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カテゴリー: 社会

原発推進者の無念

カテゴリー:社会

著者   北村 俊郎 、 出版   平凡社新書
 原子力をやってきた人間が原発の立地地域に棲まないでどうするんだという気持ちから、福島第一原発から7キロの富岡町に住んでいた著者の避難体験記です。本当に悲惨な体験で、読んでいて、その無念さが伝わってきて涙が出そうになりました。
 3.11によって、著者は人生観、世界観を変えられた。今まで原子力を推進してきた者として、無念さを感じるとともに、大いなる反省をせざるをえなかった。
 著者は技術者ではありません。経済学部を卒業して、日本原子力発電に入社し、管理部門を歴任してきたのです。
 7月に著者は一時帰宅したのですが、このとき、被曝線量は1時間あたり4マイクロシーベルト。もし、そのまま居住していたとすると、1年間に44ミリシーベルトの被曝を覚悟しなければならない。これは一般人の年間許容線量である1ミリシーベルトの44倍である。原発作業員の許容線量年間50ミリシーベルトと同じくらいになる。恐ろしいほどの線量ですね、これって・・・。
 富岡町と内村の人口をあわせると2万人。避難所に入っている人は、その2割程度。あとの8割は、親戚・知人を頼って各地に移り住んでいるということになる。
日本の原子力界は「原子カムラ」と呼ばれ、閉鎖的だとされているが、世界の原子力界も閉鎖的な傾向がある。30年間も原発を建設していないアメリカでは、多くの企業が原子力から撤退した結果、人材が枯渇し、原子力界は最盛期から何十年も原子力に関わってきた一部の人たちにより維持されている。どの国も原子力にかかわるメンバーが固定化する傾向にある。
 今回の原子力災害は、著者をいきなり避難者の立場にした。その立場で考えると原子力関係者が、いかに視野が狭く、現実的な視点が欠けていて、形式主義だったことが分かった。これが事故原因にも、避難の際の混乱にもつながる。異端を排除し、事なかれ主義が横行していては、原子力の安全は覚束ない。
 原発の是非には対する世論は原発のメリットと危険性を天秤にかけるという終わりのない論議から、安心して暮らせる社会はいかにあるべきかの方向に移行しつつある。世間に「原発は時代遅れのものだ」と烙印を押されることが、原発廃止の最大の決め手になる可能性がある。
 私は、九州でいうと玄海原発そして川内原発を直ちに廃炉にすべきだと考えています。といっても、運転停止をしても放射性物質をいったいどこへ持っていくのかという厄介な問題があります。九電は安全だと主張しているわけですから、九電本社のある電気ビルの地下に収納してもらえるのなら、それが一番いいと思うのですが、周囲がそれを許さないでしょう。では、いったいどこへ持っていったらいいのでしょうか・・・。九電の首脳部に答えてほしい問題です。
(2011年10月刊。780円+税)

