヴィッツに10歳の時に収容され、奇跡的にも助かり、父親は収容所内で死亡するものの、母親も収容所を生きのび、戦後、再会することができました。まさに奇跡の積み重ねがありました。こんなこともあるんだなと、つい思ってしまいましたが、本人は、強い生存本能のもとに、死ぬとは思わずに頑張ったようです。
子どもの生存本能は強く、環境が変わっても、そこで生きるために適応することができる。子どもは本能的に自分が死ぬことはないと、そして、自分には生きる権利があると信じている。
 自分が生き残ったのは、まったくの幸運だったと思っている。生き残るか生き残らないかは、自分にはどうしようもない運のゲームであり、だから、その結果の責任は自分にあるわけではないと考えるようになった。ドイツ語もポーランド語もなまりなく上手に話せたこと。そして、ユダヤ人に見えなかったことも、生き延びるためには好都合だった。
ドイツ語が話せたおかげで何度も助かっただけでなく、ドイツ人っぽい顔つきのおかげで助かった。もしかして、私を見て、ナチの将校たちは自分の子どものことを思い出したのかもしれない。収容所の司令官は、私が働けると言ったとき、私を生かしておこうと決めたのかもしれない。ポーランド語を話せることでも何度も大いに役に立った。間違いなく、これらのことが組み合わさって、生き残るうえで役に立った。そして、それらは、ほとんどが偶然のことだった。
 著者の子どものころの顔写真があります。いかにも利発そうで、愛らしく、可愛さあふれる男の子です。こんな可愛らしい男の子が目の前にいたら、いくらナチスだって、人間としてとても殺す気にはならなかったでしょう。
そして、当時40歳ほどの著者の父親の毅然とした態度が妻と子を生きのびさせたのです。たいした父親です。そして母親もすごいものです。単なる免許証をいかにも重要な証明書であるかのように言い通したり、ハッタリを堂々とかませてナチスをやりこめたのです。
収容所では子どもが一番危ない。それを出し抜く方法を著者の父親は考え出した。毎朝の点呼のとき、できるだけうしろの方に著者を立たせる。バラックの入り口の近くに。点呼が終わって死の選択が行われそうな気配が見られたら、著者はバラックにこっそり入って、そこに隠れた。な、なーるほど、ですね。すごい勇気です。
 アウシュヴィッツでは、一度も鳥を見なかった。人間を焼く火葬場の煙と悪臭のせいで鳥がこなかったのだろう。
 収容所の中に子ども用バラックがあった。あるドイツ政治犯が考え、ナチスを説得したのだ。子どもは収容所で役に立つ仕事ができるのに殺すのはばかげていると。そして、子どもたちの主な仕事はゴミの回収だった。
 戦後、母親から著者に手紙が届いたときの様子を語ったくだりが泣かせます。
間違いなく母の字だと分かった。お母さんが生きている。ぼくは何度も何度も自分にそう言った。それは人生で一番幸せな瞬間だった。ぼくは泣き出し、同時に笑い出した。孤児院に来て以来、一生懸命つちかってきた自制心や強がりをみんな脱ぎ捨てて、ぼくにはお母さんがいて、だから、ぼくはまた子どもに戻ることができるのだ。
そうなんですよね。生きのびるために精一杯、背伸びをして大人を装っていたのをやめていいなんて、すばらしいことではありませんか。
 戦後まもなく、ドイツ人が楽しそうに話しながら歩いているのを見て、著者はバルコニーに機関銃をすえて、ドイツ人がぼくの家族にしたのと同じことをしたいと考えた。でも、そんな無差別な復讐をしたところで、父も祖父母も戻ってこないと気がつくのには、それから長い時間がかかった。そして、憎しみや暴力の悪循環を絶たねばならないと気がつくまでには、さらに長い時間が必要だった。憎しみや暴力は、罪のない人々の苦しみを増やすだけなんだ・・・。
 生きのびるって、本当にすばらしいことなんだと実感させてくれるいい本でした。
