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カテゴリー: アジア

ラマレラ、最後のクジラの民

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 ダグ・ボック・クラーク 、 出版 NHK出版
インドネシアの小さな島(レンバダ島)で伝統的なクジラ漁に生きるラマレラの人々の生活に密着・取材したアメリカ人のフォト・ジャーナリストによる迫真のレポートです。
ラマレラの人々が狙うのは60トンもある巨大なマッコウクジラ。小さな船が寄り集まって、勢いよくモリを突き刺し、弱らせて殺し、浜辺で待つ家族にもち帰るのです。
まったくの手作業ですから、ラマレラの人々に殺されるマッコウクジラの数なんて、たかが知れています。それなのに、ヨーロッパのWWFなどは敵視して、無理にでも止めさせようとするのです。大いな矛盾です。ちょっと、目ざす方向が間違っているのではないかという気がしてなりません。
アメリカ人の著者は、2014年から2018年にかけて、合計して1年間、ラマレラに住みついて過ごしたとのこと。ラマレラ語も話せるようになり、漁にも何十回となく参加したのです。
アメリカ人の著者が通った4年のうちに、ラマレラの人々の生活はずい分と変化した。
今では、インターネットが入りこみ、スマホとSNSが使われている。物々交換がほとんどだったのが、現金取引することが多くなった。
沖合を回遊するマッコウクジラを1頭でもとれたら、1500人いるラマレラの人々は、数週間は食べていける。数十人の男たちが連携して巨大なクジラを倒し、とれた獲物は、公正に分配する。ラマレラは猟師300人。年に30頭をとる。捕鯨で生きている唯一の村。海の荒れる雨期には、クジラの干し肉で生きのびる。
野生のマッコウクジラは、今でも数十万頭は生きているので、ラマレラの人々が年に20頭も殺したとして、世界的生息数に何の影響も及ぼさない。
ラマレラの人々はキリスト教の信者だが、同時に、先祖から受け継いだ呪術的な宗教儀式を今も実践している。
ラマレラのクジラ狩りは、できるだけ多くの銛(モリ)をクジラに打ち込み、ほかの銛を足していく。銛につながった網で船数隻の重量をひっぱることになったクジラが次第に疲れ、弱ったところを前後左右から漁師たちが攻撃する。一隻ではとてもクジラと太刀打ちできないが、チームでならどんな巨大なクジラも倒すことができる。
しかし、クジラ狩りは、いつも危険と隣りあわせ。けがもするし、ときには生命を落としてしまう。
クジラの干し肉は、細長くスライスして、竹の物干し竿にぶら下げ、南国の太陽と乾燥した空気で干物にする。そして、漁業をしない山の民が育てた野菜と交換する。クジラの干し肉1枚でバナナ12本、あるいは未脱穀のコメ1キロ。
ラマレラには21の氏族があり、大きく37のグループに分かれる。嫁をとるグループは決まっていて、Aグループの男にはBグループの女から、BグループにはCグループから、そしてCグループにはAグループから女が嫁ぐ。
クジラ狩りの季節は、毎年5月に始まる。
インドネシアの男性の平均寿命は67歳で、アメリカ男性より10年も短い。
クジラに打ち勝つ方法はただ一つ。祖先がそうしていたように、ラマレラの人々みなが力を合わせること。一つの家族、一つの心、一つの行動、一つの目的だ。
クジラ狩りで生きてきたラマレラの人々がこれからも、それで生きていけるのか、「文明化」の波に押し流され、すっかり変わってしまうのが、ぜひ注目したいところです。
450頁もある部厚い本ですが、そこで伝えられるクジラ狩り漁の勇ましさ、その苦労に圧倒されてしまいました。
(2020年5月刊。3000円+税)