教育をめぐる危機と展望

カテゴリー:社会

著者  日本民主法律家協会 、 出版  「法と民主主義」
    最新の『法と民主主義』(465号)は「教育をめぐる危機と展望」という特集を組んでいます。大阪で教育基本条例が制定されようとしています。橋下徹前府知事が提案したものです。教師をがんじがらめに統制しようという大変な条例です。こんな条例のもとで、子どもたちがのびのび学べるはずはありません。橋下市長はグローバル社会に勝ち抜く人材養成を目指すというのですが、かえって日本の子どもたちの学力を低下させるだけだと思います。問題は、こんなひどい条例案を支持する風潮があることです。
  それがなぜなのか、不思議に思っていましたが、その点について佐貫浩教授が次のように指摘していますので、紹介します。
  「高度成長の巨大な流れのなかの、学校教育は、競争的サバイバルの場へと変化していった・・・。勝者と弱者を区分する場として学校の学習・教育の過程を意味づけ、多くの子どもの挫折や希望剥奪を生み出さざるを得なくなり、教師をそのようなシステムの担い手、見方によっては『手先』という感覚でとらえられる位置へと追いやった。そして、落ちこぼれ、学校嫌い、不登校、いじめ、校内暴力、学級崩壊、等々の学校の危機、教育の危機が連続的に深刻化していった。
  その結果、70年代後半からの国民的な学校体験の様相が大きく変質する。今学校に子どもを通わせている親たち(1980~2000年頃に学校に通っていた)の学校体験からすれば、学校での学力競争に勝ち抜いてきた階層は、冷たく差別的な視線にさらされた否定的な場と捉えているのではないか。そしてその体験に、学習権実現を温かく支えてくれた学校や教師の記憶を求めることは難しくなっているのではないだろうか」
  「今求められているのは条件整備ではなく公費の非効率をもたらしている学校の閉塞性や密室性にあるとして、学校選択制や人事考課制度を導入し、市場の論理でもって教師と学校を、行政や親の要求に適合させるように競争させることこそが教育改革であるとした。そのため学校は、急速に過重化する学校教育課題に対処困難となり、学校の荒れや子どもの困難に取り組む力を失い、誇りや創造性を奪われた教職員の疲弊や病気が拡大し、しかもそれらの困難すらもが教師の力量不足や労働倫理の欠如によるものとして批判が教師に向かうという悪循環が展開している」
  「大阪の橋下知事(現大阪市長)は、大阪維新の会の『教育基本条例案』への文科省見解について『バカみたいなコメントに従う必要はない』と応答したという。そのような暴言を、公の責任あるトップの位置に就いている人物が表明しても、放置・容認されてしまうところに、現在の一つの特徴があると言うべきだろう。実はそこに公共性の問題がある。暴言的ですらある言説に対する心情的な同意が一定程度存在し、その指示を見込んで居直りとも言える態度が選ばれているとみることができる」
  「首長が公務員をその政策目標の実現のために命令・管理し、評価・統制することが当然とされる、それは住民要求の実現のためであり、それに対して教師の自由を掲げて教師が反対運動を行うのは、むしろ住民要求に対する敵対行為とみなされてしまう。こういう論理の下に、従来であれば〝教育の自由を侵す政治権力の介入″という文脈で読み取られた政策が、今日では、教師の専門性や倫理性を高めるために欠かせない〝教師と教育実践課程への管理・監督″、住民要求実現のための近代的教育管理という文脈での受け入れられてしまうことになるのである」
  「一向に事態が改善しない学校教育の実態、そしてその学校のあり方に親や住民がもの申す回路が閉ざされている実態に怒りすら覚えるなかで、しびれを切らした親・住民が、首長主導の上からの権力的な教育改革を―しかも『学力向上』というまさに教育の内容や価値にかかわる改変を―推進することへの期待すら生まれてしまう」
  「今、子どもの権利のための教育として前提されている学校教育の学習=教育の過程が、実態としては、正規雇用を確保するための個人化されたイス取りゲームになり、その失敗は自己責任とされてしまう。イスが減らされれば、教師がどうあがいても脱落するものが増え、学習権の実現、生存権を支える学習権とは何であるのかを問うこと自体困難になる」
  「国旗・国歌裁判における教師の権利の主張が、子どもの権利実現にとってどういう意味を持つかについての深い理解と同意を得ることを介して、教師の良心の自由や表現の自由、内心の自由が国民的に了解されるという論理の回路が豊かに作り出される必要がある。
  そもそも教育における教師の権利は、親・住民の願いに対する責務を背負った、そういう意味では二重の公共性を持った権利である」
(2012年1月刊。1000円+税)
 寒い朝でした。庭に霜柱が立っています。陽が差してくると、ダイヤモンド・ダストのようにキラキラと輝き出しました。チューリップの芽がぐんぐん伸びています。春が待ち遠しい、このごろです。

西の魔女が死んだ

カテゴリー:社会

著者   梨木 香歩 、 出版   新潮文庫
 わずか20頁あまりの薄い文庫本ですから、旅行の友として持ち歩いてみてはいかがでしょう。読後感も爽やかで、すーっと心が軽くなっていきますよ。
 中学生のころって、大人にはまだなりたくないけれど、もう子どもではないと宣言したくなる自分がいるじゃないですか。でも、やっぱり子どもの時代のままでもいたいし・・・。
 親からは早く自立したい。いろいろ親から言われると、それがたまらなくうっとうしい。でも、そうは言っても中学生が一人で自活できるわけでもない。友だちも深く突っこんで話せるような人はいない。心を許せる友人って、意外にいないもの・・・。
 主人公のまい(女の子)も登校拒否になってしまいます。ずっと優等生できたのに・・・。
 扱いにくい子。生きにくいタイプの子。母親からも、こんなレッテルを貼られてしまうのでした。そこで、まいは、田舎のおばあちゃんが一人住む家にしばらく預けられることになったのです。このおばあちゃんは、なんと日本人と結婚したガイジンさんなのです。自然のなかでゆったり過ごすおばあちゃんの家で生活しているうちにまいもいつのまにか生きていく自信を取り戻すのでした。
私自身は、小学校のころまでは家一番の笑い上戸でした。よく母親から、あんたは箸が転んでも笑う子だねと言われていました。ところが、中学生になると、親とはほとんど口を利かなくなりました。そして、高校生になると、優等生でしたから、親からガミガミ言われることはありませんので、内心、親を小馬鹿にしていました。自分ひとりでこの世に生まれ育ち、大きくなったかのような錯覚にとらわれていたのです。
 大学に入って、いろんな境遇の人と交わるようになって、自分が間違っていたことが少しずつ分かるようになりました。そして、弁護士になって10年ほどして、父親がガンにかかってから、その生い立ちを記録しようと思いたち、聞きとりを始めてその苦労を知ると同時に、親の歩みが実は日本の戦前戦後の歴史そのものだということを知って、大変な衝撃を受けたのでした。父そして母の伝記を本にまとめたのですが、私にとっても感銘深い冊子です。
 自分を見つめるには、なかなか時間がかかるものだということを実感させられる、いい本でした。
(2002年9月刊。400円+税)