(2008年10月刊。1800円+税)

モスクワ攻防1941

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:ロドリフ・ブレースウェート、 発行:白水社
 1612年のポーランド軍も、1812年のフランス軍も、1941年のドイツ軍も、すべて同じルートをたどってモスクワを目ざした。ロシア軍は以上すべてのケースでスモレーンスクで抗戦し、1812年と1941年にはボロジノーで踏みとどまって抗戦した。1941年のドイツ軍は、ナポレオン軍とほとんど同じくらい馬匹輸送に依存していて、モスクワに接近するまでにナポレオンよりずっと長い日数をかけた。ドイツ軍侵攻が違っているのは、快速の機甲戦力を駆使して多数のロシア兵を包囲し、捕虜にする能力を持っていた点だ。
 ドイツ側の数字によると、捕虜にしたロシア兵は、7月10日から10月18日までに225万人をこえる。
 ナポレオンは1812年6月24日にモスクワ攻略を開始し、9月14日にモスクワに到達するまで83日かけた。ヒトラーは1941年6月22日に開始して、12月5日まで166日かかったがモスクワに到達することはできなかった。
 ドイツ軍はモスクワ攻略を目ざすタイフーン作戦を10月初めに開始した。中部軍集団の戦車部隊が北と南から迂回してロシア軍前線に約480キロの突破口をこじあけ、70万以上のロシア兵を捕虜にした。10月末までにモスクワからわずか130キロの地点まで迫り、しばらく停止させたのち、11月15日に進撃を再開した。しかし、ロシア軍が頑強に抵抗し、ついに12月5日、ドイツ軍の最後の総攻撃は阻止され、ロシア軍の反攻が始まった。
 モスクワ攻防戦は、第2次大戦でも、最大の、したがって、史上最大の会戦である。双方あわせて700万を超える将兵がこれに加わった。モスクワ攻防戦はフランス全土に匹敵する広大な地域で戦われ、6ヶ月にわたって続いた。ソ連は、この攻防戦だけで92万6000人もの戦死者を出した。この犠牲者数は第2次大戦全体を通じての英米両軍の犠牲者数の合計よりも多い。
 モスクワに至る道の夏の砂塵はヒトラー軍の戦車や車両のエンジンを摩耗させ、詰まらせ、ついには立ち往生させた。冬の酷寒は夏の炎暑におとらずすさまじい。12月から2月まで、マイナス40度以下に下がることもある。しかし、最悪の時期は秋から冬、冬から春への季節の変わり目だ。このとき近代的に舗装された道路以外は、すべて泥沼と化す。ナポレオンとヒトラーの軍勢を押しとどめたのは、実は冬将軍ではなく、この泥濘だった。
 スターリンは見境のないテロルを発動した。1973年と38年にはソ連全国で250万人もの人が逮捕された。4万人もの人々を刑場あるいは収容所に追いやり、全国で80万人もの人が処刑された。法廷で審理されることなく殺されたり、尋問中ないし獄中で死亡した人はこれよりもっと多い。
 スターリンによる粛清期に、ソ連に5人いた元帥のうちの3人、16人の軍司令官(大将)のうち15人、67人の軍団司令官(中将)のうち60人、師団長(少将)の70%が処刑された。いやあ、何回聞いても信じられない、ひどい、おぞましいスターリンの圧政です。独裁者であるトップが狂うと、こうなってしまうのですね。
 1941年1月、ソ連最高統帥部は2度にわたって国土演習をおこない、赤軍がドイツ軍の攻撃に対処する能力を検証した。いずれのシナリオでも防御側の敗北という判定が下された。赤軍が戦闘準備を完整するまでは、なにがなんでも戦争を避けなければならないことが明白となった。
 独ソ戦争の勃発は、完全にイギリスの思うつぼだった、スターリンは、そんなトリックに引っ掛かるつもりはまったくなかった。スターリンの希望的観測は、破滅的な脅迫観念と化した。ドイツが自らの意思でロシアと戦うなんて絶対にありえない。このようにスターリンは確信していた。