動きだした時計

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 小松 みゆき 、 出版 めこん
著者が認知症になった高齢の母を新潟県からベトナムに引きとった顛末記(『越後のBaちゃん、ベトナムへ行く』)は面白く読みました(このコーナーでも紹介しました)。それは、日越合作の映画「ベトナムの風に吹かれて」になり、松坂慶子・主演だったようです。残念ながら見逃しました。
この本で著者の歩みを始めて知りました。私と同じ団塊世代で、新潟から中学を卒業して上京し、東京で住み込みで働くうちに定時制高校に通い、夜間の短大を卒業して労働旬報社につとめ、東京合同法律事務所にもつとめていたのです。
そして著者は一念発起し、ベトナムで日本語教師として働くことにしました。日本語教師として教えていると生徒のなかに、私の父は日本人ですという男性がいて、著者は面くらいます。ベトナムに日本人がいただなんて…。
調べてみると、日本軍がベトナムを占領・支配していた時期があることが分かりました。
日本敗戦時、北部に第21師団、南部に第2師団がいて、武装解除された日本兵は北部で3万人、南部に7万人ほどいた。また、民間人も、北部に1400人、南部に5500人いた。そして、600人の元日本兵がベトナムに残留した。その多くはベトミンの要請にこたえて、ベトナム人に軍事指導した。この600人の半数はベトナムで戦病死し、インドシナ戦争が1954年に終結したとき200人いて、うち71人が日本に帰国した。
ベトナム中部クアンガイ省に陸軍士官学校が創設され、400人の学生を4隊に分け、4人の日本人教官と、4人の下士官が軍事教練した。
93歳のボー・グエン・ザップ将軍は、日本人教官によるベトナム軍の育成、貢献は大きいとカメラの前で語った。
いやあ、知りませんでした…。
それで、著者は、ベトナムに残された家族の要請を受けて、日本に戻った元日本兵をたずね歩くのです。大変な苦労がこの本で詳しく明らかにされています。
なかには、会いたくない、話したくないと拒絶されることもありました。
ベトナムに妻子を「待たせ」ながら、日本で結婚して子どもをつくった人たちもいます。両方の家族がわだかまりなく会えるのかどうか…。
この本で圧巻なのは、著者たちの苦労がベトナム大使の理解を得、ついには、2017年3月2日、ハノイに天皇夫妻が残留日本兵家族と面談したこと。これで、日本のマスコミを通じて、日本人に問題を一挙に理解してもらえたのでした。
しかも、このとき、著者自身が「お母さまを(ベトナムに)お連れになったんですってね」と声をかけられたというのです。いやあ、これは、たいしたことですよ…。
パラオ、ペリリュー島への慰問といい、天皇夫妻の東南アジア歴訪は、それが天皇制維持の目的があったとしても、私は現代日本において、日本人の戦争観を深めるきっかけになりうるものとして、いくら甘いと非難されても、高く評価します。
著者の大変な苦労がこれで大いに報われたと思います。世の中には、いかに知らないことが多いか、また、今からでも遅くないので、発掘すべき事実があることを思い知らされた本でもありました。
同世代の著者の今後ますますの健筆を大いに期待しています。
(2020年5月刊。2500円+税)