新自由主義教育改革

カテゴリー:社会

著者   佐貫 浩・世取山 洋介 、 出版   大月書店
 日本の教育制度が大きく変わってきたことを教えられました。教育の国家統制なんて、私はとんでもないことだと思うのですが、いまや橋下流の教員統制の強化が企てられていて、それをマスコミがもてはやすという恐ろしい事態が進行中です。
文科省が1958年以降、与党と一体となって作りあげてきた公教育制度は、教育が国家統制に服しさえすれば、「情と情け」にもとづいてある程度のお金が配分され、教員の身分も安定化され、教員出身地域の有力者による地域教育委員会支配も許すものとなっていた。
 新自由主義教育改革は、それとは異なり、下のものがいくら「恭順の情」を示しても、成果が出なければお金を配分することはなく、情け容赦のない成果主義を特徴としている。
 それが、文科省のこれまでの支配形態の脅威となることは確かであり、文科省がその権益擁護に懸命になることも了解可能ではある。
 教育における国家のパワーあるいは教育に対する国家の関心は軽減されるどころか、より一層強化されている。
 国家の役割の縮小であったはずの新自由主義が、より強力な国家を生み出している。
 新自由主義教育理論にもとづく教育改革が十分に展開したとき、2つの大きなインパクトを公教育に与える。その一つは、学校体系の多様化。その二は、公教育管理方式の徹底したトップダウン化とアウトプットのコントロール化。中央教育行政から教師に至るまで、徹底的に階層的に再構成される。中央政府の機能の重点は、外的条件に関するナショナル・ミニマムの設定と、それを実現するのに必要な財源の確保と、それの地方政府への移転から、全国的な教育内容標準の設定と、その達成度の評価基準・方法の設定へと移行する。そして、子どものニーズを基礎にして算出される予算は廃止され、実質的には算出根拠をもたない生徒一人あたり予算制度が導入される。
 学区制度は、学校間競争の一形態である学校選択制度が導入されることにより取りはらわれ、学校間競争を実効的に組織するために、学校選択制度のもとにおいて集めることのできた生徒数に応じて予算が配分される。
 地方教育行政はその独自性を失い、地方一般行政の経済発展政策へと吸収される。
 学校は、校長を頂点として重層構造化される。学校評価は中央政府の設定した教育内容標準にもとづいて行われるだけでなく、生徒の高いパフォーマンスを生む制度的条件である、学校組織の階層化と校長への権限の集中の程度にもとづいて行われる。
 教師は中央政府から始まるPA(主人一代理人)関係の連鎖の末端にある代理人として位置づけられ、その職務遂行上の自律性を奪われ、教職の専門職としての性格は消滅する。そして、教師間競争のために能力評価制度が実施される。
 2001年の学校教育法施行規制の改正によって、学校評議員制度が導入された。学校は学校長を法人長とし、学校評議会を法人の管理運営機関とする、法人に疑似する組織として再編成されることになった。
 2007年に改正された学校法は、校長、教頭、教諭のほかに、副校長、主幹教諭、指導教諭の三つの職を新設し、学校の重層構造化を決定づけた。
 本来、平等な公教育サービスを提供してきた小・中学校をも序列的に再編し、上位に来る層に重点的に資源配分していくために改革が進められている。行政は、「教育的効果」をあげることが導入の狙いであるとし、それが東京都に一定数存在する「教育熱心」な中間層を中心とする保護者の支持を得ている。
 2000年から2008年の間に、東京の23区で130校以上の小中学校が廃校となった。大規模な統廃合が短期間に実施された区では、コミュニティーが大きく変質した。学校選択制が導入されて時間がたつ足立区や品川区などでは、地域の教育力の低下、子どもの「荒れ」が目立っている。
 経済格差が教育格差となってあらわれている。就学援助の受給率が7~8割になる学校もある。流出校(子どもが集まらない学校)では、成績上位者が集まらず、授業や生活指導の困難をたくさんかかえる結果となっている。
 親から、選択は自由でも、学校生活は自由ではないとのことが出ている。
保護者とトラブルになると、管理職は教員を守ろうとはしないので、教員個人が弁護士に依頼したり、トラブル用の保険に加入する教職員が増えている。また、業績評価がつきまとうので、困難をかかえている子どもを担任することを避ける傾向が出ている。
 月平均50時間以上の超過勤務の教師が全体の4分の3以上となっていて、教職員の疲れは相当のものとなっている。競争と管理強化のなかで教職員がばらばらにされ、管理職のパワハラや、父母からの突き上げで、自己肯定感や教師としての「誇り」を失い、精神疾患で休職する教師や定年前で退職する教師が増えている。
 ふるい落とされた子どもたちは、成績が悪いのは自分のせいだと自分を責め、もう、放っておいてというほどに絶望している。
 社会には経済格差が生まれ、子どもとかかわる大人たちは、長時間労働や無理な働き方を強いられている。生活に困窮する親は、子どもをありのままで抱える余裕がなくなった。そして、富裕層の親も、子どもと受容的な関係を築きにくくなっている。弱肉強食の社会を勝ち上がってきた親たちの多くは、情緒的なつながりよりも物質的なものに重きをおく。競争によって利益を奪いあうことを是とする新自由主義社会で成功した親たちは、無償の愛を「与える」子育てに喪失感を覚え、暗黙のうちに、「何かを与えてくれる者」となるよう子どもに要求し、勝ち組になるよう迫る。そこでは、子どもの欲求など、おかまいなしだ。
 いやはや、このままの教育が続いたら、一体日本はどうなるんでしょうか。
 もっとゆったり、のんびり、子どもたちが育つような社会環境にすべきですよね。それには老人パワーが必要なんじゃないでしょうか。孫の成長に目を細めてばかりいるのではなくて、孫の通う学校が伸び伸びしたものに変えていくために行動する責務があるのではありませんか。いい本でした。目の覚める思いがしました。
(2009年2月刊。3600円+税)