 1941年6月21日の真夜中にヒトラーがソ連国境に投入した兵力はナポレオン軍の6倍、300万の兵員、2000機の航空機、3000両の戦車、75万頭の馬。これらが3個の軍集団の戦闘序列下にあった。これに対して、ロシアは170個師団、400万の兵員を擁していた。ただし、その多くはまだ東部から移動中だった。
 スターリンは開戦後1週間の緊張にすっかりまいってしまっていた。ドイツの意図について途方もなく誤った判断を下し、自らの固定観念にそぐわない助言を拒否したことで、彼の権威はひどく失墜した。その結果、スターリンは虚脱状態になって別荘にひきこもった。6月30日政治局の面々が別荘にやって来たとき、スターリンは自分を逮捕しにやって来たと不安に思い、「君らは何をしに来たのかね?」と問いかけた。ところが、この人々が腑抜け連中であることを見抜いたスターリンは自信を取り戻した。
 この記述に私は眼を開かされました。あの独裁者スターリンも、一瞬、弱気になっていた時期があったのですね……。
 ドイツ軍の進撃に対してロシア軍は意外なほど抗戦した。最後まで徹底して抗戦した。無謀な逆襲を仕掛け、自殺的な波状攻撃を仕掛けた。これはドイツ兵に脅威を感じさせた。結局、これがモスクワを救ったのです。
 モスクワの若い女性たちも、男性にひけをとらないほど熱心に従軍を志願し、前線で電話・通信兵や衛生兵・軍医として活躍した。赤軍の前線勤務軍医の約40%、衛生兵の全員が女性であり、17人がソ連邦英雄の称号をうけた。うち10人は死後の追贈だった。
 実践部隊の戦闘員として従軍した女性も多かった。中央女子狙撃手学校の卒業生は、戦争中に1万2000人のドイツ兵を射殺した。全部で80万人もの女性が戦時中、赤軍に勤務した。この女性兵士たちの活躍ぶりと、それが戦後は評価されなかったことを詳しく語った本は先に紹介しました。
 スターリンは、赤軍将兵の後退を阻止するためにNKVD阻止隊を組織した。阻止隊は2万6000人を逮捕し、1万人を射殺した。戦争中に100万人の軍人が軍法会議で判決を受けた。その3分の1は脱走によるもの。40万人が刑の執行を猶予されて、懲罰部隊に編入された。懲罰部隊の死傷率は異常に高く、通常の部隊の6倍だった。
 ドイツ軍の捕虜となってソ連に送還された元捕虜200万人が「洗い出し」システムにかけられ、34万人が労役大隊に送られ、28万人が逮捕された。
 スターリンの存命中、ロシア人はまともな歴史を書くことができなかった。
 スターリンの致命的な誤りにもかかわらず、ナチス・ドイツ軍のモスクワ信仰を阻止したのは、老若男女を問わないロシア人の自発的な犠牲的行動によるものであったことがよく分かる本です。当時の写真も豊富にあって、状況がよく伝わってきます。なんだか数字をたくさん紹介してしまいましたが、実はモスクワ市民の戦時下の日常生活の様子などもたくさんの写真とともに紹介されていて、興味深いものがあります。
(2008年8月刊。3600円+税)

ユダヤ人財産はだれのものか

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:武井 彩佳、 発行:白水社
 ホロコーストは史上最大の強盗殺人であった。
 うむむ、な、なるほど、そういうことなんですね。
 ナチス・ドイツにとって、移住とは、無産化したユダヤ人の輸出であった。ヒトラー政権の成立時にドイツに暮らしていた52万5000人のユダヤ人のうち、移住した者は30万人、殺害された者は14万人とされる。その残りは不明ということでしょうか……。
 1933年当時のドイツの民間銀行1060行のうち、ユダヤ系のものが490行もあった。つまり、地方の民間銀行は、著しくユダヤ的な業種だった。大手銀行が、ユダヤ系の銀行を買収していくのがアーリア化の実態だった。