仏陀バンクの挑戦

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 伊勢 祥延 、 出版 集広舎
仏陀バンクなんて、聞いたこともないコトバですよね。
これに似ているのがノーベル平和賞を受賞したインドのグラミン・ユセフ氏のグラミンバンクですが、それは5人の連帯保証人と20%ほどの利息が求められます。
これに対して、仏陀バンクはなんと利息をとりませんし、保証人も物的担保もとらないというのです。ええっ、そ、そんなのがうまくいくわけないでしょ…。そう叫びたくなりますよね。
でも、そこにちょっとした工夫・仕掛けがあるのです。お金の借りた村人は、お金を貸してくれた「仏陀」へのお礼として1ヶ月分の「お布施」を元金のほかに支払うのです。
ええっ、それじゃあ名目が違うだけで利息をとっているのと同じでしょ…。いえ、違うんです。この「お布施」は貸した側に入るのではなくて、そのまま次の村人への貸し出し原資として使われるのです。たとえば100人規模の村の場合、原資10万円を村人10人に1万円ずつ貸し、借りた村人は毎月千円ずつを返済していく。すると、1ヶ月後には、10人から千円ずつの計1万円が戻ってくるので、それを新しく村人へ貸し付けていく。
対象の村人は仏教徒で、信仰心があることが前提となっている。
この仏陀バンクは、バングラデシュでは2010年に始まった「四方僧伽(しほうさんが)」の主要プロジェクトだ。
バングラデシュはイスラム教国家であり、仏教徒は国民の1%にもみたない存在。
仏陀バンクによると、個人の自立だけでなく、人々の連帯心も生まれる。
バングラデシュの南東部にジュマ民族と呼ばれる先住民が暮らしている。顔つきは日本人とあまり変わらないアジア系モンゴロイド。そして、平原地帯に暮らすベンガル人仏教徒であるバハワ族がいる。この先住民ジュマとバハワという2つの仏教徒は微妙な関係にあり、決して仲がいいとは言えない。
村人にとっていいことずくめのはずの仏陀バンクなのですが、実際に現地に根づかせようと思ったら、2つの民族の対立心があったり、個人の功名心や嫉妬があったり、お金に目がくらむ人もいたりで、大変な苦労をさせられるのでした。なるほど、理想を現実のものにするのはいつだって大変なんですよね。
バングラデシュには、観光客がほとんどいない。観光産業はほとんどなく、旅行という概念がない。旅行者を狙った犯罪もなく、外国人料金も存在しない。人々は外国人が珍しくて仕方がない。
うひゃあ、今どき、そんな国があるのですね…。
道路には交通信号がほとんどない。排ガス規制もないので、大気汚染はひどく、絶え間ないクラクションで頭が痛くなる。世界一の最貧国で、ホームレスが多く、ストリートチルドレンがものすごい。少数民族の仏教徒はイスラム教徒に襲撃されたり、軍部から人権抑圧の対象となったりする。
そして、仏教徒内部のひがみ、やっかみ、虚栄心の張りあいなどで、仏陀バンクは、何度となく破局寸前になるのでした。そして、2016年7月には、ダッカでイスラム過激派による襲撃事件が起き、20人が殺害されましたが、そのうちの7人が日本人で、いずれもJICA関係者だったのです。
このような、次々にあらわれる困難を乗り越え、仏陀バンクは100ヶ村を目ざしつつ、なんとか半数を達成したようです。
すばらしい取り組みだと思いました。こんな地道な取り組みをしている日本人については、中村哲医師と同じように、もっともっとメディアは知らせてほしいものだと思います。
この本の発行は福岡の集広舎ですが、「四方僧伽」の事務局は北海道の石狩郡にあるとのことで、その地域的ギャップの大きさにも面くらいました。一読に値する本です。
(2020年4月刊。2000円+税)

ベトナム戦争と私

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 石川 文洋 、 出版 朝日新聞出版
現在82歳(1938年生まれ)の著者が27歳のとき、1964年8月に初めてベトナムにカメラマンとして足を踏み入れてから今日までのベトナムとの関わり、とりわけ当初の4年間(1968年12月まで)のベトナム取材の様子を写真とともに語った本です。
ベトナム戦争は、その反対運動に大学生時代のとき、私も参加していたので、決して忘れることができません。アメリカは5万人あまりの青年をベトナムのジャングルで死なせましたが、だいたい私と同じ世代です。前途有為の青年がむなしく大義のない戦死をさせられたのですから、むごいものです。もちろん、ベトナムの青年は何十万人、何百万人も殺されていることも決して忘れるわけにはいきません。前に紹介しました『トゥイイーの日記』は涙なくして読めませんでした。
この本によると、アメリカ軍・ベトナム政府は軍に捕まった「ベトコン」(解放戦線)の兵士は拷問にあっても、たとえ親指を切断されても悲鳴すらあげなかったとのこと。
まさしく祖国を守るという大義のために身を挺して戦っていたことがよく分かります。
そして、ベトナム戦争で、日本は韓国とちがって憲法9条のおかげで参戦することもありませんでした。韓国軍はアメリカ軍と同じようにベトナムで残虐なことをしていたことで有名ですが、日本はそんな悪評を立てることなく、経済的利益だけはしっかり吸いとったのでした。
この本によると、日本は、テント、軍服、プレハブ建設資材、建築鋼材、発電機、軍用車、テレビ、ラジオ、冷蔵庫、肉・魚の缶詰、インスタント食品などいろんなものの特需があった。
基地にあるPX(売店)には、日本製のカメラや小型テレビが売られていた。
ダナン基地内を回るバスは日本の国際興業(例の小佐野賢治の会社です)が請け負っていた。また、沖縄からベトナムへ物資を運ぶ輸送船LST(戦車揚陸艦)には2000人以上の日本人乗組員が働いていた。
日本の特需は1964年に3億ドルをこえ、1969円には6億5千万ドルに近かった。しかも、これは表に出た数字であり、もっと多くの金額が働いていたとみられる。戦争は、一部の人間には何のリスクもなく、ぬれ手にアワ式でボロもうけ出来る絶好のチャンスなのです。それを、いつだって愛国心とか、うまくカムフラージュして、きれいごとで覆い隠すのです。
著者の取材は、アメリカ軍・ベトナム政府軍に同行するものでした。そして、現地での、ベトナムの村々を破壊し、農民を虐殺する実際を見るにつけ、これでは農民の支持が得られるはずはない、ベトナム政府軍は、作戦を繰り返すほど敵を増やしていったと確信したのでした。
ベトナムでアメリカ軍が見事に敗退したあと、実は、ベトナム軍のナンバー2の副参謀総長も解放戦線のシンパだったことが判明しました。これはすごいことです。ベトナム政府軍には少なくない人々が見切りをつけていたのですね…。
そして、著者は、ベトナムで撮った写真のネガは1万5千枚あり、そのうち発表したのは500枚のみで、残る1万4500枚は眠っているとのこと。ぜひ、日の目を見せてほしいものです。
80歳になっても元気に日本縦断・徒歩の旅を完行した著者です。ますますのご活躍を心より期待します。
(2020年2月刊。2000円+税)