原発労働

カテゴリー:社会

著者   日本弁護士連合会 、 出版   岩波ブックレット
 原子力発電所で長く働いてきた労働者の証言が紹介されています。
 ひとつの検査工事に50人の作業員が必要だとすれば、一次下請業者が5,6人いて、残りの作業員は二次以下の下請業者の社員。東電からは作業員の日給が一人10万円出ていても、一次下請の作業員で日給2万5000円以下、一番下の作業員で1万円から1万2000円ほど。
 問題は社会保険。一次下請業者は社会保険を完備していても、二次以下下請業者は入っていないほうが多い。
 以前は、原発作業員の一日の実労働時間は3時間ほどだった。午前中に1時間、午後に2時間。このように、原発作業員は実労働時間が少ない割にお金になる仕事だ。だから原発で働いた人が他の普通の職場で働くのはかなり大変なことになる。
東京電力の社員は現場にはたまに見に来たり、検査のときに立ち会う程度。一次下請の東芝とか日立の社員が現場で指示を出す。
 放射線管理区域に入る人は放射線に関する教育を受ける。3時間の講習を受けたあと、テストがある。しかし、このテストで落ちる人はほとんどいない。
 3月11日の事故直後は、緊急事態なので資格も何も問われなかった。やっと4月になって正常化した。復旧作業は、東電の正社員ではなく、下請の作業員がしている。本当は東電の正社員にやってもらった方がいい。
 遠くで準備して、みんなで一斉に作業現場に出ていって、ヒット・アンド・アウェイで帰ってくる。全面マスクをしての作業は2時間くらいしかできない。照明がないから、暗くなると作業ができない。
 作業員に高年齢者が増えている、50代が圧倒的に多い。30代と20代はいない。
 東電の社員、元請(一次)の社員などは制服を着ているから一日でわかる。しかし、二次以下の下請けの作業員になると、自前の作業着なので、どこの会社の従業員なのか分からない。
 福島原発で働く7千人近い労働者のうち、事故後4ヵ月で6人は被曝量が250ミリシーベルトをこえ、111人は100ミリシーベルトをこえた。また、未検査の人も多い。
福島第一原発について政府が収束宣言して以来、なんとなく溶けた核燃料棒は心配ないムードになっていますが、本当は何も分かっていないというのが実態です。そんな危険な作業現場で働いている作業員の健康はとても心配です。かといって、そんな危険な現場で働く人たちがいるからこそ、その後は今のところ大惨事を招来していないのだと思います。
 そういう原発労働のすさまじい実態を告発してくれるブックレットです。ワンコインで読めますので、どうぞお読みください。
(2012年1月刊。500円+税)

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