 ドイツにおけるユダヤ人収奪の最大の収益者は、明らかにドイツという国であった。
 1938年、ドイツの国家財政は破たん寸前だった。赤字は20億マルクにまで膨らんでいた。戦争に向けて大幅な増税は避けられないが、ヒトラーはこれを拒否した。
 ユダヤ人社会に10億マルクの弁済額が課せられ、特別税収は国家の収入を一気に6%も押し上げた。また、ユダヤ人の大脱出による出国税の税収増も加わった。戦争が始まる前は、国家予算の9%がアーリア化による収入であった。
 ユダヤ人から奪った物品を無償で分配することは原則としてなかった。収奪品を軍に引き渡すときにも支払いが要求された。盗品にも値札がつけられていた。
 ヨーロッパのユダヤ人から奪われた財産は、ドイツの戦争経費へ転化された。
 そして収奪されたユダヤ人の財産を戦後、どのように被害者へ還付するかというのが問題になったとき、肝心の遺族がいなかったのです。皆殺しにされたのですから、当然といえば、当然の現象ではあります。
 そこで、ユダヤ民族という集合体が、ヨーロッパに残された財産の相続人であるという国際法の常識を覆す主張が登場した。
 しかし、ユダヤ民族とは法的に定義可能なのか。民族というものに個々のユダヤ人の財産の相続権があるのか。つまり、集団全体は、集団の構成者の財産に対して権利を主張しうるのか。いずれにしても、殺して奪ったものによって富むことは許されない。このことは言える。
 では、誰が、相続人不在のユダヤ人財産に対する権利を有するのか。
 戦後ドイツのユダヤ人は2万人ほどでしかない。戦前の52万人ものユダヤ人には、とても匹敵しない。
 ナチス・ドイツが占領国の中央銀行から略奪した金塊を、スイスの中央銀行を含めた銀行が購入していた。
 ナチスに追われた難民がスイス国民で追い返された件数が2万4500件あり、少なくとも1万4500件の入国ビザ申請が領事館で却下された。
 IBMは、ナチ収容所の囚人管理のためのデータ管理システムを提供していた。
 ひえーっ、これには驚きました。あの天下のIBMって、ナチスのユダヤ人殺害に協力していたなんて、まったく知りませんでした。 
 島根の同期の弁護士から、太くて長い立派な長芋をたくさん送ってもらいました。実に見事な山芋で、トロロ汁を美味しくいただきます。でも、ちょっと食べきれませんので、知人にも少しだけ、おすそわけしました。
 トロロ汁もいいのですが、山芋ステーキも腹もちして、いい案配です。そして、梅肉を混ぜ込むと、これまた絶品です。思い出すだけで、口中によだれがたまってきてしまいました。
(2008年75月刊。2600円+税)

戦争は女の顔をしていない

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ、 発行:群像社
 久しぶりに思いっきり感動しました。人間、そして社会の実相にトコトン深く迫った本だと思います。戦争という極限の状態に追いやられたとき、人間がどういう行動をとるのか、そして、平和を回復したとき社会がその過去の極限状態についてどう評価するのか。予想をはるかに超えた厳しいマイナス評価がなされます。すると、極限状態に置かれていた人々は一体どうなるのか…。
 つい最近、NHKスペシャルで、イラク戦争に従軍したアメリカ人女性兵士が本国へ帰還してから悲惨な状況に置かれている様子が2回にわたって放映されていました。戦場で13歳の少年を殺してしまった女性兵士が、我が子を素直に抱けなくなってしまったというのです。とても衝撃的な番組でした。よくぞここまで映像にできたものだとNHKを再評価したほどです。この本は、そのアメリカ人兵士と同じ状況が第二次大戦を戦ったソ連赤軍の女性兵士にも起きていたことをまざまざと浮き彫りにしています。