幸運を探すフィリピンの移民たち

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 細田 尚美 、 出版  明石書店
私のすむ町にも、かつてはフィリピン・パブが何店舗もあり、日本人夫とフィリピン人妻の離婚事件もいくつか扱ったことがあります。フィリピンからタレントとして日本にやって来て、ショータイムで踊ったりする女性がたくさんいました。そして、そのなかに日本人男性と結婚し、子どもを日本で育てている女性と出会ったのでした。今は、とても少なくなりました。
では、そんなフィリピン女性は現地フィリピンではどんな生活をしていたのか、日本人学者(女性)が現地で生活しながら探究していますので、とても具体的で説得力があります。
著者が住み込んだのは、サマール島。私はルソン島とレイテ島には行ったことがありますが、このサマール島には行ったことはありません。
マニラのあるルソン島の南東部にある山がちの大きな島。サマール島の基幹産業であるココナツ産業の最大の問題は、国際市場における価格の不安定さ。そして、このサマール島にも、新人民軍(フィリピン共産党の軍事部門)がいて、1972年から武力衝突が繰り返されていた。コトバは、まず地元のワライ語。そして、マニラに行く人が多いのでタガログ語も話せる人がほとんど。
今では、サマール島でも教育機会が増加し、大学進学者は着実に増えて、7万人へと倍増した。しかし、その就職先があまりないという問題がある。
サマール島は人口は疎らで、大きな都市や大規模農園がなく、マニラへ「冒険する」人々が増えていった。それは、若い女性が主だった。
女性のほうが男性より都市部へ向かう傾向が強い。それは、求職であると同時に結婚相手を探すという意味があった。
ある家族の最大の収入源は、マニラでお手伝いとして働く2人の娘からの送金だった。
生存レベルをこえて少しでも余裕のある村人は、村の家族に何らかの貢献をしてコミュニケーションを維持し、そうでない人は自分たちのできる範囲で維持すれば十分だと考えられている。
サパラランとは冒険。自らの運命が変わるのを受動的に待つのではなく、能動的に働きかける行為だ。したがって、サパラランには幸運探しと言い換えられる。
バサルボンは、村人が村に帰省したときに村人に渡す贈り物。マニラ帰り遊びだと、旅行カバン、ハイヒール、きれいな洋服だ。帰省する村人は、何らかのバサルボンを期待される。バサルボンの種類と量は、帰省する者の成功度を測る尺度の一つだ。
富を分配しない人は孤立し、村人のあいだの相互扶助をあてにできなくなる。他方、分配する人は社会的に認知され、周囲に人が集まってくるが、その態度は常に監視されている。富を分配していたとしても、集団の陰口で評判を落とされる可能性がある。
2000年から18年間にわたってフィリピンのサマール島に通った著者による貴重なフィールドワークが集大成された貴重な本です。
(2019年2月刊。5000円+税)

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