 ソ連では、第二次世界大戦に100万人を超える女性が従軍し、パルチザン部隊や非合法の抵抗運動に参加していた女性たちもそれに劣らぬ働きをした。
 わたしが子ども時代をすごした村には女しかいなかった。女村だ。男たちはみな戦争に駆り出されていた。女の子たちの中には「前線に出なけりゃいけない」という空気が満ちていた。
父が殺された。兄も戦地で亡くなった。母は訊いた。「どうしておまえは戦争に行くの?」その答えは、「お父さんの敵討ちに」。
 女性用の狙撃兵訓練所があった。敵といったって人間だから、ベニヤの標的は撃っても、生きた人間を撃つのは難しい。人をはじめて撃ったときは恐怖にとらわれた。自分は人間を殺したんだ。この意識に慣れなければならなかった。たまらなかった。
 戦線から戻ってきたとき、21歳のなのに、すっかり白髪だった。
 狙撃兵は2人一組で働いていた。部隊から「勇気を称える」メダルをもらったのが19歳。すっかり髪が白くなったのが19歳。最期の戦いで、両肺を打ち抜かれ、2つ目の弾丸が脊椎骨の間を貫通し、両足が麻痺して戦死したとみなされたのも19歳だった・・・。
 女の子たちは、戦闘機にも飛行士として乗った。飛ぶだけでなく、実際に彼女らは敵機を撃墜した。
 戦争で一番恐ろしかったのは、男物のパンツをはいていることだった。これは厭だった。夏も冬も、4年間も、戦場ではいていた。
 クルクス大戦車戦にも女の子たちが兵士として参戦していたそうです。
 ドイツ軍は、従軍していたソ連の女たちを捕虜にとらなかった。ただちに銃殺した。
 通信兵をしていた女の子の心臓に弾丸があたった。ちょうど、鶴の群れが頭上を飛んでいった。
「残念だわ、あたし。ね、あ、あたし、本当に死んじゃうのかしら」
 そのとき、郵便が配達された。
 「あんたの家から手紙が来てるの。死んじゃダメ」
 母親からの手紙だった。
 「あたしの大事な、かわいい娘や」
 手紙は終わりまで読み上げられた。そのあと、アーニャは目を閉じた。その様子を見て、医者は「奇跡が起きた」と叫んだ。
 簡易塹壕や焚き火のそばで、むき出しの地面に何年も寝泊りすることが、何年も軍用ブーツや軍用外套を着ていることが、どうして18歳から20歳の女の子にできるのか。しかし、戦争の中でも、女性らしい日常は忘れられてはいなかった。
 戦争はどんな色かと聞かれたら、こう答える。「土色よ」。工兵にとっては、黒や、砂の色、粘土の色、地面の色だと・・・。
 私たちは、恋を胸のうちで大切にしていた。恋愛はしないなんて、子どもじみた誓いは守らなかった。恋していた・・・。
 ソ連の従軍兵士たちは15歳から30歳で出征していった人たちで、看護婦や軍医だけでなく、実際に人を殺す兵員でもあった。ところが、戦争で男以上の苦しみを体験した彼女たちを、次の戦いが待ち受けていた。戦争が終わると、従軍手帳を隠し、支援を受けるのに必要な戦傷の記録を捨てて、戦争経験をひた隠しにしなければならなかった。「戦地に行って、男の中で何をしてきたやら」と、戦地経験のない女性たちからは侮辱され、男たちも軍隊での同僚だった女性たちを守らなかった。
 取材される女性たちは、戦場でのあの地獄を追体験したくないといって語りたがらなかった。
 戦後何十年もして、ジャーナリストが『プラウダ』に女たちも戦争に行ったことを初めて書いてくれた。従軍していた戦闘員の女性たちが家庭を持てず、今も自分の家もない女たちがいること、その人たちに対して国民みんなに責任があるということを書いた。それから初めて戦争に行っていた女たちに少しずつ注意が向けられるようになった。
 すさまじい戦争の実相がよくぞ語られています。胸の奥底深くに迫ってくる衝撃の本でした。一読されることを、皆さんに強くおすすめします。 
(2008年7月刊。2000円+税)

ベルリン終戦日記

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:アントニー・ビーヴァー、 発行:白水社
 1945年4月、ドイツの首都ベルリンにいた34歳の女性ジャーナリストの書いた日記です。ニセモノ説もあったようですが、ホンモノだと判定されています。この本を読むと、ニセモノ説があったなんてとても信じられません。きわめて具体的でまさに迫真そのものです。ジューコフ元帥の率いるベロルシア方面軍150万の赤軍兵団がベルリンを占領し、至るところでドイツ女性を強姦するのです。その状況が被害者として生々しく語られます。
 日記は、1945年4月20日から6月22日までの2ヶ月分です。この間に、米英の空軍機による空襲、ソ連赤軍による地上砲撃、市街戦、ヒトラーの自殺(4月30日)、ドイツ軍の降伏(5月2日)、連合軍のベルリン占領があった。
 1945年にレイプ被害にあったドイツ人女性は、200万人と見られている。ベルリンでは10万人から13万人とされている。
 第一段階はソ連兵士による復讐と憎悪によるもの。多くの兵士は戦争の4年間に自国の将校や政治委員たちによってひどい屈辱を受けていたので、この屈辱を何としても埋め合わせねばと感じていた。ドイツの女たちは、そのもっとも簡単なターゲットだった。
 第2段階では、赤軍兵士はその犠牲者を選ぶにあたってより慎重になり、防空壕や地下室の女たちの顔に懐中電灯の灯を当て、一番魅力的な女を選ぼうとした。
 第3段階では、ドイツの女たちが特別な兵士あるいは将校と非公式の合意を結び、男たちは別の強姦者から彼女たちの身を守り、性的服従の見返りに食料をもたらした。
 ソ連軍が占領する前、ある夫人が叫んだ。
 頭上のアメ公より、腹の上の露助のほうが、まだましだわ。
 赤軍兵士は、まず問いかける。「結婚しているのか?」 もし、そうだと答えれば、次には夫はどこにいるのか、と問う。もし、いいえと答えれば、ロシア人と「結婚する」つもりはないかと問う。それに続いて妙になれなれしい態度をとる。
 彼らは太った女を捜していた。おデブちゃん、すなわち美人。その方が女らしいのだ。男の身体とは全然違っているから。
 (強姦されているとき)私の自我は身体を慰みものにされた哀れな体をあっさり見捨てようとしている。それから、遊離して、漂いながら白い彼方へと無垢なまま向かおうとしている。こんな目にあったのが私の「自我」であってはならない。嫌なことは何もかも追っ払ってしまわなければ。頭がおかしくなっているのだろうか。
 強い狼を連れてきて、他の狼どもが私に近づけないようにするしかない。将校、階級は高ければ高いほどいい。司令官、将軍、手の届くものであれば、なんでもいい。
 シュナップス(アルコール)は、男を興奮させ、性的衝動をひどく亢進させる。赤軍兵士が見つけた大量のアルコールがなければ、強姦事件だって半分ですんだはずだ。兵士たちはカサノヴァではない。自分で景気をつけないと大胆な行動には出られない。酒で洗い流さなければならないのだ。だからこそ、連中は必死に飲むのだ。
 それなのに、ナチス・ドイツはアルコールを貯めていた。それを飲んだら行動が鈍るだろうと、間違った予測を立てていた。
 著者の生理も乱れてしまったようです。医者に診てもらうと、「食事のせいです。体が出血をおさえようとしているのです。あなたの体がまた太ってくれば、周期にも問題がなくなりますよ」といわれたとのこと。
 『ベルリン陥落』(白水社)に描かれていた状況を、一女性の立場で生々しく告発しています。
 
(2008年6月刊。2600円+税)

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